第57話 途切れた最後の声
音声封印が、勝手に起動した。
セドリックの黒魔法がまだ最奥の封印層へ届ききっていない。レオの白金の結界も、ノアの喉を守る薄い膜として整えられたばかりだった。地下礼拝堂の床を巡る黒い水は、先ほどの切り貼りされた声の余韻を飲み込み、静かに波紋を沈めていた。
その沈黙の底から、声が漏れた。
「ざ……」
たった一音。
それだけだった。
だが、その一音は白い花の匂いを止め、黒い水の流れを止め、レオ・アステルレインの顔から血の気を奪った。
地下礼拝堂が、息を潜めたようだった。
祭壇に敷き詰められた白い花は、ひとつも揺れない。壁の祈祷文も光を失い、災厄封印の黒い術式だけが薄く滲んでいる。音声封印の中心に浮かぶ黒い水の一滴は、まるで誰かの目のようにこちらを見ていた。
ノア・クロウは、喉の奥で息を止めた。
分かっていた。
その一音が何に続くのか。
前世のイリアス・ノクスヴェルトが、最期に何を言ったのか。
認めたくなくても、魂が知っている。あの荒野の黒い空。灰の匂い。聖魔法の光。冷えていく身体。世界中の歓声。セラフィードの腕。最後に笑った自分の口元。
そこへ続く一音だった。
喉が、ひゅ、と細く鳴りかけた。
ノアはすぐに唇を閉じた。
黒い水に、余計な音を渡したくなかった。
レオは動かない。
横顔は白く、唇の色まで失っている。青い瞳は音声封印を見ているのに、そこには地下礼拝堂など映っていなかった。もっと遠い場所を見ている。黒い荒野。崩れた旗。折れた聖印。腕の中で軽くなっていく身体。笑って、泣かず、謝らず、助けを求めず、最後に呪いのような声を残した男。
レオの指先が震えた。
白金の魔力が、細く漏れる。
セドリックが低く言った。
「アステルレイン」
返事はない。
レオは声を聞いていなかった。
いや、聞こえていないのではない。聞こえすぎているのだ。過去の声が、今の声を塗り潰している。
ノアは、軽く息を吐いた。
胸の奥が冷えている。伴侶首輪は冷たい熱を持ち、白い花紋の縁を黒い亀裂がなぞっていた。赤い糸はレオ側へ強く引かれている。レオの恐怖とノアの喉の違和感が、ひとつの糸の上で震えていた。
ノアはわざと口角を上げた。
「故障してるな。修理出す?」
声は掠れていた。
軽く言ったつもりだった。いつもの調子で。だが、空気は少しも軽くならなかった。
黒い水が、ノアの声に反応する。祭壇の奥から細い波が立ち、床の溝へ流れ込む。音声封印は、ノアの軽口さえ欲しがっている。腹が立つ。誰がくれてやるものか。
レオが、ゆっくりこちらを見た。
その目に、痛みがあった。
「言わないで」
静かな声だった。
だが、震えていた。
ノアは肩をすくめる。
「俺まだ何も言ってない」
「言わないで」
二度目は、もっと低かった。
命令ではない。
懇願でもない。
その中間に、ぼろぼろの傷だけが残っている声だった。
ノアは黙った。
軽口の続きを探した。出てこなかった。こういう時、人間の口という器官は本当に役に立たない。普段は余計なことをいくらでも吐くくせに、肝心な時だけ黙る。情緒は不便だ。創作上は便利だが、本人たちにとっては迷惑でしかない。
レオは音声封印を見た。
その視線には、恐怖と怒りが混じっている。
前世の最後の声。
それを敵が使おうとしている。
しかも、完全ではない。欠けている。途切れている。だからこそ、現世のノアに言わせようとしている。あの言葉を、もう一度。本物の声で。死を認めるために。世界が英雄を再び選ぶために。
レオは、かすかに唇を動かした。
「君の最後の声を、あれにしない」
ノアの胸の奥が、鈍く鳴った。
レオ自身も、言った瞬間に何を口にしたのか分かったのだろう。ほんの少し、目を伏せた。
ノアは返事ができなかった。
君の最後の声。
その言い方は、あまりにも重い。
前世の終わりを、レオはずっとそこで止めている。救国の英雄と呼ばれた男が、祝福の鐘の中で聞き続けてきた声。世界中が救われたと叫ぶ中、腕の中で冷えていった伴侶が笑って残した声。
それが、レオにとっての終わりだった。
ノアは息を吸う。
喉が詰まる。
黒い水が待っている。
音声封印が、続きを待っている。
レオも、たぶん恐れている。
ノアが口にすることを。
ノアがあの言葉を言うことを。
いや、言わされることを。
ノアは首元へ手を当てた。
伴侶首輪の熱は、少しずつ増している。赤い糸が震えるたび、首輪の白い花紋が冷たく燃えた。
セドリックは祭壇を睨みつけ、封印灯をかざした。
「最後の断片は途中で切れている。封印層の奥にあるが、完全な音は残っていないらしい」
ノアは目だけを動かす。
「完全じゃない?」
「ああ。さっきの一音だけでは儀礼は成立しない。足りない。だから現世のお前の声を使おうとしている」
「嫌な答え合わせ」
「最悪だが、筋は通る」
「筋の通った最悪が一番嫌い」
声が少し低くなった。
喉に負担がかかる。
レオが反応しかけたが、ノアは先に手で制した。
「まだ平気」
「平気な声じゃない」
「採点するなら?」
「三点」
「低いな」
「怖い」
正直すぎた。
ノアは少しだけ眉を上げた。
レオの顔は、本当に怖がっていた。
怒りより、独占欲より、支配欲より、その下にあるものが見えた。怖いのだ。この男は。ノアがまた終わることが。声を奪われることが。最後の言葉を敵に差し出されることが。今度も、自分が届かないことが。
ノアは視線を逸らせなかった。
「……俺は今、まだ終わってないだろ」
静かな声だった。
軽口ではなかった。
礼拝堂の黒い水が、深く震えた。
だが、その声は奪わせなかった。レオの白金の結界が薄く広がり、ノアの声に触れようとした黒い水の波を押し返す。封じるのではなく、守る。喉を締めない。声の行き先を奪わない。ただ、外部の術式から守る。
ノアは、それに気づいた。
何も言わない。
言えば黒い水が喜ぶ。
だから、目だけで少し見た。
レオは、その視線を受け止めた。
赤い糸の震えが、ほんの少しだけ落ち着く。
セドリックが祭壇の周囲に黒魔法の検知陣を敷いた。薄い黒い線が床を走り、黒い水の溝とは触れないぎりぎりの位置で止まる。
「封印を閉じる。ただし、奥の断片はまだ消さない。今消せば、敵が外部から再構成してくる可能性がある」
「つまり保留」
「嫌な言い方をすればな」
「じゃあ良い言い方は?」
「証拠保全」
「役所っぽくなっただけ」
セドリックは無視した。
封印灯の青白い光が、音声封印を包む。白い花弁の石板がゆっくり閉じようとする。そのたびに黒い水の一滴が震え、最後の声の欠片をもう一度吐き出そうとした。
「ざ……」
また、一音。
レオの肩が跳ねる。
ノアも、胸を掴まれたように息が詰まった。
だが、今度はレオが動いた。
音声封印を壊すのではなく、白金の結界でその一音を包んだ。閉じ込めたのではない。反響しないようにしたのだ。声が礼拝堂全体へ広がり、黒い水へ溶ける前に、薄い光の膜で受け止める。
レオの顔はまだ白い。
だが、手は震えていなかった。
ノアは、声を出さずに息を吐く。
セドリックが低く言った。
「よし。そのまま抑えろ。燃やすな」
「燃やしません」
「声に怒りが混じっている」
「混じっています」
「開き直るな」
「努力します」
ノアは少しだけ口元を歪めた。
努力する。
最近のレオの生存呪文みたいになっている。便利だ。人間はこうやって少しずつましになる。たぶん。知らないが。
音声封印は閉じた。
白い花弁の石板が重なり、中心の黒い水が奥へ沈む。壁の祈祷文の光も消え、地下礼拝堂はまた冷たい沈黙へ戻った。
けれど、沈黙は無害ではなかった。
音が消えた分、残されたものが濃くなる。
レオの呼吸。
ノアの掠れた喉。
黒い水の流れ。
白い花の腐った甘さ。
そして、たった一音の余韻。
ノアは祭壇を見つめたまま言った。
「敵は、あの言葉を欲しがってる」
セドリックが頷く。
「おそらくな。真儀礼に必要なのは、災厄本人が死を認める声。切り貼りされた声では不完全。保存された断片も欠けている。だから現世のお前に言わせる」
「言わないけどな」
ノアは低く言った。
赤い糸が震える。
レオがこちらを見る。
ノアは続けた。
「言わされもしない」
「ノア」
「先に言っとく。俺の喉を塞ぐなよ」
レオの唇が少し動く。
言いかけたのだ。
必要なら塞ぐ、と。
あるいは、守るためなら、と。
けれど、レオは言わなかった。
長く沈黙し、それから頷いた。
「塞がない」
「本当?」
「塞ぎたくなると思う」
「うわ正直」
「でも、しないようにする」
「七点」
「まだ低い」
「欲望が見えた」
「隠せなかった」
「隠すなとは言ってない」
「難しい」
「人間生活は難しいんだよ、王子様」
レオは少しだけ息を吐いた。
笑ったようには見えない。
でも、さっきより呼吸が戻っている。
ノアはそれを確認して、ようやく祭壇から目を離した。
その時だった。
床の黒い水が、ノアの最後の声に反応して波紋を作った。
最初はただの揺れだった。
だが、波紋が礼拝堂の床を走るうちに、文字の形へ変わっていく。黒い水の表面に浮かぶ細い光。白でも黒でもない、濁った銀色の文字。
セドリックが身構える。
レオがノアの前に出かける。
ノアは、手で止めた。
今度はレオも完全には塞がなかった。半歩横へずれ、視界を残す。
黒い水の文字が、祭壇の前に浮かび上がる。
「最後の言葉を、もう一度」
地下礼拝堂の白い花が、静かに揺れた。
ノアはその文字を見下ろした。
喉の奥で、声にならない怒りが熱を持つ。
レオの赤い糸が、静かに、けれど鋭く張り詰めた。




