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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

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第57話 途切れた最後の声



 音声封印が、勝手に起動した。


 セドリックの黒魔法がまだ最奥の封印層へ届ききっていない。レオの白金の結界も、ノアの喉を守る薄い膜として整えられたばかりだった。地下礼拝堂の床を巡る黒い水は、先ほどの切り貼りされた声の余韻を飲み込み、静かに波紋を沈めていた。


 その沈黙の底から、声が漏れた。


「ざ……」


 たった一音。


 それだけだった。


 だが、その一音は白い花の匂いを止め、黒い水の流れを止め、レオ・アステルレインの顔から血の気を奪った。


 地下礼拝堂が、息を潜めたようだった。


 祭壇に敷き詰められた白い花は、ひとつも揺れない。壁の祈祷文も光を失い、災厄封印の黒い術式だけが薄く滲んでいる。音声封印の中心に浮かぶ黒い水の一滴は、まるで誰かの目のようにこちらを見ていた。


 ノア・クロウは、喉の奥で息を止めた。


 分かっていた。


 その一音が何に続くのか。


 前世のイリアス・ノクスヴェルトが、最期に何を言ったのか。


 認めたくなくても、魂が知っている。あの荒野の黒い空。灰の匂い。聖魔法の光。冷えていく身体。世界中の歓声。セラフィードの腕。最後に笑った自分の口元。


 そこへ続く一音だった。


 喉が、ひゅ、と細く鳴りかけた。


 ノアはすぐに唇を閉じた。


 黒い水に、余計な音を渡したくなかった。


 レオは動かない。


 横顔は白く、唇の色まで失っている。青い瞳は音声封印を見ているのに、そこには地下礼拝堂など映っていなかった。もっと遠い場所を見ている。黒い荒野。崩れた旗。折れた聖印。腕の中で軽くなっていく身体。笑って、泣かず、謝らず、助けを求めず、最後に呪いのような声を残した男。


 レオの指先が震えた。


 白金の魔力が、細く漏れる。


 セドリックが低く言った。


「アステルレイン」


 返事はない。


 レオは声を聞いていなかった。


 いや、聞こえていないのではない。聞こえすぎているのだ。過去の声が、今の声を塗り潰している。


 ノアは、軽く息を吐いた。


 胸の奥が冷えている。伴侶首輪メイト・カラーは冷たい熱を持ち、白い花紋の縁を黒い亀裂がなぞっていた。赤い糸はレオ側へ強く引かれている。レオの恐怖とノアの喉の違和感が、ひとつの糸の上で震えていた。


 ノアはわざと口角を上げた。


「故障してるな。修理出す?」


 声は掠れていた。


 軽く言ったつもりだった。いつもの調子で。だが、空気は少しも軽くならなかった。


 黒い水が、ノアの声に反応する。祭壇の奥から細い波が立ち、床の溝へ流れ込む。音声封印は、ノアの軽口さえ欲しがっている。腹が立つ。誰がくれてやるものか。


 レオが、ゆっくりこちらを見た。


 その目に、痛みがあった。


「言わないで」


 静かな声だった。


 だが、震えていた。


 ノアは肩をすくめる。


「俺まだ何も言ってない」


「言わないで」


 二度目は、もっと低かった。


 命令ではない。


 懇願でもない。


 その中間に、ぼろぼろの傷だけが残っている声だった。


 ノアは黙った。


 軽口の続きを探した。出てこなかった。こういう時、人間の口という器官は本当に役に立たない。普段は余計なことをいくらでも吐くくせに、肝心な時だけ黙る。情緒は不便だ。創作上は便利だが、本人たちにとっては迷惑でしかない。


 レオは音声封印を見た。


 その視線には、恐怖と怒りが混じっている。


 前世の最後の声。


 それを敵が使おうとしている。


 しかも、完全ではない。欠けている。途切れている。だからこそ、現世のノアに言わせようとしている。あの言葉を、もう一度。本物の声で。死を認めるために。世界が英雄を再び選ぶために。


 レオは、かすかに唇を動かした。


「君の最後の声を、あれにしない」


 ノアの胸の奥が、鈍く鳴った。


 レオ自身も、言った瞬間に何を口にしたのか分かったのだろう。ほんの少し、目を伏せた。


 ノアは返事ができなかった。


 君の最後の声。


 その言い方は、あまりにも重い。


 前世の終わりを、レオはずっとそこで止めている。救国の英雄と呼ばれた男が、祝福の鐘の中で聞き続けてきた声。世界中が救われたと叫ぶ中、腕の中で冷えていった伴侶が笑って残した声。


 それが、レオにとっての終わりだった。


 ノアは息を吸う。


 喉が詰まる。


 黒い水が待っている。


 音声封印が、続きを待っている。


 レオも、たぶん恐れている。


 ノアが口にすることを。


 ノアがあの言葉を言うことを。


 いや、言わされることを。


 ノアは首元へ手を当てた。


 伴侶首輪の熱は、少しずつ増している。赤い糸が震えるたび、首輪の白い花紋が冷たく燃えた。


 セドリックは祭壇を睨みつけ、封印灯をかざした。


「最後の断片は途中で切れている。封印層の奥にあるが、完全な音は残っていないらしい」


 ノアは目だけを動かす。


「完全じゃない?」


「ああ。さっきの一音だけでは儀礼は成立しない。足りない。だから現世のお前の声を使おうとしている」


「嫌な答え合わせ」


「最悪だが、筋は通る」


「筋の通った最悪が一番嫌い」


 声が少し低くなった。


 喉に負担がかかる。


 レオが反応しかけたが、ノアは先に手で制した。


「まだ平気」


「平気な声じゃない」


「採点するなら?」


「三点」


「低いな」


「怖い」


 正直すぎた。


 ノアは少しだけ眉を上げた。


 レオの顔は、本当に怖がっていた。


 怒りより、独占欲より、支配欲より、その下にあるものが見えた。怖いのだ。この男は。ノアがまた終わることが。声を奪われることが。最後の言葉を敵に差し出されることが。今度も、自分が届かないことが。


 ノアは視線を逸らせなかった。


「……俺は今、まだ終わってないだろ」


 静かな声だった。


 軽口ではなかった。


 礼拝堂の黒い水が、深く震えた。


 だが、その声は奪わせなかった。レオの白金の結界が薄く広がり、ノアの声に触れようとした黒い水の波を押し返す。封じるのではなく、守る。喉を締めない。声の行き先を奪わない。ただ、外部の術式から守る。


 ノアは、それに気づいた。


 何も言わない。


 言えば黒い水が喜ぶ。


 だから、目だけで少し見た。


 レオは、その視線を受け止めた。


 赤い糸の震えが、ほんの少しだけ落ち着く。


 セドリックが祭壇の周囲に黒魔法の検知陣を敷いた。薄い黒い線が床を走り、黒い水の溝とは触れないぎりぎりの位置で止まる。


「封印を閉じる。ただし、奥の断片はまだ消さない。今消せば、敵が外部から再構成してくる可能性がある」


「つまり保留」


「嫌な言い方をすればな」


「じゃあ良い言い方は?」


「証拠保全」


「役所っぽくなっただけ」


 セドリックは無視した。


 封印灯の青白い光が、音声封印を包む。白い花弁の石板がゆっくり閉じようとする。そのたびに黒い水の一滴が震え、最後の声の欠片をもう一度吐き出そうとした。


「ざ……」


 また、一音。


 レオの肩が跳ねる。


 ノアも、胸を掴まれたように息が詰まった。


 だが、今度はレオが動いた。


 音声封印を壊すのではなく、白金の結界でその一音を包んだ。閉じ込めたのではない。反響しないようにしたのだ。声が礼拝堂全体へ広がり、黒い水へ溶ける前に、薄い光の膜で受け止める。


 レオの顔はまだ白い。


 だが、手は震えていなかった。


 ノアは、声を出さずに息を吐く。


 セドリックが低く言った。


「よし。そのまま抑えろ。燃やすな」


「燃やしません」


「声に怒りが混じっている」


「混じっています」


「開き直るな」


「努力します」


 ノアは少しだけ口元を歪めた。


 努力する。


 最近のレオの生存呪文みたいになっている。便利だ。人間はこうやって少しずつましになる。たぶん。知らないが。


 音声封印は閉じた。


 白い花弁の石板が重なり、中心の黒い水が奥へ沈む。壁の祈祷文の光も消え、地下礼拝堂はまた冷たい沈黙へ戻った。


 けれど、沈黙は無害ではなかった。


 音が消えた分、残されたものが濃くなる。


 レオの呼吸。


 ノアの掠れた喉。


 黒い水の流れ。


 白い花の腐った甘さ。


 そして、たった一音の余韻。


 ノアは祭壇を見つめたまま言った。


「敵は、あの言葉を欲しがってる」


 セドリックが頷く。


「おそらくな。真儀礼に必要なのは、災厄本人が死を認める声。切り貼りされた声では不完全。保存された断片も欠けている。だから現世のお前に言わせる」


「言わないけどな」


 ノアは低く言った。


 赤い糸が震える。


 レオがこちらを見る。


 ノアは続けた。


「言わされもしない」


「ノア」


「先に言っとく。俺の喉を塞ぐなよ」


 レオの唇が少し動く。


 言いかけたのだ。


 必要なら塞ぐ、と。


 あるいは、守るためなら、と。


 けれど、レオは言わなかった。


 長く沈黙し、それから頷いた。


「塞がない」


「本当?」


「塞ぎたくなると思う」


「うわ正直」


「でも、しないようにする」


「七点」


「まだ低い」


「欲望が見えた」


「隠せなかった」


「隠すなとは言ってない」


「難しい」


「人間生活は難しいんだよ、王子様」


 レオは少しだけ息を吐いた。


 笑ったようには見えない。


 でも、さっきより呼吸が戻っている。


 ノアはそれを確認して、ようやく祭壇から目を離した。


 その時だった。


 床の黒い水が、ノアの最後の声に反応して波紋を作った。


 最初はただの揺れだった。


 だが、波紋が礼拝堂の床を走るうちに、文字の形へ変わっていく。黒い水の表面に浮かぶ細い光。白でも黒でもない、濁った銀色の文字。


 セドリックが身構える。


 レオがノアの前に出かける。


 ノアは、手で止めた。


 今度はレオも完全には塞がなかった。半歩横へずれ、視界を残す。


 黒い水の文字が、祭壇の前に浮かび上がる。


「最後の言葉を、もう一度」


 地下礼拝堂の白い花が、静かに揺れた。


 ノアはその文字を見下ろした。


 喉の奥で、声にならない怒りが熱を持つ。


 レオの赤い糸が、静かに、けれど鋭く張り詰めた。

 



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