第45話 助けを求めろ、災厄
大講堂の空気が、音もなく割れた。
舞台上の英雄役は、白金の光を浴びたまま立っている。手には聖剣の小道具。足元には黒い災厄役の影。観客席には、生徒、教師、英雄教会の使者たちが息を潜めていた。
その場面は、本来なら劇の山場だった。
英雄が災厄を討つ。
世界が救われる。
白い花が掲げられ、聖魔法の灯りが強まり、誰もが拍手の準備をする。
けれど、舞台上の英雄役が口にした言葉は、台本のものではなかった。
「助けを求めろ、災厄」
その声は、英雄役の生徒の声ではなかった。
男の声だった。
低く、切実で、喉を裂くほど何かを求めている声。
セラフィード・ルミナリアの声に似ていた。
だが、違う。
深いところが歪んでいる。前世の記憶そのものではない。記録から剥ぎ取られ、聖句の形に押し込められ、舞台のために作り直された偽物の声だった。
ノア・クロウは、それを聞いた瞬間、笑おうとした。
いつものように。
ひどい演出だな、と。
人の古傷で劇場効果を出すな、と。
喉の先まで軽口が上がった。
だが、声にならなかった。
喉が鳴らない。
伴侶首輪が、焼けるように熱を持った。
赤い糸が一気に張る。白金の魂糸が、ノアの魂の表面ではなく、さらに奥へ食い込むように震えた。舞台魔法陣の底で眠っていた外部術式が、英雄役の言葉に反応して起き上がる。
黒い災厄。
英雄。
助けを求めろ。
その言葉が、ノアの中で古い記憶を叩き割った。
封印庫の冷たい石壁。
黒魔導書の頁。
父王の血。
白金の魂糸。
髪を掴まれ、顔を上げさせられ、逃げるなと叫ばれる声。
助けてくれと言え!!
僕に縋れ!!
黒魔導書じゃなく、僕を見ろ!!
今なら討伐なんてされなくて済むんだ!!
イリアスの喉が裂ける。
セラフィードの声が壊れる。
黒魔導書の文字が、腕、胸、喉、魔力核へ沈む。
そして、最終討伐の荒野。
白金の刃。
腕の中で冷えていく身体。
世界中の歓声。
最後の笑み。
ノアの視界が白く弾けた。
「ぐっ、がっ、は……、ぐぅぅっ!」
声は、喉の奥で潰れた。
座っていた椅子の縁を掴んだ指が硬直する。爪が木を掻き、首輪の熱が喉を焼くように走った。瞳孔が開く。赤い瞳の周囲に細い血管が浮かび、焦点が合わない。
レオ・アステルレインが立ち上がった。
白金の魔力が、彼の周囲で一気に膨れた。
「ノア」
呼ばれた。
けれど、返せない。
ノアの身体が弓なりに跳ねた。背筋が強く反り、胸の奥から黒い魔力が逆流する。喉が詰まり、声が形を失う。泡混じりの息が唇に滲み、舌がうまく収まらない。
次の叫びは、獣の咆哮に近かった。
「が、あ゛……っ、あ゛あああああああッ!!」
大講堂の音が遠ざかる。
生徒たちのざわめきも、教師の声も、舞台上の光も、全部が水の底のように歪む。ノアには、自分の声がどこへ落ちているのか分からなかった。
だが、舞台魔法陣はそれを拾おうとしていた。
ノアの声を。
黒い災厄の声として。
英雄に助けを求める災厄の声として。
レオが即座に遮音結界を張った。
白金の膜がノアの周囲を包む。
以前と違い、完全な檻ではない。だが閉じる。外へ漏らさないために。舞台術式にノアの声を奪わせないために。
それでも、そこにはレオの独占欲が混じっていた。
聞こえている。
僕だけが聞いている。
その気配が、赤い糸を通じてノアの喉へ絡みつく。
舞台上の英雄役が、さらに一歩進む。
操られたような瞳で、黒い災厄役へ剣を向ける。
「助けを求めろ」
また。
同じ声。
歪んだセラフィードの声。
ノアの首輪が、さらに熱くなる。
「おごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……ッ!?」
ノアは椅子から崩れ落ちた。
レオの白金の光が下から支えようとしたが、舞台術式の干渉がそれを乱す。ノアの膝が床に打ちつけられ、片手が客席の床を掻いた。指先が硬直し、肩が不規則に震える。
瞳は開いたまま戻らない。
赤い瞳の奥で黒い魔力が濁り、血走った白目がのぞきかけた。身体は自分のものではないように跳ねる。背筋が弓なりに反り、首輪の熱に合わせて喉が痙攣した。
黒い魔力を吐き出すように、身体が折れる。
吐き気ではなく、魔力核から押し上げられる黒い反応だった。それでも喉は耐えきれず、泡混じりの息が唇の端からこぼれる。
「ぁ、ら、え、あ゛、あ゛ぁああぁ゛あ゛っ!!?」
言葉になりかけて壊れた。
何かを呼ぼうとしたのか。
前世の名か。
レオか。
セラフィードか。
ノアにも分からない。
ただ、声が割れ、喉が裂けるように痛み、舌がうまく動かない。唇は震え、息は泡を含んで濁る。
レオが、ノアの前へ膝をついた。
白金の防壁が大講堂全体へ広がる。
舞台と客席を切り離し、ノアの周囲だけをさらに細かく包む。だが手は、すぐには触れなかった。触れていいか問う余裕など、この場にはない。けれどレオは、ほんの一瞬だけ止まる。
その一瞬の迷いすら、赤い糸が拾う。
ノアの首輪が震えた。
レオの声が低く響く。
「聞こえている。僕だけが聞いている」
その言葉が、救いなのか檻なのか、ノアにはもう判断できない。
ノアは痙攣しながら、床へ爪を立てた。胸の奥から黒い魔力が突き上げ、身体が折れる。喉が鳴り、次の瞬間、黒い魔力を吐き戻すように激しく咳き込んだ。
「おごぇえええええええぇえ゛えええええええええええええ……ッ!!」
吐き気と魔力逆流で声が濁る。
胃の中身ではなく、黒い魔力の残滓が喉を通って吐き出される感覚だった。過度に形を持たない黒い靄が、唇の端で白金の光に焼かれて消える。泡混じりの息が続き、ノアの背中が大きく跳ねた。
観客席の生徒たちが騒ぎ始める。
だが、遮音結界の外では、ノアの声はほとんど届いていない。聞こえているのはレオだけ。ノアの崩れた声も、濁った息も、喉が潰れる音も、全部。
レオは舞台へ視線を上げた。
英雄役がまた口を開く。
「災厄よ、助けを」
白金の光が、レオの手元で凍るように冷えた。
レオの目から温度が消える。
そして、低く言った。
「ああ、助けを求めろと言っているのに、悪い子だね。ノア」
それはレオの声だった。
だが、レオ自身の声ではなかった。
舞台術式が、前世のセラフィードの言葉を現在のレオへ重ねている。救済失敗の記憶を、彼の喉に押し込んでいる。レオは自分で言ったのか、言わされたのか、その境界を一瞬だけ見失っていた。
ノアの身体が、さらに激しく跳ねた。
「おぇ、おええ、おえぇえええええ……ッ!! おぎょぉおおおおおおおおおおおおおお……ッ!? ごぇえええええええええええええええええ……ッ!!」
黒い魔力が喉を逆流する。
身体が大きく折れ、片腕が床を叩いた。指が硬直し、床板を掻く。膝が不規則に震え、肩が跳ね、赤い瞳がさらに血走る。焦点が外れ、白目を剥きかけた視線が、レオの顔の少し上を泳いだ。
身体制御が途切れる。
ノアは、自分の身体から一瞬だけ切り離されるような屈辱を覚えた。魔法的限界反応によって、衣服の内側に冷たい感覚が広がる。レオの白金の光が即座に包み、身体を冷やさないよう支えた。見せるためではない。暴くためでもない。ただ、崩れた身体を守るための処置だった。
それでも屈辱は残る。
しかし、ノアにはもう言葉がない。
ただ声だけが壊れていく。
「ご、う゛、う゛ぅ〜〜〜〜ッ!! あ、へぇ……!!!!? も゛、りゃめえ゛、やめ、ぇ゛!!!!?」
それは「やめろ」になりきらない声だった。
舌が収まらず、息が泡を含んで、言葉が濁る。喉が引き攣り、声の最後が黒い魔力に歪められる。
レオの白金の魔力が、ノアの喉へ流れようとする。
だが、舞台術式がそれを妨げる。
英雄が災厄を救う。
災厄が英雄に助けを求める。
その形へ、無理やり現実を押し込もうとしている。
ノアの拒絶も、レオの恐怖も、全部を役割へ変えようとしている。
ノアの中で、前世の声がまた蘇る。
助けてくれと言え!!
僕に縋れ!!
今ならまだ戻れる!!
イリアスは言わなかった。
助けてとは言わなかった。
言えば、セラフィードが世界よりイリアスを選ぶと知っていたから。
現世のノアの喉が、同じ言葉を拒んで焼ける。
「やら゛、みな゛ァい゛て゛ッ!!!!」
それは「見ないで」に似ていた。
けれど整わない。
理性は遠い。
ノアはレオの方を向こうとするが、瞳は焦点を結ばない。背筋がまた大きく反り、喉が仰け反る。泡混じりの息が唇に滲み、赤い糸が黒く濁りかける。
レオがそれを見て、息を呑んだ。
赤い糸が黒くなる。
それは、前世の黒魔導書の侵食を思わせた。
レオの白金の魂糸が、すぐに赤い糸を包み直す。
「ノア」
呼びかける。
しかしノアは答えない。
答えられない。
「ぉご、う゛、う゛ぅ〜〜〜〜ッ!! あ、へぇ……!!!!? も゛、りゃめえ゛、やめ、ぇ゛! また、まひゃ、くる、く、くりゅ、ひ、っ!!!? ぁ、ら、え、あ゛、あ゛ぁああぁ゛あ゛っ、!!!!!!!」
言葉が壊れている。
でも、恐怖だけは伝わった。
また来る。
また、繰り返される。
封印庫。
黒魔導書。
最終討伐。
助けを求めろ。
言わない。
言えない。
世界より自分を選ばせないために。
その反復が、ノアの喉を内側から裂く。
舞台上の英雄役が、また台本にない言葉を言おうとする。
レオの顔が、完全に変わった。
穏やかな王子様の顔ではない。
自分を抑えている男の顔でもない。
失いかけている男の顔だった。
白金の聖魔法が、大講堂の床へ走る。
舞台魔法陣を直接切断するのではなく、舞台術式がノアの声へ伸ばした糸だけを断つ。精密に、けれど荒々しい。レオの怒りが光の縁に滲んでいる。
ノアの身体がさらに跳ねる。
「とまらなッお゛ォ゛!!!!? お゛ぁ゛ッ!! もっ、やらっ、お゛ぉ゛、ん゛お゛ぉ゛ッ!!?!? ぉ゛ぉ゛ッ! おごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!?」
叫びは、途中で何度も途切れた。
喉が詰まり、息が引き攣り、泡混じりの呼吸が音を潰す。全身が激しく痙攣し、背中が床から浮く。指先が硬直し、爪が床を引っ掻く。舌がうまく収まらず、声が形にならない。
レオは、ノアの喉に手をかざした。
触れずに、白金の治癒を流す。
許可を取れる状態ではない。
けれど、奪わないように。押さえ込まないように。声を塞がないように。
ただ、裂ける喉を支える。
ノアの声を、舞台術式に奪わせない。
同時に、レオ自身もその声を独占している。
その矛盾を、レオは自覚していた。
それでも結界は解けない。
今解けば、舞台術式がノアの絶叫を拾う。
英雄劇の中で、災厄の悲鳴として使われる。
それだけは許せなかった。
「助けてって言えないんだね」
レオはノアに答えたわけではなかった。
答えられる言葉など、ノアの喉にはもう残っていない。あるのは、喉を裂くような咆哮と、泡混じりに途切れる呼吸と、赤い糸を通じて伝わる魔力回路の悲鳴だけだった。
それでもレオは、遮音結界をさらに狭く編み直した。
外へ漏らさないためではない。
舞台術式に、ノアの声を奪わせないため。
「……渡さない」
低い声だった。
ノアへ返す言葉ではない。舞台へ、影へ、偽物の英雄の声へ向けた宣告だった。
「この声は、お前たちのものじゃない」
ノアの絶叫が、結界の内側で砕ける。
「が、あ゛……っ、あ゛あああああああッ!!」
レオの指先が震えた。
聞いている。
聞いてしまっている。
誰にも渡さないために閉じているのに、自分だけがその声を受け取っている。その事実が救いで、同時に独占で、どうしようもなく醜いと分かっていた。
それでも、解かなかった。
「奪わせない」
レオは、ほとんど自分に言い聞かせるように繰り返した。
「ノアの声を、二度と勝手に使わせない」
観客席の外側では、教師たちが動き始めている。セドリックの黒魔法が舞台装置の裏へ伸び、エリシアの治癒魔法が倒れかけた生徒を守る。学院長の結界が大講堂の扉を封じる。
英雄教会の使者たちは、何が起きたのか理解できない顔をしている。
ラシェル・オルブライトだけが、青ざめて舞台を見ていた。
舞台の底から、古い祈祷文が浮かぶ。
英雄教会のもの。
黒災忌会の黒い花紋。
同盟儀式を汚した外部術式。
そして、歪められた声の記録。
セラフィードの声を完全には再現していない。
誰かが記録から作った偽物だ。
誰かが、前世の救済失敗を知っている。
誰かが、あの言葉を知っている。
助けてくれと言え。
レオはそのことに気づき、目を細めた。
怒りが、白金の光を冷たくする。
しかし、今は追及より先にノアだった。
ノアの身体が、最後に大きく震えた。
白目を剥きかけた視線がゆっくり戻りかけ、また外れる。喉が引き攣り、泡混じりの息が浅く続いた。黒い魔力の逆流は収まり始めているが、魔力回路は鈍く震えている。
レオはノアを抱え上げた。
客席の喧騒も、舞台の崩れた音も、遠ざけるように白金の結界を張る。
今度は、ノアを閉じ込めるためではない。
外の術式を入れないため。
それでもノアが目覚めていたなら文句を言っただろう。
レオはその声が恋しかった。
掠れていても。
怒っていても。
最悪だなと吐き捨てられても。
声が戻れば、それでよかった。
ノアは、もう叫べなかった。
喉が壊れたように掠れ、音にならない息だけが漏れる。意識は薄く、身体はまだ小さく震えている。
レオは低く言った。
「連れて帰る」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
教師たちか。
学院か。
英雄教会か。
舞台か。
それとも、前世の自分か。
白金の光が、ノアを包む。
大講堂の扉が開かれ、レオはノアを抱えたまま外へ出た。
部屋へ戻るまでの廊下で、ノアは一度だけ身体を震わせた。
レオはすぐに足を止める。
「ノア」
返事はない。
ただ、喉の奥から小さな掠れた息が漏れた。
レオは、その音に縋るように目を伏せた。
寮部屋へ戻ると、すぐに水を用意した。
喉の治癒。
魔力回路の調整。
伴侶首輪の熱を鎮める。
赤い糸の黒い濁りを解く。
髪を梳く。
身体を冷やさないよう布を替える。
重度反応で失われた身体制御の痕も、ただ淡々と処理する。見せつけない。責めない。恥として扱わない。魔法的限界反応の結果として、必要なケアだけを続ける。
レオは一つずつ許可を取れなかった。
ノアが眠っているからだ。
だから、声に出して告げた。
「喉を癒すよ」
白金の光を流す。
「首輪の熱を鎮める」
赤い輪の内側へ触れる。
「魔力回路を整える」
黒魔法が跳ねないよう支える。
「水を置く」
枕元に杯を置く。
「髪を梳く」
指先で乱れた黒髪を直す。
返事はない。
けれど、レオは続けた。
夜が過ぎた。
朝の光が窓へ触れた時、ノアはまだ眠っていた。
喉は腫れ、声は戻りきっていない。伴侶首輪の熱は下がったが、内側に黒い濁りが薄く残っている。赤い糸も、まだ不安定だった。
レオは寝台の横に座ったまま、眠っていなかった。
ノアの呼吸を聞いている。
喉が鳴るたびに、水を用意し直す。
髪が頬にかかれば直す。
首輪が熱を持てば鎮める。
外では、まだ災厄忌の鐘が残っていた。
終わっていない。
その気配が、学院全体に滲んでいる。
レオは眠るノアを見つめ、低く呟いた。
「……命日イベント、二度と来させない」
ノアは答えなかった。
答えられる喉ではなかった。
その代わり、赤い糸がかすかに震えた。
朝になっても、学院から届いた知らせは短かった。
儀礼はまだ終わっていない。
レオはその文面を見て、静かに目を伏せた。
白金の魔力が、冷たく澄んでいった。




