第58話 最後の言葉を、もう一度
黒い水が、文字を作っていた。
地下礼拝堂の床を巡る溝の中で、黒い水のような魔力がゆっくりと波紋を広げる。波は祭壇の前で重なり、濁った銀色の光を帯び、石床の上へ細い文字を浮かび上がらせた。
最後の言葉を、もう一度。
白い花が揺れていた。
祭壇に敷き詰められた花弁が、見えない息を受けたように震える。甘い匂いの底に腐った湿り気がある。花の白さは清らかではなく、長く閉じ込められた葬列のようだった。壁に刻まれた英雄の祈祷文は光を失い、災厄封印の黒い術式だけが、床の文字に応じるように薄く滲んでいる。
ノア・クロウは、その文字を見下ろしていた。
喉が冷たい。
伴侶首輪の内側で、黒い亀裂がじわじわと広がっていた。白い花紋の縁を黒が侵し、そこから細い熱が喉へ刺さる。痛いというほどではない。けれど、無視できない。声を出すための道に、誰かの指が触れているような感覚があった。
レオ・アステルレインの赤い糸が、鋭く張っている。
ノアの喉へではない。
黒い水へ。
祭壇へ。
音声封印へ。
そして、今にもノアの声へ手を伸ばそうとする儀礼場そのものへ。
レオは横に立っていた。白金の結界を薄く広げ、ノアの周囲を覆っている。檻ではない。少なくとも今は。ノアの喉を塞がず、発声を奪わず、外から伸びる術式だけを弾くための膜だった。
努力の跡が見える。
人類、学習する生き物である。たまに。ごくまれに。
ノアは、口角を上げた。
「アンコール雑すぎない?」
声は掠れていた。
けれど、言えた。
黒い水が即座に反応する。文字の周囲に細かな波が立ち、ノアの声を飲み込もうとするように祭壇へ向かった。レオの結界が、それを白金の薄膜で受け止める。波紋が膜に触れて、ぴし、と小さな音を立てた。
レオが低く言った。
「言わないで」
ノアは視線だけ向ける。
「言う気ないって」
「それでも」
「俺の信用、紙より薄い?」
「君を信用していないんじゃない」
「じゃあ何」
「これが、君の声を欲しがっている」
レオの声は静かだった。
静かすぎた。
その奥に、前世の荒野がまだ残っている。たった一音だけ流れた最後の声の欠片が、レオの中でずっと鳴っているのだろう。祝福の鐘よりも深く、聖魔法よりも強く、魂に食い込んだ声。
あの言葉で終わらせたくない。
君の最後の声を、あれにしない。
さっきの言葉が、ノアの胸の底に残っていた。
厄介だ。
レオが痛がると、ノアまで少し痛い。
理不尽にもほどがある。赤い糸のせいだけではないから、なお悪い。
セドリック・バロウズは祭壇の横で、黒魔法の検知陣を広げていた。黒い霧の糸が床に這い、黒い水の波形と壁の祈祷文を読み取っている。封印灯の青白い光が彼の横顔を照らし、いつもより深い皺を浮かび上がらせていた。
「黒い水の反応が変わった」
「先生、今度は何ですか。もう新機能いらないんですけど」
「お前の声そのものを採取する段階から、発声を誘導する段階へ移った」
ノアは眉をひそめた。
「誘導?」
「言わせる気だ」
セドリックの声は低い。
「保存された断片では儀礼が完成しない。切り貼りした声でも足りない。だから、生きているお前自身に、同じ言葉を言わせようとしている」
「同じじゃないだろ」
ノアの声が低くなった。
黒い水が、びくりと反応する。
レオの結界が揺れた。
ノアは喉に指を添える。
「俺が今言ったら、それは俺の声だ。前世の死に際じゃない。現世の俺の声だ」
「だからこそ、儀礼に使える」
セドリックが答えた。
「彼らが欲しいのは音だけではない。本人がその声で認めた、という事実だ。自分は死んだ。世界に戻らない。英雄に討たれて正しかった。災厄は災厄として終わった。そういう承認が欲しい」
ノアは息を吐いた。
笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「死後の本人確認、厳重すぎるだろ。役所でももう少し融通利かせるぞ」
レオがかすかに眉を寄せる。
「喉に響く」
「そこ拾うな」
「でも、掠れている」
「儀礼場に説教されるよりはマシ」
「ノア」
「はいはい、声の省エネします」
そう言って口を閉じた瞬間だった。
黒い水が動いた。
祭壇前に浮かんだ文字が崩れ、波紋へ戻る。床の溝を流れる黒い魔力が、礼拝堂全体を巡る血管のように脈打った。白い花が、一斉にノアの方へ顔を向けたように見える。
喉に、冷たい指がかかった。
ノアは息を詰めた。
肉体の喉ではない。
声帯でもない。
もっと深い。魂糸の、発声に関わる細い経路。声が生まれる直前の場所。言葉になる前の意思が、喉へ向かうその通り道を、黒い水が掴んだ。
ノアの膝から力が抜けかける。
レオの赤い糸が即座に反応した。
「ノア」
ノアは片手を上げた。
待て。
そう示すつもりだった。
だが指先が震えて、きれいな形にならない。赤い糸が喉元で震え、伴侶首輪の黒い亀裂がさらに広がる。目の前の白い花がぼやけた。瞳孔が開き、焦点がほんの少し遅れる。
黒い水が、ノアの中で声を探している。
最後の言葉。
あの一音から始まる、死に際の嘲笑。
世界の歓声の中で、レオを縛った声。
それを、今のノアの喉から引き出そうとしていた。
「っ、ぐ……」
音が漏れた。
言葉ではない。
喉を締め上げられた息が、かすかに鳴っただけだった。
だが、黒い水が喜ぶように波打つ。
ノアは歯を食いしばった。
言うな。
舌の奥が、勝手に形を作ろうとする。
あの言葉の最初の音を。
ノアは舌を押し殺す。喉を閉じるのではなく、意思で押さえ込む。声の道を自分で抱え込み、黒い水へ渡さない。喉の奥が焼けるように痛み、胸の中へ吐き気が込み上げた。
レオの声が近くで震える。
「閉じていい?」
ノアは一瞬、返事ができなかった。
レオの白金の魔力が喉元へ伸びかけている。
それは優しい形をしていた。
発声経路を包み、黒い水の干渉から切り離すためのもの。だが、同時にノアの声を閉じる力でもある。守ることと奪うことの境界で、白金の糸が震えていた。
レオは勝手にやらない。
聞いた。
許可を求めた。
その事実が、今のノアには痛いほど大きかった。
だからこそ、拒む。
「……だめ、だ……」
声が掠れる。
黒い水がその音に反応し、また喉へ食い込む。
ノアは床に膝をついた。石の冷たさが制服越しに伝わる。指先が硬直し、床を掴む。爪が石の目地へ引っかかった。
「俺が、言わない……っ」
レオの息が止まる。
赤い糸が激しく震えた。
閉じれば楽になる。
少なくとも、黒い水はノアの声を引き出せなくなる。レオの糸の中に包めば、敵より先に声を守れる。閉じ込められる。奪われない。
だが、それはノアの声をノアから取り上げることでもある。
レオは、それを知っている。
白金の魔力が、喉の直前で止まった。
止まったまま、震えている。
セドリックが鋭く言う。
「アステルレイン、支えろ。閉じるな」
「分かっています」
レオの声は低かった。
苦しそうだった。
「分かっている」
二度言った。
たぶん、自分に言い聞かせていた。
レオの赤い糸が、形を変える。
喉を締めるのではなく、背中から支えるように。ノアの発声経路へ直接触れず、その周囲に白金の支柱を立てる。黒い水が喉の奥を掴むたび、赤い糸がその力を横へ逸らした。閉じない。奪わない。ただ、ノアが自分で声を押さえ込めるように支える。
腹立たしいほど難しいことをしている。
そのせいで、レオの顔は今にも壊れそうだった。
ノアは、床に片膝をついたまま、息を吸った。
吐き気が込み上げる。
喉が詰まる。
舌が勝手に、あの言葉の形を探そうとする。
違う。
言わない。
今の自分の声で、前世の終わりを認めない。
誰かに作られた儀礼のために、自分を災厄として固定しない。
レオを英雄として再び選ばせない。
「っ、ぐ……言わ、ねぇ……っ」
声は途切れた。
それでも言えた。
黒い水が怒ったように波立つ。床の溝を流れる黒い魔力が祭壇から逆流し、ノアの足元へ迫った。白い花の花弁が黒く縁取られ、壁の祈祷文が薄く鳴る。
セドリックの黒魔法が床を走った。
黒い水とは違う、乾いた影の線が波を切る。祭壇へ戻る道を塞ぎ、ノアの足元へ伸びる水を押し返した。
「クロウ、目を閉じるな」
セドリックの声が飛ぶ。
「声を出すなとは言わない。だが、その言葉だけは作るな。舌で止めるな。意志で止めろ」
「簡単に……言うな……っ」
「簡単なら俺はこんな場所にいない」
「正論、嫌い……」
「嫌いでいい」
ノアは笑いかけた。
失敗した。
息だけが震えた。
喉の奥で黒い水の冷たい指が、さらに深く食い込む。
視界の端が白く滲む。
瞳孔が開いたまま戻らない。白い花の輪郭がぼやけ、レオの金髪が光の塊のように見えた。赤い糸の熱だけが、妙にはっきりしている。
レオが膝をついた。
ノアの正面ではなく、少し横。
逃げ道を塞がない位置。
けれど、手を伸ばせば届く場所。
「ノア」
低い声。
呼び戻すための声だった。
命令ではない。
今だけは、管理でもない。
「聞いて」
ノアは、息を震わせながらレオを見た。
「君の声は、君のものだ」
レオの声も震えていた。
「僕のものでも、これのものでもない。前世の儀礼のものでもない。君が言わないと決めたなら、それでいい」
ノアは目を細める。
言うじゃん。
そんな軽口を返したかった。
声にできなかった。
レオは続けた。
「僕は閉じない。君が言わないために、支える」
赤い糸が、さらに形を変えた。
首輪に集まっていた熱が、背中へ流れる。白金の光はノアの喉へ触れず、魂糸の周囲で細く編まれた。黒い水の干渉が喉へ届くたび、レオの糸がそれを受け、ノアの意思が声になる前の場所を守る。
閉じない。
奪わない。
でも、離さない。
相変わらず重い。
けれど、今はありがたい。
ノアは、震える指で床を押した。
立てない。
膝が言うことを聞かない。
それでも、声だけは渡さない。
黒い水が、もう一度、あの言葉の最初の音を舌へ押し上げようとする。
ノアは歯を食いしばった。
胸の奥から吐き気が上がる。喉が反射的に鳴り、唇の端が震えた。だが、吐き出すものはなかった。黒い魔力が胃の底で渦を巻くような不快感だけが残る。
レオの顔が青ざめる。
それでも、勝手に喉を閉じない。
白金の魔力は、ノアの許可を待つ位置で踏みとどまっている。
ノアは、掠れた息で言った。
「……上出来」
レオの目が揺れる。
「何が」
「閉じなかった……」
たったそれだけで、レオの赤い糸がひどく震えた。
褒められ慣れていない犬か。いや、犬に失礼だ。犬の方がたぶん賢い。今のノアはそんなことを考える余裕が少し戻っている。つまり、危機は少しだけ遠のいた。
セドリックの黒魔法が祭壇の文字を切った。
最後の言葉を、もう一度。
その文字が、黒い水へ溶けていく。
礼拝堂全体に走っていた波紋が、ゆっくり収まった。
喉を掴んでいた冷たい指が離れる。
ノアは、その瞬間に大きく息を吸った。
空気が入る。
声は出ない。
いや、出さない。
しばらく出したくなかった。
レオが慎重に尋ねる。
「触れていい?」
ノアはうなずいた。
レオの指先が、ノアの喉の近くへ触れる。直接ではなく、ほんの少し距離を空けて。白金の治癒が淡く広がり、魂糸の震えを鎮める。喉の奥に残った冷たさが、少しずつ引いていく。
セドリックは祭壇を封じ直していた。
「一度戻るぞ。これ以上ここにいるのは危険だ」
ノアは頷く。
声は出さない。
レオが水瓶を取り出した。
またか、と言いたかった。
しかし喉がひどく乾いていた。腹立たしい。過保護が実用的だと反論しにくい。人類、たまに役に立つから困る。
レオが銀杯へ水を注ぐ。
ノアは自分で受け取ろうとした。
指先が震えた。
レオは支えようとして、止まった。
ノアはその止まった手を見て、わずかに眉を上げる。
それから、掠れた声で小さく言った。
「……手、貸していい」
レオの呼吸が止まる。
ノアは睨む。
「過剰反応するな。採点下げるぞ」
「……分かった」
レオは慎重に杯の底を支えた。
ノアは水を飲む。
喉を通る冷たさが、痛んだ魂糸に染み込む。声はまだ出ない。出したくもない。けれど、水を飲み込めるだけで少し現世へ戻った気がした。
地下礼拝堂を出る時、黒い水はもう静かだった。
しかし、その静けさが一番信用できない。さっきまであれだけ喉を掴んできたものが、大人しくなったからといって反省したとは思えない。魔法儀礼に反省という概念があったら、まずこんな施設は作られていない。世の中は本当に終わっている。
寮へ戻った頃には、空は薄青くなっていた。
夜明け前の学院は静かだった。石造りの廊下に魔力灯が淡く残り、窓の外の中庭には白い霧が漂っている。地上へ戻ると、白い花の腐った甘さは薄れた。代わりに、冷たい朝露の匂いがした。
部屋に戻ると、ノアは寝台へ座り込んだ。
膝がまだ少し震えている。喉は焼けるように痛み、声はほとんど出ない。伴侶首輪の黒い亀裂は、さっきよりわずかに広がっていた。レオはそれを見て、顔を曇らせる。
「治癒していい?」
ノアは頷いた。
レオは、まず水を渡した。
それから、喉へ白金の治癒を流す。勝手に深く入れず、表面から少しずつ。魂糸の発声経路を押し広げず、揺れだけを鎮める。首輪の熱を冷ます時も、ノアの呼吸に合わせていた。
大げさに言うなら、丁寧だった。
小さく言うなら、だいぶ必死だった。
ノアは目を閉じ、治癒の光を受けながら、掠れすぎた声で呟いた。
「……許可制、継続中」
レオの指先が止まる。
それから、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「継続する」
「破ったら減点」
「何点から?」
「今は……七点」
「まだ低い」
「閉じていいって聞いた分、加点した」
「ありがとう」
「喜ぶな。七点だぞ」
「君の七点なら、十分うれしい」
ノアは目を開けた。
呆れた顔をしたつもりだったが、たぶん疲れすぎて顔が動いていない。
「重い」
「知っている」
「改善は?」
「努力する」
「便利な言葉だな」
「本気だよ」
ノアは、それ以上言わなかった。
喉が限界だった。
レオは治癒を続ける。
朝チュンでも、甘い余韻でもない。
これは戦闘後の整備に近い。喉の奥に残った黒い水の冷たさを拭い、魂糸の発声経路を整え、伴侶首輪の黒い亀裂の熱を鎮める作業。けれど、レオの手つきには、どうしても祈るような温度が混じる。
ノアの声が戻るまで待つ。
今度は閉じずに。
奪わずに。
レオは、そうしようとしている。
まったく、成長というものは面倒だ。地獄の中でも宿題を出してくる。人生は教師か。
ノアは少しだけ笑った。
声にはしなかった。
その時、伴侶首輪の奥が、冷たく震えた。
黒い水はもう近くにない。
だが、礼拝堂で残された波紋のようなものが、ノアの魂糸に薄く残っている。
レオも気づいた。
赤い糸が警戒するように張る。
ノアが鏡へ視線を向ける。
伴侶首輪の黒い亀裂の奥に、白い文字が浮かんだ。
白い。
黒ではない。
英雄教会の祈祷文の色だった。
文字は、ゆっくりと形を作る。
ならば、喉ではなく記憶から引き出す。
ノアの視界が、白く飛んだ。




