第59話 記憶から引き出す声
ならば、喉ではなく記憶から引き出す。
伴侶首輪の内側に浮かんだ白い文字を読んだ瞬間、ノア・クロウの視界は白く飛んだ。
音が消えた。
地下礼拝堂の黒い水の流れも、白い花の腐った甘さも、レオが息を呑む気配も、セドリックが低く名を呼ぶ声も、すべて遠ざかった。白い光が眼球の裏側から溢れ、世界の輪郭を塗り潰す。
足元の石床が消える。
喉に残っていた痛みが、別の熱へ変わる。
次にノアの鼻先を打ったのは、黒い灰の匂いだった。
空は黒かった。
夜ではない。太陽はあるはずだった。けれど、頭上を覆う雲は黒魔力で濁り、昼の光は腐った銀のように薄く、荒野を照らすことを諦めていた。風が吹くたび、灰が横殴りに流れる。焦げた旗の切れ端が地面を擦り、折れた槍が黒く固まった土に突き刺さっている。
遠くで歓声が聞こえた。
世界中の歓声。
救われたと叫ぶ声。
災厄が死ぬことを待ち望む声。
ノアは、荒野に立っていた。
だが、身体は重なっていなかった。自分の手は自分のものだ。現世の制服ではない。けれど、前世のイリアスの身体でもない。意識だけが、記憶の上に落とされている。見せられている。違う。見ているのではなく、再生されている。
最終決戦の荒野。
前世の終わり。
イリアス・ノクスヴェルトが、セラフィード・ルミナリアに討たれた場所。
ノアの喉が、ひゅ、と鳴った。
「……趣味、悪……」
声は出た。
だが、その声は現実の喉から出ているのか、記憶の中だけで響いているのか分からない。
目の前に、黒い災厄がいた。
いや、いた、ではない。
そこに立っているのは、前世の自分だった。
乱れた黒髪。黒魔導書の文字が皮膚と影に浮かび、赤黒い瞳は開ききっている。唇の端には黒い魔力の霧が滲み、足元では黒い花が枯れては咲き、咲いては朽ちていた。
その向かいに、セラフィードが立っている。
白金の聖魔法を纏い、聖剣のような光を握り、祈るような顔で、今にも泣き出しそうな目をして。
ノアは歯を食いしばった。
「違う」
ここは記憶だ。
過去だ。
終わったものだ。
自分はノア・クロウだ。アルカディア魔法学院の黒魔法科新入生。制服の首元が窮屈で、昼休みにルカの魔具に興味を持って、アイリスに黒魔法を怖がられながらも少し憧れられて、相部屋の王子様に重たい水を毎朝渡されている。
ここで死んだ男の名前は、イリアス。
その罪も、声も、自分の中にある。
けれど、今の自分をこの荒野に縫いつける権利など、誰にもない。
黒い空が鳴った。
前世のイリアスが、セラフィードへ向かって笑う。
それは記憶の中の動きだった。ノアが止められるものではない。すでに起きた出来事。すでに選ばれた結末。すでに血と灰の上に落ちた最後の笑み。
だが、口が動こうとした瞬間、ノアの喉も動いた。
「っ……」
記憶が、現世のノアの発声経路を掴んだ。
喉ではない。
魂の奥だった。
最終決戦の記憶に刻まれた口の形が、ノアの魂糸を通じて現世の声を引きずり出そうとする。前世のイリアスが最後に言った言葉。その形が、ノアの舌へ、喉へ、胸へ、強制的に上がってくる。
ノアは両手で喉を押さえた。
「違う……今の俺に、言わせるな……っ」
荒野の風が強くなる。
世界の歓声が近づく。
救国の英雄を讃える声が、耳の奥で増える。黒い災厄の死を喜ぶ鐘の音が鳴る。セラフィードの腕の中で冷えていく身体。最後の笑み。あの言葉。
記憶が、ノアの口を開かせようとした。
現実の身体が、地下礼拝堂の床で大きく跳ねた。
ノアはそれを遠くで感じた。
冷たい石床に背中が打ちつけられる感覚。伴侶首輪が焼けるように熱を持ち、黒い亀裂と白い花紋が同時に光る。魔力回路が乱れ、黒い霧が口元から漏れる。身体が自分のものではないように反り、指先が硬直し、爪が床を掻く音がした。
意識は荒野にある。
身体は礼拝堂にある。
その二つが、引き裂かれる。
「が、あ゛……っ、あ゛ああああああッ!! や、め……っ!」
絶叫が裂けた。
整った悲鳴ではなかった。喉の奥で黒魔力に擦られ、濁り、途中で息が詰まる。叫びながら、声が壊れていく。舌がうまく収まらず、言葉の形が崩れる。泡混じりの息が唇に溜まり、吐き気が胸を突き上げた。
現実の身体が、床の上で大きく痙攣する。
背筋が弓なりに跳ね、肩が不規則に震えた。膝が石床へ打ちつけられ、指先は硬直したまま床を掻いた。瞳孔は開いたまま焦点を失い、赤い瞳の周囲に細い血管が浮く。白目を剥きかけた視線は、地下礼拝堂の天井ではなく、記憶の黒い空を見ていた。
セドリックの声が現実のどこかで響く。
「クロウ!」
その声も遠い。
荒野のセラフィードが、イリアスの名を呼ぶ。
現実のレオが、ノアの名を呼ぶ。
二つの声が重なりかける。
違う。
違う。
ノアは記憶の中で、膝をつきかけた。
足元の黒い灰が舞い上がる。前世のイリアスの口が、最後の言葉を作ろうとしている。記憶の口。死に際の口。世界を呪い、セラフィードを縛り、自分だけが悪役になって終わるための口。
その動きが、今のノアの喉へ重なる。
ノアは、唇を噛んだ。
現実の身体も、唇を噛みかけたのだろう。レオの声が鋭くなる。
「ノア、戻って」
今度は聞こえた。
荒野の外側から。
黒い灰の向こうから。
レオの声が、赤い糸を伝って届いてくる。
「ノア、戻って」
声は穏やかだった。
だが、必死だった。
必死なのに、ノアの喉を封じていない。声を閉じ込めていない。赤い糸は、ノアの声を奪うためではなく、現世の魂へ結び直すために震えていた。
レオは現実側に残っている。
引きずられかけながら、踏みとどまっている。
ノアの外側に。
ノアの現在に。
レオの声が、もう一度届く。
「君はノアだ」
荒野が揺れた。
前世のイリアスが、遠くで笑う。
世界の歓声がひび割れる。
「イリアスの最後を、君の声で繰り返さなくていい」
ノアの喉が、また勝手に動こうとした。
記憶が怒ったように、荒野の風を強める。黒い魔導書の頁が空に散り、文字の群れがノアへ絡みつく。黒い文字が喉元へ、胸へ、魔力核へ沈み込もうとする。
現実の身体が、さらに大きく痙攣した。
石床で身体が跳ね、肩が震え、喉が引き攣る。黒い魔力を吐き出すように上体が折れ、泡混じりの息が唇から零れた。吐き気が込み上げ、声が途切れる。身体の制御が一瞬薄れ、限界を超えた反応が淡々と現実へ現れる。セドリックが布と結界を用意する気配がした。レオの白金の光が、身体を冷やさないように薄く包む。
だが、レオは声を封じない。
聞いている。
ノアの崩れた声を。
ノアの抵抗を。
敵へ渡さず、閉じ込めず、現世へ繋ぎ止めるために。
ノアは荒野の中で、黒い灰を吸い込んだ。
胸が焼ける。
喉が裂ける。
目の前で、前世のイリアスが最後の笑みを浮かべる。セラフィードの腕。冷えていく身体。祝福の鐘。あの言葉の形。
言わせようとしている。
記憶が。
儀礼が。
誰かが。
ノアは、血の味のする口の中で、言葉を噛み殺した。
「俺、は……」
声は割れていた。
現実でも、荒野でも。
両方で。
「まだ、終わって、ねぇ……!」
その言葉が、荒野に落ちた。
黒い灰が一瞬止まる。
前世のイリアスの笑みが、遠ざかる。
セラフィードの腕の中で冷えていく身体が、白い光の中へ沈む。世界の歓声が遠のき、鐘の音が割れ、黒魔導書の頁が燃えるように崩れた。
ノアの視界が、再び白くなる。
落ちる。
引き戻される。
レオの赤い糸が、胸の奥を強く引いた。
地下礼拝堂の冷たい石床に、意識が戻った。
最初に感じたのは、喉の痛みだった。
次に、身体の重さ。
瞼がうまく開かない。目の焦点が合わない。視界の端に白い花が揺れ、黒い水の溝がぼやけて見える。唇の端に泡混じりの息が残り、舌がうまく収まらず、呼吸のたびに喉が引き攣った。
誰かが名前を呼んでいる。
レオだ。
「ノア」
声が近い。
ノアは返事をしようとした。
喉が鳴っただけだった。
「ノア」
レオの手が、すぐそばで止まっている。
触れる前に待っている。
ああ、許可か。
律儀だな。
こんな時まで。
ノアは、震える指をほんの少し動かした。
レオがそれを見て、低く尋ねる。
「触れていい?」
ノアは、かすかに頷いた。
レオの白金の魔力が、喉元と首輪へ流れ込む。冷たい熱を鎮める。黒い亀裂の広がりを押さえ、白い花紋を落ち着かせる。喉の奥に残る記憶の痛みを、ゆっくりと剥がしていく。
セドリックの声が少し遠くで聞こえた。
「反応は収まった。だが、記憶干渉の痕が残っている。長居はできない」
レオは頷いたのだろう。
ノアの身体が、慎重に抱き起こされる。
力が入らない。
それでも、意識は戻っている。
ノアは掠れた声を無理やり押し出した。
「……採点」
レオの動きが止まる。
「今?」
「今」
「……僕?」
「うん」
レオは少しだけ息を詰めた。
「閉じなかった」
「加点」
「でも、怖かった」
「減点?」
「正直だから……据え置き」
レオの目が揺れた。
泣くなよ、と言いたかった。
声が出なかった。
代わりに、ノアは目だけで睨んだ。
レオは、小さく頷いた。
「戻ろう」
地下礼拝堂から出る時、黒い水はもう文字を作っていなかった。
だが、静まり返った水面の底に、まだ何かが沈んでいる。声か、記憶か、魂名か。嫌な選択肢しかない。こういう時、だいたい全部である。創作の悪意は盛り合わせが好きだ。やめてほしい。
寮へ戻るまでの記憶は、断片的だった。
白い石の廊下。
夜明け前の青い魔力灯。
レオの腕。
セドリックの足音。
どこかで鳴る学院の鐘。
レオが一度も手を離さなかったことだけは、妙にはっきりしている。
部屋に戻ると、レオはノアを寝台へ下ろした。
朝の光が窓の端を薄く染めている。水差しは机の上に置かれ、清潔な布と治癒用の魔石が並んでいた。いつ用意したのか。用意がよすぎる。人間、過保護になると予知能力でも生えるのか。
レオはまず水を渡した。
ノアは自分で受け取ろうとした。
手が震えて、うまく持てない。
レオが支える前に、ノアが掠れた声で言った。
「……許可」
「支えていい?」
「ん」
レオは杯の底を支えた。
水が喉を通る。
痛い。
けれど、生きている痛みだった。
そのあと、レオは喉を癒した。魔力回路を整え、首輪の熱を鎮め、黒い亀裂の周囲に残る外部術式の棘を一本ずつ抜いていく。髪も梳かれた。乱れたままでは首元の確認がしにくいから、という顔をしていたが、嘘だ。半分は自分が落ち着くためだろう。
ノアは目を閉じて、されるままになっていた。
抵抗する気力がない。
ただ、完全に預けるのは癪なので、掠れ声で呟いた。
「……俺、まだ生きてる?」
レオの手が止まった。
それから、すぐに返る。
「生きている」
声が近い。
「生きているよ、ノア」
もう一度。
「生きている」
ノアは薄く目を開けた。
「確認、多い……」
「必要だから」
「また、それ」
「今回は譲らない」
レオの声は震えていなかった。
けれど、必死だった。
ノアは小さく息を吐く。
「生きてるなら、寝る」
「うん」
「起きたら、水」
「用意する」
「喉」
「癒す」
「首輪」
「熱を見ておく」
「……俺の意思」
レオの手が、今度こそ止まった。
ノアは目を閉じたまま、掠れた声で続ける。
「忘れんな」
しばらく、沈黙があった。
朝の光が少しずつ部屋に入ってくる。鳥の声が遠くで鳴る。学院の一日が始まろうとしている。人類は地獄の夜が明けても平気で授業をする。勤勉というより愚かだ。だが、今はその日常の音が少しだけありがたかった。
レオは、低く答えた。
「忘れない」
ノアは眠りに落ちかけた。
その直前、レオの声が聞こえた。
「君をイリアスとして殺させない」
ノアは、目を開けなかった。
開ける力がなかった。
けれど、声だけはどうにか押し出した。
「……俺をノアとして閉じ込めるなよ」
レオはすぐには答えなかった。
その沈黙ごと、ノアは聞いていた。
やがて、レオの指先がノアの髪を静かに梳いた。
「努力する」
便利な言葉だ。
けれど、今はそれでいい。
ノアは、掠れた息で小さく笑い、今度こそ眠りへ落ちた。




