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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

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第54話 白い花と黒い水


 地下へ続く階段は、地上の学院とは違う呼吸をしていた。


 白い石で造られた校舎の廊下は、朝の光と生徒たちの声を受けて、まだ日常の形を保っていた。だが、隠し扉の奥へ一歩踏み込んだ瞬間、その日常は背中の向こうで音を失った。扉が閉じる。石が噛み合う低い音がして、学院のざわめきは厚い壁の向こうへ押し込められる。


 残ったのは、階段の冷気だった。


 石段は狭く、古い。踏み込むたびに靴音が湿った壁へぶつかり、細く反響した。壁には、消えかけた祈祷文と封印記号が刻まれている。表面は白いが、ところどころ黒ずんでおり、指で触れれば粉になって崩れそうだった。灯りはセドリックが掲げる封印灯だけで、青白い光が三人の影を階段に長く伸ばしていた。


 ノア・クロウは、首元へ手を当てた。


 伴侶首輪メイト・カラーは、冷たい熱を持っていた。熱いのに冷たい。焼けるというより、氷の針が皮膚の内側に刺さる感覚に近い。白い花紋が薄く浮かび、その縁を黒い線がなぞる。声を出せば、そこへ何かが触れる気配がした。


 レオ・アステルレインは隣を歩いている。


 近い。


 だが、触れていない。


 階段が狭いせいで肩が触れそうになるたび、レオはほんの少しだけ身を引く。意識しているのが分かった。赤い糸はノアの喉元で張り詰めているのに、彼の手はまだ伸びてこない。


 ノアは横目でレオを見た。


 レオはその視線に気づき、静かに尋ねる。


「喉は?」


「……地下に入るたび喉チェックする制度、そろそろ廃止しない?」


 声は掠れていた。


 出る。


 出るが、長くは使えない。言葉の終わりがかすれ、階段の冷気に吸われて消える。ノア自身の耳にも、どこか遠い声に聞こえた。


 レオの赤い糸が震える。


 ノアは即座に眉を寄せた。


「震えるな」


「努力している」


「見える努力だな。採点制なら六点」


「下がった」


「喉チェックが減点」


 レオは少しだけ黙り、階段を降りながら小さく頷いた。


「覚えておく」


 セドリック・バロウズが先頭で呆れたように振り返った。


「採点しながら封印施設へ降りる生徒を見る日が来るとは思わなかった」


「先生、人生は想定外の連続ですね」


「お前が主に想定外だ」


「褒め言葉として受け取ります」


「違う」


 ノアは軽く笑おうとして、喉の奥が引っかかった。笑い声は出ない。空気だけが胸で揺れて、音にならずに消えた。


 レオが即座にこちらを見る。


 伸びかけた手を、止める。


 ノアはその止まった手を見て、わずかに息を吐いた。


「……水」


 レオはすぐに水瓶を取り出した。


 あまりにも自然な動作だった。


 ノアは顔をしかめる。


「地下に行く前の水分補給、遠足みたいだな」


「君の声が乱れると思った」


「予言者か」


「経験だよ」


「その経験値、全部捨てたい」


 レオは答えず、水を小さな銀杯へ注いだ。白金の治癒が混ぜられているのが、匂いで分かるようになってしまった。軽く清潔な、夜明け前の露に似た魔力の匂い。腹立たしいほどよく知っている。


 ノアは自分で杯を持った。


 指先は少し冷えているが、落とすほどではない。レオは支えようとして、また止まった。


 ノアは水を飲む。


 喉を通る冷たさで、発声経路に絡む黒い糸がわずかに緩む。錯覚かもしれない。けれど、息は少し楽になった。


 セドリックは階段の下を見やった。


「もうすぐ入口だ。ここから先は、喋る時は慎重にしろ」


「先生まで黙れ派?」


「黙れとは言っていない。だが、この地下は声に反応する。おそらく、肉体の声ではなく魂の響きにだ」


 ノアは杯をレオへ返した。


「声に厳しい施設、多すぎません?」


「そういう儀礼場だ」


「最悪の説明」


 階段が終わった。


 三人の前に、古い扉があった。


 扉は白い石でできている。だが、白さは清潔なものではなかった。長く閉じ込められた祈りが、腐らずに残ってしまったような色だった。扉の中央には英雄教会の聖印が刻まれ、その周囲に黒魔導書封印式らしい黒い線が環のように巡っている。さらに、その上から別の古い構文が噛み合っていた。


 ノアには読めない文字も混じっている。


 けれど、形だけで嫌な予感はした。


 オルドレイス系の構文。


 名前を知らなくても、魂がその歪みを覚えているようだった。


 レオの赤い糸が、きつく張った。


 セドリックが封印鍵を扉へ差し込む。


 鍵穴はない。


 だが封印鍵が石に触れた瞬間、扉の表面へ細い光の裂け目が走った。白い花の紋様が浮かび、黒い線がそれを縁取る。ノアの伴侶首輪が、それに呼応するように熱を持った。


 喉が震える。


 勝手に声が出そうになった。


 ノアは口を閉じる。


 レオが見る。


 ノアは片手を上げた。


「まだ大丈夫」


 声は小さい。


 それでも扉の向こうで、何かが震えた。


 水面のような音。


 黒い水が、声に反応したのだ。


 レオの表情が硬くなる。


 扉が開いた。


 白い花の匂いが流れ出した。


 甘い。


 甘いのに、底が腐っている。


 葬儀の花を長く閉じ込めたような匂いだった。そこへ、黒い水の湿った匂いが混ざっている。泥ではない。血でもない。古いインク、焦げた魔法陣、封印蝋、濡れた石。そんなものが一つに溶けた匂い。


 ノアは思わず眉を寄せた。


「……白と黒の内装センス、だいぶ病んでるな」


 礼拝堂は広かった。


 地上の大講堂ほどではない。だが、地下にある空間としては異様なほど大きい。天井は高く、アーチ状の梁が闇の中へ消えている。壁には白い祈祷文が刻まれ、その下に黒い封印式が重なっている。祈るための文字と、閉じ込めるための術式が、同じ石に彫り込まれていた。


 祭壇には白い花が敷き詰められている。


 新しい花ではない。


 枯れてもいない。


 時間を止められたような白い花だった。花弁は薄く、触れれば崩れそうなのに、形を保っている。祭壇の上だけではなく、階段、壁際、祈祷席の跡にも花が置かれていた。白い花畑の中に、黒い溝が走っている。


 床の溝には、黒い水のような魔力が流れていた。


 水ではない。


 だが、水のように揺れる。黒く、粘り気があり、光を吸っている。溝は礼拝堂全体に巡り、祭壇へ向かって細く集まっていた。声を集める管のようにも、血管のようにも見える。


 ノアの声に反応したのは、それだった。


 レオが低く言う。


「離れないで」


「言われなくても、糸で繋がってますけど?」


「物理的にも」


「条件増やすな」


「お願い」


 ノアは一瞬黙った。


 命令ではない。


 また、それだ。


 レオは最近、この言い方を覚えた。覚えたての刃物みたいに危なっかしいが、少なくとも以前よりはましだ。


 ノアは小さく肩をすくめる。


「はいはい。迷子札付きで歩きますよー」


 黒い水が揺れた。


 ノアの声に合わせ、床の溝全体が細かく震える。


 音はない。


 だが、礼拝堂の空気が、ノアの声を受け取ったのが分かった。壁の祈祷文の一部が薄く光り、祭壇の白い花がほんの少しだけ首を傾けたように見えた。


 レオの赤い糸が、強く震える。


 彼が口を開きかけた。


 ノアは先に言った。


「今、黙れって言いかけたな」


 レオは止まった。


 それから、素直に頷く。


「言いかけた」


「正直でよろしい。最悪だけど」


「言わない」


「偉い」


「偉いの基準が低い」


「自覚あるなら伸びしろ」


 レオは苦しそうな顔をした。


「君の声が、この場所に触れている」


「俺も気づいてる」


「喋るたびに、黒い水が反応している」


「目に見えてるな」


「怖い」


「俺も怖い」


 ノアがそう言うと、レオの目が揺れた。


 軽口ではなかったからだ。


 ノアは、黒い水を見る。


 自分の声が震わせた黒い水。声紋というより、もっと深いものに触れてくる。喉の音ではなく、魂の奥にある響き。誰へ向けて出した声か。何を認めている声か。そこまで舐めるように確かめる魔力だった。


 気持ち悪い。


 ただの魔法的反応ではない。


 声を聞いているのではなく、声を保存する準備をしている。


 セドリックが、床の溝の近くに膝をついた。黒い水へ直接触れず、黒魔法で薄い膜を作って反応を読む。


 黒い水がわずかに盛り上がる。


 セドリックは眉を寄せた。


「声紋ではないな」


「やっぱり?」


「魂の響きだ。肉体の声帯や音域ではなく、魂糸が声を作る時の振動に反応している。クロウの声だけでなく、クロウがその声を誰へ向けたかまで見ようとしている」


 レオの顔から温度が消えた。


「そんなものを、ここに保存しているんですか」


「保存している、というより、保存するための媒体だ」


 セドリックの声は低い。


「この黒い水は、黒魔導書の残響そのものではない。黒魔導書から漏れた声を封じるためのものでもない。災厄の死を記録するために作られた保存媒体だ」


 礼拝堂の空気が、さらに冷えた。


 ノアはゆっくり瞬きする。


「死を記録する?」


「ああ。黒い災厄が死んだこと。災厄が世界へ戻らないこと。英雄に討たれて正しかったこと。そういう儀礼上の『声』を保存する装置に近い」


「録音設備にしては趣味が悪すぎる」


「ただの録音ではない。魂の同意を記録する」


 ノアの喉が詰まった。


 伴侶首輪の白い花紋が、じわりと熱を持つ。


 レオが一歩寄ろうとして、止まる。


 ノアは手を上げた。


 大丈夫。


 そう示したつもりだった。


 声にはしなかった。


 すると黒い水は反応しない。


 声だけが鍵なのだ。


 いや、正確には魂の響きを伴う声。


 ノアは、少しだけ息を吐いた。


 音はほとんどない。


「誰かがここに、イリアスの最後の声を保存しようとしてたってことか」


 自分でその名を口にした瞬間、喉の奥が震えた。


 黒い水が、強く反応する。


 床の溝を流れる黒が、波のように祭壇へ向かって走った。壁の祈祷文が一部だけ白く光り、黒い封印式がその光を吸い込む。白い花の花弁が、音もなく震えた。


 レオの赤い糸が鋭く張る。


 セドリックが低く叫んだ。


「今の名に反応した。クロウ、しばらく前世名を口にするな」


「りょーかい」


 ノアの声が掠れる。


 黒い水がまた小さく震える。


 ノアは顔をしかめた。


「返事でも反応するの面倒すぎる」


「お前の声が鍵だからな」


「鍵ならもっと雑に扱ってほしい」


「鍵を雑に扱うな」


「俺の喉を鍵扱いするな」


 レオが低く言った。


「君は鍵じゃない」


 ノアはレオを見る。


 レオの声は静かだった。


 だが、そこには怒りがある。


「器でも、鍵でも、儀礼の部品でもない」


 黒い水が、その声にも少しだけ反応した。


 白金の音。


 セラフィードに似た、けれどレオの声。


 礼拝堂は、レオの声にも耳を澄ませている。


 ノアはそれに気づき、眉を寄せた。


「お前の声にも反応してる」


 レオも気づいた。


 セドリックが壁の祈祷文を読む。


「当然だ。真儀礼は災厄の声だけでは成立しない。英雄を再び選ぶ儀礼だ。災厄が死を認める声と、英雄の聖魔法による承認。その二つが必要になる」


 レオの指先に白金の魔力が灯る。


 怒りで、わずかに揺れていた。


「僕に、もう一度認めろと?」


 声は低い。


「僕が彼を討って正しかったと、もう一度言わせるつもりか」


 黒い水が、ゆっくり震えた。


 まるで答えるように。


 ノアは喉の奥が冷えるのを感じた。


 敵は、ノアの声だけを狙っているわけではない。


 レオも狙っている。


 災厄と英雄。


 黒と白。


 死を認める声と、討伐を正当化する聖魔法。


 前世で終わったはずの役割を、もう一度二人へ着せようとしている。


 レオは、ノアの前へ出ようとした。


 ノアは袖を掴んだ。


 声にはしない。


 黒い水を無駄に反応させたくなかった。


 レオは止まる。


 ノアは首を横に振る。


 隠すな。


 レオは、視線だけで苦しそうに返した。


 見せたくない。


 ノアは袖を離さない。


 レオは長く息を吐き、半歩だけ横へずれた。


 それでいい。


 今は。


 セドリックが祭壇へ近づく。


 祭壇の奥には、古い魔導具が置かれていた。


 音声封印の魔導具。


 それは水晶でも、鐘でも、箱でもなかった。白い花弁を模した薄い石板が何枚も重なり、その中心に黒い水が一滴だけ浮かんでいる。石板の縁には英雄教会の祈祷文が刻まれ、裏側には黒魔導書封印式が細かく彫られていた。


 さらにその下。


 古い、歪んだ構文。


 オルドレイス系の術式。


 ノアは、名前を出さずに飲み込んだ。


 喉が震える。


 魔導具が、淡く光った。


 セドリックが手を上げる。


「触れるな。起動している」


「俺、何もしてないんですけど」


 ノアの声に、黒い水が反応する。


 祭壇の音声封印が、小さく鳴った。


 乾いた鐘のような音だった。


 レオの赤い糸が震える。


 魔導具の中心に浮かぶ黒い水が、ゆっくり波打った。


 白い花弁の石板が開く。


 そこから、声が流れた。


 ひどく遠い声だった。


 焼けた荒野の向こうから届くような、黒い灰を吸い込んだような、死の間際の掠れを含んだ声。


 けれど、ノアには分かった。


 レオにも分かった。


 前世のイリアスの声だった。


「……頼んだぞ」


 ノアは息を止めた。


 レオも動かなかった。


 地下礼拝堂の白い花が、一斉に震えた。


 黒い水が、静かに波紋を広げていた。


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