第49話 死を認める声
浮かび上がった一文は、しばらく誰にも触れられなかった。
災厄が己の声で死を認める時、世界は英雄を再び選ぶ。
古い儀礼書の上で、その文字だけが黒く濡れていた。黒魔法のインクではない。聖魔法の祈祷文でもない。紙の奥に眠っていた呪いが、やっと空気を吸ったような気配だった。
ノア・クロウは、椅子の背にもたれたまま、それを見下ろしていた。
喉が痛い。
掠れた声を使いすぎたせいで、喉の奥がまたざらついている。水は机の端に置かれていた。レオが勝手に置いたものだ。白金の治癒が薄く混ぜられている。味はほとんどないが、気配で分かる。
親切。
過保護。
管理。
それらの境目が、最近ずっと曖昧だった。人間の親切はもっと境界線を持っていてほしい。いや、人間でも無理か。人類、だいたい自分の善意に名札を付けないまま相手へ投げる。危険物なのに。
セドリック・バロウズは、儀礼書の端を指で押さえたまま、低く言った。
「……これで、ほぼ核心だ」
レオ・アステルレインは答えなかった。
白金の魔力が、彼の周囲で静かに冷えている。怒りではない。恐怖に近い。けれど、恐怖が白金の光をここまで鋭くできるのなら、聖魔法というものはなかなか質が悪い。
ノアは掠れた声で言った。
「本人確認が厳しすぎる命日だな」
セドリックが眉間に皺を寄せる。
「軽く言うな」
「重く言うと喉が終わるんですー」
「終わらせるな。まだ使う」
「先生まで俺の喉に用事あるの、嫌すぎる」
「違う意味だ」
「どっちでも嫌です」
軽口は出た。
だが、喉の奥は冷えていた。
自分の声で死を認める。
その言葉は、紙の上にあるだけなのに、喉の内側へ触れてくる。伴侶首輪の白い花紋がじわりと熱を持った。黒い亀裂の縁が細く疼く。
レオが一瞬でこちらを見る。
「熱い?」
「少し」
「水を」
「まだいい」
「声が」
「声の点呼禁止」
レオは口を閉じた。
だが、視線はノアの喉から離れない。
セドリックは儀礼書を読み進めた。
「真儀礼の表向きの目的は、黒い災厄の死を再確認し、世界から残滓を切り離すことだ。だが、この一文が本来の術式核だとすれば、ただの追悼ではない」
「ですよね。命日の追悼で本人に死亡確認させるとか、役所でももう少し優しい」
「役所と比べるな」
「どっちも紙で人を殺しそうなので」
セドリックは無視した。
「黒い災厄が、自分は死んだ、世界へ戻らない、英雄に討たれて正しかった、と己の声で認める。その声を鍵に、世界側が英雄を再指定する」
レオの白金の魔力が、さらに冷えた。
「英雄を、再指定」
「そう読める」
「つまり、ノアを災厄として再び指定し、僕を英雄として選び直す」
セドリックは、短く頷いた。
「可能性は高い」
レオの指が、机の縁に触れた。
木が白く凍るように光る。
ノアはその指を見た。
「机、壊すなよ。備品弁償は嫌だ」
レオは、やっと指を離した。
「言わせない」
「俺も言う気ないけどな」
「言わされる可能性がある」
「じゃあ言わされないようにする。口を塞ぐ方向じゃなくてな」
レオが黙った。
その沈黙が、あまりにも分かりやすかった。
ノアは目を細める。
「今、俺を黙らせようとしたな」
レオの瞳が揺れる。
否定しようと思えばできたはずだ。
でも、しなかった。
「……思った」
「正直でよろしい。最悪だけど」
セドリックが深く息を吐いた。
「お前たちの会話は、毎回ぎりぎりで事故を避けているな」
「轢かれる前提の道路みたいに言わないでください」
「実際そうだろう」
ノアは否定できなかった。腹立たしい。教師という生き物は、たまに正しい。困る。
レオは低く言った。
「ノアに、死を認める言葉を言わせるくらいなら、声を封じた方がいい」
部屋の空気が止まる。
ノアは笑わなかった。
セドリックも口を挟まなかった。
レオ自身も、自分の言葉の危うさを分かっている顔をしていた。それでも、その発想は本物だった。
ノアの声を敵に使わせないために。
ノアが言わされる前に。
先に、レオが封じる。
守るために。
奪う。
ノアは、椅子から少し身を起こした。
喉が痛む。伴侶首輪が熱い。けれど、声は出せる。出せるうちに言わなければならない。
「レオ」
レオがこちらを見る。
「俺の声は、敵にも渡さない。お前にも渡さない」
レオの表情が、わずかに歪んだ。
「僕は、君を守りたいだけだ」
「知ってる。でも声を封じた瞬間、お前は俺を守る側じゃなくて、俺の声を奪う側になる」
「そうならないようにする」
「ならない方法が、俺を黙らせることなら、もうなってる」
レオは何も言わなかった。
白金の光が、彼の指先で細く震えている。
ノアは続けた。
「前世で言わなかった言葉を、今度は言わせようとしてる奴がいる。だからって、今世のお前が俺に言葉を言わせないようにするのは違うだろ」
レオの顔から血の気が引く。
イリアス。
セラフィード。
助けてくれと言え。
言わなかった。
言えなかった。
最後まで。
その反復が、レオの喉にも刺さっている。ノアにも刺さっている。だから、今ここで間違えれば、また同じ形へ落ちる。
今度は、英雄教会でも黒災忌会でも、黒幕でもなく、レオ自身の手で。
ノアは掠れた声で、ゆっくり言った。
「俺に死を認めさせるな。俺の声を奪うな。どっちもやるな」
レオの唇が、かすかに動いた。
「……難しい」
「簡単だったら、俺もこんな声で説教してない」
「君が黙ってくれたら、喉は楽になる」
「そういうとこ」
「ごめん」
「謝罪点呼も禁止」
レオは、少しだけ目を伏せた。
その横で、セドリックが儀礼書の別の頁をめくる。
「クロウの言う通りだ。声を封じる術式は、相手の儀礼と似た構造になる可能性がある。本人の発声を外部が管理するという点では同じだ。敵の術式に足場を与えかねない」
レオがセドリックを見る。
「では、どう止める」
「声を消すのではなく、偽造、強制、記録、儀礼への接続を断つ。声そのものは生かす」
ノアは頷いた。
「ほら、先生がまともなこと言ってる」
「いつもまともだ」
「それは異議あり」
「後で減点する」
「成績制度を盾にする大人、汚い」
セドリックは無視して、儀礼書の一文を指した。
「問題は、この『死を認める』がどの程度の発声を必要とするかだ。言葉そのものか、声紋か、魂の同意か。もし魂の同意まで含むなら、単に口を塞いでも意味はない。逆に、苦痛や混乱で発した声を利用される可能性もある」
ノアの首輪が、冷たく熱を持った。
熱いのに冷たい。
嫌な感覚だった。白い花紋が強まり、首元に薄い刺すような痛みが走る。
レオがすぐに動きかける。
ノアは片手を上げて止めた。
「今は触るな」
レオは止まる。
だが、つらそうな顔をした。
ノアはその顔を見て、少しだけ声を和らげた。
「水はもらう」
レオはすぐに杯を渡した。
ノアは受け取り、自分で飲む。
飲み込むと、喉の痛みが少し薄れた。
レオは見ているだけだった。
その「見ているだけ」が、今のところ最大限の譲歩なのだろう。なんだこの難易度の高い観察プレイ。いや変な意味ではない。人間の感情、すぐ変な方向へ転がるから嫌だ。
セドリックは、通達書と儀礼書を並べた。
「『次は、本物の声で』という文言から見て、前の偽造音声や舞台術式は準備段階だろう。声の波形、魂糸の反応、伴侶首輪の防衛癖、アステルレインの遮音結界。相手はそれらを観察している」
レオの目が細くなる。
「僕の結界も」
「利用される可能性がある。お前が声を閉じるほど、相手は『声を閉じ込める構造』を学ぶ」
レオは沈黙した。
それは痛い沈黙だった。
ノアは、わざと軽く言った。
「俺の声、大人気すぎて困るな。握手券でも配る?」
レオが即座に言う。
「配らない」
「真顔」
「配らない」
「二回言うな。冗談だ」
「冗談でも嫌だ」
「声の握手券って何だよ。俺も言ってて嫌になった」
セドリックが小さく咳払いした。
「話を戻す。真儀礼が完成すれば、世界は『黒い災厄は再び死んだ』と認識する。そして英雄を再び選ぶ。つまり、ノア・クロウを災厄として縛り、レオ・アステルレインを英雄として縛る」
ノアは窓の外を見た。
学院の中庭が見える。
白い花の飾りがまだ残っている。災厄忌は終わっていない。祭りの後片付けすら始まっていない。むしろ、ここからが本番なのだろう。
「英雄と災厄の再指定ね」
ノアは小さく笑った。
「肩書きの押し売り、迷惑すぎる」
レオは言った。
「僕は英雄にならない」
ノアは横目で見る。
「俺も災厄になる気はない」
「うん」
「そこは信じるんだ」
「信じたい」
「また微妙な言い方」
「信じる練習をしている」
ノアは少しだけ目を丸くした。
練習。
レオがそんな言葉を使うとは思わなかった。
前なら、信じるより先に結界を張った。行かせないと言った。閉じ込めると言った。今も衝動は消えていない。でも、言い直そうとしている。
ノアは、口元だけで笑った。
「じゃあ練習問題な。俺が調べるって言ったら?」
「止めたい」
「本音」
「止めない方法を考える」
「よし。六点」
「また低い」
「上がってるぞ」
「満点は?」
「遠い」
レオは、ほんの少しだけ笑った。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
ノアの喉がまた詰まったからだ。
儀礼書の文字が、ノアの視界の端で歪んだ。
死を認める声。
世界は英雄を再び選ぶ。
その一文が、喉の奥へ細い針のように刺さる。
ノアの瞳孔が一瞬だけ開いた。
赤い瞳の奥に、黒い影が揺れる。
伴侶首輪の白い花紋が熱を持つ。
レオの赤い糸が、反射的にノアの喉へ伸びかけた。
「巻くな」
ノアの声は低かった。
レオの糸が止まる。
「ごめん」
「謝るな。止まったならいい」
「……うん」
セドリックが封印紙を取り出し、儀礼書の該当箇所へ貼った。
文字の気配が少し薄れる。
「今日はここまでだ。喉も魔力回路も限界に近い」
「先生まで過保護陣営に」
「教師としての判断だ」
「便利な盾」
「減点」
「職権乱用」
セドリックは鼻で笑った。
「夜に夢を見る可能性がある。真儀礼の文言に触れたことで、前世記憶や外部術式が干渉するかもしれない」
レオが硬くなる。
「僕が見ています」
ノアはすぐに言った。
「寝顔監視宣言やめろ」
「赤い糸の反応を見る」
「言い方を変えても寝顔監視」
「君が苦しんだら」
「起こせ。勝手に封じるな。勝手に喉を閉じるな。勝手に夢から引きずり出すな。まず呼べ」
レオは、ゆっくり頷いた。
「まず、呼ぶ」
「よろしい」
「返事がなかったら?」
「もう一回呼べ」
「それでも駄目なら?」
「水」
「その後は?」
「その時考えろ。全部先回りして檻を作るな」
レオは黙り、そしてもう一度頷いた。
「分かった」
本当に分かったかは怪しい。
だが、今はそれでいい。
全部一度に変われるなら、世の中はこんなに面倒ではない。だいたいの人間は三歩進んで二歩下がる。レオの場合、三歩進んで赤い糸を巻こうとする。困る。
その夜。
ノアは寮部屋の寝台に横になっていた。
喉は治癒されているが、まだ掠れている。枕元には水。机の上には封印された通達書。レオは向かいの寝台にいる。眠っているふりはしていない。堂々と起きている。
ノアは天井を見上げた。
「寝ろよ、王子様」
「君が眠ったら」
「順番待ち制?」
「うん」
「正直で腹立つ」
レオは答えなかった。
ノアは目を閉じる。
眠りは浅く、冷たかった。
すぐに、足元の感覚が消えた。
目を開けると、荒野に立っていた。
黒い灰が降っている。
空は暗く、遠くで鐘が鳴っていた。折れた槍、黒く固まった土、白金の光の残滓。前世の最終討伐の荒野だった。
ノアは息を吸う。
喉が動かない。
声が出ない。
なのに、どこかから声がした。
「自分の声で、もう一度死ね」
ノアは目を見開いた。
叫ぼうとした。
レオ、と。
だが喉は動かなかった。




