第56話 切り貼りされた声
「世界は……英雄を……選べ」
地下礼拝堂の奥で、その声は静かにほどけた。
前世のイリアス・ノクスヴェルトの声だった。
掠れ方も、息の削れ方も、死の寸前に喉から押し出されたような乾きも、本物だった。黒い灰を吸い込んだ荒野の底から拾い上げたような声。血ではなく黒魔力の焦げた匂いが染みついたような声。レオの魂を、いまだに一瞬で凍らせる声。
けれど、その言葉は違った。
ノア・クロウは、首元に手を当てたまま、音声封印を睨んだ。
白い花弁を模した石板が、祭壇の奥でわずかに震えている。中心に浮かぶ黒い水の一滴は、先ほどよりも深く濁っていた。床の溝を流れる黒い水が、声の余韻を飲み込み、礼拝堂全体へゆっくりと波紋を広げていく。
壁に刻まれた英雄の祈祷文が白く光る。
その下に彫られた災厄封印の術式が、黒く滲む。
白い花の甘い匂いと、黒い水の腐ったような湿り気が混じり合って、喉の奥へ張りついた。
ノアは低く言った。
「俺、そんなこと言ってない」
声は掠れていた。
だが、震えてはいなかった。
ただ、低かった。
それだけで黒い水が反応した。床の溝がぴくりと動き、祭壇へ向かって細い波が走る。ノアの伴侶首輪が熱を持ち、白い花紋の縁が黒く染まる。発声経路に残る黒い糸が、ノアの怒りに触れて軋んだ。
レオ・アステルレインは、隣で息を止めていた。
彼の顔から、温度が消えていた。
さっきまで、音声封印に触れて前世の記憶を引きずられかけていた男だ。まだ顔色は白い。指先には白金の魔力が残り、わずかに震えている。けれど、その震えはもう恐怖だけではなかった。
怒りだった。
静かな、澄み切った、冷たい怒り。
セドリック・バロウズは祭壇へ近づき、封印灯をかざした。青白い光が音声封印を照らす。白い花弁の石板、その内側に刻まれた祈祷文、黒い水を支える薄い水晶膜、そしてさらに下層に隠された細い魔法線。
セドリックは眉間に皺を寄せた。
「切られているな」
ノアは祭壇から目を離さない。
「声が?」
「声そのものというより、保存された断片だ。今流れたものは、複数の本物の声を切り出して、別の文としてつないでいる」
「音声編集かよ。地獄にしては芸が細かい」
「軽く言うな」
「軽く言わなきゃ吐きそうなんで」
言った瞬間、レオがこちらを見た。
ノアは手で制した。
「比喩」
「本当に?」
「半分くらい」
「ノア」
「今は俺の喉より、あれ」
ノアは顎で祭壇を示した。
レオの視線が音声封印へ戻る。
白金の魔力が、彼の周囲で静かに膨らんだ。地下礼拝堂の空気が押され、壁の祈祷文が震える。白い花が一斉に揺れ、黒い水の流れが乱れた。
セドリックが低く言う。
「アステルレイン。抑えろ。ここで聖魔法を荒らすな」
「分かっています」
声は穏やかだった。
だが、礼拝堂の壁はまだ震えている。
ノアは横目でレオを見た。
穏やかな声のまま怒っている。いっそ怒鳴った方が分かりやすいのに、こういう時ほど静かになる。人類の情緒も面倒だが、レオの情緒は輪をかけて面倒だ。白金の魔力を振動させながら「分かっています」は無理がある。分かっていない奴の出力だ。
レオは音声封印を見つめたまま言った。
「君の声を、こんなふうに使ったのか」
ノアは少しだけ眉を動かした。
「前世の俺の声だけどな」
「君の声だ」
即答だった。
ノアは言葉を失った。
レオの目は、今のノアを見ていた。
けれど、その奥に前世のイリアスを見ていないとは言い切れない。レオの中では、どうしても重なる。ノア・クロウとイリアス・ノクスヴェルト。現世と前世。掠れた今の声と、黒い荒野で死に際に残した声。
重ねすぎるなと言いたい。
同時に、切り離しすぎるなとも思う。
厄介だ。自分の魂が絡んでいる問題ほど、面倒なものはない。人類は一生に一つの魂だけで満足しておけ。転生などするな。創作上はするが。最悪だ。
セドリックが、黒魔法で音声封印の下層を撫でるように調べていく。黒い霧ではない。薄い影の糸のような魔法が、白い花弁の石板の隙間へ入り込み、内部構造を読み取っていた。
「本物の声が使われているから、儀礼の鍵として機能しかけている。だが、意味は加工されている。『世界は』『英雄を』『選べ』。おそらく、それぞれ別の場面から取られた音だ」
「趣味悪いな」
ノアの声が低くなる。
「俺の死に際の声を、都合よく切って、都合よく貼って、都合よく世界に提出するわけだ」
黒い水が波打つ。
セドリックは頷いた。
「このまま真儀礼に流せば、完全ではないにしても、災厄本人が英雄の再選定を認めたという儀礼上の証拠になる」
「本人が言ってないのに?」
「儀礼は、事実より形式を重視することがある」
「最悪の制度」
「だから厄介だ」
レオの白金の魔力がさらに冷える。
冷たい光だった。
治癒でも、結界でもない。
何かを切り裂く前の光。
ノアはそれを見て、短く言った。
「燃やすなよ」
「燃やさない」
「本当に?」
「燃やしたい」
「正直でよろしい。燃やすな」
「分かっている」
レオは一歩も動かなかった。
動かなかったが、壁がまだ震えている。
セドリックが苛立ったように言った。
「分かっているなら魔力を抑えろ。礼拝堂の聖印が反応している」
レオは目を伏せ、深く息を吸った。
白金の魔力がゆっくりと収まる。
収まった、ように見えた。
だが、赤い糸はまだ鋭く張っている。音声封印へ攻撃的に震え、今にも祭壇を貫きそうだった。伴侶首輪の熱がノアへも伝わる。ノアの喉元がひりついた。
「っ……」
短く息が詰まる。
レオがすぐに振り返る。
「喉?」
「お前の糸」
ノアは首元を指で押さえた。
「怒るなとは言わないけど、俺の首輪経由で怒りを流すな。熱い」
レオの表情が変わる。
「ごめん」
「謝るなら抑えろ」
「抑える」
「よし」
レオは、本当に抑えた。
赤い糸の震えが少し落ち着く。伴侶首輪の熱も、薄く引いた。ノアは息を吐く。
セドリックがちらりとこちらを見る。
「扱いが上手くなったな」
「先生、どっちの?」
「両方だ」
「全然嬉しくない評価」
ノアは軽口を返したが、すぐに口を閉じた。
喉の奥が震えている。
音声封印が、ノアの声を待っている。
低くても、短くても、軽口でも、怒りでも、全部拾おうとしている。黒い水が礼拝堂の床を巡り、声を保存する器として眠らずにいる。まるで口を開けた井戸だ。落ちた声を底へ沈め、二度と本人のものとして返さない。
ノアは、祭壇へ向き直った。
「前世でも今世でも、俺の声は俺のものだ。勝手に台詞作んな」
声は低かった。
掠れていた。
けれど、はっきりしていた。
礼拝堂が震える。
黒い水が大きく波打った。白い花が花弁を震わせる。壁の祈祷文が一斉に光り、災厄封印の黒い術式がそれに絡みつく。
レオはノアを見ていた。
痛いほどまっすぐに。
ノアはその視線から逃げなかった。
今の言葉は、誰へ向けたものか。
音声封印へ。
地下礼拝堂へ。
声を加工した誰かへ。
そして、レオへ。
ノアはまだ前世を完全に自分のものとして受け入れたわけではない。イリアスの罪も、選択も、死も、すべてを自分の胸に戻すには重すぎる。だが、声を奪われるのは違う。切り貼りされるのも違う。前世の声だから今の自分には関係ないなどとは、もう言えなかった。
声は、自分のものだ。
過去の自分の声でも。
今の自分の声でも。
誰かに都合よく作り替えられる筋合いはない。
レオが、静かに言った。
「うん」
短い返事だった。
それ以上言えば、余計に重くなると思ったのかもしれない。珍しく抑えた。偉い。地下礼拝堂でなければ八点くらいあげてもよかった。いや、今は採点している場合ではない。しているが。
セドリックは、音声封印の裏側に隠された術式を読み続けていた。
「加工した者は、前世の声をかなり近い位置で採取している」
レオの呼吸が止まる。
ノアも目を細めた。
「近い位置?」
「最終決戦の場、あるいはその直後。少なくとも、公開された英雄譚や後世の記録だけでは不可能だ。荒野の風音、黒魔導書残響、聖魔法の干渉波まで保存されている」
ノアは、祭壇の黒い水を見た。
「つまり、あの場にいた誰か」
「あるいは、あの場に届く術式を仕込んでいた者」
オルドレイス。
名を口にしなかった。
だが、三人の間にその影が落ちた。
前世の同盟儀式を汚した外部術式。黒魔導書に混じる古い構文。英雄教会の真儀礼に紛れ込む歪んだ祈祷文。黒災忌会とも英雄教会とも違う、もっと古く、もっと悪質な何か。
ノアは喉を押さえた。
「長期計画すぎる。暇人かよ」
セドリックが低く返す。
「暇ではなく、執念だろう」
「もっと嫌な言い方された」
レオは、音声封印を見つめたまま黙っていた。
その沈黙が嫌だった。
ノアは横から見る。
「レオ」
レオが瞬きをする。
「前世の声と今の俺の声を重ねすぎるなよ」
レオの目が揺れた。
ノアは続ける。
「でも、切り離しすぎるのも違う。面倒だけどな。俺もまだよく分かってない」
「……ノア」
「だから、お前が勝手に決めるな。これはイリアスの声だから俺じゃない、とか。これはノアの声だから過去と違う、とか。そういうの、俺が決める」
レオは、長く黙った。
白金の光が彼の指先で小さく揺れる。だが今度は暴れなかった。
「分かった」
「本当に?」
「努力する」
「最近その返し増えたな」
「嘘をつきたくない」
「七点」
「低い」
「内容が難しいから」
「……努力する」
「よろしい」
セドリックが、音声封印から手を離した。
「奥に、まだ再生されていない断片がある」
ノアとレオが同時に祭壇を見る。
白い花弁の石板の最奥。
黒い水の底に、小さな泡のようなものが沈んでいた。声の核だ。まだ開かれていない。だが、その周囲を巡る術式は明らかに違う。より深い。より古い。より強い。
ノアは、喉の奥が冷えるのを感じた。
「聞くべきだ」
レオが即座に言う。
「反対だ」
「でしょうね」
「今の断片だけでも危険だった。次はもっと深い」
「だから聞く」
「ノア」
「敵が欲しがってる声が何か、こっちが知らないまま本番に行く方が危険だろ」
「君を傷つける」
「もうその台詞、回数券切ってるぞ」
「何度でも言う」
「重い」
レオの赤い糸が、わずかに震えた。
ノアは息を整える。
声を出すたび、喉に負担がかかっている。けれど、今黙って引く気はなかった。
「聞く。止める準備はしろ。俺の声が変に引っ張られたら切れ。俺の喉を閉じるな。術式を切れ」
レオは苦しそうにノアを見る。
「分かっている」
「今のは何点だ?」
「……八点?」
「自己採点するな。六点」
「下がった」
「顔が閉じ込めたい顔してた」
レオは唇を噛みそうになり、やめた。
「気をつける」
セドリックは無言で二人を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「準備する。だが、俺が止めると判断したら止める。二人とも文句は受け付けない」
「先生、頼れる大人」
「今さら褒めても何も出ない」
「水くらい?」
「アステルレインが持っているだろう」
レオが、本当に水瓶を持っていた。
ノアは顔をしかめる。
「準備よすぎ」
「君の喉が必要だから」
「言い方」
「君の声が必要だから」
「もっと悪い」
「君が必要だから」
ノアは黙った。
レオも黙った。
セドリックが低く咳払いした。
「今、それを地下礼拝堂でやるな。黒い水が揺れている」
床の溝の黒い水が、確かに揺れていた。
最悪だ。礼拝堂にまで空気を読まれるのか。いや、読んでいるのではなく記録しようとしている。やめろ。今のやり取りを保存するな。もっと保存すべき歴史があるだろう。いや、ここに保存すべき歴史などない。全部燃やしたい。レオの気持ちが少し分かる。腹立つ。
セドリックが音声封印へ黒魔法を流した。
黒い霧の糸が、祭壇の奥へ伸びていく。白い花弁の石板が一枚、また一枚と震えた。黒い水の底に沈んでいた泡が浮上する。
レオの白金の結界が、ノアの周囲に薄く展開した。
今度は喉を閉じない。
声を奪うものだけを遮る形。
ノアはそれを確認し、ほんの少しだけ頷いた。
黒い水が、ぽつりと音を立てた。
音声封印が勝手に起動した。
セドリックが眉を跳ね上げる。
「待て、まだ」
止めるより早く、声が漏れた。
「ざ……」
そこで途切れた。
たった一音。
けれど、地下礼拝堂の空気が凍りついた。
白い花が、一瞬で動きを止める。
黒い水が、波を失う。
レオの顔から、血の気が引いた。
ノアは、喉の奥に冷たい刃が落ちるのを感じながら、祭壇の黒い水を睨んだ。




