第53話 地下礼拝堂
学院長室の窓から見える中庭は、朝の光を受けて白く眩しかった。
災厄忌の飾りは、まだ取り払われていない。石畳の両脇には白い花が並び、英雄旗が風もないのに微かに揺れている。聖魔法の灯りは昼でも薄く輝き、まるで昨夜の異常などなかったような顔で、学院の壁を柔らかく照らしていた。
ノア・クロウは、その白さを見て少しだけ目を細めた。
喉の奥が、まだ重い。
声は戻りきっていない。出せるが、長く話せば魂糸の深いところが引き攣る。声帯そのものはレオの治癒で整えられている。だが、魂の発声経路に絡みついた黒い糸は、まだ完全にはほどけていなかった。
喉に、見えない他人の指が残っているような感覚。
自分の声が自分だけのものではなくなりかけた気配。
それが不快で、ノアは無意識に首元へ手をやった。伴侶首輪の熱は、薄く残っている。黒い亀裂の内側に白い花の紋様が絡み、そこへさらに冷たい熱が差し込んでいた。
レオ・アステルレインは、ノアの隣に立っていた。
近い。
近すぎる。
ただし、触れてはいない。
それだけで採点するなら、今朝のレオはかなり頑張っている。人間の距離感を覚えるだけで褒められる王子様。幼児か。いや、相手がレオなので、幼児より厄介だ。幼児は赤い糸で魂を囲わない。
学院長ミリアム・ヴェルハイトは、重厚な机の向こうで封印された記録板を並べていた。銀髪を後ろで結い、濃紺の長衣を纏った姿は、学院長というより古い魔法王国の裁定者に近い。
その横にセドリック・バロウズが立っている。黒魔法科教師らしい黒い外套は昨夜から皺が増え、目元には寝不足の影があった。だが声は低く、揺れない。
「改めて説明する」
セドリックが、机の上の学院見取り図を指で押さえた。
「大講堂は、災厄忌の表向きの舞台だ。英雄劇、聖魔法演舞、黒魔法科の協力展示、観客の祈りと拍手。あれらは表層の儀礼線を動かすための仕掛けにすぎない」
ノアは掠れた声で言った。
「盛大な前座だったわけだ。出演料ほしい」
レオの視線がすぐ喉へ落ちる。
ノアは片手を上げた。
「点呼禁止」
「声が」
「出てる。掠れてる。知ってる。次」
セドリックは、気にした様子もなく話を進めた。
「本来の儀礼場は、学院地下の古い礼拝堂だ」
学院長が、見取り図の下層部を開いた。
紙ではない。古い魔法図だ。階層が光の線として浮かび上がり、白い石造りの校舎の下へ、いくつもの暗い空間が沈んでいく。地下書庫。封印倉庫。古い水路。今は使われていない魔力炉の跡。そのさらに下に、円形の空洞があった。
礼拝堂。
図面の中で、その場所だけが白く塗り潰されている。
いや、白いのではない。白い封印で覆われている。
その下から、黒い水のような線が滲んでいた。
ノアは眉を寄せた。
「学園の地下、何でもありすぎない?」
セドリックは淡々と返す。
「歴史ある学院ほど、地下にろくでもないものを抱える」
「名言出た。額に入れよう」
「入れなくていい」
「先生の研究室に飾りたい」
「燃やす」
「黒魔法科教師がすぐ燃やすって言うの、教育に悪い」
「お前にだけは言われたくない」
軽口は出る。
喉は痛まない。
けれど、声の終わりが少しだけ空気に引っかかった。レオの赤い糸が、すぐに反応する。ノアの喉元へ伸びようとして、止まった。
止まった。
ノアは横目でレオを見る。
レオは無言で、視線だけを返した。
止まったから加点。
口には出さない。出すとレオがまた重く受け止める。採点表で情緒が動く男、面倒にもほどがある。
学院長は静かに言った。
「アルカディア魔法学院は、もともとただの学校として建てられたわけではありません。創設以前、この地には英雄教会の封印施設がありました」
窓の外の白い花が揺れる。
ノアは、首元の冷たい熱を感じた。
「黒魔導書の残響を封じるため、ですか」
声が、少し低くなった。
レオが隣で呼吸を止める。
ノアは気づかないふりをした。
学院長は頷く。
「そう伝わっています。黒魔導書そのものではなく、その残響。黒い災厄の死後、世界各地に散った断片的な声、記憶、黒蝕、儀礼の歪み。それらを集め、封じ、薄めるために礼拝堂が作られた」
セドリックが、別の記録板を開く。
「だが、封印施設としては不自然な点が多い。封じるだけなら、礼拝堂という形は必要ない。祈祷席、聖像、地下祭壇、声を集める音響石、魂糸を通す聖水路。どれも、封印より儀礼に向いている」
「つまり、閉じ込める場所じゃなくて、何かを言わせる場所」
ノアの言葉に、室内の空気が少し重くなった。
レオが低く言う。
「ノア」
「大丈夫。自分で言っただけ」
「大丈夫な声ではなかった」
「声質診断厳しいな王子様」
「君の声だから」
「はいはい、声フェチ」
レオは否定しなかった。
する気もないらしい。いや、否定しろ。開き直るな。
セドリックは見取り図の地下礼拝堂を拡大した。
「災厄忌の時期だけ、古い儀礼線が開く。普段は封印されているが、英雄教会の暦、学院の鐘、白い花の儀礼、そして黒魔法の残滓が揃うと、礼拝堂へ通じる線が動く」
「年に一度の迷惑ドア」
「分かりやすく言えばそうだ」
「分かりやすく言わなくても迷惑だな」
セドリックの指が、図面上の赤い線をなぞる。
「今年、その線が通常と違う動きをしている。ノアの魂糸と、アステルレインの赤い糸に反応している」
レオの白金の魔力が、わずかに強張る。
ノアは首元を押さえた。
伴侶首輪の白い花紋が、一瞬だけ熱を持つ。
図面の地下礼拝堂から、細い線が伸びていた。
黒い線。
白金の線。
そして、赤い線。
三つが絡み、ノアとレオの立つ位置へ伸びている。
ノアは、掠れ声で笑った。
「招待状が多すぎる。俺そんなに社交的じゃないんだけど」
学院長は少しも笑わなかった。
「招待ではありません。誘導です」
「でしょうね。知ってた」
「真儀礼を完成させるためには、ノアさんの声と、レオさんの聖魔法が必要になる可能性が高い」
レオが即座に言った。
「使わせません」
「そのために、仕組みを止める必要があります」
「ノアを地下へ連れて行くことには反対です」
「行かなければ、声だけを切り離される危険がある」
レオの指先が震えた。
ノアは、それを見た。
昨夜から何度も同じ言葉が突き刺さっている。
声だけをもらう。
その脅しは、レオに一番効いている。ノア本人にも効いているが、レオには別の刺さり方をしている。前世で聞けなかった声。現世でやっと戻った声。敵がそれを奪うと言った。
レオにとっては、首を絞められるよりひどいのだろう。
いや、比喩だ。現実的な話ではない。世界、すぐ物騒になるから念押しが必要で面倒だ。
ノアは言った。
「行くしかないだろ」
レオがノアを見る。
「まだ声が戻っていない」
「戻ってないから行くんだって」
「危険だ」
「安全な選択肢が見当たらない」
「僕の結界内から出ないこと」
「出た。条件付き外出」
レオはノアの軽口を無視した。
「地下へ入るなら、条件がある」
「囚人かな?」
「伴侶だよ」
「余計にたち悪い」
学院長がわずかに目を細めたが、何も言わなかった。大人の沈黙だ。たぶん判断を放棄しただけではない。いや、若干放棄しているかもしれない。二人の関係性を真正面から処理しろと言われたら、役職者でも逃げる。人類、賢明。
レオは静かに続けた。
「ノアは必ず僕の結界内にいること」
「状況次第」
「ノア」
「固定結界は読まれる。相手はお前の遮音結界も、赤い糸の動きも観察してる。俺を守る箱を作ったつもりで、箱ごと儀礼に接続されたら意味ないだろ」
レオは言葉を詰まらせた。
ノアは続ける。
「動ける結界にしろ。俺の移動を殺さない形。声を封じるな。喉に糸を巻くな。異常が出たら、まず俺に知らせろ」
「知らせる余裕がない場合は?」
「術式の接続を切れ。俺を黙らせるな」
「……分かった」
「本当に?」
「努力する」
「そこは即答しろよ」
「即答したら、君は信じない」
「まあ信じない」
「だから努力する」
ノアは少しだけ口角を上げた。
「七点」
「上がらない」
「内容が重い」
「条件を続けても?」
「言ってみろ」
レオは、ひとつずつ言った。
「喉の異常が出たら、すぐに合図すること」
「声が出なかったら?」
「手。黒魔法文字。視線。何でもいい。僕に分かる形で」
「俺の視線まで管理対象か?」
「読み取る努力をする」
「八点」
レオが少し瞬いた。
セドリックが呆れたようにため息をつく。
「採点しながら作戦条件を詰めるな」
「先生も入ります?」
「入らない」
「逃げた」
「逃げる権利くらい教師にもある」
学院長が低く咳払いした。
「続けてください」
レオは頷いた。
「黒魔法の出力は、僕とセドリック先生の検知範囲内に抑えること」
ノアは眉を上げる。
「相手が強かったら?」
「僕が前へ出る」
「やだ」
「ノア」
「俺の問題で俺を後ろに下げるな。出力制限は受ける。でも必要なら使う」
レオの赤い糸が張る。
「自己犠牲は禁止」
「自己犠牲と必要火力を一緒にするな」
「君はよく一緒にする」
「否定しきれないの腹立つ」
セドリックが割り込んだ。
「黒魔法の出力制限は俺が見る。クロウが危険域に入れば止める。アステルレイン、お前だけが判断すると過剰に止める」
レオは反論しなかった。
反論しない代わりに、不満そうだった。
ノアは小さく笑う。
「先生、冷静」
「冷静な大人が一人はいないと全員沈む」
「大人って大変ですね」
「お前も大変にしている側だ」
「心外」
「心当たりしかないだろう」
ノアは肩をすくめた。
声を出し続けたせいで、喉が少し詰まる。
伴侶首輪が冷たい熱を持ち、赤い糸がわずかに揺れた。レオの視線がまたノアの喉へ向く。
ノアは自分から言った。
「水」
レオは一瞬、驚いた顔をした。
それからすぐに杯を渡す。
今度はノアが自分で持った。
指先は震えたが、落とさなかった。水を飲むと、喉のざらつきが少し薄れる。白金の治癒が混ざっている。もう味で分かるようになってしまった。嫌な慣れだ。
レオは小さく言った。
「作戦前に、喉と魂糸を調整したい」
「出撃前点検?」
「君の声が必要だから」
ノアは杯を机へ置いた。
「必要なのは敵にとってもだろ」
「僕にとっても」
「意味が重い」
「軽くできない」
「でしょうね」
ノアは少しだけ考えた。
「調整は許可する。声を閉じるのは駄目。預けるのも駄目。異常があったら言え」
「分かった」
レオは慎重に近づいた。
今度は触れる前に手を止める。
「触れていい?」
ノアは頷いた。
レオの指先が、伴侶首輪の外側へ触れた。
皮膚へ直接触れるのではなく、首輪の熱と魂糸の震えを読むような触れ方だった。白金の光が薄く広がり、ノアの喉元に絡む赤い糸の周囲を整えていく。
黒い糸は、まだ発声経路に残っている。
レオはそれを無理に解かない。ただ、締まりすぎないように支え、声が通る細い道を保つ。首輪の白い花紋が一瞬浮かび、そこへ黒い亀裂の影が走った。
レオの眉がわずかに動く。
「何かある?」
ノアが聞くと、レオは少しだけ沈黙した。
その沈黙で、あると分かった。
「言え」
「首輪の白い花紋が、地下礼拝堂の封印図と似ている」
ノアは眉を寄せる。
「俺の首輪まで地下物件とつながってる?」
「まだ断定できない」
「嫌な保留」
レオは、喉の調整を終えると手を離した。
「声は?」
ノアは息を吸い、短く言った。
「……一応、出る」
掠れている。
だが出た。
レオの赤い糸が震える。
ノアは即座に睨む。
レオは努力して震えを抑えた。
「九点」
レオの目が少し丸くなった。
「上がった」
「今のは抑えた」
「嬉しい」
「そこで喜ぶな。点で情緒動かすな」
「難しい」
「努力」
「うん」
セドリックが、本当に面倒くさそうに記録板を閉じた。
「そろそろ行くぞ。地下礼拝堂の儀礼線が完全に開く前に、入口を押さえる」
学院長は立ち上がった。
「私は結界制御室へ向かいます。地下の主封印を外から支えますが、中へ入れるのは三人までです」
「俺、レオ、先生」
ノアが言うと、学院長は頷いた。
「ええ。黒魔法、聖魔法、そして封印記録を読める者が必要です」
「地獄の遠足メンバー、決定」
セドリックが冷たく言った。
「遠足なら弁当を持たせたいところだが、残念ながら水だけだ」
レオがすぐ水瓶を持ち上げた。
ノアは顔をしかめる。
「本当に持ってきてる」
「必要だから」
「夜間遠足の時も言ってたな」
「経験だよ」
「この経験値、嬉しくない」
学院長室を出ると、廊下には朝の気配が満ちていた。
生徒たちはまだ少ない。白い石壁に沿って魔力灯が消えかけ、窓から差し込む光が床に長く伸びている。災厄忌の飾りである白い花が、廊下の柱に巻かれていた。
そのうちの一輪だけが、黒く枯れていた。
ノアは足を止める。
レオも気づく。
セドリックが花へ封印紙を向けたが、反応はなかった。
「残滓か」
「歓迎ムード、相変わらず最悪」
ノアが言うと、レオは花を見つめたまま低く返した。
「歓迎ではない」
「じゃあ何?」
「目印」
ノアは肩をすくめた。
「なら趣味悪い案内板」
黒く枯れた花の下には、細い魔法線が走っていた。
学院地下へ向かう階段の方へ。
三人は廊下を進んだ。
階段は、普段生徒が使う場所ではなかった。図書塔の裏、古い壁掛けの奥に隠された狭い通路。学院長が持たせた封印鍵をセドリックがかざすと、石壁の紋様が沈み、扉が音もなく開いた。
冷たい空気が流れ出す。
地下の匂いだった。
埃、石、古い封印蝋、乾いた祈祷布。
それに混じって、かすかな白い花の匂い。
さらに深いところから、黒い水のような湿った匂いがした。
ノアの喉が、勝手に震えた。
声が出そうになる。
いや、呼ばれている。
喉の奥に残る黒い糸が、地下へ向かって細く引かれる。伴侶首輪の白い花紋が熱を持ち、赤い糸がきつく張った。
レオがすぐにノアを見る。
「ノア」
ノアは首元に手を当てた。
深く息を吸う。
声を出すと、少し掠れた。
「……声、呼ばれてるな」
レオの赤い糸が、きつく張った。
けれど、喉を巻かなかった。
ノアはそれを感じながら、地下へ続く暗い階段を見下ろした。
白い花と黒い水の匂いが、下から静かに上ってくる。
古い礼拝堂が、声を待っていた。




