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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
序章【過去の記憶】

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第1話 亡骸を埋めた子供たち



 雨は、少し前にやんだばかりだった。


 空はまだ濡れた灰色をしていた。雲は低く垂れ込め、遠くの稜線を押し潰すように広がっている。夕暮れが近いはずなのに、陽の色はどこにもなかった。雲の裂け目からわずかに落ちる光だけが、戦場跡を鈍く照らしていた。


 地面は黒かった。


 焼け焦げた草が雨に濡れ、泥と灰と血の色を吸って、踏むたびにぬるりと沈んだ。焦げた草の匂いがした。鉄錆の匂いがした。焼けた木、濡れた布、砕けた魔具の焦げ臭さ。雨が降ったばかりなのに、何も洗い流されていなかった。むしろ雨は、そこに残る匂いを地面へ押し込み、黒い土の底からまた滲ませているようだった。


 壊れた馬車が、斜めに倒れていた。車輪は片方だけ残り、もう片方は遠くの泥に沈んでいた。荷台に掛けられていた布は焼け、雨を吸って重く垂れ、端から黒い水が滴っている。


 折れた旗が、泥の中に倒れていた。布地は半分ほど焼け落ち、残った紋章も煤と雨で滲んで、どこのものか分からなくなっている。焦げた盾。砕けた杖。ひび割れた魔法石。割れた剣の鍔。踏み荒らされた草の間には、誰かの指輪が落ちていた。指輪は泥に半分埋まり、雨粒を受けても光らなかった。


 イリアス・ノクスヴェルトは、その中に膝をついていた。


 手袋はもう破れていた。指の先は泥と血で汚れ、爪の間には黒い土が詰まっている。濡れた袖口は重く、腕を動かすたびに肌へ貼りついた。寒かった。服の中まで雨が入り、背中も膝も冷え切っていた。


 それでも、イリアスは手を止めなかった。


 小さな手で、土を掘っていた。


 剣も、鍬もない。近くに転がっていた折れた盾の縁を使って、ぬかるんだ土を少しずつ削る。泥は重く、盾の縁にはすぐに黒い土がこびりついた。持ち上げるたびに腕が震えた。けれどイリアスは、顔をしかめるだけで、声を出さなかった。


 掘った穴のそばには、布に包まれた小さな亡骸があった。


 誰の子なのか、どこの国の子なのか、分からなかった。髪も、顔も、焼けた布と泥に隠れてしまっていた。服に縫い込まれていたはずの色も、雨と血で暗く沈んでいた。身につけていたものから家を辿ることもできない。


 イリアスは、その子を見下ろした。


 小さかった。


 自分より、もっと小さいかもしれないと思った。


 その事実だけが、ひどく腹の奥に沈んだ。悲しいのか、怖いのか、腹が立つのか、イリアスにはよく分からなかった。分からないまま、彼はまた盾の縁を泥に差し込んだ。


 ず、と重い音がした。


 土を掻き出す。横へ退ける。泥が袖に跳ねる。指が冷える。息が白くなる。繰り返すうちに、考えることが少なくなった。


 死者を埋める。


 ただ、それだけだった。


 本当なら、大人がするべきことなのだろう。


 祈りを知っている者が。名前を知っている者が。遺された家族に伝えられる者が。清めの布を用意できる者が。墓標に正しい紋章を刻める者が。


 けれど大人たちはもう去った。


 生きている者は負傷者を抱えて退き、動ける兵は次の命令へ走り、泣ける者は仲間を連れて逃げた。泣く暇のない者は、黙って歯を食いしばった。倒れた者は、雨に打たれた。


 ここに残ったのは、壊れた物と、冷えたものばかりだった。


 イリアスはまた土を掘った。


 死者を怖がらないわけではない。


 目を閉じても、戦場の音はまだ耳の奥に残っていた。火が布を食う音。魔具が割れる高い音。馬が倒れる声。誰かが母を呼ぶ声。誰かが神を呼ぶ声。自分の名を呼ぶ大人の声も、途中から聞こえなくなった。


 怖がる暇がなかった。


 怖がって立ち尽くしていたら、亡骸が雨の中に残される。泥に沈む。獣が来るかもしれない。次の軍が踏み荒らすかもしれない。名前も分からないまま、どこにも帰れなくなる。


 それだけは嫌だった。


 だから、掘った。


 手が痛くても、冷たくても、土が重くても、掘った。


 イリアスの指先から、薄い黒い霧が滲んだ。


 煙ではなかった。炎の残りでもなかった。雨上がりの地面の底から、影が細く立ち上るような、ひどく静かなものだった。黒い霧は彼の指先に絡み、ぬかるんだ土の奥へ沈んだ。すると、硬く締まっていた地面が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 魔法だった。


 けれど、明るく便利な魔法ではなかった。黒い霧が触れた場所は、土の奥に眠る声まで起こしてしまいそうな気配を帯びる。冷たく、深く、見えないものへ届いてしまう力。


 イリアスはその力を怖いとは思わなかった。


 怖いと思うほど、余裕がなかった。


 ただ、土が柔らかくなるなら使った。亡骸を埋めるためなら、それでよかった。黒い霧は穴の縁を撫で、泥の中で静かに消えた。


 その時、背後で水を踏む音がした。


 イリアスは手を止めなかった。


 足音は軽かった。大人のものではない。鎧の重さも、武器を引きずる音もない。だが、迷っている音だった。近づいて、止まり、また近づく。泥に足を取られながら、それでも逃げていく足音ではなかった。


「……何してるの」


 声は、震えていた。


 イリアスは振り返らなかった。盾の縁で土を削りながら、短く答える。


「見れば分かるだろ」


 背後の子供は、黙った。


 沈黙の中に、雨水の滴る音があった。壊れた馬車の布から、ぽたり、ぽたりと黒い水が落ちている。遠くで焦げた木が崩れ、小さな音を立てた。


「埋めてるの」


「そう」


「誰を」


「知らない」


 また沈黙が落ちた。


 イリアスは、そこで初めて少しだけ振り向いた。


 そこに立っていたのは、同じくらいの年の少年だった。


 雨と泥で汚れていても、髪の色は目立った。濡れた金色の髪が頬に貼りついている。服は上等なものだったのだろうが、今は泥と煤で汚れ、袖口が破れていた。青い目は泣きそうに濡れていて、それでも涙は落ちていなかった。


 少年は、布に包まれた小さな亡骸を見ていた。


 顔色が悪い。唇を噛んでいる。手はぎゅっと握られていた。泣くのを我慢しているのだと、イリアスにも分かった。


 イリアスは視線を戻した。


「邪魔するなよ」


 少年は少し息を呑んだ。


「邪魔しない」


「なら、そこに立ってるな。踏む」


 言い方がきついことは、分かっていた。


 でも柔らかく言う言葉を、イリアスは持っていなかった。戦場に置いてくるには、柔らかい言葉は軽すぎた。軽いものはすぐに泥に沈む。だから乾いた声だけが残る。


 少年はしばらく動かなかった。


 それから、ゆっくりと膝をついた。


 イリアスの隣に。


 泥が跳ねる。少年の膝も袖も、黒く汚れた。少年はそれを気にしなかった。指先で土に触れ、冷たさに一瞬だけ肩を震わせる。それでも逃げなかった。


「何してる」


 イリアスは聞いた。


「手伝う」


「できるのか」


「分からない」


「なら邪魔」


「でも、一人よりはましだと思う」


 少年の声は、細かった。


 イリアスは、横目で彼を見た。少年は泣きそうな顔をしたまま、ぎこちなく土を掘り始めた。爪が泥に沈む。土は重く、少年の細い指にはうまく掴めない。何度も滑る。それでも少年は、手を止めなかった。


 変なやつだと思った。


 逃げればいいのに。


 泣けばいいのに。


 誰か大人を呼べばいいのに。


 何もできないくせに、隣に来る。


 イリアスはそう思いながらも、少年を追い払わなかった。


 雨上がりの空気は冷たかった。泥の匂いが濃く、二人の息だけが小さく白くなる。離れた場所で、折れた旗が風もないのに少し揺れた。布に溜まった雨水が、重さに負けて落ちただけだった。


 少年は土を掘りながら、何度も亡骸の方を見た。


 そしてそのたび、唇を噛んだ。


「見るな」


 イリアスは言った。


「え」


「見ると手が止まる」


 少年は言葉に詰まった。


 それでも少しして、小さく頷いた。視線を土へ落とす。両手で泥を掬う。爪の間に土が入り、白かった指先が黒くなっていく。


 イリアスは、また黒い霧を指先から滲ませた。


 霧は濡れた土の上を這い、墓穴の底へ沈んだ。土がわずかに緩む。少年がそれに気づき、目を見開いた。


「それ、魔法?」


「そう」


「黒い」


「見れば分かるだろ」


「怖くないの」


 イリアスは手を止めた。


 少年はしまったという顔をした。すぐに言い直そうと口を開く。けれど、何を言えばいいのか分からないようだった。


 イリアスは、少しだけ黒い霧を見た。


 自分の指先から出たそれは、泥の底へ沈んでいく。光のない場所へ触れる力。大人たちはこの魔法を見ると、顔を硬くすることがある。便利だと言いながら、近づきすぎない。役に立つと言いながら、名前を呼ぶ声が一瞬遅れる。


 イリアスは、肩をすくめた。


「土が掘れるなら、怖がる暇ない」


「……そう」


 少年はそれ以上、聞かなかった。


 そのかわり、泥だらけの両手を胸の前に寄せ、目を閉じた。かすかな白金の光が、その指の間に灯る。


 小さな光だった。


 人を救うには弱すぎる。傷を塞ぐには足りない。雨に濡れた空気の中で、今にも消えそうなほど細い。けれど、光は確かにそこにあった。濡れた草の上に、淡く白金の色が落ちる。


 イリアスはその光を見た。


 眩しいとは思わなかった。嫌だとも思わなかった。ただ、自分の黒い霧とは全然違うものだと思った。浅い場所ではなく、高い場所から落ちてくるもの。泥の底へ沈む影ではなく、濡れた指先を温める息のようなもの。


 少年は、その光をイリアスの手の方へそっと近づけた。


「何」


「冷たそうだったから」


「別に」


「冷たいよ」


「お前に関係ない」


「でも、土を掘れなくなる」


 イリアスは言い返しかけて、やめた。


 白金の光が、彼の泥だらけの指先に触れた。じん、と鈍い温かさが広がる。強い光ではない。痛みが消えるわけでも、傷が塞がるわけでもない。ただ、冷えきっていた指の奥に、少しだけ血が戻るような気がした。


 黒い霧と白金の光が、同じ墓穴の上で並んだ。


 反発はしなかった。


 火花も散らず、片方が片方を消すこともなかった。黒い霧は土の底へ沈み、白金の光は泥の上を淡く照らした。二つの力は、どちらも小さく、弱く、まだ世界を変えるには遠すぎた。


 それでも、名も分からない亡骸を埋めるためには、十分だった。


 イリアスは少年の手を見ていた。


「お前、変な魔法使うな」


 少年は少しだけ驚いた顔をして、それから小さく笑いそうになった。けれど笑わなかった。


「君の方が変だと思う」


「そうかよ」


「うん」


「じゃあ、お互い変なんだろ」


 少年は、今度こそほんの少しだけ息を漏らした。笑いに近いものだった。すぐに消えたけれど、戦場跡には不釣り合いな音だった。


 イリアスは聞かなかったふりをした。


 二人はまた土を掘った。


 穴は深くなっていった。子供二人の手で掘ったものだから、きれいではなかった。縁は崩れ、深さも均一ではない。雨水が底に少し溜まり、黒い泥になっていた。けれど、それ以上は掘れなかった。


 イリアスは布に包まれた亡骸のそばへ行った。


 少年もついてきた。


 二人で、そっと持ち上げる。


 軽かった。


 軽すぎた。


 布が濡れて重くなっているはずなのに、それでも軽かった。イリアスは歯を噛んだ。軽いと思ってしまったことが、なぜかひどく嫌だった。命がなくなると、こんなに軽くなるのかと思った。そんなことを知りたくなかった。


 少年の手が震えていた。


 けれど離さなかった。


 二人は亡骸を穴へ下ろした。泥が少し音を立てた。布の端が水に触れ、暗く沈む。イリアスは濡れた布を直し、できるだけ顔のあたりが泥に触れないように整えた。


 顔は見えないままだった。


 それでよかったのかもしれない。見えてしまったら、忘れられなくなる。見えなくても、たぶん忘れられない。どちらにしても同じなら、せめて布の中で眠らせてやりたかった。


 少年は、目を閉じた。


 今度は光を出さなかった。ただ、唇だけが微かに動いた。祈りの言葉かもしれない。イリアスの知らない言葉だった。どこの国の祈りかも分からない。


 イリアスは祈らなかった。


 祈れば誰かが帰ってくるなら、戦場はこんな匂いをしていない。


 そう思った。


 でも、少年が祈るのを止めなかった。


 祈りたいなら祈ればいい。泣きたいなら泣けばいい。逃げたいなら逃げればいい。イリアスはどれもできなかった。できないから、土をかける。


 盾の縁で、土を戻し始めた。


 黒い泥が、濡れた布の上に落ちる。


 重い音だった。


 少年も手で土を掬った。手のひらに乗せた土を、そっと落とす。まるで痛がらせないようにしているみたいだった。もう痛いはずがないのに。そんなことをしても意味がないのに。


 それでもイリアスは、何も言わなかった。


 土が少しずつ亡骸を隠していく。


 布の端が見えなくなる。小さなふくらみが低くなる。穴が埋まっていく。そこにいたものが、地面の一部になっていく。


 少年の息が揺れた。


 イリアスはそれを聞いた。


 雨上がりの冷たい空気の中で、少年の喉が小さく鳴る。泣き声になりそうで、ならない音だった。


 イリアスは、土をかけながら言った。


「泣いたら、土が重くなる」


 少年の手が止まった。


 風が抜けた。


 折れた旗の布が、湿った音を立てた。


 少年はイリアスを見た。青い目が濡れていた。雨なのか涙なのか、分からない。けれど、まだ落ちていなかった。


「……泣いたら?」


 聞き返す声は、小さかった。


 イリアスは土を見たまま答えた。


「重くなる。手が止まる。埋められなくなる」


 少年は何も言わなかった。


 怒るかと思った。ひどいと言うかと思った。泣くことを責めるなと、そう言うかもしれないと思った。


 でも少年は、長い間黙っていた。


 考えている沈黙だった。


 ただ怯えているのではなく、言葉の意味を両手で掬おうとしているみたいだった。泥のように重い言葉を、自分の中へ入れるかどうか、決めかねているようだった。


 やがて少年は、ゆっくりと息を吸った。


「なら、僕が半分持つ」


 イリアスは、初めて手を止めた。


 黒い泥が指の間から落ちる。


「……何」


「土。重くなるなら、半分持つ」


 少年は、泣きそうな顔のまま言った。


 その声は震えていた。けれど、逃げる声ではなかった。泣くのを我慢している子供の声だった。弱いのに、弱いまま隣にいる声だった。


「君が泣かないなら、僕も泣かない。君が埋めるなら、僕も埋める。重いなら、半分持つ」


 イリアスは少年を見た。


 青い目は、まだ涙を落としていなかった。口元は震えている。手も震えている。泥だらけの指は冷え切っていて、白金の光ももうほとんど消えていた。


 それなのに、少年は逃げなかった。


 半分持つ、と言った。


 イリアスは、胸の奥に変なものが落ちるのを感じた。


 痛いような、腹が立つような、息がしづらいような感覚だった。何かを言えば、それが崩れそうだった。だから何も言わない。


 代わりに、土を掬った。


「じゃあ持てよ」


 少年は頷いた。


「うん」


 二人はまた土をかけた。


 今度は、さっきより少しだけ早かった。少年の手は相変わらず不器用だったが、止まらなかった。イリアスの黒い霧が土を緩め、少年の白金の光が冷えた指をほんの少し温める。黒と白が、墓穴の上で静かに並んだ。


 名も知らない亡骸が、土に覆われていく。


 雨上がりの戦場跡で、子供二人が小さな墓を作っている。


 その光景がどれほどおかしいのか、イリアスには分からなかった。いや、分かっていたのかもしれない。けれど、おかしいと口にしたところで、誰かが代わってくれるわけではない。


 土を戻し終える頃には、二人の手は動かしづらいほど冷たくなっていた。


 墓は低く、不格好だった。きれいな形ではない。雨がまた強く降れば崩れるかもしれない。誰かが踏めば分からなくなるかもしれない。けれど、何もないよりはましだった。


 イリアスは立ち上がろうとして、膝が少し揺れた。


 少年がとっさに手を伸ばした。


 イリアスはその手を見た。


 泥だらけの手だった。白金の光は消えている。それでも、さっき温かかった手。


「いらない」


 イリアスは言った。


 少年は少しだけ傷ついた顔をしたが、手を引っ込めた。


 イリアスは自分で立った。足元の泥が靴に絡む。膝の布は水を吸って重く、動くたびに冷たい。


 墓標になるものを探した。


 剣は割れていた。盾は焦げていた。杖は砕けていた。どれも大きすぎるか、壊れすぎている。名も知らない子供の墓に、国の紋章が入ったものを立てるのも違う気がした。どこの国の子か分からないのに、勝手に誰かの国へ押し込めるのは嫌だった。


 少年も周囲を見ていた。


 やがて彼は、泥の中から小さな白い石を拾い上げた。雨に洗われたのか、その石だけが妙に白かった。戦場跡にあるものとは思えないほど、静かで、丸い。


 少年はそれを両手で拭った。泥は完全には落ちなかったが、白さは残った。


「これ」


 少年は墓の上に白い小石を置いた。


 イリアスはそれを見た。


 白い石だけでは、軽すぎる気がした。


 彼は近くの焼け跡へ歩き、黒く焦げた木片を拾った。元は馬車の一部か、旗の支柱か、誰かの家から運ばれてきた荷の欠片かもしれない。分からなかった。表面は炭のように黒く、持つと指に煤がついた。


 イリアスは、それを白い小石の隣に置いた。


 白い石と、黒い木片。


 墓の上で、二つは並んだ。


 少年はそれを見つめた。


「黒と白だ」


「そうだな」


「変じゃない?」


「何が」


「一緒に置いて」


 イリアスは、墓の上の二つを見た。


 白い石は、雨を受けて少し光っている。黒い木片は光らない。ただ水を吸い、黒さを深くしている。並べても、どちらかが消えることはなかった。片方が片方を汚すことも、壊すこともない。


「別に」


 イリアスは言った。


「並んでるだけだろ」


 少年は、その言葉を聞いて、また少しだけ黙った。


 それから小さく頷いた。


「うん。並んでる」


 遠くで、何かが鳴った。


 金属がぶつかる音だった。続いて、人の声が聞こえた。濡れた空気に遮られて、はっきりとは聞こえない。けれど、兵の声だった。誰かを探す声。誰かに呼びかける声。


 イリアスは顔を上げた。


 反対側からも声がした。


 別の響きの言葉。違う国の訛り。怒鳴るような呼び声。足音が複数。泥を踏む音。鎧のきしむ音。


 少年も気づいた。


 二人は同時に、互いを見た。


 泥だらけの顔。濡れた髪。冷えた手。子供の目。けれど、その奥にあるものが、少しだけ変わった。


 どちらの声が、どちらを呼んでいるのか。


 どちらが敵で、どちらが味方なのか。


 戦場では、それを知らないままでいられる時間は短い。


 少年の青い目が揺れた。イリアスの服の破れた胸元に、かろうじて残っていた布の色を見たのかもしれない。あるいは、イリアスが黒い霧を使ったことを思い返したのかもしれない。


 イリアスも、少年の服の刺繍を見た。


 煤と泥で隠れているが、袖の内側に白金の糸が残っていた。その縫い方を、どこかで見たことがある気がした。敵の旗に似た光。遠くの城壁で見た白い紋章の色。


 敵かもしれない。


 そう思った。


 少年も、同じことを思った顔をしていた。


 兵の声が近づく。


 イリアスは、少年から目を逸らさなかった。少年も逃げなかった。


 どちらかが声を上げれば、それで終わる。


 こいつは敵だ。


 ここにいる。


 捕まえろ。


 そう言えばいい。


 けれど、イリアスは言わなかった。


 少年も言わなかった。


 墓の上には、白い小石と黒い木片が並んでいた。今さら、その隣で相手を売る気にはなれなかった。


 イリアスは、短く言った。


「行け」


 少年は唇を開いた。何か言いかけて、やめた。兵の声がさらに近づく。今度は名前を呼んでいるようだった。だが雨の音と距離で、まだ形にはならない。


「君は」


「俺も行く」


「名前」


 少年はそう言った。


 イリアスは眉を寄せた。


「何」


「名前、聞いてない」


「聞いてどうする」


「覚える」


 イリアスは黙った。


 覚えてどうするのだろうと思った。戦場で会った、敵かもしれない子供の名前を。泥だらけで、亡骸を一緒に埋めただけの相手の名前を。


 そんなもの、持って帰っても重いだけだ。


 でも少年は、まっすぐ見ていた。泣きそうな目のまま、逃げずに。


 イリアスは答えなかった。


 代わりに、泥の中から何かを拾った。


 小さな欠片だった。


 紋章の一部のように見えた。金属ではない。焼け残った魔具の破片か、石板の一部か。雨で表面の泥が流れ、見慣れない模様が少しだけ現れていた。


 どちらの国のものでもなかった。


 少なくとも、イリアスの知るノクスヴェルトの紋章ではない。少年の袖に残っていた白金の刺繍とも違う。三つの線が絡み合い、中央に小さな目のような形がある。見ていると、泥の中からこちらを見返しているようで、嫌な感じがした。


 イリアスは一瞬それを見た。


 少年も視線を落とした。


「それ……」


 少年が言いかける。


 しかし、遠くから鋭い声が飛んだ。今度ははっきりと近い。兵が来る。足音が増える。


 イリアスは欠片から目を離した。


 今は、それどころではなかった。


「行け」


 もう一度言う。


 少年はまだ迷っていた。


「また会える?」


 その声は、さっきより弱かった。


 戦場跡で、亡骸を埋めた子供に向けるには、あまりに幼い問いだった。けれど、その幼さが、イリアスの胸をまた少しだけ痛くした。


 彼は、優しい言葉を知らなかった。


 知っていても、言えなかったかもしれない。


 だから、いつものように乾いた声で返した。


「戦場なら、嫌でもな」


 少年の顔が、わずかに歪んだ。


 悲しそうだった。そんな場所でしか会えないのかと、そう思った顔だった。イリアスにも分かった。分かったが、訂正しなかった。


 他に会える場所を知らなかった。


 花の咲く庭でも、暖かい部屋でも、晴れた道でもない。二人が立っているのは、雨上がりの戦場跡だった。死者を埋めた手で、別れるしかない場所だった。


 少年は、何かを言おうとした。


 けれど言わなかった。


 代わりに、墓の上の白い小石と黒い木片を見た。それからイリアスの顔を見た。まるで、その二つを同時に覚えようとしているようだった。


 イリアスも少年の顔を見た。


 濡れた金髪。泥のついた頬。泣かなかった青い目。冷えた指を温めた、小さな白金の光。


 覚えるつもりなどなかった。


 けれど、覚えてしまった。


 兵の声がさらに近づいた。


 少年は身を翻した。泥に足を取られながら、白い旗の倒れた方へ走る。数歩行って、一度だけ振り返った。


 イリアスは動かなかった。


 少年は何かを言うかわりに、小さく頷いた。さっき、半分持つと言った時と同じように。


 それから走っていった。


 イリアスも反対側へ向かった。


 黒い泥が靴に絡み、濡れた草が足首を打った。背後で墓が遠ざかる。白い小石と黒い木片が、雨の匂いの中に残されていく。


 走りながら、イリアスは一度だけ振り返りそうになった。


 やめた。


 振り返ると、手が止まる。


 泣くと、土が重くなる。


 そう思って、前を向いた。


 空が低く鳴った。


 雨がまた降り始めた。


 最初は細い雨だった。灰色の空から、静かに落ちてくる。焦げた盾を濡らし、折れた旗を濡らし、壊れた馬車の布をさらに重くした。


 小さな墓の上にも、雨は落ちた。


 白い小石に、雨粒が一つ弾けた。黒く焦げた木片は水を吸い、さらに深く沈んだ色になる。二つは並んだまま、動かなかった。


 少し離れた泥の中に、見慣れない紋章の欠片が残っていた。


 三つの線が絡み、中央に目のような形を持つ欠片。


 雨粒がその上に落ちた。


 泥が緩み、欠片はほんの少しだけ、黒い土の中へ沈んだ。




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