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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

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第48話 英雄教会の真儀礼



 セドリック・バロウズの研究室は、学院の北棟の端にあった。


 黒魔法科の教師らしい、と言えば聞こえはいい。実際には、ほとんど半地下の倉庫だった。窓は細く、朝の光は薄い線になって床へ落ちるだけ。壁一面に古い魔法書と封印箱が積まれ、机の上には黒曜石の文鎮、封印蝋、銀の針、乾いた薬草、魔力波形を記録する水晶板が乱雑に置かれていた。


 紙と埃と封印蝋の匂いがする。


 奥の棚では、結界を張られた古文書が小さく軋んでいた。まるで、中に閉じ込められた文字が呼吸しているような音だった。


 ノア・クロウは椅子に腰かけ、喉へ手を当てた。


 まだ声は掠れている。


 朝よりはましだ。レオが水を渡し、喉を癒し、赤い糸が喉へ絡まないよう調整したおかげで、音は出る。腹立たしいほど出る。治療効果が高すぎるのも困りものだ。感謝しないといけなくなる。人類の礼儀システム、面倒くさい。


 そのレオ・アステルレインは、ノアのすぐ横に立っていた。


 近い。


 もう、近いという単語では足りない。椅子の背後に白金の結界を薄く張り、ノアの喉、首輪、赤い糸、魔力回路、呼吸まで確認している。本人は表情だけ穏やかにしているが、完全に警戒態勢だ。


 ノアは横目で見た。


「王子様、近い。俺、研究資料じゃないぞ」


 レオはすぐに答えた。


「分かっている」


「分かってる距離じゃない」


「離れる?」


「一歩」


 レオは一歩下がった。


 本当に一歩だけ。


 ノアは目を細める。


「そこまで正確に一歩を守るな。逆に怖い」


「君が一歩と言った」


「言葉を字面通りに受け取りすぎ」


「君の声は今、掠れているから、無駄にさせたくない」


「声の節約まで始まった。嫌な福祉」


 セドリックが机の向こうで眉間を押さえた。


「お前たち、研究室で痴話喧嘩を始めるな」


「痴話じゃないです。声帯の基本的人権について協議中です」


「余計に面倒な議題にするな」


 セドリックは黒い革表紙の儀礼書を机に置いた。


 古い本だった。


 革は乾き、角は白く摩耗し、中央には英雄教会の聖印が押されている。白い花と、剣と、祈りの輪。表向きには清らかな図案なのに、その縁の一部に、黒い染みのような文字が絡みついていた。


 ノアの伴侶首輪が、微かに熱を持つ。


 レオが即座に反応した。


「熱い?」


「ちょっとな。まだ喉までは来てない」


「水」


「まだいらない」


「声が」


「点呼禁止」


 レオは黙った。


 黙ったが、机の端に水を置いた。視界に入る位置。いつでも飲める位置。なんというか、飼育環境が整っている。ノアは人間であって、病弱な黒魔法生物ではない。たぶん。


 セドリックは儀礼書を開いた。


 古い紙が乾いた音を立てる。


「災厄忌には、学院で行われる表向きの英雄劇とは別に、英雄教会が長く管理してきた古い儀礼がある」


 ノアは掠れた声で言った。


「裏メニュー?」


「軽く言うな」


「重く言うと喉が痛いんですー」


「なら黙って聞け」


「それはそれで怪しいだろ」


 セドリックは無視して、儀礼書の一頁を指した。


「名は、真儀礼。目的は、黒い災厄の死を再確認し、世界から災厄の残滓を切り離すこと、とある」


 レオの顔から温度が消えた。


「死を、再確認」


 その声は低かった。


 ノアは、無意識に首元へ触れる。


 黒い亀裂と白い花の紋様が、薄く疼いた。


「本人不在の命日確認、雑すぎない?」


 セドリックは目を細めた。


「普通は本人が転生して学院にいるとは想定しない」


「想定外にも程があるな、俺」


「そこは否定しないのか」


「今さら否定しても、首輪が熱くなるだけなので」


 レオがノアを見る。


 その視線は、少し痛い。


 ノアはわざと肩をすくめた。


「認めたわけじゃないぞ。状況がしつこいだけ」


「うん」


「その“うん”も重い」


「軽く言う努力をする」


「努力項目が多い男」


 セドリックが、儀礼書の次の頁を開く。


 そこには、古代語の祈祷文が並んでいた。


 英雄の名。


 災厄の名。


 死の確認。


 世界からの切断。


 白い花。


 聖剣。


 祈り。


 その合間に、黒く塗り潰された箇所がいくつもある。後世の誰かが消したのか、最初から隠されていたのかは分からない。ただ、紙の奥に残る魔力の癖は、不自然だった。


 ノアは身を乗り出しかけた。


 レオの赤い糸が強く張る。


 ノアは止まって、横を見た。


「引っ張るな」


「近づきすぎ」


「資料だぞ」


「君に反応している」


「俺も反応してる。資料に」


「だから怖い」


「怖がるなとは言わないけど、動線を全部塞ぐな」


 レオは唇を引き結んだ。


 それでも、赤い糸の圧を少し緩めた。


 ノアは軽く息を吐く。


「よし。二点加算」


「低い」


「積み重ねが大事」


 セドリックは二人を見ないふりで続けた。


「古い記述には不自然な空白が多い。だが、塗り潰されていない箇所から推測すると、真儀礼は単に災厄の死を祈る儀礼ではない」


「でしょうね。楽しいお祭りじゃないことは分かってます」


「本来は、災厄本人の声を使う儀式だった可能性がある」


 その瞬間、部屋の空気が変わった。


 レオの白金の魔力が、音もなく張り詰める。


 ノアの伴侶首輪が熱を持った。白い花の紋様が、内側で一瞬だけ浮かぶ。魂糸が喉の奥の震えを拾い、赤い糸が反射的にノアの声を守ろうと伸びかけた。


 ノアは喉を押さえる。


「……来るな」


 レオの手が止まる。


 赤い糸が、喉へ絡む寸前で止まった。


 ノアは、ゆっくり息を吐く。


「レオ。今のは資料に反応しただけ。閉じるな」


「閉じたい」


「言うな」


「使わせたくない」


「分かってる」


「ノアの声を、真儀礼に使わせない」


「分かってる。でも俺の声は俺が使う。相手に使わせないために、お前が先に封じるのは違う」


 レオは息を呑んだ。


 ノアは、痛む喉で続ける。


「止めるな。調べる」


「君を調べる材料にしたくない」


「俺抜きで俺の問題を解くなって言っただろ」


「……覚えている」


「えらい」


「褒められると、余計に止めづらくなる」


「じゃあ褒めない」


「それは嫌だ」


「注文が多いな、王子様」


 レオは、それでも引いた。


 完全には離れない。


 だが、ノアの視界を塞がない位置へ下がる。


 ノアは儀礼書へ手を伸ばした。


 指先が紙に触れる直前、セドリックが止める。


「素手で触るな。古い祈祷文だ。反応が読めない」


「先生、まとも」


「今まで何だと思っていた」


「黒魔法科の不穏な大人」


「だいたい合っているな」


 セドリックは薄い黒手袋をノアへ渡した。


 ノアはそれをつける。


 紙に触れる。


 冷たい。


 古い聖魔法の匂いがする。白い花、祈り、火、灰。その下に黒魔導書系の構文が、細い根のように絡みついている。


 さらに奥。


 もっと古いもの。


 ノアの黒魔法が、そこに触れた。


 首輪がじわりと熱くなる。


 喉が詰まる。


 声は出せる。まだ出せる。


 ノアは低く呟いた。


「……これ、英雄教会だけじゃない」


 セドリックが目を細める。


「何が見える」


「祈祷文の骨組みに、黒魔導書の構文が混ざってる。でもそれだけじゃない。接続の仕方が変だ。白と黒を繋ぐための中継がある」


「中継?」


「外部術式。前世の同盟儀式を汚したやつに似てる」


 レオの魔力が、静かに冷えた。


「オルドレイス」


 ノアは、その名を聞いて喉を押さえた。


 嫌な名前だ。


 口にされただけで、黒い頁の端がめくれるような気がする。


 セドリックが険しい声で言う。


「英雄教会は、災厄の残滓を切り離す儀礼を守っていたつもりだったのだろう。だが、儀礼そのものに別の術式が仕込まれていたなら話が変わる」


「守ってるつもりで、ずっと誰かの罠を継承してたってことですか」


「可能性の話だ」


「最悪の伝統芸能」


 レオは儀礼書を見つめたまま言った。


「真儀礼に、ノアの声を使うと何が起きる」


 セドリックは、しばらく答えなかった。


 その沈黙だけで、だいたいろくでもないと分かる。世の中、嫌な答えほど溜める。さっさと言え。どうせ痛い。


 やがてセドリックは言った。


「表向きには、災厄の死の再確認だ。だが、声とは魂の形に近い。本人の声で死を認めさせるなら、それは単なる追悼ではない。魂へ命令を刻む儀礼になる」


 ノアは小さく笑った。


「死ねって本人に言わせるわけか」


 レオの顔が強張る。


「ノア」


「分かってる。笑いごとじゃない」


「なら」


「でも笑わないと、喉じゃなくて胃が死ぬ」


 レオは黙った。


 ノアは儀礼書を読み進める。


 黒く塗り潰された文が多い。


 ところどころ、白い花の印で隠されている。だが黒魔法を薄く流すと、紙の奥に残ったインクの記憶が浮かびかけた。


 ノアの瞳が少しだけ赤黒く濁る。


 レオの赤い糸が張る。


「ノア」


「大丈夫。ちょっと見るだけ」


「ちょっとで済む保証は」


「ない。でも見ないと分からない」


「止めたい」


「止めるな」


 ノアの声は静かだった。


 掠れてはいる。


 けれど、揺れていない。


 レオは止めなかった。


 ノアは黒魔法を指先へ集めた。


 黒い霧が薄く広がる。邪悪というには細い。だが、光では届かない紙の奥へ滑り込み、塗り潰された文字の下に残る形を拾っていく。


 セドリックが息を呑む。


「その制御力で、その喉か」


「褒められてます?」


「呆れている」


「先生の愛情表現、怖い」


 黒い霧が一文を浮かび上がらせる。


 まだ薄い。


 ノアは喉の痛みを飲み込み、さらに魔力を絞った。


 伴侶首輪の白い花紋が熱を持つ。


 赤い糸が、ノアの喉へ守るように巻こうとする。


 ノアは低く言う。


「巻くな」


 レオの糸が止まる。


 けれど、震えている。


 ノアは、儀礼書へ視線を落とした。


 塗り潰された一文が、黒い霧の中から現れる。


 災厄が己の声で死を認める時、世界は英雄を再び選ぶ。


 部屋のすべての音が、遠くなった。


 紙と埃と封印蝋の匂い。


 白金の魔力灯。


 セドリックの沈黙。


 レオの呼吸。


 ノアの喉の痛み。


 全部が、ひとつの文に吸い込まれていく。


 災厄が己の声で死を認める時。


 世界は英雄を再び選ぶ。


 ノアは、ゆっくり瞬きをした。


「……なるほど」


 声が掠れた。


 レオの赤い糸が鋭く張った。


 まるで、今にも喉を守るために閉じてしまいそうに。


 ノアはレオを見ずに言った。


「閉じるなよ、王子様」


 レオは答えなかった。


 白金の魔力だけが、痛いほど冷たく張り詰めていた。



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