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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

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第52話 声だけをもらう



 朝の光は、寮部屋の中へ薄く差し込んでいた。


 昨夜からほとんど眠れていないせいか、窓辺の白い光が妙に遠い。学院の中庭からは、早朝の生徒たちの足音がかすかに聞こえる。石畳を踏む靴音。誰かの笑い声。魔力灯が消える時の小さな音。日常の気配ばかりが、部屋の外にあった。


 ノア・クロウの喉は、まだ完全には戻っていなかった。


 声は出る。


 ただし、細い。掠れている。長く話そうとすると、喉の奥ではなく魂糸の深い場所が引き攣る。肉体の声帯はレオの聖魔法で整えられている。水も飲んだ。喉の熱も引いた。けれど、発声経路に絡みついた黒い糸は、まだ完全にはほどけていない。


 声があるのに、自由ではない。


 それが嫌だった。


 いや、嫌という言葉では足りない。自分の喉の奥に知らない鍵をかけられているような気分だ。人の声に勝手に鍵をかけるな。防犯意識の方向性が地獄すぎる。


 ノアは寝台の上で上体を起こし、机の上の通知書を見ていた。


 学院長室からの正式な封書。


 封蝋には学院の紋章と英雄教会の白い花印が並んで押されている。二つの印章は整っているのに、その重なり方がどこか不快だった。白い花が、学院の紋章の上へ根を下ろしているように見える。


 レオ・アステルレインは、通知書を持ったまま動かなかった。


 彼の指先には、白金の魔力が灯っている。燃やすためではない。封じるためでもない。今にも燃やしたい、封じたい、壊したい、何もかも消してしまいたいという衝動を、ぎりぎり指先の光に押し込めている。


 ノアは掠れた声で言った。


「……朝から顔が怖い。学院通知に親でも殺された?」


 声は出た。


 けれど、途中で少し割れた。


 レオの視線が、即座にノアの喉へ落ちる。


 ノアは片手を上げた。


「点呼禁止」


「声が掠れている」


「知ってる。俺の喉だからな」


「痛む?」


「痛むより、動きが悪い」


「水」


「さっき飲んだ」


「もう一口」


「水分で世界を救う気か?」


「君の喉は救える」


「重い」


 レオは答えず、枕元の杯を取った。


 ノアは自分で受け取ろうとした。指先は少し震えたが、持てないほどではない。レオは途中で止まり、ノアへ杯を渡した。


 その「止まった」ことを、ノアは見た。


 昨夜から、レオは何度も止まっている。触れる前に聞く。喉を診る前に許可を取る。水を飲ませるか自分で飲むか、問う。黒い糸が締まりそうになっても、勝手に喉を塞がない。


 学習している。


 いいことだ。


 同時に、気持ち悪いほど痛々しい。こんな初歩の境界線を覚えるたびに、レオの中では何かが削れているのが分かる。まあ、今までの距離感が異常だったのだ。人類でも伴侶の喉を無許可管理しない。たぶん。いや、人類もたまに怪しいな。やっぱり世界は信用ならない。


 ノアは水を飲んだ。


 喉を通る水は冷たく、わずかに白金の治癒が混ざっていた。


「……声の出張手当、誰が払うんだ」


 掠れた軽口だった。


 レオは笑わない。


「出張させない」


「お前、比喩に本気で返す癖あるよな」


「今回は比喩ではない」


 その時だった。


 机の上に置かれた通知書が、わずかに震えた。


 紙が鳴ったのではない。


 空気が鳴った。


 ノアは瞬きをする。


 通達書の余白に、黒い文字が浮かぶのかと思った。これまで通り、嫌味ったらしい古代語が紙の繊維から染み出すのだと。


 違った。


 部屋の中に、声が響いた。


「来なければ、声だけをもらう」


 ノアの声だった。


 掠れ方まで、今のノアに似ていた。


 寝起きの薄さ。喉の奥に黒い糸が残っているような引っかかり。音の最後がわずかに消える癖。レオを呼んだ時の一音とは違う、軽口を言う時にわざと声を軽くする温度。


 ノア本人は、何も言っていない。


 口も動かしていない。


 それなのに、部屋にはノアの声が残っていた。


 来なければ、声だけをもらう。


 声だけ。


 ノアの背筋が冷えた。


 伴侶首輪が、冷たい熱を持つ。白い花紋の縁が黒く染まるように浮かび上がり、喉の奥へ細い針を刺したような違和感が走った。魂糸がざわつく。発声経路に絡む黒い糸が、まるで返事をするように震えた。


 レオの表情から、完全に温度が消えた。


 青い瞳が、通知書を見ている。


 だがその奥にある怒りは、紙へ向いているのではなかった。


 ノアの声を勝手に使ったもの。


 ノアの声の形を覚え、真似て、部屋へ放ったもの。


 そこへ向いている。


 レオの指先で白金の魔力が跳ねた。


 空気が細く鳴る。


 レオが通知書ごと封じようとした瞬間、ノアは掠れ声で言った。


「……俺の声、勝手に出張しすぎ」


 軽く言ったつもりだった。


 だが声は少し震えた。


 レオはそれを聞いた。


 聞かないはずがない。


「行かせない」


 即答だった。


 ノアは目を細める。


「行かなくても取られるって言ってるだろ」


「なら、僕の糸の中に」


「預けないって言った」


 声が低くなった。


 短い言葉なのに、喉の奥が詰まる。黒い糸が反応している。レオの名を呼んだ時だけ少し緩んだくせに、拒絶の声には敏感らしい。嫌な仕様だ。作ったやつ、性格が悪い。まあ、今さらだが。


 レオの赤い糸がノアの喉へ伸びかけた。


 守るために。


 いや、違う。


 守るためであり、閉じるためであり、敵に取られる前に自分の手の届くところへ置くために。


 ノアは首元へ手を当てた。


「巻くな」


 レオの糸が止まる。


 その止まり方が、痛々しい。


 まるで、首輪を締める衝動を、自分の喉で噛み殺したような顔だった。


「ノア」


「預けない」


「君の声を守りたい」


「守ると預かるは違う」


「敵に取られる」


「お前に取られるのも嫌だ」


 レオの唇がわずかに開いた。


 何か言い返そうとして、止まる。


 ノアは掠れた声で続けた。


「俺の声を俺のものに戻す。お前のものにも、あいつらのものにもさせない」


 長く話したせいで、喉が引き攣った。


 声の最後が掠れ、空気に溶ける。胸の奥が少し苦しい。瞳孔が一瞬だけ開き、視界の端が白く揺れた。


 レオが一歩近づく。


 ノアは手で制した。


 レオは止まった。


 偉い。


 いや、これで褒めるのもどうなのか。人間同士なら当然の距離感だ。けれど、この男にとっては本当に努力である。世界よ、面倒な男を生み出すな。こちらが採点表を持つ羽目になる。


 ノアは呼吸を整えた。


 息はできる。


 声も出る。


 ただ、長く使えない。


 敵はそれを知っている。


 しかも、部分的に複製できる。


 完全ではなかった。レオには偽物だと分かった。ノア自身にも分かった。声は似ているが、芯がない。ノアが誰へ向けて発した声か、その温度がない。言葉だけを形にした声だった。


 だからこそ、本物が必要なのだろう。


 真儀礼のために。


 ノア本人の喉から、魂から、誰かへ向けて出る声。


 死を認める声。


 世界が英雄を再び選ぶための声。


 レオは通知書を握り締めた。


 紙が白金の光に包まれる。


「燃やすな」


 ノアが言うと、レオは目を閉じた。


「分かっている」


「本当に?」


「燃やしたい」


「正直でよろしい。燃やすな」


「燃やさない」


 レオは紙を机へ戻した。


 ただし、白金の結界で囲む。声がもう一度出ないように。通知書に残った術式が部屋へ広がらないように。


 それ自体は必要な処置だった。


 だから、ノアも止めなかった。


 レオは低く言った。


「声の複製は完全ではない」


「分かるのか」


「分かる」


 即答だった。


「何が違う?」


 レオはノアを見た。


「君がいない」


 ノアは眉を寄せる。


「詩的なやつ?」


「違う。声の形は似ている。でも、誰へ向けて発した声かがない。君は軽口でも、必ず誰かを見ている。逃げる時でも、相手の反応を見ている。今の声には、それがない」


「……観察が怖い」


「怖がらせたいわけじゃない」


「怖いもんは怖い」


「でも、役に立つ」


「腹立つな。役に立つのがまた腹立つ」


 レオは、少しだけ息を吐いた。


 笑う余裕はない。けれど、ノアの軽口が続くことに、わずかに安堵しているのが分かった。


 魂糸が、まだノアの喉元で震えている。


 敵の声に反応したのだ。


 レオの赤い糸も、ノアの喉を守ろうとして何度も伸びかける。ノアが見ているので、ぎりぎり止まっている。非常に不穏な綱引きだ。自分の喉をめぐる綱引きなど、一生に一度で十分である。もう何度目だ。やめろ。


 ノアは机の上に置かれた通知書を睨んだ。


「行く」


「行かせない」


「会話が戻ったな」


「戻していない」


「俺は行く」


「声が戻っていない」


「だから行く」


「逆だ」


「逆じゃない。行かなければ声だけ取られる。行けば、声を取り返せるかもしれない」


「罠だ」


「知ってる」


「君を誘導している」


「知ってる」


「真儀礼の場へ出れば、君の声を使われる」


「使わせない」


「どうやって」


 レオの声が、低くなった。


 責めているわけではない。


 問うている。


 けれど、その問いの奥には、今にも「だから僕の糸へ」と続けたい衝動がある。


 ノアは、ゆっくり言った。


「調べる。仕掛ける。止める。俺の声が儀礼に接続される前に、向こうの術式を逆に辿る」


「危険すぎる」


「安全な道がない」


「僕の結界の中にいて」


「戦う時は入ってやる。でも、声は預けない」


「ノア」


「そこは譲らない」


 レオは、しばらく黙った。


 長い沈黙だった。


 朝の光が少しずつ強くなる。窓の外で、学院の鐘が鳴った。日常の始まりを告げる音だ。こんな状況で日常を開始するな。空気を読め、鐘。


 レオは、ようやく言った。


「君が真儀礼の場へ行くなら、条件がある」


「出た。条件付き自由」


「僕の結界内にいること」


「状況次第」


「ノア」


「固定された結界は相手に読まれる。動ける形にしろ」


 レオは言葉を止める。


 ノアは喉を押さえながら続けた。


「声を封じるな。喉へ赤い糸を巻くな。魂糸の発声経路は俺に許可を取って調整。敵が声を奪おうとした時だけ遮断。俺が自分で喋る時は止めるな」


「死を認める言葉でも?」


「言わない」


「言わされたら」


「止めろ。ただし、俺を黙らせるんじゃなくて、術式の接続を切れ」


「それが間に合わなかったら」


「間に合わせろ」


 レオの瞳が揺れた。


 ノアは掠れた声で、わざと軽く言った。


「王子様だろ。たまには都合よく奇跡起こせ」


「君は無茶を言う」


「お互い様だな」


 レオは、ほんの一瞬だけ、泣きそうな顔をした。


 すぐに消した。


「……分かった」


「本当に?」


「努力する」


「七点」


「また七点」


「上出来」


 レオは小さく頷いた。


 その時、扉が強く叩かれた。


 今度は寮監ではない。


 セドリック・バロウズの声がした。


「クロウ、アステルレイン。起きているか」


 ノアは息を吸う。


 返事をしようとして、喉が詰まる。


 声が出るか分からない。


 レオがすぐに答えようとする。


 ノアはそれを手で制した。


 自分で返す。


 ここでできなければ、この先ずっとレオが代わりに答える。


 それは嫌だった。


 ノアはゆっくり息を整えた。


「……起きて、ますー」


 声は掠れ、途中で少し途切れた。


 けれど出た。


 レオの赤い糸がまた震える。


 ノアは横目で睨んだ。


 レオは口を閉じ、どうにか震えを抑えた。


 扉が開く。


 セドリックは黒い外套姿で立っていた。手には数枚の記録板と、学院長室の封印紙を持っている。顔色は悪い。たぶん寝ていない。黒魔法科の教師も不眠仲間らしい。世の中、睡眠を軽視しすぎである。


 セドリックは部屋へ入り、通知書を見てすぐに眉を寄せた。


「来たか」


「来ましたね。俺の声で」


「声を聞かせろ」


「先生まで声点呼?」


「異常確認だ」


「はいはい」


 ノアは短く息を吸い、できるだけ普通の声で言った。


「俺の声、まだ営業縮小中です」


 声は途中で掠れた。


 セドリックの目が鋭くなる。


「発声経路の縛りは残っているな」


 レオが答える。


「一部だけ解きました。完全解除は危険です」


「正しい判断だ。無理に切れば声そのものが傷つく」


 ノアは顔をしかめる。


「怖いことを朝から言うな」


「事実だ」


「事実の暴力」


「減点」


「声帯負傷者に厳しい」


 セドリックは無視して、記録板を机に置いた。


「学院長室へ来い。真儀礼の場所が判明した」


 レオの魔力が張る。


「大講堂ではないのですか」


「違う。大講堂は誘導と予備術式だ。本来の場は学院地下の古い礼拝堂」


 ノアは瞬きをした。


「地下書庫の次は地下礼拝堂?」


「学院創設以前からあった封印施設だ。後から学院が上に建った」


 ノアは、掠れた声で笑った。


「学園の地下、何でもありすぎない?」


 笑いは途中で喉に引っかかった。


 レオが水を差し出そうとする。


 ノアは受け取った。


 今は拒まない。


 水を一口飲んで、喉を落ち着ける。


 地下の古い礼拝堂。


 学院創設以前の封印施設。


 そこに、真儀礼の本来の場がある。


 大講堂の英雄劇も、仮面も、英雄像の影も、偽物の声も、全部そこへノアとレオを引きずり込むための前座だったのだろう。


 人類、前座でここまで迷惑をかけるな。本番は絶対にろくでもない。


 レオは静かに言った。


「ノアは、まだ声が完全ではありません」


 セドリックは頷く。


「だから急ぐ。向こうが声だけを切り離す前に、こちらから場を押さえる」


 ノアは、通知書を見た。


 来なければ、声だけをもらう。


 まだ、その声が耳に残っている。


 自分の声なのに、自分ではないもの。


 ノアは立ち上がった。


 少しふらついた。


 レオの手が伸びかける。


 ノアは見た。


 レオは止まり、低く聞いた。


「支えていい?」


 ノアは少し考え、頷いた。


 レオの手が腕を支える。


 強すぎない。


 逃げ道を塞ぐ持ち方ではない。


 ノアは小さく息を吐いた。


「八点」


 レオが一瞬こちらを見る。


「上がった」


「今のはよかった」


「……うん」


 セドリックが呆れたように言った。


「採点しながら地獄へ向かうな」


「じゃあ先生も採点対象に?」


「断る」


「逃げた」


 ノアは笑おうとして、また声が掠れた。


 レオの手がわずかに強張る。


 だが、すぐに緩む。


 その緩みを、ノアはちゃんと感じた。


 声はまだ戻りきらない。


 敵は声だけを奪うと言った。


 真儀礼は、地下の古い礼拝堂で待っている。


 それでも、ノアは自分の足で部屋を出る。


 自分の声を、自分のものに戻すために。

 


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