第8話 相部屋の王子様
アルカディア魔法学院の男子寮は、学院本館の東側にあった。
白い石造りの建物で、古い城塞の一部をそのまま寮へ作り替えたような姿をしている。外壁には年月を吸った蔦が這い、尖った屋根の下には細い窓が規則正しく並んでいた。昼の光を受けた石壁は清潔で、いかにも立派な学院生活の始まりという顔をしている。
だが、ノア・クロウからすれば、綺麗すぎる建物は大抵、逃げ道が少ない。
人間は何かを閉じ込める時、なぜかやたら美しく飾りたがる。檻に花を挿せば庭になると思っているあたり、救いようがない。いや、今から自分が入る場所なので、本当に救いようがない。
寮の玄関前は、新入生でごった返していた。
大きな荷箱を浮遊魔法で運ぶ者。従者らしき者に鞄を持たせている貴族。自分の荷物を抱えて右往左往している平民出身の生徒。寮監の女性が入り口で名簿を持ち、よく通る声で指示を出している。
「三階の生徒は右階段を使いなさい。魔具科の大型荷物は先に地下倉庫へ。廊下で魔法を暴発させた者は、初日でも反省文です」
初日から反省文。
学院という場所は、夢と希望の前にまず書類を積むらしい。人間社会らしい陰湿さだ。
ノアは自分の鞄を肩にかけ直した。
平民の荷物は少ない。制服数着、着替え、筆記具、最低限の魔具、古い魔法書が数冊。大きな家から来た生徒たちの荷箱に比べると、ずいぶん軽い。だが、視線は重かった。
黒魔法科の平民。
聖魔法科首席のレオ・アステルレインと相部屋。
その組み合わせは、入学式の終わりから寮へ移動するまでの短い間に、すでに学院中を駆け回ったらしい。噂というものは足が速い。しかもだいたい品がない。人間、走らせるならもっと有益な情報にしてほしい。
白い石の廊下へ入ると、魔力灯が等間隔に灯っていた。昼間なので光は弱い。けれど、淡い金色の灯りが壁の古い傷や、床の磨かれた石目を柔らかく照らしている。廊下の奥には階段があり、手すりには学院の校章が刻まれていた。円の中で三本の線が絡み、中央に小さな星を抱く意匠。
ノアの視線が、そこへ一瞬だけ引っかかった。
夢の中の黒い頁。
三つの線。
中央に、目のような歪み。
似ている、と思う前に、ノアは顔を逸らした。
「はいはい、古代っぽい意匠ですねー。学院って歴史ある顔するの好きだよな。石壁と校章で圧を出すの、だいぶ古典的」
声に出すと、横を歩いていた男子生徒がぎょっとしてこちらを見た。
ノアは笑って片手を振った。
「独り言ですー。危険な黒魔法詠唱じゃないから安心してくれ」
男子生徒は慌てて前を向いた。
前を行く貴族らしい生徒たちの囁きが聞こえた。
「本当にあの子が三〇七号室なの?」
「アステルレイン様と?」
「学院は何を考えているんだ」
「黒魔法科でしょう。危険では?」
「でも顔は……」
「見るなよ、聞こえるぞ」
聞こえている。
とても聞こえている。
ノアはにこりと笑ったまま、足取りを緩めなかった。
「顔の感想は本人に直接どうぞー。苦情は受け付けません。褒め言葉だけ有料で受け取ります」
囁いていた一団が一斉に黙った。
分かりやすい。人間、陰口は得意なくせに正面から返されるとすぐ固まる。魔法より先に会話の防御結界でも学んだ方がいい。
階段を上がるにつれ、ざわめきは少しずつ遠くなった。
三階の廊下は、下より静かだった。白い石壁に古い木の扉が並んでいる。扉には銀色の番号板が嵌め込まれていて、魔力を通すと住人の名前が淡く浮かぶ仕組みらしい。廊下の窓からは中庭が見えた。噴水の水が光を弾き、入学式を終えた生徒たちがまだ小さな群れを作っている。
三〇七号室の前に立った。
古い木の扉だった。
よく磨かれているが、取っ手の金具には細かな傷がある。扉の上部には、小さな魔法灯がついていた。ノアが近づくと、灯りがふわりと明るくなる。
扉の名札には、すでに二つの名前が浮かんでいた。
ノア・クロウ。
レオ・アステルレイン。
並んでいる。
妙に整った字で。
ノアはその表示を見て、しばらく黙った。
そして、乾いた声で言った。
「並べ方に悪意あるな。学院、演出力だけは無駄に高い」
中から物音がした。
誰かがいる。
ノアは一度だけ息を吸った。
喉の奥が、少し詰まっていた。
レオ・アステルレイン。
金髪碧眼。聖魔法科代表。貴族。王子様みたいな顔。壇上でこちらを見つけた瞬間、言葉を止めた男。穏やかな笑みの奥で、何かを確信したような目をしていた男。
そして、夢の中で自分を抱いていた白金の光と、同じ色の男。
関係ない。
そう思った。
思うだけなら無料だ。現実が従うかは別問題である。世界はだいたいそこが雑だ。
ノアは扉を開けた。
二人部屋は、思っていたより広かった。
左右の壁際に寝台が一つずつ置かれている。木製の枠に白い寝具。足元には小さな収納箱。窓際には机が二つ並び、片方にはすでに何冊かの教本と白金色の筆記具が整然と置かれていた。反対側の机は空いている。
部屋の中央には丸い小卓があり、水差しと二つの杯が置かれていた。奥には共用の洗面台。大きな窓からは中庭が見える。午後の光が斜めに入り、床板の木目を明るく照らしていた。
その部屋の中で、レオ・アステルレインは姿勢よく荷解きをしていた。
すでに上着を少しだけ緩めているが、乱れているというより、くつろいでもなお整っているという腹立たしい状態だった。金髪は光を受けて淡く輝き、白と金の制服は皺ひとつない。机へ本を置く手つきまで静かで、貴族の礼法が骨にまで染みているようだった。
ノアが入ると、レオは振り返った。
穏やかに。
まるで、待っていたように。
「来たんだね」
「部屋割りに逆らったら初日から退学になりそうだからな。王子様、ルームサービス付き? 俺、平民だからチップ払えないぞ」
レオは目元を和らげた。
「君がここにいるだけでいいよ」
ノアは笑った。
ちゃんと笑った。
軽く、明るく、いつもの調子で。
「うわ、開幕から重い。部屋に入って三秒でそれは重い。荷物より重い」
「そうかな」
「そうですー。平民の心臓は繊細なんですー。高級なお言葉で殴らないでくださーい」
レオは少しだけ首を傾けた。
「殴ったつもりはないよ」
「王子様の天然打撃、怖いな」
「君は、僕を王子様と呼ぶんだね」
「見た目がそうだからな。金髪碧眼、高身長、聖魔法科、貴族、壇上で優等生挨拶。属性盛りすぎ。作者がいたら怒られるぞ」
言ってから、ノアは一瞬だけ口を閉じた。
いらない言葉が混じりそうになった気がした。
レオは特に引っかかった様子を見せなかった。ただ、穏やかに見ている。その視線が、ノアの顔ではなく、声の奥を見ているようで嫌だった。
ノアはわざと鞄を持ち上げ、空いている方の寝台へ向かった。
「こっちでいい?」
「うん。窓に近い方がよかった?」
「いや、窓際はお前に譲る。王子様は光合成しそうだし」
「人間だからしないよ」
「そういう真面目な返し、逆に困るんだよな」
ノアは鞄を寝台の上に置いた。
鞄の口を開けようとして、手元が滑った。古い魔法書が一冊、落ちかける。慌てて掴もうとした拍子に、別の小さな袋まで床へ落ちた。中から黒い石のペン先と、薄い布に包んだ小物が転がる。
「あー、最悪。荷物まで入学初日に反抗期かよ」
膝をつき、拾い集める。
その時、布に包んだ小物がほどけた。
出てきたのは、小さな黒い木片だった。
ただの焦げた木片だ。
旅の途中で拾ったものではない。いつから持っていたのか、自分でもよく分からない。荷造りの時、なぜか捨てられなかった。理由はない。あるはずがない。
なのに、それを見た瞬間、雨上がりの泥の匂いがした。
白い小石。
黒い木片。
名も知らない亡骸。
小さな手で掘った土。
喉が詰まる。
ノアは、無意識に呟いていた。
「泣いたら、土が重くなる」
部屋の空気が止まった。
ノア自身も、指先を止めた。
言った。
今、確かに言った。
冗談ではない。思いつきでもない。身体の底から、古い言葉が勝手に出た。
背後で、レオが静かに答えた。
「なら、僕が半分持つ」
ノアの笑みが止まった。
喉が詰まる。
首元に熱が走る。
夢の中の灰。白金の光。冷えていく身体。世界中の歓声。幼い日の泥。泣きそうな青い目。違う。知らない。知らないことにする。している最中だ。人の努力を横から踏むな、王子様。
ノアはゆっくりと振り返った。
レオは、穏やかな顔で立っていた。
だが、その碧い目は揺れていなかった。
確信している目だった。
ノアは笑い直した。
「……昔話? 王子様、詩人の才能ある?」
「偶然ではないよ」
「偶然ですー。世界には似た台詞が三つくらい転がってるんですー」
「君は嘘をつく時、声が少し軽くなる」
ノアは、笑ったまま動けなかった。
声。
また声か。
喉の奥に、見えない糸が絡むような感覚があった。前世の夢明けに残った掠れとは違う。今は軽い。けれど、確かにそこに熱がある。
「声ソムリエかよ。怖いな、聖魔法科」
「聖魔法科は関係ない」
「じゃあお前個人が怖い」
「そうかもしれない」
「否定しろよ、そこは」
レオは否定しなかった。
その沈黙が、いちばんよくない。
ノアは落ちた木片を拾い、布に包み直した。手元が少しだけ乱れた。レオの視線はそこへ落ちている。黒い木片の意味を知っているように。
そんなはずがない。
同じ言葉を返したからといって、同じ記憶を持っているとは限らない。
限らないはずだ。
限ってたまるか。
「ところで王子様」
ノアは勢いよく立ち上がった。
「部屋の縄張り決めようぜ。俺、右の机使うから。あと洗面台の棚は半分こ。俺の黒魔法道具を勝手に触ると呪われます。たぶん。いや、呪わないけど、俺が面倒な顔する」
「分かった」
「あと朝は弱い。起こすなら優しく。優しくできないなら起こすな」
「君は朝、声が掠れやすい?」
ノアの息が一瞬止まった。
水差しが視界に入った。
丸い小卓の上、透明な水が光っている。昔、何度も水を渡された気がした。戦場明け。礼拝堂跡の朝。喉に白金の光を流される感覚。髪を整える手。掠れた声を聞かれる恥ずかしさ。
知らない。
それも知らない。
ノアは水差しから目を離した。
「朝の声まで管理されたら、俺の自由はどこへ行くんだ」
「管理するつもりはまだないよ」
「まだ?」
「うん」
「今、すごい不穏な語尾出たぞ」
レオは微笑んだ。
穏やかに。
完璧に。
それが腹立たしいほど怖かった。
「君が嫌がるなら、今はしない」
「今は、って言った。やっぱり言った。学院寮の治安、入居初日から終わってる」
「嫌がることはしたくない」
「その言い方、嫌がらなければするって聞こえるんだけど」
「そう聞こえた?」
「聞こえましたー。耳が良くて困るなー」
ノアは荷物を机に置き、わざと背中を向けた。
心臓が少し速い。
レオの声は穏やかだ。穏やかなまま、逃げ道の周囲を一つずつ確認しているような温度がある。強く押してこない。けれど、もう見失うつもりはないのだと分かる。
見つけた。
言葉にされていないのに、そう聞こえる。
ノアは机の引き出しを開けた。
中は空だった。清潔で、木の匂いがする。そこへ筆記具と魔法書を入れていく。手を動かしていないと、余計なことを考えそうだった。
ふと、窓辺に刻まれた紋様が目に入った。
古い結界紋だった。
寮の部屋ごとに刻まれている簡易防護陣だろう。窓からの侵入や魔力暴走を防ぐためのもの。白い石の縁に、薄く線が彫られている。
三本の線が絡んでいた。
中央には、小さな星。
いや、星に見えるだけだ。
ほんの一瞬、夢の中の黒魔導書の頁に浮かんだ目のような歪みと重なった。ノアはまばたきした。もうただの学院結界紋に戻っている。
「……この学院、意匠がしつこいな」
低く呟くと、レオが近づいてきた。
「気になる?」
「窓の結界紋。古いなって思っただけ」
「アルカディア魔法学院は、いくつもの時代の術式を重ねているらしいよ」
「へえ。歴史の重ね着か。だいぶ着膨れしてそう」
「君らしい言い方だね」
「今日会ったばかりで俺らしさを把握しないでくれます?」
「今日会ったばかりではないから」
ノアの手が止まった。
部屋の空気が、静かになる。
廊下からはまだ新入生たちのざわめきが聞こえていた。荷物を運ぶ音、誰かが笑う声、寮監が注意する声。世界は普通に動いている。部屋の中だけ、空気が少し重くなった。
ノアは笑った。
「前世からの知り合いみたいなこと言うじゃん。怖いなー。貴族の口説き文句ってそういう感じ?」
レオは、ノアを見ていた。
穏やかに。
まっすぐに。
「口説き文句に聞こえた?」
「聞こえませんー。怪談の導入に聞こえましたー」
「君はよく逃げるね」
「小柄なので機動力で勝負してる」
「逃げても、声は残る」
ノアは息を吐いた。
軽口で流すには、少し踏み込まれすぎていた。
けれど、怒るにはまだ早い。認めるには論外。逃げるには部屋が狭い。相部屋という制度、罠としての完成度が高すぎる。
「王子様、距離感が迷子」
「迷子なら、見つけないと」
「俺を探す話じゃなくて、お前の距離感の話な」
「僕はもう見つけた」
白金の光が、レオの指先にほんの一瞬だけ灯った。
ノアには見えないはずだった。
だが、部屋の空気がわずかに震えた。窓辺の結界紋が淡く反応し、足元を何か細いものがかすめたような感覚がある。光はノアの足元へ伸びかけ、すぐに消えた。
まだ結ばれてはいない。
それなのに、首元に熱だけが残る。
ノアは、無意識に首へ触れそうになった手を止めた。
触ったら負けだ。
何に負けるのかは知らないが、とにかく負けだ。
レオはゆっくり言った。
「やっと見つけた」
ノアは、明るく笑った。
笑ってやった。
「人探し成功おめでとうございますー。俺は迷子センターじゃないけどな」
レオは微笑んだ。
「今度は、逃がさない」
声は柔らかかった。
怒鳴っていない。命令でもない。けれど、部屋の扉が内側から閉じていく音よりも、はっきりと逃げ道を塞ぐ響きがあった。
ノアの首元に、見えない熱が走った。
背後で、古い木の扉が静かに閉まった。




