第46話 儀礼はまだ終わっていない
朝は、白かった。
窓の薄いカーテン越しに差し込む光が、寮部屋の床を淡く照らしている。昨夜の大講堂の熱も、歓声も、白金の灯りも、舞台装置の黒い影も、ここにはない。あるのは、洗われた布の匂いと、水差しの透明な気配と、静かに揺れる魔力灯の光だけだった。
ノア・クロウは、寝台の上で目を開けた。
まず、喉が痛かった。
痛いというより、焼けたあとを薄い布で覆われているような感覚だった。息を吸うと、喉の奥がざらつく。声を出そうとすると、そこだけ別の身体のように鈍く引き攣った。
次に、身体が重い。
四肢が鉛を含んだように沈んでいる。指先を動かすだけで、魔力回路の奥に鈍い震えが走った。黒魔法は沈黙している。眠っているというより、深い泥の底に沈んでいるようだった。
そして、首元が熱い。
ノアはゆっくりと手を上げ、伴侶首輪に触れた。
薄い赤い輪の内側に、黒い亀裂が残っている。そこに、さらに白い花のような紋様が滲んでいた。花弁は小さく、白く、清らかに見える。その清らかさが、気持ち悪い。
英雄教会の儀礼花。
白い祈り。
偽物の助けて。
舞台上の英雄の声。
助けを求めろ、災厄。
記憶が戻りかけた瞬間、喉がひゅっと狭くなった。
声にならない息が漏れる。
すぐに、白金の光が喉元へ伸びた。
「起きた?」
レオ・アステルレインの声がした。
低く、静かで、眠っていない声だった。
ノアは顔を横へ向ける。
レオは寝台のそばに座っていた。制服の上着は脱いでいるが、シャツの襟元は整ったままだ。金髪は少し乱れている。碧い目の下には薄く疲労の影があった。
一晩中、眠っていない。
それは見れば分かった。
机の上には、水差し、治癒用の小瓶、清潔な布、封印紙、魔力回路の調整に使う細い白金の針が並んでいた。床には使用済みの布が畳まれている。部屋の魔力灯は、夜通し燃えていたのだろう。光が少し疲れているように見えた。
レオの手は、ノアの喉元へ触れる寸前で止まっていた。
待っている。
ノアは掠れた息で笑おうとした。
喉が痛んだ。
「……命日イベント、二度と出ない」
声は、ひどく掠れていた。
紙を擦ったような音だった。自分の声なのに、自分のものではないみたいだった。
レオの表情が、ほんの一瞬だけ壊れた。
しかしすぐに、静かに言った。
「出さない」
「即答すんな。過保護が板についてるぞ」
「足りない」
「……足りないのかよ」
「足りない」
レオは、同じ言葉をもう一度繰り返した。
ノアは目を細める。
喉が痛い。
身体が重い。
それでも、軽口が出た。
レオがほんの少しだけ息を吐く。安堵の呼吸だった。
ノアはそれを見て、少し腹が立った。自分の軽口ひとつで救われたような顔をするな。重い。重すぎる。人ひとりの声に情緒を預けるな。そう言いたかったが、喉が使い物にならない。
レオが水の入った杯を手に取った。
「飲める?」
「……給水係、常勤」
「うん」
「否定しろよ」
「今日はしない」
「今日もだろ」
レオの口元が少しだけ動いた。
笑った、というには弱い。
けれど、硬い顔がわずかに解けた。
レオはノアの背中へ手を添えようとして、止まる。
「起こしてもいい?」
ノアはしばらくレオを見た。
許可を求める声。
触れる前に止まる手。
昨夜の礼拝室から、レオはそれを覚えようとしている。
完璧ではない。
まだ、赤い糸はノアの呼吸を拾っている。伴侶首輪の熱が少し強まるたび、レオの瞳はすぐ不安に濁る。今も、閉じ込めたい衝動は消えていないのだろう。
それでも、待っている。
ノアは小さく頷いた。
レオはゆっくりとノアの背を支えた。
力は強くない。逃がさない腕ではない。倒れないように支える腕だった。ノアの上体が起きると、身体の奥が鈍く揺れる。魔力回路が遅れて反応し、胸の奥に重い圧が走った。
「っ……」
「痛い?」
「……筋肉痛の親戚みたいなやつ」
「魔力回路の反動だよ」
「親戚じゃなくて本家だったか」
レオは水を渡した。
杯に口をつけると、喉が一瞬拒んだ。飲み込む動作そのものが痛む。けれど水はぬるく、白金の治癒が薄く混ぜられている。喉の裂けたような痛みを撫で、少しだけ声の通り道を開いた。
ノアはゆっくり飲み込む。
少し咳き込んだ。
レオの手が即座に動きかける。
ノアは目だけで止めた。
レオは止まった。
それから、静かに聞く。
「喉を癒してもいい?」
「……少しだけ」
「分かった」
白金の光が、ノアの喉へ流れた。
昨夜より細い。押し込まない。塞がない。声を取り戻すための光であって、声を支配するための光ではないように、慎重に調整されている。
ノアは目を閉じた。
喉の奥で、ひりつきが少し引いていく。
レオの魔法は腹立たしいほど優秀だった。
そして、その優秀さに何度も助けられている自分がいる。
なおさら腹立たしい。
「……効く」
「よかった」
「腹立つ」
「それもよかった」
「よくない」
レオは、次にノアの首元へ視線を落とした。
赤い輪の内側に残った黒い亀裂と白い花の紋様。
それを見るレオの目が、静かに冷える。
「触れる?」
ノアは聞いた。
レオが、少し驚いた顔をした。
「いいの?」
「聞かれる前に聞いてやった。ありがたく思え」
「ありがとう」
「重い感謝するな」
レオは、指先に白金の光を灯した。
伴侶首輪へ触れる。触れるというより、熱の上へ光を重ねる。黒い亀裂の縁を無理に塞ごうとはせず、周囲の赤い糸の暴れを鎮めるように、ゆっくりと魔力を流した。
白い花の紋様が、微かに揺れる。
レオの眉が寄る。
「消えない」
「花柄首輪とか趣味悪いな」
「これは僕の術式じゃない」
「分かってる」
「英雄教会の祈祷文に似ている。でも、もっと古い」
「オルドレイス寄り?」
レオは黙った。
沈黙が答えだった。
ノアは軽く息を吐く。
「朝から嫌な名前」
「言わせたくない」
「名前にも嫉妬するなよ」
「君を呼ぶものは、全部嫌だ」
「堂々と言うな」
「隠すと君に分かる」
「それはそう」
レオの白金の魔法は、首輪の熱を少しずつ鎮めていく。完全には消えない。けれど、焼けるような感覚は薄くなった。
次に、魔力回路の調整。
ノアは腕を軽く伸ばした。
レオは手首を取らない。
白金の細い光だけを、指先の近くへ置く。
「触れずにできるのか」
「できる」
「じゃあ最初からそれでよかったのでは」
「……触れたかった」
「正直すぎるな」
「嘘をつくと分かるから」
「便利な言い訳にするな」
細い白金の光が、ノアの黒魔法回路の表層をなぞる。
魔力は鈍い。
昨夜の重度反応で、回路の内側に焦げついたような疲労が残っている。黒魔法を使おうと思えば使えるだろうが、今は立ち上がりが遅く、無理に流せば喉と首輪に反動が戻る。
レオはそれを読み取って、声を低くした。
「今日は黒魔法を使わないで」
「儀礼がまだ残ってるなら無理そう」
「使わせたくない」
「またそれ」
「今度は本気で行かせたくない」
ノアはレオを見た。
その声には、昨夜とは別の硬さがあった。
大講堂でノアが崩れた時、レオは目の前で見ていた。伴侶首輪が焼け、赤い糸が黒く濁り、ノアの声が舞台術式に奪われかけた。遮音結界で閉じて守ったが、その中に独占欲が混じることも自覚していた。
今朝のレオは、昨日より静かだ。
静かな分、危うい。
ノアをここから出したくない。
この部屋へ閉じ込めたい。
水を渡し、喉を癒し、髪を梳き、首輪の熱を鎮め、魔力回路を整え、外の声をすべて遮断したい。
その衝動が、穏やかな顔の下で息をしている。
ノアは、それを感じた。
怖くないと言えば嘘になる。
だが、前より少しだけ、見えている。
これはレオがノアを物として見ているだけではない。
怖いのだ。
前世で、イリアスが助けを求めず、最後にセラフィードへ殺させた。その傷が、現世のレオの骨に残っている。
だからといって、閉じ込められていい理由にはならない。
ノアは、掠れた声で言った。
「レオ」
「何」
「俺を守るなら、俺を舞台から下ろす方法を考えろ。俺を部屋にしまう方法じゃなくてな」
レオの手が止まった。
白金の光が、静かに揺れる。
ノアは続けた。
「俺をここに閉じ込めても、向こうが別の方法で呼ぶ。仮面でも、花でも、台本でも、声でも。だったら、俺をしまうんじゃなくて、舞台そのものを壊す方法を考えろ」
レオは黙っている。
「できるだろ。お前、王子様で、聖魔法の天才で、重い男なんだから」
「最後は必要?」
「必要。お前の肩書きだろ」
「不名誉だね」
「正確ではある」
レオは、ゆっくりと息を吐いた。
それは、諦めの息ではなかった。
考え始める息だった。
「……君を閉じ込める以外の方法」
「そう」
「舞台へ上がらせないのではなく、舞台を相手の思い通りにさせない方法」
「そう」
「君を餌にしない方法」
「俺は餌じゃない」
「分かっている」
「本当に?」
「分かりたい」
ノアは、少しだけ目を細めた。
その返事は、前よりましだった。
分かっている、と言い切るより、分かりたいの方がずっとましだ。人間、たまには学習する。まれに。ごくまれに。
扉が叩かれた。
レオの魔力が、即座に張る。
ノアの首輪にも熱が走りかける。
「落ち着け」
ノアが言うと、レオは目を伏せて魔力を抑えた。
「ごめん」
「三十点」
「低い」
「昨日ならマイナスだったから伸びてる」
扉の向こうから、寮監の声がした。
「アステルレイン様、クロウ様。学院長室より通達です」
レオの顔から、わずかに温度が消えた。
ノアは寝台の上で、背を壁に預けたまま言った。
「どうぞー。負傷者に優しい内容だと嬉しいですー」
扉が少し開き、寮監が封筒を差し入れる。
学院長の封蝋。
その上に、英雄教会の白い花印も押されている。
レオが受け取った。
封を切る前から、嫌な気配がした。
ノアは声を低くする。
「読んで」
レオは一瞬だけ躊躇った。
「ノア」
「隠すな」
短い言葉。
レオは目を閉じ、封を切った。
通達書には、整った文字が並んでいた。
災厄忌の儀礼は、昨夜の異常により中断。
しかし、英雄教会側は本来の儀礼が未完であると主張。
学院は安全確保のため、関係者の出席を再度求める。
ノア・クロウ。
レオ・アステルレイン。
両名の出席は、異常術式の再発防止および監視のため必要とされる。
レオの手が、紙を握り潰しかけた。
白金の火が指先に灯る。
「燃やすな」
ノアが言った。
レオは止まる。
けれど、声は低かった。
「行かせない」
「またそれ」
「今度は本気で行かせたくない」
「さっき聞いた」
「何度でも言う」
「しつこい男」
「知っている」
ノアは疲れた喉で笑った。
「しつこいな。命日って一日一回じゃないのか」
レオは笑わなかった。
通達書を見つめる目は、冷えきっている。
その冷たさの奥に、恐怖がある。
ノアはそれを知ってしまった。
知ったからこそ、言葉を選ぶ。
雑に茶化して終わらせるには、レオの手が震えすぎていた。
「レオ」
レオがノアを見る。
「燃やしたら、次が見えない」
「君を餌にしたくない」
「餌じゃない。針を仕込む側だ」
レオは沈黙した。
赤い糸が静かに震える。
ノアの首輪の内側で、黒い亀裂と白い花紋が同時に疼いた。
その時、通達書の裏に黒い文字が浮かび上がった。
インクではない。
黒い魔力が紙の繊維を押し上げるように、文字の形を作っていく。
次は、本物の声で。
部屋の空気が冷えた。
レオの白金の魔力が、一瞬で通達書を包む。
ノアの喉が、ひゅっと狭くなる。
本物の声。
偽物ではなく。
英雄像の影が真似た声でもなく。
舞台術式が作った歪んだ声でもなく。
ノア自身に、言わせようとしている。
前世で言わなかった言葉。
助けて。
あるいは、最後に歪められた言葉。
ノアは、掠れた声で笑った。
笑うしかなかった。
「……しつこい招待客だな」
レオは通達書を握りしめたまま、燃やさなかった。
白金の火は、指先で震えている。
燃やしたい。
消したい。
見せたくない。
閉じ込めたい。
それでも、燃やさない。
ノアの言葉を、聞いたから。
レオは低く言った。
「舞台を壊す方法を考える」
ノアは目を細めた。
「よろしい」
「君を部屋に閉じ込める方法ではなく」
「そこ大事」
「でも、君を一人にはしない」
「それはもう諦めてる」
「諦めないでほしい」
「どっちだよ」
レオは答えなかった。
代わりに、通達書を封印布の上へ置いた。
黒い文字は、まだ消えない。
次は、本物の声で。
災厄忌は終わっていない。
むしろ、本当の儀礼はまだ始まってすらいない。
ノアは枕元の水を手に取り、ひどく掠れた喉へ少しだけ流し込んだ。
白金の治癒が、痛みを薄く撫でる。
赤い糸が、静かに震えていた。




