第47話 次は、本物の声で
通達書の裏に浮かんだ黒い文字は、朝の光の中でも消えなかった。
次は、本物の声で。
細く、濡れたような古代語だった。紙に書かれているというより、紙の繊維の奥から染み出している。黒魔法の匂いだけではない。白い祈祷文の残滓も混ざっていた。聖魔法の清らかな光が、腐った水に落とされて濁ったような気配。
ノア・クロウは、寝台の上からそれを見ていた。
喉はまだ痛い。
昨夜の重度反応のせいで、声は戻りきっていない。息をするだけなら平気だが、声を出すたびに喉の奥がざらつく。伴侶首輪の内側には黒い亀裂と白い花の紋様が残り、魔力回路は鈍く、身体はまだ重かった。
なのに、朝から文字が煽ってくる。
実に勤勉な嫌がらせだ。働き者の悪意ほど厄介なものはない。休め。永久に。
レオ・アステルレインは、通達書を持ったまま立っていた。
白金の火が、彼の指先に灯る。
静かな火だった。
紙ごと燃やし、痕跡も、文字も、気配も、何もかも灰にしようとする火。
ノアは掠れた声で言った。
「燃やしたら、次が見えない」
レオの手が止まる。
火は消えない。
紙の端を白く照らしながら、ぎりぎりで燃やさずにいる。
「君を餌にしたくない」
「餌じゃない。針を仕込む側だ」
「針を持つ手ごと狙われている」
「じゃあ手袋でも用意しろ。箱にしまうな」
声を出すたび、喉が痛んだ。
レオはそれを聞き取る。
聞き取らないはずがない。赤い糸も魂糸も、ノアの喉の震えを細かく拾っている。掠れ、息の詰まり、声の端に混じる痛み。全部、レオへ届いている。
その事実に気づいた瞬間、ノアの首元が熱を持った。
赤い糸が喉へ伸びようとしている。
ノアは反射的に首元を押さえた。
「……伸びてる」
レオが目を上げる。
「痛い?」
「痛いより、気持ち悪い。喉まで来るな」
レオの表情が硬くなる。
「声を守るためだよ」
「俺の声を守るって言いながら、俺の声を先に閉じるな」
レオは黙った。
その沈黙が、ほとんど肯定だった。
ノアは寝台の背へ身体を預ける。まだ上体を起こしているだけで疲れる。だが、ここで寝転がるわけにはいかなかった。寝転がれば、レオは通達書を燃やし、喉に聖魔法を巻き、魂糸で音を塞ぎ、何もかも「君のため」と言いながら片づける。
それが見えていた。
だから、ノアは掠れた声を無理やり出した。
「閉じなければ、奪われるって思ってるんだろ」
レオの瞳が揺れた。
「思っている」
「正直」
「昨日、君の声は奪われかけた」
「知ってる」
「偽物の声も作られた。君が言っていない言葉を、君の声で言わせた」
「知ってる」
「舞台術式は、君の絶叫を拾おうとした」
「知ってる」
「次は、本物の声で、と書いてある」
「見えてる」
ノアは通達書を睨んだ。
黒い文字は、こちらを見返すようにじっと沈黙している。
次は、本物の声で。
偽物ではなく。
影が真似た声でもなく。
仮面が囁いた名でもなく。
舞台術式が記録から作った歪んだセラフィードの声でもなく。
ノア自身の喉で。
ノア自身の声で。
何かを言わせようとしている。
助けて。
黒い災厄としての叫び。
あるいは、前世の最後に歪められた言葉。
そのどれを狙っているのかは分からない。だが、ろくでもないことだけは分かる。人類、ここまで来ると推理も何もない。床に落ちている釘を見て「踏んだら痛い」と判断するのと同じだ。
レオは低く言った。
「閉じなければ、奪われる」
「奪われないように戦うんだろ。俺ごと箱にしまうな」
「箱ではなく、結界だ」
「そういう言い換えで罪が軽くなると思ってる?」
「思っていない」
「じゃあ言うな」
レオは、通達書を机に置いた。
燃やすことはしなかった。
しかし、白金の火は消えていない。紙の周囲に小さな防壁を作り、黒い文字の魔力が外へ漏れないよう閉じている。封じる。閉じる。守る。遮断する。
全部、レオの得意な形だ。
ノアはその指先を見た。
「レオ」
「何」
「俺の声は、お前の物じゃない」
レオの顔から、わずかに血の気が引いた。
きつい言葉だ。
分かっている。
けれど、言わなければいけない。
「お前が誰より聞いてるのは知ってる。俺が掠れたら水出すし、喉が痛けりゃ治すし、ちょっと軽い声出しただけで嘘って分かるし、まあ怖いくらい聞いてる」
「怖がらせたいわけじゃない」
「知ってる。でも怖い時は怖い」
レオは反論しなかった。
ノアは、少しだけ声を落とした。
「敵に使われるのは嫌だ。でも、お前が先に閉じたら同じだ。俺の声を奪う順番を取り合うな」
レオは、息を詰めた。
伴侶首輪が熱を持つ。
レオの不安が伝わってきた。
ノアは顔をしかめる。
「熱い」
「ごめん」
「謝る前に抑えろ」
「分かっている」
「分かってないから熱いんだろ」
レオは目を伏せ、白金の魔力を慎重に細めた。
首輪の熱が少し下がる。
赤い糸はまだ喉の近くで震えていた。声帯を守るため、音域を囲うため、魂糸の振動を制御するため。言い方を変えれば、ノアの声が外へ出る道をレオが管理するため。
レオ自身もそれを理解している。
理解していて、なお止めきれない。
ノアは水差しへ手を伸ばした。
指が少し震える。
すぐにレオが杯を取ろうとする。
ノアは目で止めた。
「自分で飲む」
「分かった」
レオは手を引いた。
それだけで、ほんの少し空気が変わる。
ノアは自分で杯を取り、水を飲んだ。
喉が痛む。白金の治癒が薄く混ざっている水なのに、それでも少し引っかかる。飲み込むたびに、昨日の絶叫の残滓が喉の奥でざらついた。
レオはそれを見ている。
見ているだけ。
ぎりぎりで。
ノアは杯を置いた。
「声の点呼、多い」
レオが瞬いた。
「点呼?」
「起きてから何回確認した? 声は戻ったか、掠れてるか、痛いか、喋れるか、軽口出るか」
「大事だから」
「俺の声、出席番号ついてる?」
「つけない」
「そこは冷静に返すな」
レオの口元が、少しだけ緩んだ。
けれど、その微笑みはすぐに消える。
「喉を見てもいい?」
「見るだけ?」
「声帯保護の術式を確認したい」
「ほら出た。保護って言いながら管理するやつ」
「……管理になる」
「自覚あり」
「ある」
「じゃあ、何するか言え。全部」
レオは少し黙った。
それから、ゆっくり言葉を選ぶように話し始めた。
「喉に残った魔力傷の確認。声帯周辺の黒い残滓の除去。伴侶首輪から喉へ伸びかけている赤い糸の振動制御。魂糸が君の声を拾う範囲の調整。外部術式が君の声の波形を記録しないように、薄い遮断膜を張る」
「ほぼ監視カメラと防犯シャッター」
「違う」
「違うところ探す方が難しい」
「君の声を塞がない。声は出せる」
「誰に届く?」
レオは黙った。
ノアは笑わなかった。
「そこだよ」
レオの指がわずかに強張る。
「外に届かせれば、拾われるかもしれない」
「全部遮断すれば、俺の声はお前の中だけに閉じる」
「……うん」
「その返事、正直すぎて腹立つ」
「ごめん」
「謝罪点呼も多い」
レオは目を伏せた。
ノアは喉を押さえる。
痛い。
喋りすぎている。
でも、ここで黙れば、レオは「喉が痛いなら話さないで」と言う。たぶん、声を守る術式を強める。善意と恐怖と独占欲の合わせ技で。最悪の三点盛り。食べたくない。
ノアは、低く言った。
「俺が許可した範囲だけ」
レオが顔を上げる。
「ノア」
「喉の傷は見ていい。黒い残滓も抜いていい。赤い糸が喉に絡むのは嫌だから、それは戻せ。魂糸の範囲は広げるな。遮断膜は張るなら薄く、俺が声を出したい相手には届くようにしろ」
「危ない」
「危ないから調整するんだろ。閉じるためじゃなくて、使えるようにしろ」
レオは、長い沈黙のあと頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
「嘘なら声で分かるぞ」
「君の台詞を取られた」
「使用料払え」
「何で払えばいい?」
「黙って言うことを聞く権利」
「それは難しい」
「正直でよろしい」
レオは、ようやくノアの喉へ手をかざした。
触れない。
白金の光が細く流れる。
まず、喉の奥に残った黒い残滓を探る。舞台術式がノアの声を拾おうとした時、喉に貼りついた黒い痕。小さな棘のようなものが、声帯の震えに合わせて痛みを生んでいる。
レオはそれを無理に抜かなかった。
白金の光で包み、少しずつ剥がす。
ノアは眉を寄せた。
「……変な感じ」
「痛い?」
「痛いより、くすぐったいの最悪版」
「止める?」
「続けろ」
黒い残滓が、細い煙のように抜ける。
それをレオは白金の結界内で封じた。燃やさない。記録として残すためだ。さっきノアが言ったことを、ちゃんと聞いている。
次に、赤い糸。
伴侶首輪から喉へ伸びようとしていた赤い糸を、レオは慎重に引き戻した。完全に切るのではない。喉を直接縛らない位置へ、糸の通り道をずらす。
ノアは、喉の圧が少し軽くなるのを感じた。
「……まし」
レオの表情がわずかに緩む。
「よかった」
「まだ喜ぶな」
「うん」
魂糸の振動制御は、もっと厄介だった。
レオの魂糸は、ノアの声を拾うことに慣れすぎている。掠れ、軽さ、嘘、低い拒絶、短い呻き。全部に反応する。その細かさが、敵に対する防壁にもなる一方で、レオ自身の独占にもなる。
レオはそれを自分で抑えようとしていた。
白金の糸が何度も震える。
ノアはそれを見ていた。
「欲張るな」
レオの指が止まる。
「……分かる?」
「分かる。お前、拾う範囲を狭めるふりして、俺の声だけは全部自分に残そうとしてる」
レオは反論しない。
沈黙。
また、正直な沈黙。
ノアはため息をついた。
「隠すの下手」
「隠したくない」
「開き直りも下手」
「君の声を、失いたくない」
「失う話じゃない。渡す相手を俺が決める話だ」
レオの青い目が、ノアを見る。
痛いほど真剣だった。
「君は、また自分の声を隠す」
「隠すかどうかも俺が決める」
「助けを求めない」
「それも俺が決める」
「それで前は」
「レオ」
ノアは、掠れた声で遮った。
レオの言葉が止まる。
前は。
その続きは、今言うべきではない。
前世は、ノアの喉の中にまだ熱を残している。助けてと言わなかったイリアス。殺したセラフィード。救国の英雄。黒い災厄。全部が、昨日の舞台で無理やり引きずり出されたばかりだ。
ノアは、低い声で言った。
「今の俺の声で話せ」
レオの瞳が揺れた。
「……うん」
「イリアスの喉じゃない。ノアの喉だ」
「うん」
「それでも掠れてるけどな。最悪」
「治す」
「許可範囲内で」
「許可範囲内で」
レオは魂糸を調整した。
ノアの声をすべて自分へ集めるのではなく、外部術式に拾われる異常な波形だけを弾く形へ変える。完璧ではない。危うい。けれど、閉じるだけの術式ではなくなった。
最後に、薄い遮断膜。
ノアの喉を包むのではなく、声が外へ出たあと、外部術式が記録しようとする瞬間だけ滑らせる膜。声を消すのではなく、掴ませない。そういう形にする。
ノアは喉を鳴らした。
「あー……」
掠れている。
けれど、音は出る。
レオがじっと聞いている。
その視線に気づいて、ノアは顔をしかめた。
「声の点呼」
「今のは確認」
「同じ」
「違う」
「厳密には同じ」
レオは少しだけ笑った。
今度の笑みは、少し弱かったが、本物だった。
その時、扉が叩かれた。
レオの魔力が即座に張る。
ノアの首輪が熱を持ちかける。
「抑えろ」
「……うん」
レオは深く息を吐き、魔力を細めた。
扉の向こうから、セドリック・バロウズの声がした。
「起きているか」
ノアは掠れ声で返す。
「起きてますー。負傷者に優しい訪問でお願いします」
扉が開いた。
セドリックは黒い外套をまとい、片手に封印された記録板を持っていた。顔はいつも通り険しい。眠れたのか怪しい目つきだ。教師という職業も大概ブラックである。いや、黒魔法科だから洒落にならない。
セドリックは部屋に入るなり、通達書の裏を見た。
黒い文字。
次は、本物の声で。
彼の眉間の皺が深くなる。
「……やはり、声そのものを狙っているな」
「やはりって言い方、嫌ですね」
「嫌でも事実だ」
セドリックは記録板を机に置いた。
「英雄教会の古い儀礼書を一部確認した。現行の災厄忌には表向きの祈祷しか残っていないが、古い記録には別の言葉がある」
レオが硬い声で問う。
「何ですか」
セドリックは少しだけ間を置いた。
「真儀礼」
部屋の空気が沈んだ。
ノアは笑った。
笑いは掠れて、少しだけ喉に引っかかった。
「表向きイベントの裏に本番があるとか、学院行事の治安終わってるな」
セドリックは否定しない。
「英雄教会が現在もそれを行っているかは不明だ。だが、今回の術式はその古い儀礼文に近い。黒災忌会の黒魔法式、黒魔導書系の構文、そして英雄教会の祈祷が接続されている」
「接続してるのが、オルドレイスかもって話ですか」
セドリックの目が鋭くなる。
「その名をどこで」
「いろいろ落ちてるんですよ。嫌な伏せ字みたいに」
「軽く言うな」
「重く言うと喉が死ぬので」
レオがノアを見る。
「水」
「今はいらない」
「声が」
「点呼」
レオは黙った。
セドリックが二人を交互に見た。
「……お前たち、朝から何を揉めている」
「声帯の所有権です」
「最悪の議題だな」
「先生もそう思います?」
「思う」
レオは静かに言った。
「所有ではありません」
ノアが横目で見る。
レオは一拍置いて、言い直した。
「所有に、したくない」
セドリックが黙った。
ノアも少しだけ黙った。
それは、今までよりましな言い方だった。
完璧ではない。
全然、完璧ではない。
でも、レオが自分の言葉を直した。
ノアは小さく息を吐いた。
「よし。五点加算」
「低い」
「昨日より高い」
「昨日は何点だったの」
「赤点」
レオは何も言えない顔をした。
セドリックが記録板を指で叩く。
「話を戻すぞ。真儀礼が残っているなら、相手はクロウの声で何かを成立させるつもりだ。黒い災厄本人の声として、あるいはその転生体の声として」
「俺、まだ転生認定してませんー」
「術式はお前の否認を待たない」
「最悪の正論」
レオの白金の魔力が静かに張った。
ノアには分かった。
次に言う言葉も分かった。
参加させない。
行かせない。
閉じ込める。
そのどれかだ。
レオは口を開きかけた。
「ノアを――」
そこで止まった。
ノアが見たからだ。
レオは息を詰め、言葉を飲み込む。
赤い糸が静かに震えている。
それは不安の震えであり、恐怖の震えであり、レオが自分の衝動を押さえた証でもあった。
ノアは掠れた声で言った。
「言い直しな、王子様」
レオは、ゆっくり目を伏せた。
そして、まだ続く言葉を探していた。




