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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

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第50話 喉が動かない


 黒い荒野に、鐘が鳴っていた。


 空は夜より暗い。太陽があるはずの場所には、黒い魔力で濁った円が沈んでいる。風はないのに、灰だけが降っていた。白い花の灰。黒い頁の灰。折れた旗の灰。どれも同じ色になって、ノア・クロウの肩に静かに積もった。


 足元の土は、硬かった。


 かつて雨上がりの戦場で踏んだ泥ではない。魔力に焼かれ、血を吸い、黒い花に根を張られた土だった。踏みしめるたび、遠くで誰かが歓声を上げる。


 救国の英雄。


 黒い災厄の死。


 世界は救われた。


 その声が、鐘の音に混じっていた。


 ノアは喉に手を当てた。


 声を出そうとした。


 レオ、と呼ぼうとした。


 だが、喉が動かない。


 痛みはない。焼けるような熱もない。伴侶首輪の圧もない。ただ、喉の奥にあるはずの道が消えていた。息は吸える。吐ける。けれど、音へ変わらない。


 呼吸だけが、冷たい空気に薄く漏れた。


 声にならない。


 荒野の向こうに、誰かが立っていた。


 顔は見えない。黒い外套にも、白い司祭服にも見える。英雄像の影にも、黒い仮面の裏にも見える。境界のない影だった。


 その影が言った。


「自分の声で、もう一度死ね」


 ノアは口を開いた。


 声は出ない。


 影は、さらに近づく。


「死を認めろ」


 鐘が鳴る。


「お前は死んだ」


 灰が降る。


「世界へ戻らないと、言え」


 ノアは声を出そうとした。


 喉は、動かなかった。


 次の瞬間、視界が割れた。


 ノアは跳ね起きた。


 深夜だった。


 寮部屋は暗い。窓の外には夜の学院が沈んでいる。魔力灯は絞られ、薄い青白い光だけが壁を撫でていた。机の上には、封印布で包まれた通達書と、セドリックから借りた儀礼書の写しが置かれている。枕元には水。レオが置いたものだ。


 ノアは息を吸った。


 すぐに喉を押さえる。


 痛くはない。


 それが、逆に気味悪かった。


 喉が裂けた後の痛みも、昨日までの掠れも、伴侶首輪の熱もない。ただ、声を出すための部分だけが、誰かに抜き取られたように沈黙している。


 ノアは口を開いた。


 レオ。


 呼ぼうとした。


 息だけが漏れた。


 音にならない。


 もう一度。


 今度は少し強く。


 喉の奥は動かない。声帯が震えない。唇だけが、無様に名前の形を作った。


 その瞬間、向かいの寝台でレオ・アステルレインが起き上がった。


 眠っていたわけではないのだろう。身体を起こすまでの動きが速すぎた。赤い糸が激しく震え、白金の魔力が部屋の中へ広がる。


「ノア?」


 レオの声は低かった。


 寝起きの声ではない。


 異常を察知した声だった。


 ノアは返事をしようとする。


 出ない。


 唇だけが動く。


 レオの表情が一瞬で変わった。


 顔から血の気が引く。


 青い瞳が、ノアの喉へ落ちる。次に伴侶首輪。赤い糸。魂糸。彼の中で、昨夜の重度反応と、偽物の助けてと、真儀礼の文言が一気に重なったのが分かった。


 敵が、今度は本当にノアの声を奪った。


 レオが寝台から降りる。


 近づきかけて、止まった。


 止まったのだ。


 喉に触れる前に。


 白金の魔力を流す前に。


 震える手を、ノアの前で止めた。


「触れていい?」


 声が、かすかに震えていた。


 ノアは、その震えを見た。


 レオは今、壊れかけている。


 ノアの声が出ないことに、誰より恐怖している。ノア本人よりも、ある意味では。いや、それはそれでどうなんだ。こっちはこっちで焦っている。声の所有権争いをしている場合ではない。だが、こういう時ほど線を引かないと、レオは一瞬で全部閉じる。


 ノアは小さく首を振った。


 今は触るな、という意味ではない。


 待て、という意味だった。


 レオは止まったまま、苦しそうに息をした。


 ノアは机へ手を伸ばす。


 膝が重い。夢から跳ね起きた身体は、まだ完全に戻っていない。だが動ける。声がないだけだ。喉以外は、まだ自分のものだった。


 黒魔法を指先へ集める。


 薄い黒い霧が、机の上に文字を浮かべた。


 声帯、臨時休業。


 レオは笑わなかった。


 微塵も笑わなかった。


 白金の魔力が、むしろ冷えた。


「喉が痛い?」


 ノアは首を横に振る。


 文字を足す。


 痛くない。動かない。


 レオの瞳が細くなる。


「声帯そのものではない?」


 ノアは肩をすくめた。


 知らん、と書こうとして、やめる。


 代わりに、机の上へ文字を浮かべる。


 診察どうぞ。要許可制。


 レオは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


「触れる」


 ノアは頷いた。


 レオの手が、喉へ伸びる。


 触れ方は慎重だった。指先ではなく、白金の光を先に置く。皮膚の上をなぞるのではなく、伴侶首輪の外側から魂糸の振動を探るように、少しずつ魔力を流した。


 ノアの首元に冷たい熱が走る。


 伴侶首輪が反応した。


 赤い糸が喉元で激しく震える。いつものような熱ではない。冷たいのに焼けるような奇妙な感覚だ。白い花紋が薄く浮き、黒い亀裂の奥で、さらに細い黒い糸が見えた。


 レオの顔が、静かに凍った。


「声帯じゃない」


 ノアは眉を上げる。


 レオは喉から手を離さず、低く続けた。


「魂の発声経路が縛られている。肉体の声帯ではなく、魂糸の声を出す道に黒い糸が巻いている」


 ノアは黒い文字を浮かべた。


 つまり?


「声を出そうとすると、魂の発声経路が締まる」


 最悪。


 ノアが即座に書く。


 レオは頷かなかった。


 彼は笑えないほど怒っていた。


「真儀礼の構文に近い。黒災忌会の黒魔法式とは違う。英雄教会の祈祷文と、黒魔導書系の術式、その接続部にあったものと同じ」


 ノアは文字を追加する。


 保存?


 レオの手が止まる。


 ノアはレオを見る。


 自分で書いて、嫌になった。


 声を奪うだけなら、喉を潰せばいい。けれどこれは違う。声帯は無事。痛みもない。魂の発声経路だけが縛られている。


 儀礼の時まで、ノアの声を保存する。


 あるいは、必要な言葉を言わせる瞬間まで、声を封じておく。


 真儀礼のために。


 レオの声が低くなる。


「そうかもしれない」


 ノアは息を吐いた。


 音にはならない。


 無音のため息だった。


 それが、思ったより怖かった。


 普段なら、ため息にも音がある。呆れた声も、軽口も、文句も、全部自分の外へ出る。今は、身体の内側で息だけが消える。


 世界に、自分の存在を知らせる方法が減っている。


 ノアは、もう一度声を出そうとした。


 レオ、と。


 黒い糸が締まった。


 喉ではなく、胸の奥がきゅっと潰れる。息が詰まる。ノアの身体が前へ傾き、膝から力が抜けた。


 レオが即座に支える。


「ノア!」


 ノアは片膝を床についた。


 瞳孔が開く。指先が震えた。息は吸える。けれど声を出そうとした瞬間だけ、魂の奥が縛られる。喉は動かない。空気は音にならない。苦しいのに、叫べない。


 絶叫すら奪われている。


 それが、昨夜より怖かった。


 ノアは机の端を掴んだ。


 震える指先で、黒い文字を浮かべる。


 声出そうとすると締まる。嫌な親切設計。


 レオの手が震えていた。


 ノアはそれを見た。


 レオの中に、凶暴なほどの衝動がある。


 今すぐ、この黒い糸を引き千切りたい。


 ノアの喉へ白金の魔力を流し込み、敵の術式ごと焼きたい。


 声を取り戻すまで、誰の目にも触れさせず、誰の耳にも届かせず、自分の結界の中へ閉じ込めたい。


 全部、分かる。


 だがレオは、何もせずに震えていた。


 許可を取ったあとも、まだ自分を抑えている。


 ノアは、黒い文字を浮かべた。


 落ち着け、声フェチ。


 レオの目がノアを見る。


 笑わない。


 でも、少しだけ息を吸った。


「瀕死だよ」


 ノアは、文字を変える。


 正直でよろしい。


 レオは小さく首を振った。


「よくない」


 ノアは床に座り込んだまま、喉に手を当てる。


 レオはその前に膝をついた。


「黒い糸の一部だけ解除する。全部は危険だ。無理に切ると、発声経路そのものを傷つける」


 ノアは文字で返す。


 手術説明こわ。


「許可を取る」


 ノアは頷いた。


 レオは、すぐには始めなかった。


「息が詰まったら手を上げて」


 頷く。


「声を出そうとしないで。糸が締まる」


 頷く。


「痛みがあれば、机を叩いて」


 頷く。


「僕を見て」


 ノアは目を細めた。


 文字を浮かべる。


 最後だけ私情。


「うん」


 認めるな。


 そう書こうとして、やめた。


 ノアは、レオを見た。


 レオの青い目は、薄い夜の光の中でひどく澄んでいた。穏やかではない。怖いほど張り詰めている。けれど、ノアを見失わないために必死だった。


 白金の光が、ノアの喉元へ落ちる。


 黒い糸は、肉眼では見えない。


 だが、魂糸の上に巻きつく異物として感じられた。冷たい。細い。けれど、力は強い。ノアの声が通るはずの道へ絡み、声を出す動きを感知すると締まる。


 レオの魔力が、その糸へ触れた。


 黒い糸が反応する。


 ノアの息が詰まった。


 声は出ない。


 喉が動かない。


 胸の奥が締まり、瞳孔が開く。指先が硬直し、床を掴む。身体が前へ折れかける。


 レオはすぐに魔力を引いた。


「ごめん」


 ノアは手を上げない。


 代わりに、震える指で文字を浮かべる。


 続行。


「無理は」


 ノアはレオを睨んだ。


 声はない。


 だが視線はある。


 レオは唇を噛み、頷いた。


「続ける」


 今度は、白金の魔力を直接糸へ当てない。


 周囲の魂糸を先に支え、発声経路の形を固定する。黒い糸が締まっても、声の道が潰れきらないようにする。治癒ではなく補強。レオの聖魔法は、こういう時だけ憎たらしいほど繊細だった。


 ノアの呼吸が少しだけ戻る。


 レオは、黒い糸の端を探った。


 糸には、結び目があった。


 古い祈祷文の形。


 黒魔導書系の構文。


 そして、外部術式の接続印。


 レオの目が冷える。


「真儀礼の保存結びだ。声を奪うだけではなく、声が戻る時に儀礼側へ接続するよう仕込んでいる」


 ノアは文字を出す。


 やっぱり嫌な親切設計。


「君の軽口が文字でも軽いの、少し安心する」


 ノアは眉を上げた。


 文字を出す。


 惚れ直した?


「最初から」


 ノアは一瞬止まる。


 この状況でそれを返すな。


 書こうとしたが、喉が締まる感覚がまた走った。黒い糸が、ノアの感情の揺れにも反応している。


 レオが即座に支える。


「息だけ。声にしないで」


 ノアは、ゆっくり息を吐く。


 音のない呼吸。


 白金の魔力が、黒い糸の結び目の一つへ触れる。


 今度は引き千切らない。


 結び目の周囲だけを温め、緩める。糸は抵抗した。ノアの喉元が冷たく熱くなる。伴侶首輪が白い花紋を浮かべ、赤い糸が激しく震えた。


 ノアの膝が崩れかける。


 レオが片腕で支える。


 触れ方は強い。


 だが、押さえつけるものではなかった。


「もう少し」


 ノアは机を叩かない。


 手を上げない。


 ただ、レオの袖を掴んだ。


 レオの呼吸が止まる。


 それでも、手元の魔法は乱れなかった。


 黒い糸が一本、ほどける。


 瞬間、ノアの喉の奥に空気の通り道が戻った。


 音にはならない。


 けれど、声の気配が戻った。


 ノアは咳き込もうとして、音が出ないことにまたぞっとした。


 レオが水を取る。


「飲める?」


 ノアは頷いた。


 レオは杯を口元へ近づけかけて、止まる。


「自分で?」


 ノアは少しだけ目を細めた。


 それから、首を横に振った。


 今は手が震えている。


 悔しいが、持てそうにない。


 レオは慎重に杯を傾けた。


 水が喉を通る。


 痛みはない。


 声がないだけ。


 それがまた、気味悪い。


 ノアは飲み終えると、黒い文字を浮かべた。


 声フェチ、瀕死?


 レオは即答した。


「瀕死だよ」


 ノアは、息だけで笑った。


 笑い声にはならない。


 レオの顔が、一瞬痛そうに歪む。


「笑い声も、戻す」


 ノアは文字を出す。


 重い。


「知っている」


 そこは否定しろ、と書こうとした。


 だが指先が疲れてきた。黒魔法で文字を浮かべ続けるのも、今の魔力回路には負担だった。


 レオが気づく。


「文字もやめて。魔力回路が鈍い」


 ノアは眉を寄せた。


 レオはすぐに言い直す。


「やめてほしい。休んで。必要なら、僕が質問を絞る。頷くか首を振るだけでいい」


 ノアは、少しだけ目を丸くした。


 言い直した。


 命令ではなく、頼みに。


 この男、本当に学習している。怖い。人間、変化すると逆に怖い。


 ノアは小さく頷いた。


 レオは、黒い糸の次の結び目を探る。


 今度は、もっと深い。


 発声経路の奥に絡んでいる。無理に解けば、声が戻るどころか魂糸に傷が残る。レオはそれを見て、眉を寄せた。


「全部は今夜解けない」


 ノアは頷く。


「でも、一音だけ通せるかもしれない」


 ノアはレオを見る。


 レオは苦しそうに言った。


「無理はさせたくない。でも、声が完全に閉じたままだと、向こうが次に締めた時に気づくのが遅れる。細い通り道を作る」


 ノアは少し考え、頷いた。


 レオの白金の魔力が、さらに細くなる。


 糸というより、光の針だった。


 黒い糸の結び目と結び目の間に、小さな隙間を作る。声が通るほどではない。息に音が乗るかどうか、その程度の穴。


 ノアの喉が、微かに震えた。


 レオの赤い糸が、同時に震える。


 伴侶首輪の冷たい熱が、少しだけ引いた。


「呼べる?」


 レオが聞いた。


 ノアは息を吸う。


 怖かった。


 声を出そうとすれば、また締まるかもしれない。夢の中の荒野が戻るかもしれない。自分の声で、もう一度死ね、という言葉が喉を縛るかもしれない。


 それでも。


 ノアは口を開いた。


 声は、すぐには出なかった。


 息が漏れる。


 喉が震える。


 黒い糸が締まりかけ、白金の光がそれを支える。


 ノアは、レオを見た。


 そして、掠れた一音を押し出した。


「……レ、オ」


 たった、それだけだった。


 ひどく掠れていた。


 声と呼ぶには弱すぎる。割れた笛のような、細い音だった。


 だが、出た。


 ノア自身の声だった。


 レオの赤い糸が、震えすぎるほど震えた。


 部屋の白金の光が、一瞬だけ大きく揺れる。


 レオは息を止めていた。


 それから、壊れ物に触れるよりも慎重な声で、呼び返した。


「ノア」


 その声は、祈りに似ていた。


 けれど、祈りではなかった。


 そこにいたノアを、ただ呼ぶ声だった。



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