第50話 喉が動かない
黒い荒野に、鐘が鳴っていた。
空は夜より暗い。太陽があるはずの場所には、黒い魔力で濁った円が沈んでいる。風はないのに、灰だけが降っていた。白い花の灰。黒い頁の灰。折れた旗の灰。どれも同じ色になって、ノア・クロウの肩に静かに積もった。
足元の土は、硬かった。
かつて雨上がりの戦場で踏んだ泥ではない。魔力に焼かれ、血を吸い、黒い花に根を張られた土だった。踏みしめるたび、遠くで誰かが歓声を上げる。
救国の英雄。
黒い災厄の死。
世界は救われた。
その声が、鐘の音に混じっていた。
ノアは喉に手を当てた。
声を出そうとした。
レオ、と呼ぼうとした。
だが、喉が動かない。
痛みはない。焼けるような熱もない。伴侶首輪の圧もない。ただ、喉の奥にあるはずの道が消えていた。息は吸える。吐ける。けれど、音へ変わらない。
呼吸だけが、冷たい空気に薄く漏れた。
声にならない。
荒野の向こうに、誰かが立っていた。
顔は見えない。黒い外套にも、白い司祭服にも見える。英雄像の影にも、黒い仮面の裏にも見える。境界のない影だった。
その影が言った。
「自分の声で、もう一度死ね」
ノアは口を開いた。
声は出ない。
影は、さらに近づく。
「死を認めろ」
鐘が鳴る。
「お前は死んだ」
灰が降る。
「世界へ戻らないと、言え」
ノアは声を出そうとした。
喉は、動かなかった。
次の瞬間、視界が割れた。
ノアは跳ね起きた。
深夜だった。
寮部屋は暗い。窓の外には夜の学院が沈んでいる。魔力灯は絞られ、薄い青白い光だけが壁を撫でていた。机の上には、封印布で包まれた通達書と、セドリックから借りた儀礼書の写しが置かれている。枕元には水。レオが置いたものだ。
ノアは息を吸った。
すぐに喉を押さえる。
痛くはない。
それが、逆に気味悪かった。
喉が裂けた後の痛みも、昨日までの掠れも、伴侶首輪の熱もない。ただ、声を出すための部分だけが、誰かに抜き取られたように沈黙している。
ノアは口を開いた。
レオ。
呼ぼうとした。
息だけが漏れた。
音にならない。
もう一度。
今度は少し強く。
喉の奥は動かない。声帯が震えない。唇だけが、無様に名前の形を作った。
その瞬間、向かいの寝台でレオ・アステルレインが起き上がった。
眠っていたわけではないのだろう。身体を起こすまでの動きが速すぎた。赤い糸が激しく震え、白金の魔力が部屋の中へ広がる。
「ノア?」
レオの声は低かった。
寝起きの声ではない。
異常を察知した声だった。
ノアは返事をしようとする。
出ない。
唇だけが動く。
レオの表情が一瞬で変わった。
顔から血の気が引く。
青い瞳が、ノアの喉へ落ちる。次に伴侶首輪。赤い糸。魂糸。彼の中で、昨夜の重度反応と、偽物の助けてと、真儀礼の文言が一気に重なったのが分かった。
敵が、今度は本当にノアの声を奪った。
レオが寝台から降りる。
近づきかけて、止まった。
止まったのだ。
喉に触れる前に。
白金の魔力を流す前に。
震える手を、ノアの前で止めた。
「触れていい?」
声が、かすかに震えていた。
ノアは、その震えを見た。
レオは今、壊れかけている。
ノアの声が出ないことに、誰より恐怖している。ノア本人よりも、ある意味では。いや、それはそれでどうなんだ。こっちはこっちで焦っている。声の所有権争いをしている場合ではない。だが、こういう時ほど線を引かないと、レオは一瞬で全部閉じる。
ノアは小さく首を振った。
今は触るな、という意味ではない。
待て、という意味だった。
レオは止まったまま、苦しそうに息をした。
ノアは机へ手を伸ばす。
膝が重い。夢から跳ね起きた身体は、まだ完全に戻っていない。だが動ける。声がないだけだ。喉以外は、まだ自分のものだった。
黒魔法を指先へ集める。
薄い黒い霧が、机の上に文字を浮かべた。
声帯、臨時休業。
レオは笑わなかった。
微塵も笑わなかった。
白金の魔力が、むしろ冷えた。
「喉が痛い?」
ノアは首を横に振る。
文字を足す。
痛くない。動かない。
レオの瞳が細くなる。
「声帯そのものではない?」
ノアは肩をすくめた。
知らん、と書こうとして、やめる。
代わりに、机の上へ文字を浮かべる。
診察どうぞ。要許可制。
レオは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「触れる」
ノアは頷いた。
レオの手が、喉へ伸びる。
触れ方は慎重だった。指先ではなく、白金の光を先に置く。皮膚の上をなぞるのではなく、伴侶首輪の外側から魂糸の振動を探るように、少しずつ魔力を流した。
ノアの首元に冷たい熱が走る。
伴侶首輪が反応した。
赤い糸が喉元で激しく震える。いつものような熱ではない。冷たいのに焼けるような奇妙な感覚だ。白い花紋が薄く浮き、黒い亀裂の奥で、さらに細い黒い糸が見えた。
レオの顔が、静かに凍った。
「声帯じゃない」
ノアは眉を上げる。
レオは喉から手を離さず、低く続けた。
「魂の発声経路が縛られている。肉体の声帯ではなく、魂糸の声を出す道に黒い糸が巻いている」
ノアは黒い文字を浮かべた。
つまり?
「声を出そうとすると、魂の発声経路が締まる」
最悪。
ノアが即座に書く。
レオは頷かなかった。
彼は笑えないほど怒っていた。
「真儀礼の構文に近い。黒災忌会の黒魔法式とは違う。英雄教会の祈祷文と、黒魔導書系の術式、その接続部にあったものと同じ」
ノアは文字を追加する。
保存?
レオの手が止まる。
ノアはレオを見る。
自分で書いて、嫌になった。
声を奪うだけなら、喉を潰せばいい。けれどこれは違う。声帯は無事。痛みもない。魂の発声経路だけが縛られている。
儀礼の時まで、ノアの声を保存する。
あるいは、必要な言葉を言わせる瞬間まで、声を封じておく。
真儀礼のために。
レオの声が低くなる。
「そうかもしれない」
ノアは息を吐いた。
音にはならない。
無音のため息だった。
それが、思ったより怖かった。
普段なら、ため息にも音がある。呆れた声も、軽口も、文句も、全部自分の外へ出る。今は、身体の内側で息だけが消える。
世界に、自分の存在を知らせる方法が減っている。
ノアは、もう一度声を出そうとした。
レオ、と。
黒い糸が締まった。
喉ではなく、胸の奥がきゅっと潰れる。息が詰まる。ノアの身体が前へ傾き、膝から力が抜けた。
レオが即座に支える。
「ノア!」
ノアは片膝を床についた。
瞳孔が開く。指先が震えた。息は吸える。けれど声を出そうとした瞬間だけ、魂の奥が縛られる。喉は動かない。空気は音にならない。苦しいのに、叫べない。
絶叫すら奪われている。
それが、昨夜より怖かった。
ノアは机の端を掴んだ。
震える指先で、黒い文字を浮かべる。
声出そうとすると締まる。嫌な親切設計。
レオの手が震えていた。
ノアはそれを見た。
レオの中に、凶暴なほどの衝動がある。
今すぐ、この黒い糸を引き千切りたい。
ノアの喉へ白金の魔力を流し込み、敵の術式ごと焼きたい。
声を取り戻すまで、誰の目にも触れさせず、誰の耳にも届かせず、自分の結界の中へ閉じ込めたい。
全部、分かる。
だがレオは、何もせずに震えていた。
許可を取ったあとも、まだ自分を抑えている。
ノアは、黒い文字を浮かべた。
落ち着け、声フェチ。
レオの目がノアを見る。
笑わない。
でも、少しだけ息を吸った。
「瀕死だよ」
ノアは、文字を変える。
正直でよろしい。
レオは小さく首を振った。
「よくない」
ノアは床に座り込んだまま、喉に手を当てる。
レオはその前に膝をついた。
「黒い糸の一部だけ解除する。全部は危険だ。無理に切ると、発声経路そのものを傷つける」
ノアは文字で返す。
手術説明こわ。
「許可を取る」
ノアは頷いた。
レオは、すぐには始めなかった。
「息が詰まったら手を上げて」
頷く。
「声を出そうとしないで。糸が締まる」
頷く。
「痛みがあれば、机を叩いて」
頷く。
「僕を見て」
ノアは目を細めた。
文字を浮かべる。
最後だけ私情。
「うん」
認めるな。
そう書こうとして、やめた。
ノアは、レオを見た。
レオの青い目は、薄い夜の光の中でひどく澄んでいた。穏やかではない。怖いほど張り詰めている。けれど、ノアを見失わないために必死だった。
白金の光が、ノアの喉元へ落ちる。
黒い糸は、肉眼では見えない。
だが、魂糸の上に巻きつく異物として感じられた。冷たい。細い。けれど、力は強い。ノアの声が通るはずの道へ絡み、声を出す動きを感知すると締まる。
レオの魔力が、その糸へ触れた。
黒い糸が反応する。
ノアの息が詰まった。
声は出ない。
喉が動かない。
胸の奥が締まり、瞳孔が開く。指先が硬直し、床を掴む。身体が前へ折れかける。
レオはすぐに魔力を引いた。
「ごめん」
ノアは手を上げない。
代わりに、震える指で文字を浮かべる。
続行。
「無理は」
ノアはレオを睨んだ。
声はない。
だが視線はある。
レオは唇を噛み、頷いた。
「続ける」
今度は、白金の魔力を直接糸へ当てない。
周囲の魂糸を先に支え、発声経路の形を固定する。黒い糸が締まっても、声の道が潰れきらないようにする。治癒ではなく補強。レオの聖魔法は、こういう時だけ憎たらしいほど繊細だった。
ノアの呼吸が少しだけ戻る。
レオは、黒い糸の端を探った。
糸には、結び目があった。
古い祈祷文の形。
黒魔導書系の構文。
そして、外部術式の接続印。
レオの目が冷える。
「真儀礼の保存結びだ。声を奪うだけではなく、声が戻る時に儀礼側へ接続するよう仕込んでいる」
ノアは文字を出す。
やっぱり嫌な親切設計。
「君の軽口が文字でも軽いの、少し安心する」
ノアは眉を上げた。
文字を出す。
惚れ直した?
「最初から」
ノアは一瞬止まる。
この状況でそれを返すな。
書こうとしたが、喉が締まる感覚がまた走った。黒い糸が、ノアの感情の揺れにも反応している。
レオが即座に支える。
「息だけ。声にしないで」
ノアは、ゆっくり息を吐く。
音のない呼吸。
白金の魔力が、黒い糸の結び目の一つへ触れる。
今度は引き千切らない。
結び目の周囲だけを温め、緩める。糸は抵抗した。ノアの喉元が冷たく熱くなる。伴侶首輪が白い花紋を浮かべ、赤い糸が激しく震えた。
ノアの膝が崩れかける。
レオが片腕で支える。
触れ方は強い。
だが、押さえつけるものではなかった。
「もう少し」
ノアは机を叩かない。
手を上げない。
ただ、レオの袖を掴んだ。
レオの呼吸が止まる。
それでも、手元の魔法は乱れなかった。
黒い糸が一本、ほどける。
瞬間、ノアの喉の奥に空気の通り道が戻った。
音にはならない。
けれど、声の気配が戻った。
ノアは咳き込もうとして、音が出ないことにまたぞっとした。
レオが水を取る。
「飲める?」
ノアは頷いた。
レオは杯を口元へ近づけかけて、止まる。
「自分で?」
ノアは少しだけ目を細めた。
それから、首を横に振った。
今は手が震えている。
悔しいが、持てそうにない。
レオは慎重に杯を傾けた。
水が喉を通る。
痛みはない。
声がないだけ。
それがまた、気味悪い。
ノアは飲み終えると、黒い文字を浮かべた。
声フェチ、瀕死?
レオは即答した。
「瀕死だよ」
ノアは、息だけで笑った。
笑い声にはならない。
レオの顔が、一瞬痛そうに歪む。
「笑い声も、戻す」
ノアは文字を出す。
重い。
「知っている」
そこは否定しろ、と書こうとした。
だが指先が疲れてきた。黒魔法で文字を浮かべ続けるのも、今の魔力回路には負担だった。
レオが気づく。
「文字もやめて。魔力回路が鈍い」
ノアは眉を寄せた。
レオはすぐに言い直す。
「やめてほしい。休んで。必要なら、僕が質問を絞る。頷くか首を振るだけでいい」
ノアは、少しだけ目を丸くした。
言い直した。
命令ではなく、頼みに。
この男、本当に学習している。怖い。人間、変化すると逆に怖い。
ノアは小さく頷いた。
レオは、黒い糸の次の結び目を探る。
今度は、もっと深い。
発声経路の奥に絡んでいる。無理に解けば、声が戻るどころか魂糸に傷が残る。レオはそれを見て、眉を寄せた。
「全部は今夜解けない」
ノアは頷く。
「でも、一音だけ通せるかもしれない」
ノアはレオを見る。
レオは苦しそうに言った。
「無理はさせたくない。でも、声が完全に閉じたままだと、向こうが次に締めた時に気づくのが遅れる。細い通り道を作る」
ノアは少し考え、頷いた。
レオの白金の魔力が、さらに細くなる。
糸というより、光の針だった。
黒い糸の結び目と結び目の間に、小さな隙間を作る。声が通るほどではない。息に音が乗るかどうか、その程度の穴。
ノアの喉が、微かに震えた。
レオの赤い糸が、同時に震える。
伴侶首輪の冷たい熱が、少しだけ引いた。
「呼べる?」
レオが聞いた。
ノアは息を吸う。
怖かった。
声を出そうとすれば、また締まるかもしれない。夢の中の荒野が戻るかもしれない。自分の声で、もう一度死ね、という言葉が喉を縛るかもしれない。
それでも。
ノアは口を開いた。
声は、すぐには出なかった。
息が漏れる。
喉が震える。
黒い糸が締まりかけ、白金の光がそれを支える。
ノアは、レオを見た。
そして、掠れた一音を押し出した。
「……レ、オ」
たった、それだけだった。
ひどく掠れていた。
声と呼ぶには弱すぎる。割れた笛のような、細い音だった。
だが、出た。
ノア自身の声だった。
レオの赤い糸が、震えすぎるほど震えた。
部屋の白金の光が、一瞬だけ大きく揺れる。
レオは息を止めていた。
それから、壊れ物に触れるよりも慎重な声で、呼び返した。
「ノア」
その声は、祈りに似ていた。
けれど、祈りではなかった。
そこにいたノアを、ただ呼ぶ声だった。




