表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

56/63

第55話 頼んだぞ



 その声が流れた瞬間、地下礼拝堂の空気は止まった。


「……頼んだぞ」


 掠れていた。


 黒い灰を吸い込んだような、焼けた荒野の底から拾い上げたような声だった。息が残っているのか、もう死へ沈みかけているのかも分からない。けれど、それは確かに声だった。


 偽物ではない。


 ノア・クロウは、それを聞いた瞬間に分かってしまった。


 自分の声だった。


 けれど、自分ではない。


 喉の形も、声の奥にある癖も、軽口の底に残る乾きも、どこか似ている。いや、似ているどころではない。魂の奥で同じものが震えた。けれど、今のノアが出した声ではなかった。今の自分の声はまだ掠れていて、発声経路に黒い糸が残っている。目の前の音声封印から流れた声は、もっと古い。もっと遠い。死に際の熱と、託すために削り出された意思だけで形を保っている。


 前世のイリアス・ノクスヴェルトの声。


 その事実が、喉の奥へ冷たい石のように落ちた。


 祭壇に敷き詰められた白い花が、音もなく震えている。床の溝を流れる黒い水が、声の余韻を飲み込むように細かく波打った。壁一面に刻まれた英雄の祈祷文と災厄封印の術式が、同時に鈍く光る。白い文字が祈りのように浮かび、黒い文字がそれを縛るように沈む。


 聖なる場所に見える。


 だが、匂いは腐っていた。


 白い花の甘さ。黒い水の湿り。古い封印蝋。乾いた祈祷布。石に染みついた祈り。すべてが混ざって、ここが救いの場所ではなく、誰かの死を何度も確認するための場所だと告げていた。


 ノアは、ようやく息をした。


「……録音残ってるとか、前世の俺、サービス精神旺盛すぎない?」


 軽口にした。


 いつも通りに。


 そのはずだった。


 けれど声が震えた。掠れた喉が、途中でひっかかった。最後の音が黒い水へ落ちると、床の溝がぴくりと反応した。伴侶首輪メイト・カラーの内側で、白い花紋が黒く縁取られる。


 レオ・アステルレインは、動かなかった。


 祭壇の前で、まるで白金の魔法ごと凍りついたように立っていた。


 彼の顔は白い。


 もともと整った顔立ちが、血の気を失うと彫像のように見えた。だが、目だけは違った。青い瞳の奥で、何かが崩れかけていた。


 レオも、分かっている。


 偽物ではないと。


 何度も聞いた声だったから。


 最終討伐の日、黒い荒野で、腕の中で冷えていった男が、最後に託すように吐き出した声だから。


 ノアは、その横顔を見て、口の中の軽口を飲み込んだ。


 ふざけるには、少し重すぎた。


 いや、少しではない。だいぶ重い。地下礼拝堂の床ごと沈みそうだ。情緒の重力がすごい。人類はよくこんなものを保存しようと思ったな。保存するな。腐らせて土に返せ。


 音声封印の魔導具は、祭壇の奥でゆっくり開いていた。


 白い花弁を模した石板が幾重にも重なり、その中心に黒い水が一滴、浮いている。さきほどの声は、その黒い水から流れた。黒魔導書の残響ではない。ノアの現世の声でもない。過去の一点から切り取られ、ここに閉じ込められていた音だ。


 セドリック・バロウズが、低く息を吐いた。


「本物だな」


 その言葉に、レオの指先が震えた。


 セドリックは続ける。


「魂の波形が違う。複製ではない。声紋ではなく、魂糸の響きごと保存されている」


 ノアは顔をしかめた。


「先生、朝から言葉選びが最悪です」


「昼前だ」


「時間の問題じゃない」


「分かって言っている」


「もっと悪い」


 セドリックはノアを見た。


「軽口で誤魔化すな。喉に来る」


「ご忠告どうも」


 ノアはそう返して、すぐに喉を押さえた。


 言葉にした途端、伴侶首輪が熱を持った。冷たくて熱い。地下礼拝堂の空気が、声を欲しがっている。声を受け取り、測り、保存しようとしている。


 レオが、そこでやっと動いた。


 祭壇へ一歩近づく。


 ノアの赤い糸が鋭く張った。ノアからレオへ、レオからノアへ、痛みでも警告でもない震えが渡る。レオの聖魔法も、この音声封印に引き寄せられている。


「触るな」


 ノアの声ではなかった。


 セドリックの声でもない。


 レオ自身の声だった。


 しかし、彼は自分に言ったようにも聞こえた。


 触るな。


 近づくな。


 それでも、レオの手は祭壇へ伸びていた。


 白金の魔力が、指先に灯る。封印を読もうとしている。壊そうとしているのではない。たぶん。今の顔だと五分五分で燃やしそうだが、かろうじて理性が残っている。立派だ。理性の残量が砂糖一粒分でも、ないよりましである。


 レオの指先が音声封印の外縁へ触れた。


 その瞬間、礼拝堂の白い花が一斉に震えた。


 黒い水が跳ねる。


 壁の祈祷文が白く光り、黒い封印式がそれを飲み込む。祭壇の奥から、古い鐘の音が鳴った。大講堂の鐘とは違う。もっと低く、もっと深い。死者の胸骨を叩いたような音。


 レオの肩が強張った。


 彼の聖魔法に、音声封印が食いついた。


 白金の光が祭壇へ吸い込まれる。


 レオの瞳が揺れる。


 ノアは、赤い糸越しにそれを感じた。


 流れ込んでいる。


 前世の記憶が。


 セラフィード・ルミナリアの視界。


 黒い荒野。


 崩れた討伐軍の旗。


 血ではなく黒い灰が降る空。


 腕の中で軽くなっていくイリアスの身体。


 掠れた声。


 頼んだぞ。


 レオの喉が鳴った。


「やめろ」


 いつもの穏やかな声ではなかった。


 荒くなりかけていた。


 叫びではない。けれど、声の端が震えていた。白金の魔力が乱れ、祭壇の縁を走る。床の黒い水が、その震えにも反応する。


「やめろ」


 二度目は、少し低かった。


 命令ではなく、拒絶だった。


 音声封印は止まらない。


 黒い水の一滴が、さらに波打つ。


 レオの指が封印から離れない。いや、離せないのか。音声封印が聖魔法を掴んでいる。英雄の魔力。救国の聖魔法。前世でイリアスを討った光。


 それを、儀礼場が覚えている。


 ノアは舌打ちしそうになった。


 音は出さなかった。余計な声を地下礼拝堂に渡したくない。舌打ちまで記録されたら腹が立つ。そんな記録、誰が聞くんだ。いや、聞く奴がいそうで嫌だ。


 ノアはレオへ近づいた。


 セドリックが止めようとする。


「クロウ、近づきすぎるな」


 ノアは片手を上げて制した。


 声にはしない。


 レオの横顔はひどかった。


 きれいな顔が歪んでいるわけではない。表面はまだ整っている。だが、その下が崩れている。青い瞳の焦点が、今の地下礼拝堂ではなく、遠い荒野を見ていた。


 ノアは息を吸う。


 喉の奥が痛む。


 それでも、短く言った。


「レオ」


 レオの肩が震えた。


 赤い糸が、強く震える。


 ノアの声にだけ反応したわけではない。呼ばれたことで、レオの意識が少しだけ戻ったのだ。


 ノアはさらに一歩近づく。


「先に自分の顔見ろ」


 レオの目が、ゆっくりノアへ戻る。


「……ノア」


「俺の喉より、自分のほうが今やばい顔してる」


「君の声が」


「今は俺の声じゃなくて、お前の傷だろ」


 レオは黙った。


 その沈黙で、ノアは分かった。


 レオは、自分の傷を自分のものとして扱うのが下手だ。


 全部ノアに結びつける。ノアを守れなかった。ノアを失った。ノアが呼ばなかった。ノアが死んだ。ノアをもう逃がさない。ノアを閉じ込める。ノアの声を守る。ノアの喉を癒す。


 自分が殺した傷を、自分の名で呼ぶのが怖いのだ。


 そのくせ、ノアのことになると理屈も倫理も白金の檻に突っ込む。厄介。実に厄介。世界で一番面倒な聖魔法科代表かもしれない。競争相手がいてほしくない。


 ノアはレオの手首を掴んだ。


 強くではない。


 引き剥がすためではなく、今ここにいると知らせるために。


 レオの指先は冷たかった。


 音声封印がまだ聖魔法を掴んでいる。白金の光が祭壇へ吸い取られ、黒い水の一滴がゆっくり濁っていく。


 セドリックが背後で黒魔法を展開した。


「アステルレイン、手を引け。封印がお前の聖魔法を記録媒体に接続している」


 レオは歯を食いしばった。


「分かっています」


「分かっているなら離せ」


「離したい」


 レオの声は低い。


「でも、これを壊さなければ」


 ノアが遮る。


「今壊したら何も分からない」


 レオの瞳がノアを見る。


 危うい目だった。


「また、それを言う」


「事実だからな」


「君はいつも、分かるために自分を近づける」


「今回はお前も近づいてる」


「僕はいい」


「よくない」


 ノアの声が、少し強くなった。


 黒い水が反応する。床の溝に小さな波紋が走る。首輪の白い花紋が熱を持つ。


 それでもノアは続けた。


「よくない。お前も駄目」


 レオが瞬きをした。


「……僕も?」


「当たり前だろ。自分だけ地獄耐性ある顔するな。今、見事に刺さってるだろうが」


 レオは、言葉を失った。


 セドリックがわずかに目を細める。


 ノアはレオの手首を掴んだまま、続ける。


「俺の声だけ守ろうとするな。お前の声も、お前の傷も、勝手に儀礼にくれてやるな」


 地下礼拝堂が、静かに揺れた。


 白い花の匂いが濃くなる。


 黒い水が、低く鳴った。


 レオの赤い糸が、ノアの首元で震える。だが、今回は締めつけない。ただ、震えている。


 レオはゆっくり息を吸った。


 そして、音声封印に触れていた指を、少しずつ引き剥がした。


 白金の光が糸のように伸び、祭壇に絡みつく。


 セドリックの黒魔法がその接続を断った。黒い霧ではなく、鋭く薄い影の刃のような魔法だった。聖魔法を傷つけず、封印側の接続だけを切る。


 音声封印が甲高く鳴る。


 レオの手が離れた。


 ノアは、思わず息を吐く。


 レオの顔はまだ白い。


 けれど、視線は戻っていた。


 ノアを見ている。


 今のノアを。


 前世のイリアスではなく。


 たぶん。


 そこは採点保留だ。


 レオは小さく言った。


「……ありがとう」


 ノアは眉を上げる。


「珍しい。素直」


「今のは、言うべきだと思った」


「九点」


「満点ではない?」


「地下礼拝堂で音声封印に素手で触ったので減点」


「厳しい」


「妥当」


 レオは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 笑ったのかもしれない。笑う余裕があるほどではないが、完全に崩れたわけでもない。


 セドリックは祭壇へ近づき、黒い水の一滴を観察した。


「今の断片は、真儀礼に必要な『災厄本人の声』の代用品として保存されていた可能性が高い」


 ノアはレオの手首を離した。


「代用品?」


「ああ。だが不完全だ。『頼んだぞ』は託しの声であって、死を認める声ではない。世界が英雄を選ぶための承認には使えない」


「だから現世の俺の声が欲しいわけか」


「そうだろうな」


 ノアは祭壇を見る。


 前世の声が保存されている。


 頼んだぞ。


 それは、死の承認ではない。


 謝罪でもない。


 助けてでもない。


 愛しているでもない。


 ただ、託した声だ。


 世界を完全には死なせないために。


 自分を止めさせるために。


 セラフィードに、自分を殺させるために。


 ノアは喉の奥が冷えるのを感じた。


 認めたくない。


 まだ、自分はノア・クロウだ。


 前世の罪も、選択も、死も、自分ではないと言いたい。


 だが、声が同じなのだ。


 魂が反応している。


 黒い水が、ノアの沈黙にまで耳を澄ませているように見える。


 ノアは軽く笑おうとした。


 失敗した。


 音が出なかった。


 レオがそれに気づく。


 今回は、何も言わなかった。


 それでいい。


 セドリックが祭壇の裏側へ回る。


「音声封印には、まだ断片がある。だが、無闇に再生するのは危険だ。今のように、レオの聖魔法にも反応する」


 レオは低く言った。


「止められますか」


「壊すならな」


 ノアが即座に首を横に振る。


「壊さない」


 レオが苦い顔をする。


「ノア」


「分かってる。でも壊したら向こうの編集済み儀礼声だけが残る。こっちに本物の断片があるなら、使える」


「君を傷つける」


「もう傷ついてる」


「だから、これ以上」


「レオ」


 ノアは低く呼んだ。


 それだけで、レオが黙る。


 便利な名前だ。いや、便利扱いするな。本人の情緒がすぐ壊れる。


「俺を守るなら、情報を減らすな」


 レオは唇を引き結んだ。


 苦しそうに、頷く。


「……分かった」


 セドリックは、祭壇の石板を一枚だけ浮かせた。


「次の断片を見る。だが、長くは聞くな。異常が出たら即座に止める」


「了解」


「クロウ、お前はなるべく声を出すな」


「無口な俺、希少価値ありますよ」


「だから喋るな」


 ノアは肩をすくめた。


 レオは、ノアの横に立った。


 近い。


 でも隠さない。


 視界を塞がない。


 その代わり、白金の結界を薄く展開した。固定する檻ではなく、歩けば一緒に動く薄い膜。ノアの喉を塞がず、外部術式が声へ触れようとした時だけ反応する形。


 ノアはそれを見て、小さく頷いた。


 十点、と言いかけてやめた。


 声を無駄遣いしない。残念ながら合理的判断だ。


 セドリックが音声封印へ黒魔法を流す。


 黒い水が波打つ。


 白い花弁の石板が、もう一枚開いた。


 音が流れる。


 今度は、前世の声だった。


 けれど、違う。


 切れている。


 つながりが不自然だった。


 荒野の風の音、黒い魔力の軋み、息の掠れ。その隙間に、イリアスの声が断片として貼り合わされている。


「世界は……英雄を……選べ」


 ノアの目が細くなった。


 喉の奥で、冷たい怒りが動く。


 これは違う。


 本能で分かった。


 自分の声だ。


 前世の声だ。


 けれど、その言葉は言っていない。


 誰かが切り貼りした。声の断片をつないで、別の意味にした。


 黒い水が、満足げに波打つ。


 レオの赤い糸が鋭く張る。


 ノアは低く言った。


「俺、そんなこと言ってない」


 その声に、地下礼拝堂の白い花が、一斉に震えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ