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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

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第49話 死を認める声



 浮かび上がった一文は、しばらく誰にも触れられなかった。


 災厄が己の声で死を認める時、世界は英雄を再び選ぶ。


 古い儀礼書の上で、その文字だけが黒く濡れていた。黒魔法のインクではない。聖魔法の祈祷文でもない。紙の奥に眠っていた呪いが、やっと空気を吸ったような気配だった。


 ノア・クロウは、椅子の背にもたれたまま、それを見下ろしていた。


 喉が痛い。


 掠れた声を使いすぎたせいで、喉の奥がまたざらついている。水は机の端に置かれていた。レオが勝手に置いたものだ。白金の治癒が薄く混ぜられている。味はほとんどないが、気配で分かる。


 親切。


 過保護。


 管理。


 それらの境目が、最近ずっと曖昧だった。人間の親切はもっと境界線を持っていてほしい。いや、人間でも無理か。人類、だいたい自分の善意に名札を付けないまま相手へ投げる。危険物なのに。


 セドリック・バロウズは、儀礼書の端を指で押さえたまま、低く言った。


「……これで、ほぼ核心だ」


 レオ・アステルレインは答えなかった。


 白金の魔力が、彼の周囲で静かに冷えている。怒りではない。恐怖に近い。けれど、恐怖が白金の光をここまで鋭くできるのなら、聖魔法というものはなかなか質が悪い。


 ノアは掠れた声で言った。


「本人確認が厳しすぎる命日だな」


 セドリックが眉間に皺を寄せる。


「軽く言うな」


「重く言うと喉が終わるんですー」


「終わらせるな。まだ使う」


「先生まで俺の喉に用事あるの、嫌すぎる」


「違う意味だ」


「どっちでも嫌です」


 軽口は出た。


 だが、喉の奥は冷えていた。


 自分の声で死を認める。


 その言葉は、紙の上にあるだけなのに、喉の内側へ触れてくる。伴侶首輪メイト・カラーの白い花紋がじわりと熱を持った。黒い亀裂の縁が細く疼く。


 レオが一瞬でこちらを見る。


「熱い?」


「少し」


「水を」


「まだいい」


「声が」


「声の点呼禁止」


 レオは口を閉じた。


 だが、視線はノアの喉から離れない。


 セドリックは儀礼書を読み進めた。


「真儀礼の表向きの目的は、黒い災厄の死を再確認し、世界から残滓を切り離すことだ。だが、この一文が本来の術式核だとすれば、ただの追悼ではない」


「ですよね。命日の追悼で本人に死亡確認させるとか、役所でももう少し優しい」


「役所と比べるな」


「どっちも紙で人を殺しそうなので」


 セドリックは無視した。


「黒い災厄が、自分は死んだ、世界へ戻らない、英雄に討たれて正しかった、と己の声で認める。その声を鍵に、世界側が英雄を再指定する」


 レオの白金の魔力が、さらに冷えた。


「英雄を、再指定」


「そう読める」


「つまり、ノアを災厄として再び指定し、僕を英雄として選び直す」


 セドリックは、短く頷いた。


「可能性は高い」


 レオの指が、机の縁に触れた。


 木が白く凍るように光る。


 ノアはその指を見た。


「机、壊すなよ。備品弁償は嫌だ」


 レオは、やっと指を離した。


「言わせない」


「俺も言う気ないけどな」


「言わされる可能性がある」


「じゃあ言わされないようにする。口を塞ぐ方向じゃなくてな」


 レオが黙った。


 その沈黙が、あまりにも分かりやすかった。


 ノアは目を細める。


「今、俺を黙らせようとしたな」


 レオの瞳が揺れる。


 否定しようと思えばできたはずだ。


 でも、しなかった。


「……思った」


「正直でよろしい。最悪だけど」


 セドリックが深く息を吐いた。


「お前たちの会話は、毎回ぎりぎりで事故を避けているな」


「轢かれる前提の道路みたいに言わないでください」


「実際そうだろう」


 ノアは否定できなかった。腹立たしい。教師という生き物は、たまに正しい。困る。


 レオは低く言った。


「ノアに、死を認める言葉を言わせるくらいなら、声を封じた方がいい」


 部屋の空気が止まる。


 ノアは笑わなかった。


 セドリックも口を挟まなかった。


 レオ自身も、自分の言葉の危うさを分かっている顔をしていた。それでも、その発想は本物だった。


 ノアの声を敵に使わせないために。


 ノアが言わされる前に。


 先に、レオが封じる。


 守るために。


 奪う。


 ノアは、椅子から少し身を起こした。


 喉が痛む。伴侶首輪が熱い。けれど、声は出せる。出せるうちに言わなければならない。


「レオ」


 レオがこちらを見る。


「俺の声は、敵にも渡さない。お前にも渡さない」


 レオの表情が、わずかに歪んだ。


「僕は、君を守りたいだけだ」


「知ってる。でも声を封じた瞬間、お前は俺を守る側じゃなくて、俺の声を奪う側になる」


「そうならないようにする」


「ならない方法が、俺を黙らせることなら、もうなってる」


 レオは何も言わなかった。


 白金の光が、彼の指先で細く震えている。


 ノアは続けた。


「前世で言わなかった言葉を、今度は言わせようとしてる奴がいる。だからって、今世のお前が俺に言葉を言わせないようにするのは違うだろ」


 レオの顔から血の気が引く。


 イリアス。


 セラフィード。


 助けてくれと言え。


 言わなかった。


 言えなかった。


 最後まで。


 その反復が、レオの喉にも刺さっている。ノアにも刺さっている。だから、今ここで間違えれば、また同じ形へ落ちる。


 今度は、英雄教会でも黒災忌会でも、黒幕でもなく、レオ自身の手で。


 ノアは掠れた声で、ゆっくり言った。


「俺に死を認めさせるな。俺の声を奪うな。どっちもやるな」


 レオの唇が、かすかに動いた。


「……難しい」


「簡単だったら、俺もこんな声で説教してない」


「君が黙ってくれたら、喉は楽になる」


「そういうとこ」


「ごめん」


「謝罪点呼も禁止」


 レオは、少しだけ目を伏せた。


 その横で、セドリックが儀礼書の別の頁をめくる。


「クロウの言う通りだ。声を封じる術式は、相手の儀礼と似た構造になる可能性がある。本人の発声を外部が管理するという点では同じだ。敵の術式に足場を与えかねない」


 レオがセドリックを見る。


「では、どう止める」


「声を消すのではなく、偽造、強制、記録、儀礼への接続を断つ。声そのものは生かす」


 ノアは頷いた。


「ほら、先生がまともなこと言ってる」


「いつもまともだ」


「それは異議あり」


「後で減点する」


「成績制度を盾にする大人、汚い」


 セドリックは無視して、儀礼書の一文を指した。


「問題は、この『死を認める』がどの程度の発声を必要とするかだ。言葉そのものか、声紋か、魂の同意か。もし魂の同意まで含むなら、単に口を塞いでも意味はない。逆に、苦痛や混乱で発した声を利用される可能性もある」


 ノアの首輪が、冷たく熱を持った。


 熱いのに冷たい。


 嫌な感覚だった。白い花紋が強まり、首元に薄い刺すような痛みが走る。


 レオがすぐに動きかける。


 ノアは片手を上げて止めた。


「今は触るな」


 レオは止まる。


 だが、つらそうな顔をした。


 ノアはその顔を見て、少しだけ声を和らげた。


「水はもらう」


 レオはすぐに杯を渡した。


 ノアは受け取り、自分で飲む。


 飲み込むと、喉の痛みが少し薄れた。


 レオは見ているだけだった。


 その「見ているだけ」が、今のところ最大限の譲歩なのだろう。なんだこの難易度の高い観察プレイ。いや変な意味ではない。人間の感情、すぐ変な方向へ転がるから嫌だ。


 セドリックは、通達書と儀礼書を並べた。


「『次は、本物の声で』という文言から見て、前の偽造音声や舞台術式は準備段階だろう。声の波形、魂糸の反応、伴侶首輪の防衛癖、アステルレインの遮音結界。相手はそれらを観察している」


 レオの目が細くなる。


「僕の結界も」


「利用される可能性がある。お前が声を閉じるほど、相手は『声を閉じ込める構造』を学ぶ」


 レオは沈黙した。


 それは痛い沈黙だった。


 ノアは、わざと軽く言った。


「俺の声、大人気すぎて困るな。握手券でも配る?」


 レオが即座に言う。


「配らない」


「真顔」


「配らない」


「二回言うな。冗談だ」


「冗談でも嫌だ」


「声の握手券って何だよ。俺も言ってて嫌になった」


 セドリックが小さく咳払いした。


「話を戻す。真儀礼が完成すれば、世界は『黒い災厄は再び死んだ』と認識する。そして英雄を再び選ぶ。つまり、ノア・クロウを災厄として縛り、レオ・アステルレインを英雄として縛る」


 ノアは窓の外を見た。


 学院の中庭が見える。


 白い花の飾りがまだ残っている。災厄忌は終わっていない。祭りの後片付けすら始まっていない。むしろ、ここからが本番なのだろう。


「英雄と災厄の再指定ね」


 ノアは小さく笑った。


「肩書きの押し売り、迷惑すぎる」


 レオは言った。


「僕は英雄にならない」


 ノアは横目で見る。


「俺も災厄になる気はない」


「うん」


「そこは信じるんだ」


「信じたい」


「また微妙な言い方」


「信じる練習をしている」


 ノアは少しだけ目を丸くした。


 練習。


 レオがそんな言葉を使うとは思わなかった。


 前なら、信じるより先に結界を張った。行かせないと言った。閉じ込めると言った。今も衝動は消えていない。でも、言い直そうとしている。


 ノアは、口元だけで笑った。


「じゃあ練習問題な。俺が調べるって言ったら?」


「止めたい」


「本音」


「止めない方法を考える」


「よし。六点」


「また低い」


「上がってるぞ」


「満点は?」


「遠い」


 レオは、ほんの少しだけ笑った。


 けれど、その笑みはすぐに消えた。


 ノアの喉がまた詰まったからだ。


 儀礼書の文字が、ノアの視界の端で歪んだ。


 死を認める声。


 世界は英雄を再び選ぶ。


 その一文が、喉の奥へ細い針のように刺さる。


 ノアの瞳孔が一瞬だけ開いた。


 赤い瞳の奥に、黒い影が揺れる。


 伴侶首輪の白い花紋が熱を持つ。


 レオの赤い糸が、反射的にノアの喉へ伸びかけた。


「巻くな」


 ノアの声は低かった。


 レオの糸が止まる。


「ごめん」


「謝るな。止まったならいい」


「……うん」


 セドリックが封印紙を取り出し、儀礼書の該当箇所へ貼った。


 文字の気配が少し薄れる。


「今日はここまでだ。喉も魔力回路も限界に近い」


「先生まで過保護陣営に」


「教師としての判断だ」


「便利な盾」


「減点」


「職権乱用」


 セドリックは鼻で笑った。


「夜に夢を見る可能性がある。真儀礼の文言に触れたことで、前世記憶や外部術式が干渉するかもしれない」


 レオが硬くなる。


「僕が見ています」


 ノアはすぐに言った。


「寝顔監視宣言やめろ」


「赤い糸の反応を見る」


「言い方を変えても寝顔監視」


「君が苦しんだら」


「起こせ。勝手に封じるな。勝手に喉を閉じるな。勝手に夢から引きずり出すな。まず呼べ」


 レオは、ゆっくり頷いた。


「まず、呼ぶ」


「よろしい」


「返事がなかったら?」


「もう一回呼べ」


「それでも駄目なら?」


「水」


「その後は?」


「その時考えろ。全部先回りして檻を作るな」


 レオは黙り、そしてもう一度頷いた。


「分かった」


 本当に分かったかは怪しい。


 だが、今はそれでいい。


 全部一度に変われるなら、世の中はこんなに面倒ではない。だいたいの人間は三歩進んで二歩下がる。レオの場合、三歩進んで赤い糸を巻こうとする。困る。


 その夜。


 ノアは寮部屋の寝台に横になっていた。


 喉は治癒されているが、まだ掠れている。枕元には水。机の上には封印された通達書。レオは向かいの寝台にいる。眠っているふりはしていない。堂々と起きている。


 ノアは天井を見上げた。


「寝ろよ、王子様」


「君が眠ったら」


「順番待ち制?」


「うん」


「正直で腹立つ」


 レオは答えなかった。


 ノアは目を閉じる。


 眠りは浅く、冷たかった。


 すぐに、足元の感覚が消えた。


 目を開けると、荒野に立っていた。


 黒い灰が降っている。


 空は暗く、遠くで鐘が鳴っていた。折れた槍、黒く固まった土、白金の光の残滓。前世の最終討伐の荒野だった。


 ノアは息を吸う。


 喉が動かない。


 声が出ない。


 なのに、どこかから声がした。


「自分の声で、もう一度死ね」


 ノアは目を見開いた。


 叫ぼうとした。


 レオ、と。


 だが喉は動かなかった。

 



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