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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第三章 黒い儀礼と本物の声

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第47話 次は、本物の声で



 通達書の裏に浮かんだ黒い文字は、朝の光の中でも消えなかった。


 次は、本物の声で。


 細く、濡れたような古代語だった。紙に書かれているというより、紙の繊維の奥から染み出している。黒魔法の匂いだけではない。白い祈祷文の残滓も混ざっていた。聖魔法の清らかな光が、腐った水に落とされて濁ったような気配。


 ノア・クロウは、寝台の上からそれを見ていた。


 喉はまだ痛い。


 昨夜の重度反応のせいで、声は戻りきっていない。息をするだけなら平気だが、声を出すたびに喉の奥がざらつく。伴侶首輪メイト・カラーの内側には黒い亀裂と白い花の紋様が残り、魔力回路は鈍く、身体はまだ重かった。


 なのに、朝から文字が煽ってくる。


 実に勤勉な嫌がらせだ。働き者の悪意ほど厄介なものはない。休め。永久に。


 レオ・アステルレインは、通達書を持ったまま立っていた。


 白金の火が、彼の指先に灯る。


 静かな火だった。


 紙ごと燃やし、痕跡も、文字も、気配も、何もかも灰にしようとする火。


 ノアは掠れた声で言った。


「燃やしたら、次が見えない」


 レオの手が止まる。


 火は消えない。


 紙の端を白く照らしながら、ぎりぎりで燃やさずにいる。


「君を餌にしたくない」


「餌じゃない。針を仕込む側だ」


「針を持つ手ごと狙われている」


「じゃあ手袋でも用意しろ。箱にしまうな」


 声を出すたび、喉が痛んだ。


 レオはそれを聞き取る。


 聞き取らないはずがない。赤い糸も魂糸も、ノアの喉の震えを細かく拾っている。掠れ、息の詰まり、声の端に混じる痛み。全部、レオへ届いている。


 その事実に気づいた瞬間、ノアの首元が熱を持った。


 赤い糸が喉へ伸びようとしている。


 ノアは反射的に首元を押さえた。


「……伸びてる」


 レオが目を上げる。


「痛い?」


「痛いより、気持ち悪い。喉まで来るな」


 レオの表情が硬くなる。


「声を守るためだよ」


「俺の声を守るって言いながら、俺の声を先に閉じるな」


 レオは黙った。


 その沈黙が、ほとんど肯定だった。


 ノアは寝台の背へ身体を預ける。まだ上体を起こしているだけで疲れる。だが、ここで寝転がるわけにはいかなかった。寝転がれば、レオは通達書を燃やし、喉に聖魔法を巻き、魂糸で音を塞ぎ、何もかも「君のため」と言いながら片づける。


 それが見えていた。


 だから、ノアは掠れた声を無理やり出した。


「閉じなければ、奪われるって思ってるんだろ」


 レオの瞳が揺れた。


「思っている」


「正直」


「昨日、君の声は奪われかけた」


「知ってる」


「偽物の声も作られた。君が言っていない言葉を、君の声で言わせた」


「知ってる」


「舞台術式は、君の絶叫を拾おうとした」


「知ってる」


「次は、本物の声で、と書いてある」


「見えてる」


 ノアは通達書を睨んだ。


 黒い文字は、こちらを見返すようにじっと沈黙している。


 次は、本物の声で。


 偽物ではなく。


 影が真似た声でもなく。


 仮面が囁いた名でもなく。


 舞台術式が記録から作った歪んだセラフィードの声でもなく。


 ノア自身の喉で。


 ノア自身の声で。


 何かを言わせようとしている。


 助けて。


 黒い災厄としての叫び。


 あるいは、前世の最後に歪められた言葉。


 そのどれを狙っているのかは分からない。だが、ろくでもないことだけは分かる。人類、ここまで来ると推理も何もない。床に落ちている釘を見て「踏んだら痛い」と判断するのと同じだ。


 レオは低く言った。


「閉じなければ、奪われる」


「奪われないように戦うんだろ。俺ごと箱にしまうな」


「箱ではなく、結界だ」


「そういう言い換えで罪が軽くなると思ってる?」


「思っていない」


「じゃあ言うな」


 レオは、通達書を机に置いた。


 燃やすことはしなかった。


 しかし、白金の火は消えていない。紙の周囲に小さな防壁を作り、黒い文字の魔力が外へ漏れないよう閉じている。封じる。閉じる。守る。遮断する。


 全部、レオの得意な形だ。


 ノアはその指先を見た。


「レオ」


「何」


「俺の声は、お前の物じゃない」


 レオの顔から、わずかに血の気が引いた。


 きつい言葉だ。


 分かっている。


 けれど、言わなければいけない。


「お前が誰より聞いてるのは知ってる。俺が掠れたら水出すし、喉が痛けりゃ治すし、ちょっと軽い声出しただけで嘘って分かるし、まあ怖いくらい聞いてる」


「怖がらせたいわけじゃない」


「知ってる。でも怖い時は怖い」


 レオは反論しなかった。


 ノアは、少しだけ声を落とした。


「敵に使われるのは嫌だ。でも、お前が先に閉じたら同じだ。俺の声を奪う順番を取り合うな」


 レオは、息を詰めた。


 伴侶首輪が熱を持つ。


 レオの不安が伝わってきた。


 ノアは顔をしかめる。


「熱い」


「ごめん」


「謝る前に抑えろ」


「分かっている」


「分かってないから熱いんだろ」


 レオは目を伏せ、白金の魔力を慎重に細めた。


 首輪の熱が少し下がる。


 赤い糸はまだ喉の近くで震えていた。声帯を守るため、音域を囲うため、魂糸の振動を制御するため。言い方を変えれば、ノアの声が外へ出る道をレオが管理するため。


 レオ自身もそれを理解している。


 理解していて、なお止めきれない。


 ノアは水差しへ手を伸ばした。


 指が少し震える。


 すぐにレオが杯を取ろうとする。


 ノアは目で止めた。


「自分で飲む」


「分かった」


 レオは手を引いた。


 それだけで、ほんの少し空気が変わる。


 ノアは自分で杯を取り、水を飲んだ。


 喉が痛む。白金の治癒が薄く混ざっている水なのに、それでも少し引っかかる。飲み込むたびに、昨日の絶叫の残滓が喉の奥でざらついた。


 レオはそれを見ている。


 見ているだけ。


 ぎりぎりで。


 ノアは杯を置いた。


「声の点呼、多い」


 レオが瞬いた。


「点呼?」


「起きてから何回確認した? 声は戻ったか、掠れてるか、痛いか、喋れるか、軽口出るか」


「大事だから」


「俺の声、出席番号ついてる?」


「つけない」


「そこは冷静に返すな」


 レオの口元が、少しだけ緩んだ。


 けれど、その微笑みはすぐに消える。


「喉を見てもいい?」


「見るだけ?」


「声帯保護の術式を確認したい」


「ほら出た。保護って言いながら管理するやつ」


「……管理になる」


「自覚あり」


「ある」


「じゃあ、何するか言え。全部」


 レオは少し黙った。


 それから、ゆっくり言葉を選ぶように話し始めた。


「喉に残った魔力傷の確認。声帯周辺の黒い残滓の除去。伴侶首輪から喉へ伸びかけている赤い糸の振動制御。魂糸が君の声を拾う範囲の調整。外部術式が君の声の波形を記録しないように、薄い遮断膜を張る」


「ほぼ監視カメラと防犯シャッター」


「違う」


「違うところ探す方が難しい」


「君の声を塞がない。声は出せる」


「誰に届く?」


 レオは黙った。


 ノアは笑わなかった。


「そこだよ」


 レオの指がわずかに強張る。


「外に届かせれば、拾われるかもしれない」


「全部遮断すれば、俺の声はお前の中だけに閉じる」


「……うん」


「その返事、正直すぎて腹立つ」


「ごめん」


「謝罪点呼も多い」


 レオは目を伏せた。


 ノアは喉を押さえる。


 痛い。


 喋りすぎている。


 でも、ここで黙れば、レオは「喉が痛いなら話さないで」と言う。たぶん、声を守る術式を強める。善意と恐怖と独占欲の合わせ技で。最悪の三点盛り。食べたくない。


 ノアは、低く言った。


「俺が許可した範囲だけ」


 レオが顔を上げる。


「ノア」


「喉の傷は見ていい。黒い残滓も抜いていい。赤い糸が喉に絡むのは嫌だから、それは戻せ。魂糸の範囲は広げるな。遮断膜は張るなら薄く、俺が声を出したい相手には届くようにしろ」


「危ない」


「危ないから調整するんだろ。閉じるためじゃなくて、使えるようにしろ」


 レオは、長い沈黙のあと頷いた。


「分かった」


「本当に?」


「本当に」


「嘘なら声で分かるぞ」


「君の台詞を取られた」


「使用料払え」


「何で払えばいい?」


「黙って言うことを聞く権利」


「それは難しい」


「正直でよろしい」


 レオは、ようやくノアの喉へ手をかざした。


 触れない。


 白金の光が細く流れる。


 まず、喉の奥に残った黒い残滓を探る。舞台術式がノアの声を拾おうとした時、喉に貼りついた黒い痕。小さな棘のようなものが、声帯の震えに合わせて痛みを生んでいる。


 レオはそれを無理に抜かなかった。


 白金の光で包み、少しずつ剥がす。


 ノアは眉を寄せた。


「……変な感じ」


「痛い?」


「痛いより、くすぐったいの最悪版」


「止める?」


「続けろ」


 黒い残滓が、細い煙のように抜ける。


 それをレオは白金の結界内で封じた。燃やさない。記録として残すためだ。さっきノアが言ったことを、ちゃんと聞いている。


 次に、赤い糸。


 伴侶首輪から喉へ伸びようとしていた赤い糸を、レオは慎重に引き戻した。完全に切るのではない。喉を直接縛らない位置へ、糸の通り道をずらす。


 ノアは、喉の圧が少し軽くなるのを感じた。


「……まし」


 レオの表情がわずかに緩む。


「よかった」


「まだ喜ぶな」


「うん」


 魂糸の振動制御は、もっと厄介だった。


 レオの魂糸は、ノアの声を拾うことに慣れすぎている。掠れ、軽さ、嘘、低い拒絶、短い呻き。全部に反応する。その細かさが、敵に対する防壁にもなる一方で、レオ自身の独占にもなる。


 レオはそれを自分で抑えようとしていた。


 白金の糸が何度も震える。


 ノアはそれを見ていた。


「欲張るな」


 レオの指が止まる。


「……分かる?」


「分かる。お前、拾う範囲を狭めるふりして、俺の声だけは全部自分に残そうとしてる」


 レオは反論しない。


 沈黙。


 また、正直な沈黙。


 ノアはため息をついた。


「隠すの下手」


「隠したくない」


「開き直りも下手」


「君の声を、失いたくない」


「失う話じゃない。渡す相手を俺が決める話だ」


 レオの青い目が、ノアを見る。


 痛いほど真剣だった。


「君は、また自分の声を隠す」


「隠すかどうかも俺が決める」


「助けを求めない」


「それも俺が決める」


「それで前は」


「レオ」


 ノアは、掠れた声で遮った。


 レオの言葉が止まる。


 前は。


 その続きは、今言うべきではない。


 前世は、ノアの喉の中にまだ熱を残している。助けてと言わなかったイリアス。殺したセラフィード。救国の英雄。黒い災厄。全部が、昨日の舞台で無理やり引きずり出されたばかりだ。


 ノアは、低い声で言った。


「今の俺の声で話せ」


 レオの瞳が揺れた。


「……うん」


「イリアスの喉じゃない。ノアの喉だ」


「うん」


「それでも掠れてるけどな。最悪」


「治す」


「許可範囲内で」


「許可範囲内で」


 レオは魂糸を調整した。


 ノアの声をすべて自分へ集めるのではなく、外部術式に拾われる異常な波形だけを弾く形へ変える。完璧ではない。危うい。けれど、閉じるだけの術式ではなくなった。


 最後に、薄い遮断膜。


 ノアの喉を包むのではなく、声が外へ出たあと、外部術式が記録しようとする瞬間だけ滑らせる膜。声を消すのではなく、掴ませない。そういう形にする。


 ノアは喉を鳴らした。


「あー……」


 掠れている。


 けれど、音は出る。


 レオがじっと聞いている。


 その視線に気づいて、ノアは顔をしかめた。


「声の点呼」


「今のは確認」


「同じ」


「違う」


「厳密には同じ」


 レオは少しだけ笑った。


 今度の笑みは、少し弱かったが、本物だった。


 その時、扉が叩かれた。


 レオの魔力が即座に張る。


 ノアの首輪が熱を持ちかける。


「抑えろ」


「……うん」


 レオは深く息を吐き、魔力を細めた。


 扉の向こうから、セドリック・バロウズの声がした。


「起きているか」


 ノアは掠れ声で返す。


「起きてますー。負傷者に優しい訪問でお願いします」


 扉が開いた。


 セドリックは黒い外套をまとい、片手に封印された記録板を持っていた。顔はいつも通り険しい。眠れたのか怪しい目つきだ。教師という職業も大概ブラックである。いや、黒魔法科だから洒落にならない。


 セドリックは部屋に入るなり、通達書の裏を見た。


 黒い文字。


 次は、本物の声で。


 彼の眉間の皺が深くなる。


「……やはり、声そのものを狙っているな」


「やはりって言い方、嫌ですね」


「嫌でも事実だ」


 セドリックは記録板を机に置いた。


「英雄教会の古い儀礼書を一部確認した。現行の災厄忌には表向きの祈祷しか残っていないが、古い記録には別の言葉がある」


 レオが硬い声で問う。


「何ですか」


 セドリックは少しだけ間を置いた。


「真儀礼」


 部屋の空気が沈んだ。


 ノアは笑った。


 笑いは掠れて、少しだけ喉に引っかかった。


「表向きイベントの裏に本番があるとか、学院行事の治安終わってるな」


 セドリックは否定しない。


「英雄教会が現在もそれを行っているかは不明だ。だが、今回の術式はその古い儀礼文に近い。黒災忌会の黒魔法式、黒魔導書系の構文、そして英雄教会の祈祷が接続されている」


「接続してるのが、オルドレイスかもって話ですか」


 セドリックの目が鋭くなる。


「その名をどこで」


「いろいろ落ちてるんですよ。嫌な伏せ字みたいに」


「軽く言うな」


「重く言うと喉が死ぬので」


 レオがノアを見る。


「水」


「今はいらない」


「声が」


「点呼」


 レオは黙った。


 セドリックが二人を交互に見た。


「……お前たち、朝から何を揉めている」


「声帯の所有権です」


「最悪の議題だな」


「先生もそう思います?」


「思う」


 レオは静かに言った。


「所有ではありません」


 ノアが横目で見る。


 レオは一拍置いて、言い直した。


「所有に、したくない」


 セドリックが黙った。


 ノアも少しだけ黙った。


 それは、今までよりましな言い方だった。


 完璧ではない。


 全然、完璧ではない。


 でも、レオが自分の言葉を直した。


 ノアは小さく息を吐いた。


「よし。五点加算」


「低い」


「昨日より高い」


「昨日は何点だったの」


「赤点」


 レオは何も言えない顔をした。


 セドリックが記録板を指で叩く。


「話を戻すぞ。真儀礼が残っているなら、相手はクロウの声で何かを成立させるつもりだ。黒い災厄本人の声として、あるいはその転生体の声として」


「俺、まだ転生認定してませんー」


「術式はお前の否認を待たない」


「最悪の正論」


 レオの白金の魔力が静かに張った。


 ノアには分かった。


 次に言う言葉も分かった。


 参加させない。


 行かせない。


 閉じ込める。


 そのどれかだ。


 レオは口を開きかけた。


「ノアを――」


 そこで止まった。


 ノアが見たからだ。


 レオは息を詰め、言葉を飲み込む。


 赤い糸が静かに震えている。


 それは不安の震えであり、恐怖の震えであり、レオが自分の衝動を押さえた証でもあった。


 ノアは掠れた声で言った。


「言い直しな、王子様」


 レオは、ゆっくり目を伏せた。


 そして、まだ続く言葉を探していた。

 



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