第48話 英雄教会の真儀礼
セドリック・バロウズの研究室は、学院の北棟の端にあった。
黒魔法科の教師らしい、と言えば聞こえはいい。実際には、ほとんど半地下の倉庫だった。窓は細く、朝の光は薄い線になって床へ落ちるだけ。壁一面に古い魔法書と封印箱が積まれ、机の上には黒曜石の文鎮、封印蝋、銀の針、乾いた薬草、魔力波形を記録する水晶板が乱雑に置かれていた。
紙と埃と封印蝋の匂いがする。
奥の棚では、結界を張られた古文書が小さく軋んでいた。まるで、中に閉じ込められた文字が呼吸しているような音だった。
ノア・クロウは椅子に腰かけ、喉へ手を当てた。
まだ声は掠れている。
朝よりはましだ。レオが水を渡し、喉を癒し、赤い糸が喉へ絡まないよう調整したおかげで、音は出る。腹立たしいほど出る。治療効果が高すぎるのも困りものだ。感謝しないといけなくなる。人類の礼儀システム、面倒くさい。
そのレオ・アステルレインは、ノアのすぐ横に立っていた。
近い。
もう、近いという単語では足りない。椅子の背後に白金の結界を薄く張り、ノアの喉、首輪、赤い糸、魔力回路、呼吸まで確認している。本人は表情だけ穏やかにしているが、完全に警戒態勢だ。
ノアは横目で見た。
「王子様、近い。俺、研究資料じゃないぞ」
レオはすぐに答えた。
「分かっている」
「分かってる距離じゃない」
「離れる?」
「一歩」
レオは一歩下がった。
本当に一歩だけ。
ノアは目を細める。
「そこまで正確に一歩を守るな。逆に怖い」
「君が一歩と言った」
「言葉を字面通りに受け取りすぎ」
「君の声は今、掠れているから、無駄にさせたくない」
「声の節約まで始まった。嫌な福祉」
セドリックが机の向こうで眉間を押さえた。
「お前たち、研究室で痴話喧嘩を始めるな」
「痴話じゃないです。声帯の基本的人権について協議中です」
「余計に面倒な議題にするな」
セドリックは黒い革表紙の儀礼書を机に置いた。
古い本だった。
革は乾き、角は白く摩耗し、中央には英雄教会の聖印が押されている。白い花と、剣と、祈りの輪。表向きには清らかな図案なのに、その縁の一部に、黒い染みのような文字が絡みついていた。
ノアの伴侶首輪が、微かに熱を持つ。
レオが即座に反応した。
「熱い?」
「ちょっとな。まだ喉までは来てない」
「水」
「まだいらない」
「声が」
「点呼禁止」
レオは黙った。
黙ったが、机の端に水を置いた。視界に入る位置。いつでも飲める位置。なんというか、飼育環境が整っている。ノアは人間であって、病弱な黒魔法生物ではない。たぶん。
セドリックは儀礼書を開いた。
古い紙が乾いた音を立てる。
「災厄忌には、学院で行われる表向きの英雄劇とは別に、英雄教会が長く管理してきた古い儀礼がある」
ノアは掠れた声で言った。
「裏メニュー?」
「軽く言うな」
「重く言うと喉が痛いんですー」
「なら黙って聞け」
「それはそれで怪しいだろ」
セドリックは無視して、儀礼書の一頁を指した。
「名は、真儀礼。目的は、黒い災厄の死を再確認し、世界から災厄の残滓を切り離すこと、とある」
レオの顔から温度が消えた。
「死を、再確認」
その声は低かった。
ノアは、無意識に首元へ触れる。
黒い亀裂と白い花の紋様が、薄く疼いた。
「本人不在の命日確認、雑すぎない?」
セドリックは目を細めた。
「普通は本人が転生して学院にいるとは想定しない」
「想定外にも程があるな、俺」
「そこは否定しないのか」
「今さら否定しても、首輪が熱くなるだけなので」
レオがノアを見る。
その視線は、少し痛い。
ノアはわざと肩をすくめた。
「認めたわけじゃないぞ。状況がしつこいだけ」
「うん」
「その“うん”も重い」
「軽く言う努力をする」
「努力項目が多い男」
セドリックが、儀礼書の次の頁を開く。
そこには、古代語の祈祷文が並んでいた。
英雄の名。
災厄の名。
死の確認。
世界からの切断。
白い花。
聖剣。
祈り。
その合間に、黒く塗り潰された箇所がいくつもある。後世の誰かが消したのか、最初から隠されていたのかは分からない。ただ、紙の奥に残る魔力の癖は、不自然だった。
ノアは身を乗り出しかけた。
レオの赤い糸が強く張る。
ノアは止まって、横を見た。
「引っ張るな」
「近づきすぎ」
「資料だぞ」
「君に反応している」
「俺も反応してる。資料に」
「だから怖い」
「怖がるなとは言わないけど、動線を全部塞ぐな」
レオは唇を引き結んだ。
それでも、赤い糸の圧を少し緩めた。
ノアは軽く息を吐く。
「よし。二点加算」
「低い」
「積み重ねが大事」
セドリックは二人を見ないふりで続けた。
「古い記述には不自然な空白が多い。だが、塗り潰されていない箇所から推測すると、真儀礼は単に災厄の死を祈る儀礼ではない」
「でしょうね。楽しいお祭りじゃないことは分かってます」
「本来は、災厄本人の声を使う儀式だった可能性がある」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
レオの白金の魔力が、音もなく張り詰める。
ノアの伴侶首輪が熱を持った。白い花の紋様が、内側で一瞬だけ浮かぶ。魂糸が喉の奥の震えを拾い、赤い糸が反射的にノアの声を守ろうと伸びかけた。
ノアは喉を押さえる。
「……来るな」
レオの手が止まる。
赤い糸が、喉へ絡む寸前で止まった。
ノアは、ゆっくり息を吐く。
「レオ。今のは資料に反応しただけ。閉じるな」
「閉じたい」
「言うな」
「使わせたくない」
「分かってる」
「ノアの声を、真儀礼に使わせない」
「分かってる。でも俺の声は俺が使う。相手に使わせないために、お前が先に封じるのは違う」
レオは息を呑んだ。
ノアは、痛む喉で続ける。
「止めるな。調べる」
「君を調べる材料にしたくない」
「俺抜きで俺の問題を解くなって言っただろ」
「……覚えている」
「えらい」
「褒められると、余計に止めづらくなる」
「じゃあ褒めない」
「それは嫌だ」
「注文が多いな、王子様」
レオは、それでも引いた。
完全には離れない。
だが、ノアの視界を塞がない位置へ下がる。
ノアは儀礼書へ手を伸ばした。
指先が紙に触れる直前、セドリックが止める。
「素手で触るな。古い祈祷文だ。反応が読めない」
「先生、まとも」
「今まで何だと思っていた」
「黒魔法科の不穏な大人」
「だいたい合っているな」
セドリックは薄い黒手袋をノアへ渡した。
ノアはそれをつける。
紙に触れる。
冷たい。
古い聖魔法の匂いがする。白い花、祈り、火、灰。その下に黒魔導書系の構文が、細い根のように絡みついている。
さらに奥。
もっと古いもの。
ノアの黒魔法が、そこに触れた。
首輪がじわりと熱くなる。
喉が詰まる。
声は出せる。まだ出せる。
ノアは低く呟いた。
「……これ、英雄教会だけじゃない」
セドリックが目を細める。
「何が見える」
「祈祷文の骨組みに、黒魔導書の構文が混ざってる。でもそれだけじゃない。接続の仕方が変だ。白と黒を繋ぐための中継がある」
「中継?」
「外部術式。前世の同盟儀式を汚したやつに似てる」
レオの魔力が、静かに冷えた。
「オルドレイス」
ノアは、その名を聞いて喉を押さえた。
嫌な名前だ。
口にされただけで、黒い頁の端がめくれるような気がする。
セドリックが険しい声で言う。
「英雄教会は、災厄の残滓を切り離す儀礼を守っていたつもりだったのだろう。だが、儀礼そのものに別の術式が仕込まれていたなら話が変わる」
「守ってるつもりで、ずっと誰かの罠を継承してたってことですか」
「可能性の話だ」
「最悪の伝統芸能」
レオは儀礼書を見つめたまま言った。
「真儀礼に、ノアの声を使うと何が起きる」
セドリックは、しばらく答えなかった。
その沈黙だけで、だいたいろくでもないと分かる。世の中、嫌な答えほど溜める。さっさと言え。どうせ痛い。
やがてセドリックは言った。
「表向きには、災厄の死の再確認だ。だが、声とは魂の形に近い。本人の声で死を認めさせるなら、それは単なる追悼ではない。魂へ命令を刻む儀礼になる」
ノアは小さく笑った。
「死ねって本人に言わせるわけか」
レオの顔が強張る。
「ノア」
「分かってる。笑いごとじゃない」
「なら」
「でも笑わないと、喉じゃなくて胃が死ぬ」
レオは黙った。
ノアは儀礼書を読み進める。
黒く塗り潰された文が多い。
ところどころ、白い花の印で隠されている。だが黒魔法を薄く流すと、紙の奥に残ったインクの記憶が浮かびかけた。
ノアの瞳が少しだけ赤黒く濁る。
レオの赤い糸が張る。
「ノア」
「大丈夫。ちょっと見るだけ」
「ちょっとで済む保証は」
「ない。でも見ないと分からない」
「止めたい」
「止めるな」
ノアの声は静かだった。
掠れてはいる。
けれど、揺れていない。
レオは止めなかった。
ノアは黒魔法を指先へ集めた。
黒い霧が薄く広がる。邪悪というには細い。だが、光では届かない紙の奥へ滑り込み、塗り潰された文字の下に残る形を拾っていく。
セドリックが息を呑む。
「その制御力で、その喉か」
「褒められてます?」
「呆れている」
「先生の愛情表現、怖い」
黒い霧が一文を浮かび上がらせる。
まだ薄い。
ノアは喉の痛みを飲み込み、さらに魔力を絞った。
伴侶首輪の白い花紋が熱を持つ。
赤い糸が、ノアの喉へ守るように巻こうとする。
ノアは低く言う。
「巻くな」
レオの糸が止まる。
けれど、震えている。
ノアは、儀礼書へ視線を落とした。
塗り潰された一文が、黒い霧の中から現れる。
災厄が己の声で死を認める時、世界は英雄を再び選ぶ。
部屋のすべての音が、遠くなった。
紙と埃と封印蝋の匂い。
白金の魔力灯。
セドリックの沈黙。
レオの呼吸。
ノアの喉の痛み。
全部が、ひとつの文に吸い込まれていく。
災厄が己の声で死を認める時。
世界は英雄を再び選ぶ。
ノアは、ゆっくり瞬きをした。
「……なるほど」
声が掠れた。
レオの赤い糸が鋭く張った。
まるで、今にも喉を守るために閉じてしまいそうに。
ノアはレオを見ずに言った。
「閉じるなよ、王子様」
レオは答えなかった。
白金の魔力だけが、痛いほど冷たく張り詰めていた。




