第52話 声だけをもらう
朝の光は、寮部屋の中へ薄く差し込んでいた。
昨夜からほとんど眠れていないせいか、窓辺の白い光が妙に遠い。学院の中庭からは、早朝の生徒たちの足音がかすかに聞こえる。石畳を踏む靴音。誰かの笑い声。魔力灯が消える時の小さな音。日常の気配ばかりが、部屋の外にあった。
ノア・クロウの喉は、まだ完全には戻っていなかった。
声は出る。
ただし、細い。掠れている。長く話そうとすると、喉の奥ではなく魂糸の深い場所が引き攣る。肉体の声帯はレオの聖魔法で整えられている。水も飲んだ。喉の熱も引いた。けれど、発声経路に絡みついた黒い糸は、まだ完全にはほどけていない。
声があるのに、自由ではない。
それが嫌だった。
いや、嫌という言葉では足りない。自分の喉の奥に知らない鍵をかけられているような気分だ。人の声に勝手に鍵をかけるな。防犯意識の方向性が地獄すぎる。
ノアは寝台の上で上体を起こし、机の上の通知書を見ていた。
学院長室からの正式な封書。
封蝋には学院の紋章と英雄教会の白い花印が並んで押されている。二つの印章は整っているのに、その重なり方がどこか不快だった。白い花が、学院の紋章の上へ根を下ろしているように見える。
レオ・アステルレインは、通知書を持ったまま動かなかった。
彼の指先には、白金の魔力が灯っている。燃やすためではない。封じるためでもない。今にも燃やしたい、封じたい、壊したい、何もかも消してしまいたいという衝動を、ぎりぎり指先の光に押し込めている。
ノアは掠れた声で言った。
「……朝から顔が怖い。学院通知に親でも殺された?」
声は出た。
けれど、途中で少し割れた。
レオの視線が、即座にノアの喉へ落ちる。
ノアは片手を上げた。
「点呼禁止」
「声が掠れている」
「知ってる。俺の喉だからな」
「痛む?」
「痛むより、動きが悪い」
「水」
「さっき飲んだ」
「もう一口」
「水分で世界を救う気か?」
「君の喉は救える」
「重い」
レオは答えず、枕元の杯を取った。
ノアは自分で受け取ろうとした。指先は少し震えたが、持てないほどではない。レオは途中で止まり、ノアへ杯を渡した。
その「止まった」ことを、ノアは見た。
昨夜から、レオは何度も止まっている。触れる前に聞く。喉を診る前に許可を取る。水を飲ませるか自分で飲むか、問う。黒い糸が締まりそうになっても、勝手に喉を塞がない。
学習している。
いいことだ。
同時に、気持ち悪いほど痛々しい。こんな初歩の境界線を覚えるたびに、レオの中では何かが削れているのが分かる。まあ、今までの距離感が異常だったのだ。人類でも伴侶の喉を無許可管理しない。たぶん。いや、人類もたまに怪しいな。やっぱり世界は信用ならない。
ノアは水を飲んだ。
喉を通る水は冷たく、わずかに白金の治癒が混ざっていた。
「……声の出張手当、誰が払うんだ」
掠れた軽口だった。
レオは笑わない。
「出張させない」
「お前、比喩に本気で返す癖あるよな」
「今回は比喩ではない」
その時だった。
机の上に置かれた通知書が、わずかに震えた。
紙が鳴ったのではない。
空気が鳴った。
ノアは瞬きをする。
通達書の余白に、黒い文字が浮かぶのかと思った。これまで通り、嫌味ったらしい古代語が紙の繊維から染み出すのだと。
違った。
部屋の中に、声が響いた。
「来なければ、声だけをもらう」
ノアの声だった。
掠れ方まで、今のノアに似ていた。
寝起きの薄さ。喉の奥に黒い糸が残っているような引っかかり。音の最後がわずかに消える癖。レオを呼んだ時の一音とは違う、軽口を言う時にわざと声を軽くする温度。
ノア本人は、何も言っていない。
口も動かしていない。
それなのに、部屋にはノアの声が残っていた。
来なければ、声だけをもらう。
声だけ。
ノアの背筋が冷えた。
伴侶首輪が、冷たい熱を持つ。白い花紋の縁が黒く染まるように浮かび上がり、喉の奥へ細い針を刺したような違和感が走った。魂糸がざわつく。発声経路に絡む黒い糸が、まるで返事をするように震えた。
レオの表情から、完全に温度が消えた。
青い瞳が、通知書を見ている。
だがその奥にある怒りは、紙へ向いているのではなかった。
ノアの声を勝手に使ったもの。
ノアの声の形を覚え、真似て、部屋へ放ったもの。
そこへ向いている。
レオの指先で白金の魔力が跳ねた。
空気が細く鳴る。
レオが通知書ごと封じようとした瞬間、ノアは掠れ声で言った。
「……俺の声、勝手に出張しすぎ」
軽く言ったつもりだった。
だが声は少し震えた。
レオはそれを聞いた。
聞かないはずがない。
「行かせない」
即答だった。
ノアは目を細める。
「行かなくても取られるって言ってるだろ」
「なら、僕の糸の中に」
「預けないって言った」
声が低くなった。
短い言葉なのに、喉の奥が詰まる。黒い糸が反応している。レオの名を呼んだ時だけ少し緩んだくせに、拒絶の声には敏感らしい。嫌な仕様だ。作ったやつ、性格が悪い。まあ、今さらだが。
レオの赤い糸がノアの喉へ伸びかけた。
守るために。
いや、違う。
守るためであり、閉じるためであり、敵に取られる前に自分の手の届くところへ置くために。
ノアは首元へ手を当てた。
「巻くな」
レオの糸が止まる。
その止まり方が、痛々しい。
まるで、首輪を締める衝動を、自分の喉で噛み殺したような顔だった。
「ノア」
「預けない」
「君の声を守りたい」
「守ると預かるは違う」
「敵に取られる」
「お前に取られるのも嫌だ」
レオの唇がわずかに開いた。
何か言い返そうとして、止まる。
ノアは掠れた声で続けた。
「俺の声を俺のものに戻す。お前のものにも、あいつらのものにもさせない」
長く話したせいで、喉が引き攣った。
声の最後が掠れ、空気に溶ける。胸の奥が少し苦しい。瞳孔が一瞬だけ開き、視界の端が白く揺れた。
レオが一歩近づく。
ノアは手で制した。
レオは止まった。
偉い。
いや、これで褒めるのもどうなのか。人間同士なら当然の距離感だ。けれど、この男にとっては本当に努力である。世界よ、面倒な男を生み出すな。こちらが採点表を持つ羽目になる。
ノアは呼吸を整えた。
息はできる。
声も出る。
ただ、長く使えない。
敵はそれを知っている。
しかも、部分的に複製できる。
完全ではなかった。レオには偽物だと分かった。ノア自身にも分かった。声は似ているが、芯がない。ノアが誰へ向けて発した声か、その温度がない。言葉だけを形にした声だった。
だからこそ、本物が必要なのだろう。
真儀礼のために。
ノア本人の喉から、魂から、誰かへ向けて出る声。
死を認める声。
世界が英雄を再び選ぶための声。
レオは通知書を握り締めた。
紙が白金の光に包まれる。
「燃やすな」
ノアが言うと、レオは目を閉じた。
「分かっている」
「本当に?」
「燃やしたい」
「正直でよろしい。燃やすな」
「燃やさない」
レオは紙を机へ戻した。
ただし、白金の結界で囲む。声がもう一度出ないように。通知書に残った術式が部屋へ広がらないように。
それ自体は必要な処置だった。
だから、ノアも止めなかった。
レオは低く言った。
「声の複製は完全ではない」
「分かるのか」
「分かる」
即答だった。
「何が違う?」
レオはノアを見た。
「君がいない」
ノアは眉を寄せる。
「詩的なやつ?」
「違う。声の形は似ている。でも、誰へ向けて発した声かがない。君は軽口でも、必ず誰かを見ている。逃げる時でも、相手の反応を見ている。今の声には、それがない」
「……観察が怖い」
「怖がらせたいわけじゃない」
「怖いもんは怖い」
「でも、役に立つ」
「腹立つな。役に立つのがまた腹立つ」
レオは、少しだけ息を吐いた。
笑う余裕はない。けれど、ノアの軽口が続くことに、わずかに安堵しているのが分かった。
魂糸が、まだノアの喉元で震えている。
敵の声に反応したのだ。
レオの赤い糸も、ノアの喉を守ろうとして何度も伸びかける。ノアが見ているので、ぎりぎり止まっている。非常に不穏な綱引きだ。自分の喉をめぐる綱引きなど、一生に一度で十分である。もう何度目だ。やめろ。
ノアは机の上に置かれた通知書を睨んだ。
「行く」
「行かせない」
「会話が戻ったな」
「戻していない」
「俺は行く」
「声が戻っていない」
「だから行く」
「逆だ」
「逆じゃない。行かなければ声だけ取られる。行けば、声を取り返せるかもしれない」
「罠だ」
「知ってる」
「君を誘導している」
「知ってる」
「真儀礼の場へ出れば、君の声を使われる」
「使わせない」
「どうやって」
レオの声が、低くなった。
責めているわけではない。
問うている。
けれど、その問いの奥には、今にも「だから僕の糸へ」と続けたい衝動がある。
ノアは、ゆっくり言った。
「調べる。仕掛ける。止める。俺の声が儀礼に接続される前に、向こうの術式を逆に辿る」
「危険すぎる」
「安全な道がない」
「僕の結界の中にいて」
「戦う時は入ってやる。でも、声は預けない」
「ノア」
「そこは譲らない」
レオは、しばらく黙った。
長い沈黙だった。
朝の光が少しずつ強くなる。窓の外で、学院の鐘が鳴った。日常の始まりを告げる音だ。こんな状況で日常を開始するな。空気を読め、鐘。
レオは、ようやく言った。
「君が真儀礼の場へ行くなら、条件がある」
「出た。条件付き自由」
「僕の結界内にいること」
「状況次第」
「ノア」
「固定された結界は相手に読まれる。動ける形にしろ」
レオは言葉を止める。
ノアは喉を押さえながら続けた。
「声を封じるな。喉へ赤い糸を巻くな。魂糸の発声経路は俺に許可を取って調整。敵が声を奪おうとした時だけ遮断。俺が自分で喋る時は止めるな」
「死を認める言葉でも?」
「言わない」
「言わされたら」
「止めろ。ただし、俺を黙らせるんじゃなくて、術式の接続を切れ」
「それが間に合わなかったら」
「間に合わせろ」
レオの瞳が揺れた。
ノアは掠れた声で、わざと軽く言った。
「王子様だろ。たまには都合よく奇跡起こせ」
「君は無茶を言う」
「お互い様だな」
レオは、ほんの一瞬だけ、泣きそうな顔をした。
すぐに消した。
「……分かった」
「本当に?」
「努力する」
「七点」
「また七点」
「上出来」
レオは小さく頷いた。
その時、扉が強く叩かれた。
今度は寮監ではない。
セドリック・バロウズの声がした。
「クロウ、アステルレイン。起きているか」
ノアは息を吸う。
返事をしようとして、喉が詰まる。
声が出るか分からない。
レオがすぐに答えようとする。
ノアはそれを手で制した。
自分で返す。
ここでできなければ、この先ずっとレオが代わりに答える。
それは嫌だった。
ノアはゆっくり息を整えた。
「……起きて、ますー」
声は掠れ、途中で少し途切れた。
けれど出た。
レオの赤い糸がまた震える。
ノアは横目で睨んだ。
レオは口を閉じ、どうにか震えを抑えた。
扉が開く。
セドリックは黒い外套姿で立っていた。手には数枚の記録板と、学院長室の封印紙を持っている。顔色は悪い。たぶん寝ていない。黒魔法科の教師も不眠仲間らしい。世の中、睡眠を軽視しすぎである。
セドリックは部屋へ入り、通知書を見てすぐに眉を寄せた。
「来たか」
「来ましたね。俺の声で」
「声を聞かせろ」
「先生まで声点呼?」
「異常確認だ」
「はいはい」
ノアは短く息を吸い、できるだけ普通の声で言った。
「俺の声、まだ営業縮小中です」
声は途中で掠れた。
セドリックの目が鋭くなる。
「発声経路の縛りは残っているな」
レオが答える。
「一部だけ解きました。完全解除は危険です」
「正しい判断だ。無理に切れば声そのものが傷つく」
ノアは顔をしかめる。
「怖いことを朝から言うな」
「事実だ」
「事実の暴力」
「減点」
「声帯負傷者に厳しい」
セドリックは無視して、記録板を机に置いた。
「学院長室へ来い。真儀礼の場所が判明した」
レオの魔力が張る。
「大講堂ではないのですか」
「違う。大講堂は誘導と予備術式だ。本来の場は学院地下の古い礼拝堂」
ノアは瞬きをした。
「地下書庫の次は地下礼拝堂?」
「学院創設以前からあった封印施設だ。後から学院が上に建った」
ノアは、掠れた声で笑った。
「学園の地下、何でもありすぎない?」
笑いは途中で喉に引っかかった。
レオが水を差し出そうとする。
ノアは受け取った。
今は拒まない。
水を一口飲んで、喉を落ち着ける。
地下の古い礼拝堂。
学院創設以前の封印施設。
そこに、真儀礼の本来の場がある。
大講堂の英雄劇も、仮面も、英雄像の影も、偽物の声も、全部そこへノアとレオを引きずり込むための前座だったのだろう。
人類、前座でここまで迷惑をかけるな。本番は絶対にろくでもない。
レオは静かに言った。
「ノアは、まだ声が完全ではありません」
セドリックは頷く。
「だから急ぐ。向こうが声だけを切り離す前に、こちらから場を押さえる」
ノアは、通知書を見た。
来なければ、声だけをもらう。
まだ、その声が耳に残っている。
自分の声なのに、自分ではないもの。
ノアは立ち上がった。
少しふらついた。
レオの手が伸びかける。
ノアは見た。
レオは止まり、低く聞いた。
「支えていい?」
ノアは少し考え、頷いた。
レオの手が腕を支える。
強すぎない。
逃げ道を塞ぐ持ち方ではない。
ノアは小さく息を吐いた。
「八点」
レオが一瞬こちらを見る。
「上がった」
「今のはよかった」
「……うん」
セドリックが呆れたように言った。
「採点しながら地獄へ向かうな」
「じゃあ先生も採点対象に?」
「断る」
「逃げた」
ノアは笑おうとして、また声が掠れた。
レオの手がわずかに強張る。
だが、すぐに緩む。
その緩みを、ノアはちゃんと感じた。
声はまだ戻りきらない。
敵は声だけを奪うと言った。
真儀礼は、地下の古い礼拝堂で待っている。
それでも、ノアは自分の足で部屋を出る。
自分の声を、自分のものに戻すために。




