表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

59/64

第58話 最後の言葉を、もう一度



 黒い水が、文字を作っていた。


 地下礼拝堂の床を巡る溝の中で、黒い水のような魔力がゆっくりと波紋を広げる。波は祭壇の前で重なり、濁った銀色の光を帯び、石床の上へ細い文字を浮かび上がらせた。


 最後の言葉を、もう一度。


 白い花が揺れていた。


 祭壇に敷き詰められた花弁が、見えない息を受けたように震える。甘い匂いの底に腐った湿り気がある。花の白さは清らかではなく、長く閉じ込められた葬列のようだった。壁に刻まれた英雄の祈祷文は光を失い、災厄封印の黒い術式だけが、床の文字に応じるように薄く滲んでいる。


 ノア・クロウは、その文字を見下ろしていた。


 喉が冷たい。


 伴侶首輪メイト・カラーの内側で、黒い亀裂がじわじわと広がっていた。白い花紋の縁を黒が侵し、そこから細い熱が喉へ刺さる。痛いというほどではない。けれど、無視できない。声を出すための道に、誰かの指が触れているような感覚があった。


 レオ・アステルレインの赤い糸が、鋭く張っている。


 ノアの喉へではない。


 黒い水へ。


 祭壇へ。


 音声封印へ。


 そして、今にもノアの声へ手を伸ばそうとする儀礼場そのものへ。


 レオは横に立っていた。白金の結界を薄く広げ、ノアの周囲を覆っている。檻ではない。少なくとも今は。ノアの喉を塞がず、発声を奪わず、外から伸びる術式だけを弾くための膜だった。


 努力の跡が見える。


 人類、学習する生き物である。たまに。ごくまれに。


 ノアは、口角を上げた。


「アンコール雑すぎない?」


 声は掠れていた。


 けれど、言えた。


 黒い水が即座に反応する。文字の周囲に細かな波が立ち、ノアの声を飲み込もうとするように祭壇へ向かった。レオの結界が、それを白金の薄膜で受け止める。波紋が膜に触れて、ぴし、と小さな音を立てた。


 レオが低く言った。


「言わないで」


 ノアは視線だけ向ける。


「言う気ないって」


「それでも」


「俺の信用、紙より薄い?」


「君を信用していないんじゃない」


「じゃあ何」


「これが、君の声を欲しがっている」


 レオの声は静かだった。


 静かすぎた。


 その奥に、前世の荒野がまだ残っている。たった一音だけ流れた最後の声の欠片が、レオの中でずっと鳴っているのだろう。祝福の鐘よりも深く、聖魔法よりも強く、魂に食い込んだ声。


 あの言葉で終わらせたくない。


 君の最後の声を、あれにしない。


 さっきの言葉が、ノアの胸の底に残っていた。


 厄介だ。


 レオが痛がると、ノアまで少し痛い。


 理不尽にもほどがある。赤い糸のせいだけではないから、なお悪い。


 セドリック・バロウズは祭壇の横で、黒魔法の検知陣を広げていた。黒い霧の糸が床に這い、黒い水の波形と壁の祈祷文を読み取っている。封印灯の青白い光が彼の横顔を照らし、いつもより深い皺を浮かび上がらせていた。


「黒い水の反応が変わった」


「先生、今度は何ですか。もう新機能いらないんですけど」


「お前の声そのものを採取する段階から、発声を誘導する段階へ移った」


 ノアは眉をひそめた。


「誘導?」


「言わせる気だ」


 セドリックの声は低い。


「保存された断片では儀礼が完成しない。切り貼りした声でも足りない。だから、生きているお前自身に、同じ言葉を言わせようとしている」


「同じじゃないだろ」


 ノアの声が低くなった。


 黒い水が、びくりと反応する。


 レオの結界が揺れた。


 ノアは喉に指を添える。


「俺が今言ったら、それは俺の声だ。前世の死に際じゃない。現世の俺の声だ」


「だからこそ、儀礼に使える」


 セドリックが答えた。


「彼らが欲しいのは音だけではない。本人がその声で認めた、という事実だ。自分は死んだ。世界に戻らない。英雄に討たれて正しかった。災厄は災厄として終わった。そういう承認が欲しい」


 ノアは息を吐いた。


 笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「死後の本人確認、厳重すぎるだろ。役所でももう少し融通利かせるぞ」


 レオがかすかに眉を寄せる。


「喉に響く」


「そこ拾うな」


「でも、掠れている」


「儀礼場に説教されるよりはマシ」


「ノア」


「はいはい、声の省エネします」


 そう言って口を閉じた瞬間だった。


 黒い水が動いた。


 祭壇前に浮かんだ文字が崩れ、波紋へ戻る。床の溝を流れる黒い魔力が、礼拝堂全体を巡る血管のように脈打った。白い花が、一斉にノアの方へ顔を向けたように見える。


 喉に、冷たい指がかかった。


 ノアは息を詰めた。


 肉体の喉ではない。


 声帯でもない。


 もっと深い。魂糸の、発声に関わる細い経路。声が生まれる直前の場所。言葉になる前の意思が、喉へ向かうその通り道を、黒い水が掴んだ。


 ノアの膝から力が抜けかける。


 レオの赤い糸が即座に反応した。


「ノア」


 ノアは片手を上げた。


 待て。


 そう示すつもりだった。


 だが指先が震えて、きれいな形にならない。赤い糸が喉元で震え、伴侶首輪の黒い亀裂がさらに広がる。目の前の白い花がぼやけた。瞳孔が開き、焦点がほんの少し遅れる。


 黒い水が、ノアの中で声を探している。


 最後の言葉。


 あの一音から始まる、死に際の嘲笑。


 世界の歓声の中で、レオを縛った声。


 それを、今のノアの喉から引き出そうとしていた。


「っ、ぐ……」


 音が漏れた。


 言葉ではない。


 喉を締め上げられた息が、かすかに鳴っただけだった。


 だが、黒い水が喜ぶように波打つ。


 ノアは歯を食いしばった。


 言うな。


 舌の奥が、勝手に形を作ろうとする。


 あの言葉の最初の音を。


 ノアは舌を押し殺す。喉を閉じるのではなく、意思で押さえ込む。声の道を自分で抱え込み、黒い水へ渡さない。喉の奥が焼けるように痛み、胸の中へ吐き気が込み上げた。


 レオの声が近くで震える。


「閉じていい?」


 ノアは一瞬、返事ができなかった。


 レオの白金の魔力が喉元へ伸びかけている。


 それは優しい形をしていた。


 発声経路を包み、黒い水の干渉から切り離すためのもの。だが、同時にノアの声を閉じる力でもある。守ることと奪うことの境界で、白金の糸が震えていた。


 レオは勝手にやらない。


 聞いた。


 許可を求めた。


 その事実が、今のノアには痛いほど大きかった。


 だからこそ、拒む。


「……だめ、だ……」


 声が掠れる。


 黒い水がその音に反応し、また喉へ食い込む。


 ノアは床に膝をついた。石の冷たさが制服越しに伝わる。指先が硬直し、床を掴む。爪が石の目地へ引っかかった。


「俺が、言わない……っ」


 レオの息が止まる。


 赤い糸が激しく震えた。


 閉じれば楽になる。


 少なくとも、黒い水はノアの声を引き出せなくなる。レオの糸の中に包めば、敵より先に声を守れる。閉じ込められる。奪われない。


 だが、それはノアの声をノアから取り上げることでもある。


 レオは、それを知っている。


 白金の魔力が、喉の直前で止まった。


 止まったまま、震えている。


 セドリックが鋭く言う。


「アステルレイン、支えろ。閉じるな」


「分かっています」


 レオの声は低かった。


 苦しそうだった。


「分かっている」


 二度言った。


 たぶん、自分に言い聞かせていた。


 レオの赤い糸が、形を変える。


 喉を締めるのではなく、背中から支えるように。ノアの発声経路へ直接触れず、その周囲に白金の支柱を立てる。黒い水が喉の奥を掴むたび、赤い糸がその力を横へ逸らした。閉じない。奪わない。ただ、ノアが自分で声を押さえ込めるように支える。


 腹立たしいほど難しいことをしている。


 そのせいで、レオの顔は今にも壊れそうだった。


 ノアは、床に片膝をついたまま、息を吸った。


 吐き気が込み上げる。


 喉が詰まる。


 舌が勝手に、あの言葉の形を探そうとする。


 違う。


 言わない。


 今の自分の声で、前世の終わりを認めない。


 誰かに作られた儀礼のために、自分を災厄として固定しない。


 レオを英雄として再び選ばせない。


「っ、ぐ……言わ、ねぇ……っ」


 声は途切れた。


 それでも言えた。


 黒い水が怒ったように波立つ。床の溝を流れる黒い魔力が祭壇から逆流し、ノアの足元へ迫った。白い花の花弁が黒く縁取られ、壁の祈祷文が薄く鳴る。


 セドリックの黒魔法が床を走った。


 黒い水とは違う、乾いた影の線が波を切る。祭壇へ戻る道を塞ぎ、ノアの足元へ伸びる水を押し返した。


「クロウ、目を閉じるな」


 セドリックの声が飛ぶ。


「声を出すなとは言わない。だが、その言葉だけは作るな。舌で止めるな。意志で止めろ」


「簡単に……言うな……っ」


「簡単なら俺はこんな場所にいない」


「正論、嫌い……」


「嫌いでいい」


 ノアは笑いかけた。


 失敗した。


 息だけが震えた。


 喉の奥で黒い水の冷たい指が、さらに深く食い込む。


 視界の端が白く滲む。


 瞳孔が開いたまま戻らない。白い花の輪郭がぼやけ、レオの金髪が光の塊のように見えた。赤い糸の熱だけが、妙にはっきりしている。


 レオが膝をついた。


 ノアの正面ではなく、少し横。


 逃げ道を塞がない位置。


 けれど、手を伸ばせば届く場所。


「ノア」


 低い声。


 呼び戻すための声だった。


 命令ではない。


 今だけは、管理でもない。


「聞いて」


 ノアは、息を震わせながらレオを見た。


「君の声は、君のものだ」


 レオの声も震えていた。


「僕のものでも、これのものでもない。前世の儀礼のものでもない。君が言わないと決めたなら、それでいい」


 ノアは目を細める。


 言うじゃん。


 そんな軽口を返したかった。


 声にできなかった。


 レオは続けた。


「僕は閉じない。君が言わないために、支える」


 赤い糸が、さらに形を変えた。


 首輪に集まっていた熱が、背中へ流れる。白金の光はノアの喉へ触れず、魂糸の周囲で細く編まれた。黒い水の干渉が喉へ届くたび、レオの糸がそれを受け、ノアの意思が声になる前の場所を守る。


 閉じない。


 奪わない。


 でも、離さない。


 相変わらず重い。


 けれど、今はありがたい。


 ノアは、震える指で床を押した。


 立てない。


 膝が言うことを聞かない。


 それでも、声だけは渡さない。


 黒い水が、もう一度、あの言葉の最初の音を舌へ押し上げようとする。


 ノアは歯を食いしばった。


 胸の奥から吐き気が上がる。喉が反射的に鳴り、唇の端が震えた。だが、吐き出すものはなかった。黒い魔力が胃の底で渦を巻くような不快感だけが残る。


 レオの顔が青ざめる。


 それでも、勝手に喉を閉じない。


 白金の魔力は、ノアの許可を待つ位置で踏みとどまっている。


 ノアは、掠れた息で言った。


「……上出来」


 レオの目が揺れる。


「何が」


「閉じなかった……」


 たったそれだけで、レオの赤い糸がひどく震えた。


 褒められ慣れていない犬か。いや、犬に失礼だ。犬の方がたぶん賢い。今のノアはそんなことを考える余裕が少し戻っている。つまり、危機は少しだけ遠のいた。


 セドリックの黒魔法が祭壇の文字を切った。


 最後の言葉を、もう一度。


 その文字が、黒い水へ溶けていく。


 礼拝堂全体に走っていた波紋が、ゆっくり収まった。


 喉を掴んでいた冷たい指が離れる。


 ノアは、その瞬間に大きく息を吸った。


 空気が入る。


 声は出ない。


 いや、出さない。


 しばらく出したくなかった。


 レオが慎重に尋ねる。


「触れていい?」


 ノアはうなずいた。


 レオの指先が、ノアの喉の近くへ触れる。直接ではなく、ほんの少し距離を空けて。白金の治癒が淡く広がり、魂糸の震えを鎮める。喉の奥に残った冷たさが、少しずつ引いていく。


 セドリックは祭壇を封じ直していた。


「一度戻るぞ。これ以上ここにいるのは危険だ」


 ノアは頷く。


 声は出さない。


 レオが水瓶を取り出した。


 またか、と言いたかった。


 しかし喉がひどく乾いていた。腹立たしい。過保護が実用的だと反論しにくい。人類、たまに役に立つから困る。


 レオが銀杯へ水を注ぐ。


 ノアは自分で受け取ろうとした。


 指先が震えた。


 レオは支えようとして、止まった。


 ノアはその止まった手を見て、わずかに眉を上げる。


 それから、掠れた声で小さく言った。


「……手、貸していい」


 レオの呼吸が止まる。


 ノアは睨む。


「過剰反応するな。採点下げるぞ」


「……分かった」


 レオは慎重に杯の底を支えた。


 ノアは水を飲む。


 喉を通る冷たさが、痛んだ魂糸に染み込む。声はまだ出ない。出したくもない。けれど、水を飲み込めるだけで少し現世へ戻った気がした。


 地下礼拝堂を出る時、黒い水はもう静かだった。


 しかし、その静けさが一番信用できない。さっきまであれだけ喉を掴んできたものが、大人しくなったからといって反省したとは思えない。魔法儀礼に反省という概念があったら、まずこんな施設は作られていない。世の中は本当に終わっている。


 寮へ戻った頃には、空は薄青くなっていた。


 夜明け前の学院は静かだった。石造りの廊下に魔力灯が淡く残り、窓の外の中庭には白い霧が漂っている。地上へ戻ると、白い花の腐った甘さは薄れた。代わりに、冷たい朝露の匂いがした。


 部屋に戻ると、ノアは寝台へ座り込んだ。


 膝がまだ少し震えている。喉は焼けるように痛み、声はほとんど出ない。伴侶首輪の黒い亀裂は、さっきよりわずかに広がっていた。レオはそれを見て、顔を曇らせる。


「治癒していい?」


 ノアは頷いた。


 レオは、まず水を渡した。


 それから、喉へ白金の治癒を流す。勝手に深く入れず、表面から少しずつ。魂糸の発声経路を押し広げず、揺れだけを鎮める。首輪の熱を冷ます時も、ノアの呼吸に合わせていた。


 大げさに言うなら、丁寧だった。


 小さく言うなら、だいぶ必死だった。


 ノアは目を閉じ、治癒の光を受けながら、掠れすぎた声で呟いた。


「……許可制、継続中」


 レオの指先が止まる。


 それから、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「継続する」


「破ったら減点」


「何点から?」


「今は……七点」


「まだ低い」


「閉じていいって聞いた分、加点した」


「ありがとう」


「喜ぶな。七点だぞ」


「君の七点なら、十分うれしい」


 ノアは目を開けた。


 呆れた顔をしたつもりだったが、たぶん疲れすぎて顔が動いていない。


「重い」


「知っている」


「改善は?」


「努力する」


「便利な言葉だな」


「本気だよ」


 ノアは、それ以上言わなかった。


 喉が限界だった。


 レオは治癒を続ける。


 朝チュンでも、甘い余韻でもない。


 これは戦闘後の整備に近い。喉の奥に残った黒い水の冷たさを拭い、魂糸の発声経路を整え、伴侶首輪の黒い亀裂の熱を鎮める作業。けれど、レオの手つきには、どうしても祈るような温度が混じる。


 ノアの声が戻るまで待つ。


 今度は閉じずに。


 奪わずに。


 レオは、そうしようとしている。


 まったく、成長というものは面倒だ。地獄の中でも宿題を出してくる。人生は教師か。


 ノアは少しだけ笑った。


 声にはしなかった。


 その時、伴侶首輪の奥が、冷たく震えた。


 黒い水はもう近くにない。


 だが、礼拝堂で残された波紋のようなものが、ノアの魂糸に薄く残っている。


 レオも気づいた。


 赤い糸が警戒するように張る。


 ノアが鏡へ視線を向ける。


 伴侶首輪の黒い亀裂の奥に、白い文字が浮かんだ。


 白い。


 黒ではない。


 英雄教会の祈祷文の色だった。


 文字は、ゆっくりと形を作る。


 ならば、喉ではなく記憶から引き出す。


 ノアの視界が、白く飛んだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ