第55話 頼んだぞ
その声が流れた瞬間、地下礼拝堂の空気は止まった。
「……頼んだぞ」
掠れていた。
黒い灰を吸い込んだような、焼けた荒野の底から拾い上げたような声だった。息が残っているのか、もう死へ沈みかけているのかも分からない。けれど、それは確かに声だった。
偽物ではない。
ノア・クロウは、それを聞いた瞬間に分かってしまった。
自分の声だった。
けれど、自分ではない。
喉の形も、声の奥にある癖も、軽口の底に残る乾きも、どこか似ている。いや、似ているどころではない。魂の奥で同じものが震えた。けれど、今のノアが出した声ではなかった。今の自分の声はまだ掠れていて、発声経路に黒い糸が残っている。目の前の音声封印から流れた声は、もっと古い。もっと遠い。死に際の熱と、託すために削り出された意思だけで形を保っている。
前世のイリアス・ノクスヴェルトの声。
その事実が、喉の奥へ冷たい石のように落ちた。
祭壇に敷き詰められた白い花が、音もなく震えている。床の溝を流れる黒い水が、声の余韻を飲み込むように細かく波打った。壁一面に刻まれた英雄の祈祷文と災厄封印の術式が、同時に鈍く光る。白い文字が祈りのように浮かび、黒い文字がそれを縛るように沈む。
聖なる場所に見える。
だが、匂いは腐っていた。
白い花の甘さ。黒い水の湿り。古い封印蝋。乾いた祈祷布。石に染みついた祈り。すべてが混ざって、ここが救いの場所ではなく、誰かの死を何度も確認するための場所だと告げていた。
ノアは、ようやく息をした。
「……録音残ってるとか、前世の俺、サービス精神旺盛すぎない?」
軽口にした。
いつも通りに。
そのはずだった。
けれど声が震えた。掠れた喉が、途中でひっかかった。最後の音が黒い水へ落ちると、床の溝がぴくりと反応した。伴侶首輪の内側で、白い花紋が黒く縁取られる。
レオ・アステルレインは、動かなかった。
祭壇の前で、まるで白金の魔法ごと凍りついたように立っていた。
彼の顔は白い。
もともと整った顔立ちが、血の気を失うと彫像のように見えた。だが、目だけは違った。青い瞳の奥で、何かが崩れかけていた。
レオも、分かっている。
偽物ではないと。
何度も聞いた声だったから。
最終討伐の日、黒い荒野で、腕の中で冷えていった男が、最後に託すように吐き出した声だから。
ノアは、その横顔を見て、口の中の軽口を飲み込んだ。
ふざけるには、少し重すぎた。
いや、少しではない。だいぶ重い。地下礼拝堂の床ごと沈みそうだ。情緒の重力がすごい。人類はよくこんなものを保存しようと思ったな。保存するな。腐らせて土に返せ。
音声封印の魔導具は、祭壇の奥でゆっくり開いていた。
白い花弁を模した石板が幾重にも重なり、その中心に黒い水が一滴、浮いている。さきほどの声は、その黒い水から流れた。黒魔導書の残響ではない。ノアの現世の声でもない。過去の一点から切り取られ、ここに閉じ込められていた音だ。
セドリック・バロウズが、低く息を吐いた。
「本物だな」
その言葉に、レオの指先が震えた。
セドリックは続ける。
「魂の波形が違う。複製ではない。声紋ではなく、魂糸の響きごと保存されている」
ノアは顔をしかめた。
「先生、朝から言葉選びが最悪です」
「昼前だ」
「時間の問題じゃない」
「分かって言っている」
「もっと悪い」
セドリックはノアを見た。
「軽口で誤魔化すな。喉に来る」
「ご忠告どうも」
ノアはそう返して、すぐに喉を押さえた。
言葉にした途端、伴侶首輪が熱を持った。冷たくて熱い。地下礼拝堂の空気が、声を欲しがっている。声を受け取り、測り、保存しようとしている。
レオが、そこでやっと動いた。
祭壇へ一歩近づく。
ノアの赤い糸が鋭く張った。ノアからレオへ、レオからノアへ、痛みでも警告でもない震えが渡る。レオの聖魔法も、この音声封印に引き寄せられている。
「触るな」
ノアの声ではなかった。
セドリックの声でもない。
レオ自身の声だった。
しかし、彼は自分に言ったようにも聞こえた。
触るな。
近づくな。
それでも、レオの手は祭壇へ伸びていた。
白金の魔力が、指先に灯る。封印を読もうとしている。壊そうとしているのではない。たぶん。今の顔だと五分五分で燃やしそうだが、かろうじて理性が残っている。立派だ。理性の残量が砂糖一粒分でも、ないよりましである。
レオの指先が音声封印の外縁へ触れた。
その瞬間、礼拝堂の白い花が一斉に震えた。
黒い水が跳ねる。
壁の祈祷文が白く光り、黒い封印式がそれを飲み込む。祭壇の奥から、古い鐘の音が鳴った。大講堂の鐘とは違う。もっと低く、もっと深い。死者の胸骨を叩いたような音。
レオの肩が強張った。
彼の聖魔法に、音声封印が食いついた。
白金の光が祭壇へ吸い込まれる。
レオの瞳が揺れる。
ノアは、赤い糸越しにそれを感じた。
流れ込んでいる。
前世の記憶が。
セラフィード・ルミナリアの視界。
黒い荒野。
崩れた討伐軍の旗。
血ではなく黒い灰が降る空。
腕の中で軽くなっていくイリアスの身体。
掠れた声。
頼んだぞ。
レオの喉が鳴った。
「やめろ」
いつもの穏やかな声ではなかった。
荒くなりかけていた。
叫びではない。けれど、声の端が震えていた。白金の魔力が乱れ、祭壇の縁を走る。床の黒い水が、その震えにも反応する。
「やめろ」
二度目は、少し低かった。
命令ではなく、拒絶だった。
音声封印は止まらない。
黒い水の一滴が、さらに波打つ。
レオの指が封印から離れない。いや、離せないのか。音声封印が聖魔法を掴んでいる。英雄の魔力。救国の聖魔法。前世でイリアスを討った光。
それを、儀礼場が覚えている。
ノアは舌打ちしそうになった。
音は出さなかった。余計な声を地下礼拝堂に渡したくない。舌打ちまで記録されたら腹が立つ。そんな記録、誰が聞くんだ。いや、聞く奴がいそうで嫌だ。
ノアはレオへ近づいた。
セドリックが止めようとする。
「クロウ、近づきすぎるな」
ノアは片手を上げて制した。
声にはしない。
レオの横顔はひどかった。
きれいな顔が歪んでいるわけではない。表面はまだ整っている。だが、その下が崩れている。青い瞳の焦点が、今の地下礼拝堂ではなく、遠い荒野を見ていた。
ノアは息を吸う。
喉の奥が痛む。
それでも、短く言った。
「レオ」
レオの肩が震えた。
赤い糸が、強く震える。
ノアの声にだけ反応したわけではない。呼ばれたことで、レオの意識が少しだけ戻ったのだ。
ノアはさらに一歩近づく。
「先に自分の顔見ろ」
レオの目が、ゆっくりノアへ戻る。
「……ノア」
「俺の喉より、自分のほうが今やばい顔してる」
「君の声が」
「今は俺の声じゃなくて、お前の傷だろ」
レオは黙った。
その沈黙で、ノアは分かった。
レオは、自分の傷を自分のものとして扱うのが下手だ。
全部ノアに結びつける。ノアを守れなかった。ノアを失った。ノアが呼ばなかった。ノアが死んだ。ノアをもう逃がさない。ノアを閉じ込める。ノアの声を守る。ノアの喉を癒す。
自分が殺した傷を、自分の名で呼ぶのが怖いのだ。
そのくせ、ノアのことになると理屈も倫理も白金の檻に突っ込む。厄介。実に厄介。世界で一番面倒な聖魔法科代表かもしれない。競争相手がいてほしくない。
ノアはレオの手首を掴んだ。
強くではない。
引き剥がすためではなく、今ここにいると知らせるために。
レオの指先は冷たかった。
音声封印がまだ聖魔法を掴んでいる。白金の光が祭壇へ吸い取られ、黒い水の一滴がゆっくり濁っていく。
セドリックが背後で黒魔法を展開した。
「アステルレイン、手を引け。封印がお前の聖魔法を記録媒体に接続している」
レオは歯を食いしばった。
「分かっています」
「分かっているなら離せ」
「離したい」
レオの声は低い。
「でも、これを壊さなければ」
ノアが遮る。
「今壊したら何も分からない」
レオの瞳がノアを見る。
危うい目だった。
「また、それを言う」
「事実だからな」
「君はいつも、分かるために自分を近づける」
「今回はお前も近づいてる」
「僕はいい」
「よくない」
ノアの声が、少し強くなった。
黒い水が反応する。床の溝に小さな波紋が走る。首輪の白い花紋が熱を持つ。
それでもノアは続けた。
「よくない。お前も駄目」
レオが瞬きをした。
「……僕も?」
「当たり前だろ。自分だけ地獄耐性ある顔するな。今、見事に刺さってるだろうが」
レオは、言葉を失った。
セドリックがわずかに目を細める。
ノアはレオの手首を掴んだまま、続ける。
「俺の声だけ守ろうとするな。お前の声も、お前の傷も、勝手に儀礼にくれてやるな」
地下礼拝堂が、静かに揺れた。
白い花の匂いが濃くなる。
黒い水が、低く鳴った。
レオの赤い糸が、ノアの首元で震える。だが、今回は締めつけない。ただ、震えている。
レオはゆっくり息を吸った。
そして、音声封印に触れていた指を、少しずつ引き剥がした。
白金の光が糸のように伸び、祭壇に絡みつく。
セドリックの黒魔法がその接続を断った。黒い霧ではなく、鋭く薄い影の刃のような魔法だった。聖魔法を傷つけず、封印側の接続だけを切る。
音声封印が甲高く鳴る。
レオの手が離れた。
ノアは、思わず息を吐く。
レオの顔はまだ白い。
けれど、視線は戻っていた。
ノアを見ている。
今のノアを。
前世のイリアスではなく。
たぶん。
そこは採点保留だ。
レオは小さく言った。
「……ありがとう」
ノアは眉を上げる。
「珍しい。素直」
「今のは、言うべきだと思った」
「九点」
「満点ではない?」
「地下礼拝堂で音声封印に素手で触ったので減点」
「厳しい」
「妥当」
レオは、ほんの少しだけ目を伏せた。
笑ったのかもしれない。笑う余裕があるほどではないが、完全に崩れたわけでもない。
セドリックは祭壇へ近づき、黒い水の一滴を観察した。
「今の断片は、真儀礼に必要な『災厄本人の声』の代用品として保存されていた可能性が高い」
ノアはレオの手首を離した。
「代用品?」
「ああ。だが不完全だ。『頼んだぞ』は託しの声であって、死を認める声ではない。世界が英雄を選ぶための承認には使えない」
「だから現世の俺の声が欲しいわけか」
「そうだろうな」
ノアは祭壇を見る。
前世の声が保存されている。
頼んだぞ。
それは、死の承認ではない。
謝罪でもない。
助けてでもない。
愛しているでもない。
ただ、託した声だ。
世界を完全には死なせないために。
自分を止めさせるために。
セラフィードに、自分を殺させるために。
ノアは喉の奥が冷えるのを感じた。
認めたくない。
まだ、自分はノア・クロウだ。
前世の罪も、選択も、死も、自分ではないと言いたい。
だが、声が同じなのだ。
魂が反応している。
黒い水が、ノアの沈黙にまで耳を澄ませているように見える。
ノアは軽く笑おうとした。
失敗した。
音が出なかった。
レオがそれに気づく。
今回は、何も言わなかった。
それでいい。
セドリックが祭壇の裏側へ回る。
「音声封印には、まだ断片がある。だが、無闇に再生するのは危険だ。今のように、レオの聖魔法にも反応する」
レオは低く言った。
「止められますか」
「壊すならな」
ノアが即座に首を横に振る。
「壊さない」
レオが苦い顔をする。
「ノア」
「分かってる。でも壊したら向こうの編集済み儀礼声だけが残る。こっちに本物の断片があるなら、使える」
「君を傷つける」
「もう傷ついてる」
「だから、これ以上」
「レオ」
ノアは低く呼んだ。
それだけで、レオが黙る。
便利な名前だ。いや、便利扱いするな。本人の情緒がすぐ壊れる。
「俺を守るなら、情報を減らすな」
レオは唇を引き結んだ。
苦しそうに、頷く。
「……分かった」
セドリックは、祭壇の石板を一枚だけ浮かせた。
「次の断片を見る。だが、長くは聞くな。異常が出たら即座に止める」
「了解」
「クロウ、お前はなるべく声を出すな」
「無口な俺、希少価値ありますよ」
「だから喋るな」
ノアは肩をすくめた。
レオは、ノアの横に立った。
近い。
でも隠さない。
視界を塞がない。
その代わり、白金の結界を薄く展開した。固定する檻ではなく、歩けば一緒に動く薄い膜。ノアの喉を塞がず、外部術式が声へ触れようとした時だけ反応する形。
ノアはそれを見て、小さく頷いた。
十点、と言いかけてやめた。
声を無駄遣いしない。残念ながら合理的判断だ。
セドリックが音声封印へ黒魔法を流す。
黒い水が波打つ。
白い花弁の石板が、もう一枚開いた。
音が流れる。
今度は、前世の声だった。
けれど、違う。
切れている。
つながりが不自然だった。
荒野の風の音、黒い魔力の軋み、息の掠れ。その隙間に、イリアスの声が断片として貼り合わされている。
「世界は……英雄を……選べ」
ノアの目が細くなった。
喉の奥で、冷たい怒りが動く。
これは違う。
本能で分かった。
自分の声だ。
前世の声だ。
けれど、その言葉は言っていない。
誰かが切り貼りした。声の断片をつないで、別の意味にした。
黒い水が、満足げに波打つ。
レオの赤い糸が鋭く張る。
ノアは低く言った。
「俺、そんなこと言ってない」
その声に、地下礼拝堂の白い花が、一斉に震えた。




