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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

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第59話 記憶から引き出す声



 ならば、喉ではなく記憶から引き出す。


 伴侶首輪メイト・カラーの内側に浮かんだ白い文字を読んだ瞬間、ノア・クロウの視界は白く飛んだ。


 音が消えた。


 地下礼拝堂の黒い水の流れも、白い花の腐った甘さも、レオが息を呑む気配も、セドリックが低く名を呼ぶ声も、すべて遠ざかった。白い光が眼球の裏側から溢れ、世界の輪郭を塗り潰す。


 足元の石床が消える。


 喉に残っていた痛みが、別の熱へ変わる。


 次にノアの鼻先を打ったのは、黒い灰の匂いだった。


 空は黒かった。


 夜ではない。太陽はあるはずだった。けれど、頭上を覆う雲は黒魔力で濁り、昼の光は腐った銀のように薄く、荒野を照らすことを諦めていた。風が吹くたび、灰が横殴りに流れる。焦げた旗の切れ端が地面を擦り、折れた槍が黒く固まった土に突き刺さっている。


 遠くで歓声が聞こえた。


 世界中の歓声。


 救われたと叫ぶ声。


 災厄が死ぬことを待ち望む声。


 ノアは、荒野に立っていた。


 だが、身体は重なっていなかった。自分の手は自分のものだ。現世の制服ではない。けれど、前世のイリアスの身体でもない。意識だけが、記憶の上に落とされている。見せられている。違う。見ているのではなく、再生されている。


 最終決戦の荒野。


 前世の終わり。


 イリアス・ノクスヴェルトが、セラフィード・ルミナリアに討たれた場所。


 ノアの喉が、ひゅ、と鳴った。


「……趣味、悪……」


 声は出た。


 だが、その声は現実の喉から出ているのか、記憶の中だけで響いているのか分からない。


 目の前に、黒い災厄がいた。


 いや、いた、ではない。


 そこに立っているのは、前世の自分だった。


 乱れた黒髪。黒魔導書グリモワール・アビスの文字が皮膚と影に浮かび、赤黒い瞳は開ききっている。唇の端には黒い魔力の霧が滲み、足元では黒い花が枯れては咲き、咲いては朽ちていた。


 その向かいに、セラフィードが立っている。


 白金の聖魔法を纏い、聖剣のような光を握り、祈るような顔で、今にも泣き出しそうな目をして。


 ノアは歯を食いしばった。


「違う」


 ここは記憶だ。


 過去だ。


 終わったものだ。


 自分はノア・クロウだ。アルカディア魔法学院の黒魔法科新入生。制服の首元が窮屈で、昼休みにルカの魔具に興味を持って、アイリスに黒魔法を怖がられながらも少し憧れられて、相部屋の王子様に重たい水を毎朝渡されている。


 ここで死んだ男の名前は、イリアス。


 その罪も、声も、自分の中にある。


 けれど、今の自分をこの荒野に縫いつける権利など、誰にもない。


 黒い空が鳴った。


 前世のイリアスが、セラフィードへ向かって笑う。


 それは記憶の中の動きだった。ノアが止められるものではない。すでに起きた出来事。すでに選ばれた結末。すでに血と灰の上に落ちた最後の笑み。


 だが、口が動こうとした瞬間、ノアの喉も動いた。


「っ……」


 記憶が、現世のノアの発声経路を掴んだ。


 喉ではない。


 魂の奥だった。


 最終決戦の記憶に刻まれた口の形が、ノアの魂糸を通じて現世の声を引きずり出そうとする。前世のイリアスが最後に言った言葉。その形が、ノアの舌へ、喉へ、胸へ、強制的に上がってくる。


 ノアは両手で喉を押さえた。


「違う……今の俺に、言わせるな……っ」


 荒野の風が強くなる。


 世界の歓声が近づく。


 救国の英雄を讃える声が、耳の奥で増える。黒い災厄の死を喜ぶ鐘の音が鳴る。セラフィードの腕の中で冷えていく身体。最後の笑み。あの言葉。


 記憶が、ノアの口を開かせようとした。


 現実の身体が、地下礼拝堂の床で大きく跳ねた。


 ノアはそれを遠くで感じた。


 冷たい石床に背中が打ちつけられる感覚。伴侶首輪が焼けるように熱を持ち、黒い亀裂と白い花紋が同時に光る。魔力回路が乱れ、黒い霧が口元から漏れる。身体が自分のものではないように反り、指先が硬直し、爪が床を掻く音がした。


 意識は荒野にある。


 身体は礼拝堂にある。


 その二つが、引き裂かれる。


「が、あ゛……っ、あ゛ああああああッ!! や、め……っ!」


 絶叫が裂けた。


 整った悲鳴ではなかった。喉の奥で黒魔力に擦られ、濁り、途中で息が詰まる。叫びながら、声が壊れていく。舌がうまく収まらず、言葉の形が崩れる。泡混じりの息が唇に溜まり、吐き気が胸を突き上げた。


 現実の身体が、床の上で大きく痙攣する。


 背筋が弓なりに跳ね、肩が不規則に震えた。膝が石床へ打ちつけられ、指先は硬直したまま床を掻いた。瞳孔は開いたまま焦点を失い、赤い瞳の周囲に細い血管が浮く。白目を剥きかけた視線は、地下礼拝堂の天井ではなく、記憶の黒い空を見ていた。


 セドリックの声が現実のどこかで響く。


「クロウ!」


 その声も遠い。


 荒野のセラフィードが、イリアスの名を呼ぶ。


 現実のレオが、ノアの名を呼ぶ。


 二つの声が重なりかける。


 違う。


 違う。


 ノアは記憶の中で、膝をつきかけた。


 足元の黒い灰が舞い上がる。前世のイリアスの口が、最後の言葉を作ろうとしている。記憶の口。死に際の口。世界を呪い、セラフィードを縛り、自分だけが悪役になって終わるための口。


 その動きが、今のノアの喉へ重なる。


 ノアは、唇を噛んだ。


 現実の身体も、唇を噛みかけたのだろう。レオの声が鋭くなる。


「ノア、戻って」


 今度は聞こえた。


 荒野の外側から。


 黒い灰の向こうから。


 レオの声が、赤い糸を伝って届いてくる。


「ノア、戻って」


 声は穏やかだった。


 だが、必死だった。


 必死なのに、ノアの喉を封じていない。声を閉じ込めていない。赤い糸は、ノアの声を奪うためではなく、現世の魂へ結び直すために震えていた。


 レオは現実側に残っている。


 引きずられかけながら、踏みとどまっている。


 ノアの外側に。


 ノアの現在に。


 レオの声が、もう一度届く。


「君はノアだ」


 荒野が揺れた。


 前世のイリアスが、遠くで笑う。


 世界の歓声がひび割れる。


「イリアスの最後を、君の声で繰り返さなくていい」


 ノアの喉が、また勝手に動こうとした。


 記憶が怒ったように、荒野の風を強める。黒い魔導書の頁が空に散り、文字の群れがノアへ絡みつく。黒い文字が喉元へ、胸へ、魔力核へ沈み込もうとする。


 現実の身体が、さらに大きく痙攣した。


 石床で身体が跳ね、肩が震え、喉が引き攣る。黒い魔力を吐き出すように上体が折れ、泡混じりの息が唇から零れた。吐き気が込み上げ、声が途切れる。身体の制御が一瞬薄れ、限界を超えた反応が淡々と現実へ現れる。セドリックが布と結界を用意する気配がした。レオの白金の光が、身体を冷やさないように薄く包む。


 だが、レオは声を封じない。


 聞いている。


 ノアの崩れた声を。


 ノアの抵抗を。


 敵へ渡さず、閉じ込めず、現世へ繋ぎ止めるために。


 ノアは荒野の中で、黒い灰を吸い込んだ。


 胸が焼ける。


 喉が裂ける。


 目の前で、前世のイリアスが最後の笑みを浮かべる。セラフィードの腕。冷えていく身体。祝福の鐘。あの言葉の形。


 言わせようとしている。


 記憶が。


 儀礼が。


 誰かが。


 ノアは、血の味のする口の中で、言葉を噛み殺した。


「俺、は……」


 声は割れていた。


 現実でも、荒野でも。


 両方で。


「まだ、終わって、ねぇ……!」


 その言葉が、荒野に落ちた。


 黒い灰が一瞬止まる。


 前世のイリアスの笑みが、遠ざかる。


 セラフィードの腕の中で冷えていく身体が、白い光の中へ沈む。世界の歓声が遠のき、鐘の音が割れ、黒魔導書の頁が燃えるように崩れた。


 ノアの視界が、再び白くなる。


 落ちる。


 引き戻される。


 レオの赤い糸が、胸の奥を強く引いた。


 地下礼拝堂の冷たい石床に、意識が戻った。


 最初に感じたのは、喉の痛みだった。


 次に、身体の重さ。


 瞼がうまく開かない。目の焦点が合わない。視界の端に白い花が揺れ、黒い水の溝がぼやけて見える。唇の端に泡混じりの息が残り、舌がうまく収まらず、呼吸のたびに喉が引き攣った。


 誰かが名前を呼んでいる。


 レオだ。


「ノア」


 声が近い。


 ノアは返事をしようとした。


 喉が鳴っただけだった。


「ノア」


 レオの手が、すぐそばで止まっている。


 触れる前に待っている。


 ああ、許可か。


 律儀だな。


 こんな時まで。


 ノアは、震える指をほんの少し動かした。


 レオがそれを見て、低く尋ねる。


「触れていい?」


 ノアは、かすかに頷いた。


 レオの白金の魔力が、喉元と首輪へ流れ込む。冷たい熱を鎮める。黒い亀裂の広がりを押さえ、白い花紋を落ち着かせる。喉の奥に残る記憶の痛みを、ゆっくりと剥がしていく。


 セドリックの声が少し遠くで聞こえた。


「反応は収まった。だが、記憶干渉の痕が残っている。長居はできない」


 レオは頷いたのだろう。


 ノアの身体が、慎重に抱き起こされる。


 力が入らない。


 それでも、意識は戻っている。


 ノアは掠れた声を無理やり押し出した。


「……採点」


 レオの動きが止まる。


「今?」


「今」


「……僕?」


「うん」


 レオは少しだけ息を詰めた。


「閉じなかった」


「加点」


「でも、怖かった」


「減点?」


「正直だから……据え置き」


 レオの目が揺れた。


 泣くなよ、と言いたかった。


 声が出なかった。


 代わりに、ノアは目だけで睨んだ。


 レオは、小さく頷いた。


「戻ろう」


 地下礼拝堂から出る時、黒い水はもう文字を作っていなかった。


 だが、静まり返った水面の底に、まだ何かが沈んでいる。声か、記憶か、魂名か。嫌な選択肢しかない。こういう時、だいたい全部である。創作の悪意は盛り合わせが好きだ。やめてほしい。


 寮へ戻るまでの記憶は、断片的だった。


 白い石の廊下。


 夜明け前の青い魔力灯。


 レオの腕。


 セドリックの足音。


 どこかで鳴る学院の鐘。


 レオが一度も手を離さなかったことだけは、妙にはっきりしている。


 部屋に戻ると、レオはノアを寝台へ下ろした。


 朝の光が窓の端を薄く染めている。水差しは机の上に置かれ、清潔な布と治癒用の魔石が並んでいた。いつ用意したのか。用意がよすぎる。人間、過保護になると予知能力でも生えるのか。


 レオはまず水を渡した。


 ノアは自分で受け取ろうとした。


 手が震えて、うまく持てない。


 レオが支える前に、ノアが掠れた声で言った。


「……許可」


「支えていい?」


「ん」


 レオは杯の底を支えた。


 水が喉を通る。


 痛い。


 けれど、生きている痛みだった。


 そのあと、レオは喉を癒した。魔力回路を整え、首輪の熱を鎮め、黒い亀裂の周囲に残る外部術式の棘を一本ずつ抜いていく。髪も梳かれた。乱れたままでは首元の確認がしにくいから、という顔をしていたが、嘘だ。半分は自分が落ち着くためだろう。


 ノアは目を閉じて、されるままになっていた。


 抵抗する気力がない。


 ただ、完全に預けるのは癪なので、掠れ声で呟いた。


「……俺、まだ生きてる?」


 レオの手が止まった。


 それから、すぐに返る。


「生きている」


 声が近い。


「生きているよ、ノア」


 もう一度。


「生きている」


 ノアは薄く目を開けた。


「確認、多い……」


「必要だから」


「また、それ」


「今回は譲らない」


 レオの声は震えていなかった。


 けれど、必死だった。


 ノアは小さく息を吐く。


「生きてるなら、寝る」


「うん」


「起きたら、水」


「用意する」


「喉」


「癒す」


「首輪」


「熱を見ておく」


「……俺の意思」


 レオの手が、今度こそ止まった。


 ノアは目を閉じたまま、掠れた声で続ける。


「忘れんな」


 しばらく、沈黙があった。


 朝の光が少しずつ部屋に入ってくる。鳥の声が遠くで鳴る。学院の一日が始まろうとしている。人類は地獄の夜が明けても平気で授業をする。勤勉というより愚かだ。だが、今はその日常の音が少しだけありがたかった。


 レオは、低く答えた。


「忘れない」


 ノアは眠りに落ちかけた。


 その直前、レオの声が聞こえた。


「君をイリアスとして殺させない」


 ノアは、目を開けなかった。


 開ける力がなかった。


 けれど、声だけはどうにか押し出した。


「……俺をノアとして閉じ込めるなよ」


 レオはすぐには答えなかった。


 その沈黙ごと、ノアは聞いていた。


 やがて、レオの指先がノアの髪を静かに梳いた。


「努力する」


 便利な言葉だ。


 けれど、今はそれでいい。


 ノアは、掠れた息で小さく笑い、今度こそ眠りへ落ちた。

 


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