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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第二章【災厄忌と声の檻】

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第46話 儀礼はまだ終わっていない



 朝は、白かった。


 窓の薄いカーテン越しに差し込む光が、寮部屋の床を淡く照らしている。昨夜の大講堂の熱も、歓声も、白金の灯りも、舞台装置の黒い影も、ここにはない。あるのは、洗われた布の匂いと、水差しの透明な気配と、静かに揺れる魔力灯の光だけだった。


 ノア・クロウは、寝台の上で目を開けた。


 まず、喉が痛かった。


 痛いというより、焼けたあとを薄い布で覆われているような感覚だった。息を吸うと、喉の奥がざらつく。声を出そうとすると、そこだけ別の身体のように鈍く引き攣った。


 次に、身体が重い。


 四肢が鉛を含んだように沈んでいる。指先を動かすだけで、魔力回路の奥に鈍い震えが走った。黒魔法は沈黙している。眠っているというより、深い泥の底に沈んでいるようだった。


 そして、首元が熱い。


 ノアはゆっくりと手を上げ、伴侶首輪メイト・カラーに触れた。


 薄い赤い輪の内側に、黒い亀裂が残っている。そこに、さらに白い花のような紋様が滲んでいた。花弁は小さく、白く、清らかに見える。その清らかさが、気持ち悪い。


 英雄教会の儀礼花。


 白い祈り。


 偽物の助けて。


 舞台上の英雄の声。


 助けを求めろ、災厄。


 記憶が戻りかけた瞬間、喉がひゅっと狭くなった。


 声にならない息が漏れる。


 すぐに、白金の光が喉元へ伸びた。


「起きた?」


 レオ・アステルレインの声がした。


 低く、静かで、眠っていない声だった。


 ノアは顔を横へ向ける。


 レオは寝台のそばに座っていた。制服の上着は脱いでいるが、シャツの襟元は整ったままだ。金髪は少し乱れている。碧い目の下には薄く疲労の影があった。


 一晩中、眠っていない。


 それは見れば分かった。


 机の上には、水差し、治癒用の小瓶、清潔な布、封印紙、魔力回路の調整に使う細い白金の針が並んでいた。床には使用済みの布が畳まれている。部屋の魔力灯は、夜通し燃えていたのだろう。光が少し疲れているように見えた。


 レオの手は、ノアの喉元へ触れる寸前で止まっていた。


 待っている。


 ノアは掠れた息で笑おうとした。


 喉が痛んだ。


「……命日イベント、二度と出ない」


 声は、ひどく掠れていた。


 紙を擦ったような音だった。自分の声なのに、自分のものではないみたいだった。


 レオの表情が、ほんの一瞬だけ壊れた。


 しかしすぐに、静かに言った。


「出さない」


「即答すんな。過保護が板についてるぞ」


「足りない」


「……足りないのかよ」


「足りない」


 レオは、同じ言葉をもう一度繰り返した。


 ノアは目を細める。


 喉が痛い。


 身体が重い。


 それでも、軽口が出た。


 レオがほんの少しだけ息を吐く。安堵の呼吸だった。


 ノアはそれを見て、少し腹が立った。自分の軽口ひとつで救われたような顔をするな。重い。重すぎる。人ひとりの声に情緒を預けるな。そう言いたかったが、喉が使い物にならない。


 レオが水の入った杯を手に取った。


「飲める?」


「……給水係、常勤」


「うん」


「否定しろよ」


「今日はしない」


「今日もだろ」


 レオの口元が少しだけ動いた。


 笑った、というには弱い。


 けれど、硬い顔がわずかに解けた。


 レオはノアの背中へ手を添えようとして、止まる。


「起こしてもいい?」


 ノアはしばらくレオを見た。


 許可を求める声。


 触れる前に止まる手。


 昨夜の礼拝室から、レオはそれを覚えようとしている。


 完璧ではない。


 まだ、赤い糸はノアの呼吸を拾っている。伴侶首輪の熱が少し強まるたび、レオの瞳はすぐ不安に濁る。今も、閉じ込めたい衝動は消えていないのだろう。


 それでも、待っている。


 ノアは小さく頷いた。


 レオはゆっくりとノアの背を支えた。


 力は強くない。逃がさない腕ではない。倒れないように支える腕だった。ノアの上体が起きると、身体の奥が鈍く揺れる。魔力回路が遅れて反応し、胸の奥に重い圧が走った。


「っ……」


「痛い?」


「……筋肉痛の親戚みたいなやつ」


「魔力回路の反動だよ」


「親戚じゃなくて本家だったか」


 レオは水を渡した。


 杯に口をつけると、喉が一瞬拒んだ。飲み込む動作そのものが痛む。けれど水はぬるく、白金の治癒が薄く混ぜられている。喉の裂けたような痛みを撫で、少しだけ声の通り道を開いた。


 ノアはゆっくり飲み込む。


 少し咳き込んだ。


 レオの手が即座に動きかける。


 ノアは目だけで止めた。


 レオは止まった。


 それから、静かに聞く。


「喉を癒してもいい?」


「……少しだけ」


「分かった」


 白金の光が、ノアの喉へ流れた。


 昨夜より細い。押し込まない。塞がない。声を取り戻すための光であって、声を支配するための光ではないように、慎重に調整されている。


 ノアは目を閉じた。


 喉の奥で、ひりつきが少し引いていく。


 レオの魔法は腹立たしいほど優秀だった。


 そして、その優秀さに何度も助けられている自分がいる。


 なおさら腹立たしい。


「……効く」


「よかった」


「腹立つ」


「それもよかった」


「よくない」


 レオは、次にノアの首元へ視線を落とした。


 赤い輪の内側に残った黒い亀裂と白い花の紋様。


 それを見るレオの目が、静かに冷える。


「触れる?」


 ノアは聞いた。


 レオが、少し驚いた顔をした。


「いいの?」


「聞かれる前に聞いてやった。ありがたく思え」


「ありがとう」


「重い感謝するな」


 レオは、指先に白金の光を灯した。


 伴侶首輪へ触れる。触れるというより、熱の上へ光を重ねる。黒い亀裂の縁を無理に塞ごうとはせず、周囲の赤い糸の暴れを鎮めるように、ゆっくりと魔力を流した。


 白い花の紋様が、微かに揺れる。


 レオの眉が寄る。


「消えない」


「花柄首輪とか趣味悪いな」


「これは僕の術式じゃない」


「分かってる」


「英雄教会の祈祷文に似ている。でも、もっと古い」


「オルドレイス寄り?」


 レオは黙った。


 沈黙が答えだった。


 ノアは軽く息を吐く。


「朝から嫌な名前」


「言わせたくない」


「名前にも嫉妬するなよ」


「君を呼ぶものは、全部嫌だ」


「堂々と言うな」


「隠すと君に分かる」


「それはそう」


 レオの白金の魔法は、首輪の熱を少しずつ鎮めていく。完全には消えない。けれど、焼けるような感覚は薄くなった。


 次に、魔力回路の調整。


 ノアは腕を軽く伸ばした。


 レオは手首を取らない。


 白金の細い光だけを、指先の近くへ置く。


「触れずにできるのか」


「できる」


「じゃあ最初からそれでよかったのでは」


「……触れたかった」


「正直すぎるな」


「嘘をつくと分かるから」


「便利な言い訳にするな」


 細い白金の光が、ノアの黒魔法回路の表層をなぞる。


 魔力は鈍い。


 昨夜の重度反応で、回路の内側に焦げついたような疲労が残っている。黒魔法を使おうと思えば使えるだろうが、今は立ち上がりが遅く、無理に流せば喉と首輪に反動が戻る。


 レオはそれを読み取って、声を低くした。


「今日は黒魔法を使わないで」


「儀礼がまだ残ってるなら無理そう」


「使わせたくない」


「またそれ」


「今度は本気で行かせたくない」


 ノアはレオを見た。


 その声には、昨夜とは別の硬さがあった。


 大講堂でノアが崩れた時、レオは目の前で見ていた。伴侶首輪が焼け、赤い糸が黒く濁り、ノアの声が舞台術式に奪われかけた。遮音結界で閉じて守ったが、その中に独占欲が混じることも自覚していた。


 今朝のレオは、昨日より静かだ。


 静かな分、危うい。


 ノアをここから出したくない。


 この部屋へ閉じ込めたい。


 水を渡し、喉を癒し、髪を梳き、首輪の熱を鎮め、魔力回路を整え、外の声をすべて遮断したい。


 その衝動が、穏やかな顔の下で息をしている。


 ノアは、それを感じた。


 怖くないと言えば嘘になる。


 だが、前より少しだけ、見えている。


 これはレオがノアを物として見ているだけではない。


 怖いのだ。


 前世で、イリアスが助けを求めず、最後にセラフィードへ殺させた。その傷が、現世のレオの骨に残っている。


 だからといって、閉じ込められていい理由にはならない。


 ノアは、掠れた声で言った。


「レオ」


「何」


「俺を守るなら、俺を舞台から下ろす方法を考えろ。俺を部屋にしまう方法じゃなくてな」


 レオの手が止まった。


 白金の光が、静かに揺れる。


 ノアは続けた。


「俺をここに閉じ込めても、向こうが別の方法で呼ぶ。仮面でも、花でも、台本でも、声でも。だったら、俺をしまうんじゃなくて、舞台そのものを壊す方法を考えろ」


 レオは黙っている。


「できるだろ。お前、王子様で、聖魔法の天才で、重い男なんだから」


「最後は必要?」


「必要。お前の肩書きだろ」


「不名誉だね」


「正確ではある」


 レオは、ゆっくりと息を吐いた。


 それは、諦めの息ではなかった。


 考え始める息だった。


「……君を閉じ込める以外の方法」


「そう」


「舞台へ上がらせないのではなく、舞台を相手の思い通りにさせない方法」


「そう」


「君を餌にしない方法」


「俺は餌じゃない」


「分かっている」


「本当に?」


「分かりたい」


 ノアは、少しだけ目を細めた。


 その返事は、前よりましだった。


 分かっている、と言い切るより、分かりたいの方がずっとましだ。人間、たまには学習する。まれに。ごくまれに。


 扉が叩かれた。


 レオの魔力が、即座に張る。


 ノアの首輪にも熱が走りかける。


「落ち着け」


 ノアが言うと、レオは目を伏せて魔力を抑えた。


「ごめん」


「三十点」


「低い」


「昨日ならマイナスだったから伸びてる」


 扉の向こうから、寮監の声がした。


「アステルレイン様、クロウ様。学院長室より通達です」


 レオの顔から、わずかに温度が消えた。


 ノアは寝台の上で、背を壁に預けたまま言った。


「どうぞー。負傷者に優しい内容だと嬉しいですー」


 扉が少し開き、寮監が封筒を差し入れる。


 学院長の封蝋。


 その上に、英雄教会の白い花印も押されている。


 レオが受け取った。


 封を切る前から、嫌な気配がした。


 ノアは声を低くする。


「読んで」


 レオは一瞬だけ躊躇った。


「ノア」


「隠すな」


 短い言葉。


 レオは目を閉じ、封を切った。


 通達書には、整った文字が並んでいた。


 災厄忌の儀礼は、昨夜の異常により中断。


 しかし、英雄教会側は本来の儀礼が未完であると主張。


 学院は安全確保のため、関係者の出席を再度求める。


 ノア・クロウ。


 レオ・アステルレイン。


 両名の出席は、異常術式の再発防止および監視のため必要とされる。


 レオの手が、紙を握り潰しかけた。


 白金の火が指先に灯る。


「燃やすな」


 ノアが言った。


 レオは止まる。


 けれど、声は低かった。


「行かせない」


「またそれ」


「今度は本気で行かせたくない」


「さっき聞いた」


「何度でも言う」


「しつこい男」


「知っている」


 ノアは疲れた喉で笑った。


「しつこいな。命日って一日一回じゃないのか」


 レオは笑わなかった。


 通達書を見つめる目は、冷えきっている。


 その冷たさの奥に、恐怖がある。


 ノアはそれを知ってしまった。


 知ったからこそ、言葉を選ぶ。


 雑に茶化して終わらせるには、レオの手が震えすぎていた。


「レオ」


 レオがノアを見る。


「燃やしたら、次が見えない」


「君を餌にしたくない」


「餌じゃない。針を仕込む側だ」


 レオは沈黙した。


 赤い糸が静かに震える。


 ノアの首輪の内側で、黒い亀裂と白い花紋が同時に疼いた。


 その時、通達書の裏に黒い文字が浮かび上がった。


 インクではない。


 黒い魔力が紙の繊維を押し上げるように、文字の形を作っていく。


 次は、本物の声で。


 部屋の空気が冷えた。


 レオの白金の魔力が、一瞬で通達書を包む。


 ノアの喉が、ひゅっと狭くなる。


 本物の声。


 偽物ではなく。


 英雄像の影が真似た声でもなく。


 舞台術式が作った歪んだ声でもなく。


 ノア自身に、言わせようとしている。


 前世で言わなかった言葉。


 助けて。


 あるいは、最後に歪められた言葉。


 ノアは、掠れた声で笑った。


 笑うしかなかった。


「……しつこい招待客だな」


 レオは通達書を握りしめたまま、燃やさなかった。


 白金の火は、指先で震えている。


 燃やしたい。


 消したい。


 見せたくない。


 閉じ込めたい。


 それでも、燃やさない。


 ノアの言葉を、聞いたから。


 レオは低く言った。


「舞台を壊す方法を考える」


 ノアは目を細めた。


「よろしい」


「君を部屋に閉じ込める方法ではなく」


「そこ大事」


「でも、君を一人にはしない」


「それはもう諦めてる」


「諦めないでほしい」


「どっちだよ」


 レオは答えなかった。


 代わりに、通達書を封印布の上へ置いた。


 黒い文字は、まだ消えない。


 次は、本物の声で。


 災厄忌は終わっていない。


 むしろ、本当の儀礼はまだ始まってすらいない。


 ノアは枕元の水を手に取り、ひどく掠れた喉へ少しだけ流し込んだ。


 白金の治癒が、痛みを薄く撫でる。


 赤い糸が、静かに震えていた。

 



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