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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第一章【赤い糸は檻になる】

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第9話 赤い糸の予兆



 扉が閉まった音は、やけに静かだった。


 古い木の扉が、廊下のざわめきを一枚隔てて遠ざける。白い石造りの寮の三階。午後の光はもう傾き始め、窓の外の中庭では、新入生たちがまだ小さな群れを作っていた。噴水の水音が、薄い硝子越しにかすかに届く。魔力灯はまだ弱く、部屋の天井近くで淡い金色の光を抱いているだけだった。


 二つの寝台。


 二つの机。


 共用の洗面台。


 窓辺の古い結界紋。


 そして、相部屋の王子様。


 ノア・クロウは、閉じた扉を見たまま、しばらく笑っていた。


 笑っていなければ、首元に残る熱を意識してしまうからだ。


 レオ・アステルレインは、窓際に立っていた。夕方の光が金髪の輪郭を淡く縁取り、白と金の制服を静かに照らしている。入学式の壇上にいた時と同じように、姿勢がよく、表情は穏やかだった。


 穏やかすぎて、逆に腹が立つ。


 今度は、逃がさない。


 あんな言葉を柔らかい声で落としておいて、何事もなかったように窓辺に立っている。人類がもし「不穏な発言をした後の自然な立ち姿コンテスト」を開いたら、たぶん優勝する。そんな競技は滅びていい。


 ノアは鞄の中身を乱暴に机へ出した。


 黒魔法書。筆記具。小さな魔法石。着替えを詰めた袋。布に包んだ黒い木片。それは、奥へ押し込んだ。見えないところへ。見えなければないのと同じだ。たぶん違うが、今はそういうことにする。


「王子様」


 ノアは明るく声をかけた。


「さっきの台詞、寮内恋愛小説なら一章目から重すぎて編集に止められるぞ」


 レオが振り返る。


「重かった?」


「鉛入りの羽毛布団くらいには」


「君は軽くするのが上手いね」


「褒め言葉として受け取っとく。ちなみに返金不可ですー」


 レオは少しだけ目を細めた。


「軽くしないと、苦しい?」


 ノアの手が止まりかけた。


 やめろ。


 初日の相部屋で、人の喉元に指をかけるような言い方をするな。いや、実際には触れられていない。触れられていないのに、触れられたような気がするのがもっと悪い。


 ノアは机の引き出しを開け、筆記具を放り込んだ。


「王子様、会話の湿度が高い。換気しようぜ」


「窓を開ける?」


「真面目に返すな。俺の軽口が迷子になるだろ」


「迷子なら、見つけるよ」


「やめろ。その流れで見つけるな。さっきの発言に戻る」


 レオは否定しなかった。


 否定しないところが、よくない。


 ノアは荷解きを続けた。


 寝台には、学院から支給された白い寝具がきちんと整えられている。向かいの寝台には、レオの荷物がすでに美しく片づけられていた。本は高さ順に並び、制服は皺ひとつなく掛けられ、机の上には白金色の筆記具と、小さな聖魔法用の結晶が置かれている。


 対して、ノアの机には、すでに黒魔法書が斜めに積まれ、筆記具が転がり、上着が椅子の背に引っかかっていた。


 性格の違いが、家具を通して喧嘩している。家具も大変だ。


「お前、荷物少ないね」


 レオが言った。


「平民なので。貴族のお引越しセットと一緒にしないでくださーい」


「必要なものがあれば言って」


「その親切、値段が怖いな」


「値段はないよ」


「無料ほど高いものはないって、うちの近所のおばさんが言ってた」


「賢い人だね」


「おばさん褒めても俺の警戒心は下がりません」


 レオは微笑んだ。


 その顔は、どこまでも穏やかだった。


 夕方から夜へかけて、寮は少しずつ静まっていった。


 廊下ではしばらく、新入生たちの声が続いた。部屋番号を間違えた誰かの悲鳴。荷箱を落とした音。寮監の叱る声。貴族の従者が退出を促される足音。魔具科の生徒が何かを鳴らし、反省文と言われていた。初日から順調に学院生活が人間を擦り減らしている。教育機関、恐ろしい。


 やがて食堂の鐘が鳴り、夕食の時間になった。


 ノアはレオと並んで食堂へ行くという状況を全力で避けたかったが、同室者なので廊下を出る時点で並ぶしかなかった。白と金の王子様の隣に、黒魔法科の着崩した平民。廊下ですれ違う生徒たちの視線が忙しい。


 ノアは途中で片手を振った。


「見世物じゃないぞー。見るなら入場料取るぞー」


 隣でレオが穏やかに言った。


「僕が払えばいい?」


「そういう問題じゃない」


「いくら?」


「払うな。貴族の金銭感覚で俺を新しい商売にするな」


 レオは笑った。


 ほんの少しだけ。


 その笑みを見て、ノアは思った。


 笑い方が違う。


 セラフィードとは違う。


 そう思いたかった。


 けれど、違うところを探そうとする時点で、もう負けている気がした。知るか。勝敗表など破り捨てろ。人間関係で採点を始めるとろくなことにならない。


 夕食を終え、入浴を済ませ、部屋へ戻る頃には、廊下の魔力灯は少し暗くなっていた。


 三〇七号室の窓の外では、中庭の噴水が月光を受けて淡く光っている。校舎の尖塔の向こうに、夜の空が広がっていた。前世の黒い空ではない。灰も降っていない。鐘も鳴っていない。


 普通の夜だった。


 その普通さが、少し怖かった。


 ノアは寝台に腰を下ろし、靴を脱いだ。レオは向かいの寝台の横で、静かに本を閉じている。寝間着に着替えてもなお姿勢がいい。もはや一種の魔法ではないかと思う。


「王子様、寝る時まで品行方正なの?」


「寝相の話?」


「存在全体の話」


「君は寝相が悪い?」


「さあ? 同室初日の相手に自分の寝相情報を売るほど軽率じゃないので」


「じゃあ、見ておく」


「見守りサービスいらない」


 レオは灯りを弱めた。


 部屋が薄暗くなる。


 魔力灯の光が天井近くで淡く揺れ、窓から入る月明かりが二つの寝台の間へ落ちている。小卓には水差しと杯が置かれていた。透明な水面が、低い光を受けて細く揺れる。


 ノアは、その水を見ないようにした。


 見ると、また思い出しかける。


 戦場明けの朝。


 礼拝堂跡の冷たい光。


 掠れた声。


 喉へ流れ込む白金の治癒。


 髪を整える手。


 誰の記憶だ。


 自分のではない。


 自分のものだとしても、今は違う。


 ノアは布団に潜り込んだ。


「おやすみ、王子様。夢でまで追いかけてくるなよ」


「おやすみ、ノア」


 名前の呼び方が、あまりに自然だった。


 ノアは返事をしなかった。


 目を閉じる。


 眠ればいい。


 眠って、朝になって、黒魔法科の新生活を始めればいい。前世も災厄も英雄も知らない。レオ・アステルレインは、ただの相部屋の王子様。自分はノア・クロウ。黒魔法科の平民新入生。制服の襟がきつくて、学院の校章が少し不気味で、同室者の距離感が壊滅しているだけの、普通の学院生活。


 普通とは何か。


 考え始めた時点で、たぶん普通ではない。


 眠れなかった。


 部屋は静かだった。


 向かいの寝台からは、規則正しい呼吸が聞こえる。レオは眠っているように見えた。横向きではなく仰向けに近い姿勢で、まるで眠る時まで整っている。窓の外では、夜風が中庭の木々を揺らしている。遠くで、どこかの寮の扉が一度だけ閉まった。


 ノアは目を開けた。


 天井が暗い。


 魔力灯の光が弱く、部屋の輪郭だけが見える。


 胸の奥が冷えていた。


 夢ではない。


 起きている。


 それなのに、前世の断片が浮かんでくる。


 黒い荒野。


 白金の光。


 セラフィードの腕。


 世界中の歓声。


 英雄、と叫ぶ声。


 冷えていく身体。


 最後に笑った感覚。


 黒魔導書の頁が閉じる直前、誰かが囁いた。


 まだ終わっていない。


 誰の声か分からない。


 黒魔導書の声にも似ていた。けれど、それだけではない。もっと乾いていて、もっと近く、こちらの魂の縁に爪をかけるような声だった。


 ノアは息を詰めた。


 呼吸が浅くなる。


 首元が熱い。


 胸の奥に、軽い圧迫感がある。魔力核のあたりに違和感が走り、黒魔法の霧がほんの少しだけ指先へ滲みかけた。ノアは手を握り込んで抑えた。


 駄目だ。


 部屋で黒魔法を漏らすな。


 初日から相部屋を事故物件にするな。


 ノアは静かに起き上がった。


 寝台が小さく軋む。


 向かいのレオは動かない。


 眠っている。


 そう思うことにした。


 ノアは足を床へ下ろした。冷たい木の床が足裏に触れる。小卓の上の水差しへ手を伸ばす。喉が詰まっていた。水を飲めば少しは戻る。いつものことだ。たぶん。前世の記憶なんか関係ない。関係ない水だ。ただの水だ。水にも前世履歴をつけるな。面倒だ。


 杯に水を注ごうとした瞬間、向かいから声がした。


「眠れない?」


 ノアの手が止まった。


 水面が揺れる。


「王子様、寝たふり下手すぎ」


「君の呼吸が変わったから」


「呼吸まで管理対象? 初日から重いなー」


 レオはゆっくりと身体を起こした。


 薄暗がりの中でも、碧い目は静かにノアを捉えている。眠っていた顔ではなかった。ずっと気づいていた顔だった。


「管理ではなく、確認だよ」


「言い換えで罪が軽くなると思ってる?」


「軽くしたいわけじゃない」


「じゃあ重いまま差し出すな」


「君が苦しそうだった」


「寝つきが悪いだけ」


「夢を見ていた?」


 ノアは笑った。


 声は軽かった。


 軽くした。


「夢診断まで始まる? 王子様、職業選択の幅が広いな」


「ノア」


「はいはい、名前呼べば俺が真面目になると思うなよ」


「首元を触ろうとして、やめた」


 ノアの笑みが、少しだけ薄くなった。


 見られていた。


 暗い部屋で。寝台の中で。呼吸だけではなく、手の動きまで。


 不快感が、胸の奥から静かに上がってくる。


「観察趣味、悪いぞ」


「君が苦しそうだったから」


「それ便利な免罪符じゃないからな」


 レオは黙った。


 その沈黙の間に、白金の光がほんの細く灯った。


 ノアには見えないはずだった。


 けれど、気配がした。


 部屋の空気の中に、細い糸が一本生まれる。赤ではない。まだ、赤ではない。白金の、髪よりも細い光。それが夜気の中を進み、ノアの足元へ、さらにそこから魔力の表面へ触れようとする。


 皮膚ではない。


 服でもない。


 もっと内側。


 魔力の上澄み、呼吸の揺れ、危険を感知する表面。そこに、誰かの指が触れるような感覚がした。


 ノアは杯を置いた。


 軽い音が、小卓に響く。


「レオ」


 声が少し低くなった。


 レオは動かなかった。


「俺の中に勝手に手ぇ入れるな」


 白金の気配が止まった。


 けれど、完全には消えない。


 レオは穏やかに言った。


「君がまた一人で死なないようにするためだよ」


 また。


 その一語が、胸へ落ちた。


 ノアの呼吸が一瞬止まる。


 黒い荒野。白金の光。冷えていく身体。最後の笑み。世界中の歓声。


 また。


 知っているのか。


 どこまで。


 ノアは喉の奥に引っかかったものを飲み込んだ。


 笑え。


 ここは笑うところだ。


 笑って軽くする。軽くしないと、レオの言葉は真っ直ぐ沈んでくる。


「前世系ポエム、夜中に聞くには胃もたれするな」


「ポエムではないよ」


「じゃあ何? 王子様の重たい保護宣言?」


「保護だよ」


「管理じゃなくて?」


「君が嫌がるなら、その言葉は使わない」


「言葉を変えても中身が侵入なら同じ」


 レオの目が、ほんの少し伏せられた。


 傷ついたように見えた。


 それがまた、ずるい。


 傷つくくらいならするな。人間はそこが本当に面倒だ。いや、レオは面倒の親玉みたいな顔をしている。顔だけは美しいのに、やっていることが魂の防犯意識を試してくる。


「君の魔力が乱れた」


 レオは言った。


「黒魔法が指先に出かけていた。眠りの中で、どこかへ引きずられそうに見えた」


「見えた、って便利な言い方だな。実際は覗いた?」


「覗いてはいない。触れようとした」


「もっと悪い言い方に聞こえたぞ、今」


「危険を拾いたかった」


「俺の危険は俺が拾う」


「君は拾っても、一人で抱える」


 ノアは黙った。


 腹が立つ。


 当たっているからだ。


 レオは続けた。


「呼吸の乱れ。魔力の揺れ。眠れない夜。君が隠すものを、僕は知っていたい」


「それ、保護って言わない」


「では、何?」


「独占欲」


 言った瞬間、部屋が静かになった。


 窓の外で、夜風が木を揺らす。廊下の遠くで、寮監の足音が一度だけ聞こえ、消える。水差しの中で、水面が小さく揺れた。


 レオは否定しなかった。


「そうかもしれない」


 ノアは息を吐いた。


「否定しないところ、本当に性格が悪い」


「君に嘘をつきたくない」


「半分くらい嘘ついてくれた方が平和な場面もあるんだよ」


「平和だった?」


 ノアは言葉を失った。


 レオの声は静かだった。


 ただ、静かすぎた。


「君は眠れなかった。苦しそうだった。首元を触ろうとして、やめた。水を飲もうとして、手が震えた」


「実況するな」


「見ていた」


「やめろ」


「やめたい。でも、見てしまう」


「やめる努力くらいしろ」


「する」


 白金の糸が、少しだけ引いた。


 ノアの胸の圧迫感がわずかに薄れる。けれど、首元の熱は残っていた。糸が触れた場所に、見えない跡を残されたような不快感。


 ノアは水の杯を取った。


 今度こそ飲む。


 喉が少し楽になる。冷たい水ではない。部屋に置かれていたから、ぬるい。けれど、喉の詰まりを押し流すには十分だった。


 レオはそれを見ていた。


 ノアは杯を下ろす。


「水飲むところまで見るな」


「喉が掠れていた」


「夜中に起きたら誰でも掠れる」


「君の声は、掠れると少し低くなる」


「本当に声ソムリエじゃん。怖」


 レオは少しだけ笑った。


「君の声だから」


 ノアは顔をしかめた。


「はい出た。重い台詞。夜食に出すな」


「眠れる?」


「寝ろと言われたら寝たくなくなる年頃ですー」


「同い年だよ」


「精神年齢の問題」


「君の方が大人?」


「俺の方が常識的」


「それはどうかな」


「疑うな」


 少しだけ、空気が戻った。


 戻した。


 ノアが軽口で無理やり引き戻したのだ。


 レオは、それを分かっている顔をしていた。だから腹が立つ。全部見透かすな。見透かすなら、せめて分からないふりをしろ。人の逃げ道を照明で照らすな。逃げ道の存在意義が死ぬ。


 ノアは杯を置き、寝台へ戻ろうとした。


 その背に、レオの声がかかる。


「ノア」


「今度は何」


「糸は結んでいない」


 足が止まった。


 ノアは振り向かない。


「まだ、ってつけ忘れてるぞ」


「まだ」


「つけるな」


「君が言った」


「そういうところだぞ、王子様」


 レオの気配が、少しだけ近づいた。


 けれど、触れなかった。


「今夜は結ばない」


「今夜は?」


「うん」


「予告制の不穏、やめろ」


 ノアは振り返った。


 薄暗がりの中、レオは寝台のそばに立っている。白金の魔力はもう消えていた。だが、彼の目にはまだ同じ熱がある。穏やかな、けれど逃がさない熱。


「眠って」


 レオは言った。


「見張るなよ」


「努力する」


「信用ならない返事だな」


「嘘はつきたくない」


「またそれ」


 ノアは寝台に戻り、布団へ潜り込んだ。


 背を向ける。


 目を閉じる。


 眠れる気はしなかった。


 けれど、白金の糸の気配はもうなかった。首元の熱だけが残っている。小さく、見えない火種のように。


 向かいの寝台から、レオの静かな呼吸が聞こえる。


 本当に眠っているのか、今度こそ分からなかった。


 ノアは布団の中で、掠れた声にならないほど小さく呟いた。


「……管理じゃないなら、もう少し下手に出ろよ」


 返事はなかった。


 けれど、聞こえていないとは思えなかった。


 朝は、淡い光で始まった。


 窓の外では、中庭の木々が朝風に揺れている。噴水の水が静かに落ち、遠くの鐘が授業開始前の時間を告げていた。魔力灯は消えかけ、部屋には朝の白い光が差し込んでいる。


 ノアは目を開けた。


 眠った覚えは、あるような、ないような程度だった。夢は見なかった。たぶん。少なくとも、黒い荒野で冷えていく感覚はなかった。代わりに、喉が少し掠れている。


 身体を起こすと、向かいの寝台はすでに整えられていた。


 早い。


 王子様は睡眠まで品行方正なのか。腹立たしい。


 レオは机のそばに立っていた。制服はもう整えられ、金髪もきちんと梳かれている。小卓の上には、水の入った杯が一つ置かれていた。


 ノアがそれを見る前に、レオが言った。


「おはよう」


「……おはようございます。朝から完璧すぎて腹立つな」


「水を用意した」


「介護かよ」


「君はすぐ無茶をする」


 ノアの呼吸が、ほんの少し止まった。


 礼拝堂跡の朝。


 戦場明けの水。


 掠れた声。


 君はすぐ無茶をする。


 その言葉が、遠い過去の扉を叩いた。


 ノアは笑った。


「王子様、朝から説教? 俺まだ何もしてないぞ」


「眠れなかった」


「睡眠不足を無茶判定するな。学院生活だぞ。新入生の八割は寝不足だろ」


「君は違う」


「俺だけ特別扱い? やったー。嬉しくないー」


 ノアは水を受け取った。


 受け取ってから、しまったと思った。


 だがもう遅い。


 水は冷たかった。夜の水よりずっと澄んでいて、喉を通ると掠れが少し和らぐ。レオがさりげなく浄化したのだろう。言わないところがまた腹立たしい。


「何か入ってないだろうな」


「浄化だけ」


「それを入ってるって言うんだよ」


「嫌だった?」


「嫌というか、腹立つ」


「次は聞く」


「次がある前提やめろ」


 レオは微笑んだ。


 ノアは杯を返し、顔を洗いに洗面台へ向かった。冷たい水で顔を濡らすと、少しだけ頭がはっきりする。鏡の中の自分は、少し寝不足の顔をしていた。赤い瞳の奥に、まだ黒い夢の影が残っている。


 ノアは鏡の中の自分へ小さく笑った。


「はいはい、元気元気。顔がいいから多少の寝不足はごまかせますー」


 背後でレオが言った。


「顔だけじゃないよ」


「聞こえる距離で褒めるな。朝から反応に困る」


「困っている君も」


「続けるな」


 部屋の空気は、昨夜より少しだけ普通に戻っていた。


 戻ったように見えるだけかもしれない。


 首元の熱は、まだ完全には消えていなかった。


 制服に着替え、タイを緩めに結び、上着を羽織る。ノアが襟元を少し開けると、レオの視線がそこへ落ちた。


「何」


「きつい?」


「きつい。制服って首詰まりすぎ。学院は生徒を育てる前に窒息させる趣味がある」


「調整する?」


「お前が言うと首元に何か仕込まれそうだからやめとく」


「仕込まないよ」


「今は?」


 レオは少し沈黙した。


 ノアは指を鳴らした。


「はい、出ました。不穏の間」


「君は鋭いね」


「褒めてごまかすな」


 レオは教本を手に取った。


「今日は黒魔法適性測定がある」


 ノアは鞄へ魔法書を入れながら、片眉を上げた。


「初日から? 学院、黒魔法科を爆発物扱いしてない?」


「全科共通の基礎測定だよ」


「基礎ねえ。俺の黒魔法、測定器に嫌われないといいけど」


「君の魔法を、もう一度見られるんだね」


 ノアの手が止まった。


 もう一度。


 やめろ。


 その言い方はよくない。


 夢の中の黒い霧が、胸の奥で少しだけ揺れた。前世の荒野。黒い花。白金の光。セラフィードの目。


 ノアは振り返り、いつもの軽さで笑った。


「王子様、黒魔法鑑賞会じゃないぞ」


「僕には、綺麗だったから」


 静かな声だった。


 ただの褒め言葉ではない。


 記憶の底へ届くような声。


 ノアの首元に、熱が走った。


 見えない糸が、まだ結ばれていない場所をなぞるように。



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