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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第二章【災厄忌と声の檻】

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第45話 助けを求めろ、災厄



 大講堂の空気が、音もなく割れた。


 舞台上の英雄役は、白金の光を浴びたまま立っている。手には聖剣の小道具。足元には黒い災厄役の影。観客席には、生徒、教師、英雄教会の使者たちが息を潜めていた。


 その場面は、本来なら劇の山場だった。


 英雄が災厄を討つ。


 世界が救われる。


 白い花が掲げられ、聖魔法の灯りが強まり、誰もが拍手の準備をする。


 けれど、舞台上の英雄役が口にした言葉は、台本のものではなかった。


「助けを求めろ、災厄」


 その声は、英雄役の生徒の声ではなかった。


 男の声だった。


 低く、切実で、喉を裂くほど何かを求めている声。


 セラフィード・ルミナリアの声に似ていた。


 だが、違う。


 深いところが歪んでいる。前世の記憶そのものではない。記録から剥ぎ取られ、聖句の形に押し込められ、舞台のために作り直された偽物の声だった。


 ノア・クロウは、それを聞いた瞬間、笑おうとした。


 いつものように。


 ひどい演出だな、と。


 人の古傷で劇場効果を出すな、と。


 喉の先まで軽口が上がった。


 だが、声にならなかった。


 喉が鳴らない。


 伴侶首輪メイト・カラーが、焼けるように熱を持った。


 赤い糸が一気に張る。白金の魂糸が、ノアの魂の表面ではなく、さらに奥へ食い込むように震えた。舞台魔法陣の底で眠っていた外部術式が、英雄役の言葉に反応して起き上がる。


 黒い災厄。


 英雄。


 助けを求めろ。


 その言葉が、ノアの中で古い記憶を叩き割った。


 封印庫の冷たい石壁。


 黒魔導書グリモワール・アビスの頁。


 父王の血。


 白金の魂糸。


 髪を掴まれ、顔を上げさせられ、逃げるなと叫ばれる声。


 助けてくれと言え!!


 僕に縋れ!!


 黒魔導書じゃなく、僕を見ろ!!


 今なら討伐なんてされなくて済むんだ!!


 イリアスの喉が裂ける。


 セラフィードの声が壊れる。


 黒魔導書の文字が、腕、胸、喉、魔力核へ沈む。


 そして、最終討伐の荒野。


 白金の刃。


 腕の中で冷えていく身体。


 世界中の歓声。


 最後の笑み。


 ノアの視界が白く弾けた。


「ぐっ、がっ、は……、ぐぅぅっ!」


 声は、喉の奥で潰れた。


 座っていた椅子の縁を掴んだ指が硬直する。爪が木を掻き、首輪の熱が喉を焼くように走った。瞳孔が開く。赤い瞳の周囲に細い血管が浮かび、焦点が合わない。


 レオ・アステルレインが立ち上がった。


 白金の魔力が、彼の周囲で一気に膨れた。


「ノア」


 呼ばれた。


 けれど、返せない。


 ノアの身体が弓なりに跳ねた。背筋が強く反り、胸の奥から黒い魔力が逆流する。喉が詰まり、声が形を失う。泡混じりの息が唇に滲み、舌がうまく収まらない。


 次の叫びは、獣の咆哮に近かった。


「が、あ゛……っ、あ゛あああああああッ!!」


 大講堂の音が遠ざかる。


 生徒たちのざわめきも、教師の声も、舞台上の光も、全部が水の底のように歪む。ノアには、自分の声がどこへ落ちているのか分からなかった。


 だが、舞台魔法陣はそれを拾おうとしていた。


 ノアの声を。


 黒い災厄の声として。


 英雄に助けを求める災厄の声として。


 レオが即座に遮音結界を張った。


 白金の膜がノアの周囲を包む。


 以前と違い、完全な檻ではない。だが閉じる。外へ漏らさないために。舞台術式にノアの声を奪わせないために。


 それでも、そこにはレオの独占欲が混じっていた。


 聞こえている。


 僕だけが聞いている。


 その気配が、赤い糸を通じてノアの喉へ絡みつく。


 舞台上の英雄役が、さらに一歩進む。


 操られたような瞳で、黒い災厄役へ剣を向ける。


「助けを求めろ」


 また。


 同じ声。


 歪んだセラフィードの声。


 ノアの首輪が、さらに熱くなる。


「おごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……ッ!?」


 ノアは椅子から崩れ落ちた。


 レオの白金の光が下から支えようとしたが、舞台術式の干渉がそれを乱す。ノアの膝が床に打ちつけられ、片手が客席の床を掻いた。指先が硬直し、肩が不規則に震える。


 瞳は開いたまま戻らない。


 赤い瞳の奥で黒い魔力が濁り、血走った白目がのぞきかけた。身体は自分のものではないように跳ねる。背筋が弓なりに反り、首輪の熱に合わせて喉が痙攣した。


 黒い魔力を吐き出すように、身体が折れる。


 吐き気ではなく、魔力核から押し上げられる黒い反応だった。それでも喉は耐えきれず、泡混じりの息が唇の端からこぼれる。


「ぁ、ら、え、あ゛、あ゛ぁああぁ゛あ゛っ!!?」


 言葉になりかけて壊れた。


 何かを呼ぼうとしたのか。


 前世の名か。


 レオか。


 セラフィードか。


 ノアにも分からない。


 ただ、声が割れ、喉が裂けるように痛み、舌がうまく動かない。唇は震え、息は泡を含んで濁る。


 レオが、ノアの前へ膝をついた。


 白金の防壁が大講堂全体へ広がる。


 舞台と客席を切り離し、ノアの周囲だけをさらに細かく包む。だが手は、すぐには触れなかった。触れていいか問う余裕など、この場にはない。けれどレオは、ほんの一瞬だけ止まる。


 その一瞬の迷いすら、赤い糸が拾う。


 ノアの首輪が震えた。


 レオの声が低く響く。


「聞こえている。僕だけが聞いている」


 その言葉が、救いなのか檻なのか、ノアにはもう判断できない。


 ノアは痙攣しながら、床へ爪を立てた。胸の奥から黒い魔力が突き上げ、身体が折れる。喉が鳴り、次の瞬間、黒い魔力を吐き戻すように激しく咳き込んだ。


「おごぇえええええええぇえ゛えええええええええええええ……ッ!!」


 吐き気と魔力逆流で声が濁る。


 胃の中身ではなく、黒い魔力の残滓が喉を通って吐き出される感覚だった。過度に形を持たない黒い靄が、唇の端で白金の光に焼かれて消える。泡混じりの息が続き、ノアの背中が大きく跳ねた。


 観客席の生徒たちが騒ぎ始める。


 だが、遮音結界の外では、ノアの声はほとんど届いていない。聞こえているのはレオだけ。ノアの崩れた声も、濁った息も、喉が潰れる音も、全部。


 レオは舞台へ視線を上げた。


 英雄役がまた口を開く。


「災厄よ、助けを」


 白金の光が、レオの手元で凍るように冷えた。


 レオの目から温度が消える。


 そして、低く言った。


「ああ、助けを求めろと言っているのに、悪い子だね。ノア」


 それはレオの声だった。


 だが、レオ自身の声ではなかった。


 舞台術式が、前世のセラフィードの言葉を現在のレオへ重ねている。救済失敗の記憶を、彼の喉に押し込んでいる。レオは自分で言ったのか、言わされたのか、その境界を一瞬だけ見失っていた。


 ノアの身体が、さらに激しく跳ねた。


「おぇ、おええ、おえぇえええええ……ッ!! おぎょぉおおおおおおおおおおおおおお……ッ!? ごぇえええええええええええええええええ……ッ!!」


 黒い魔力が喉を逆流する。


 身体が大きく折れ、片腕が床を叩いた。指が硬直し、床板を掻く。膝が不規則に震え、肩が跳ね、赤い瞳がさらに血走る。焦点が外れ、白目を剥きかけた視線が、レオの顔の少し上を泳いだ。


 身体制御が途切れる。


 ノアは、自分の身体から一瞬だけ切り離されるような屈辱を覚えた。魔法的限界反応によって、衣服の内側に冷たい感覚が広がる。レオの白金の光が即座に包み、身体を冷やさないよう支えた。見せるためではない。暴くためでもない。ただ、崩れた身体を守るための処置だった。


 それでも屈辱は残る。


 しかし、ノアにはもう言葉がない。


 ただ声だけが壊れていく。


「ご、う゛、う゛ぅ〜〜〜〜ッ!! あ、へぇ……!!!!? も゛、りゃめえ゛、やめ、ぇ゛!!!!?」


 それは「やめろ」になりきらない声だった。


 舌が収まらず、息が泡を含んで、言葉が濁る。喉が引き攣り、声の最後が黒い魔力に歪められる。


 レオの白金の魔力が、ノアの喉へ流れようとする。


 だが、舞台術式がそれを妨げる。


 英雄が災厄を救う。


 災厄が英雄に助けを求める。


 その形へ、無理やり現実を押し込もうとしている。


 ノアの拒絶も、レオの恐怖も、全部を役割へ変えようとしている。


 ノアの中で、前世の声がまた蘇る。


 助けてくれと言え!!


 僕に縋れ!!


 今ならまだ戻れる!!


 イリアスは言わなかった。


 助けてとは言わなかった。


 言えば、セラフィードが世界よりイリアスを選ぶと知っていたから。


 現世のノアの喉が、同じ言葉を拒んで焼ける。


「やら゛、みな゛ァい゛て゛ッ!!!!」


 それは「見ないで」に似ていた。


 けれど整わない。


 理性は遠い。


 ノアはレオの方を向こうとするが、瞳は焦点を結ばない。背筋がまた大きく反り、喉が仰け反る。泡混じりの息が唇に滲み、赤い糸が黒く濁りかける。


 レオがそれを見て、息を呑んだ。


 赤い糸が黒くなる。


 それは、前世の黒魔導書の侵食を思わせた。


 レオの白金の魂糸が、すぐに赤い糸を包み直す。


「ノア」


 呼びかける。


 しかしノアは答えない。


 答えられない。


「ぉご、う゛、う゛ぅ〜〜〜〜ッ!! あ、へぇ……!!!!? も゛、りゃめえ゛、やめ、ぇ゛! また、まひゃ、くる、く、くりゅ、ひ、っ!!!? ぁ、ら、え、あ゛、あ゛ぁああぁ゛あ゛っ、!!!!!!!」


 言葉が壊れている。


 でも、恐怖だけは伝わった。


 また来る。


 また、繰り返される。


 封印庫。


 黒魔導書。


 最終討伐。


 助けを求めろ。


 言わない。


 言えない。


 世界より自分を選ばせないために。


 その反復が、ノアの喉を内側から裂く。


 舞台上の英雄役が、また台本にない言葉を言おうとする。


 レオの顔が、完全に変わった。


 穏やかな王子様の顔ではない。


 自分を抑えている男の顔でもない。


 失いかけている男の顔だった。


 白金の聖魔法が、大講堂の床へ走る。


 舞台魔法陣を直接切断するのではなく、舞台術式がノアの声へ伸ばした糸だけを断つ。精密に、けれど荒々しい。レオの怒りが光の縁に滲んでいる。


 ノアの身体がさらに跳ねる。


「とまらなッお゛ォ゛!!!!? お゛ぁ゛ッ!! もっ、やらっ、お゛ぉ゛、ん゛お゛ぉ゛ッ!!?!? ぉ゛ぉ゛ッ! おごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!?」


 叫びは、途中で何度も途切れた。


 喉が詰まり、息が引き攣り、泡混じりの呼吸が音を潰す。全身が激しく痙攣し、背中が床から浮く。指先が硬直し、爪が床を引っ掻く。舌がうまく収まらず、声が形にならない。


 レオは、ノアの喉に手をかざした。


 触れずに、白金の治癒を流す。


 許可を取れる状態ではない。


 けれど、奪わないように。押さえ込まないように。声を塞がないように。


 ただ、裂ける喉を支える。


 ノアの声を、舞台術式に奪わせない。


 同時に、レオ自身もその声を独占している。


 その矛盾を、レオは自覚していた。


 それでも結界は解けない。


 今解けば、舞台術式がノアの絶叫を拾う。


 英雄劇の中で、災厄の悲鳴として使われる。


 それだけは許せなかった。


「助けてって言えないんだね」


 レオはノアに答えたわけではなかった。


 答えられる言葉など、ノアの喉にはもう残っていない。あるのは、喉を裂くような咆哮と、泡混じりに途切れる呼吸と、赤い糸を通じて伝わる魔力回路の悲鳴だけだった。


 それでもレオは、遮音結界をさらに狭く編み直した。


 外へ漏らさないためではない。


 舞台術式に、ノアの声を奪わせないため。


「……渡さない」


 低い声だった。


 ノアへ返す言葉ではない。舞台へ、影へ、偽物の英雄の声へ向けた宣告だった。


「この声は、お前たちのものじゃない」


 ノアの絶叫が、結界の内側で砕ける。


「が、あ゛……っ、あ゛あああああああッ!!」


 レオの指先が震えた。


 聞いている。


 聞いてしまっている。


 誰にも渡さないために閉じているのに、自分だけがその声を受け取っている。その事実が救いで、同時に独占で、どうしようもなく醜いと分かっていた。


 それでも、解かなかった。


「奪わせない」


 レオは、ほとんど自分に言い聞かせるように繰り返した。


「ノアの声を、二度と勝手に使わせない」


 観客席の外側では、教師たちが動き始めている。セドリックの黒魔法が舞台装置の裏へ伸び、エリシアの治癒魔法が倒れかけた生徒を守る。学院長の結界が大講堂の扉を封じる。


 英雄教会の使者たちは、何が起きたのか理解できない顔をしている。


 ラシェル・オルブライトだけが、青ざめて舞台を見ていた。


 舞台の底から、古い祈祷文が浮かぶ。


 英雄教会のもの。


 黒災忌会の黒い花紋。


 同盟儀式を汚した外部術式。


 そして、歪められた声の記録。


 セラフィードの声を完全には再現していない。


 誰かが記録から作った偽物だ。


 誰かが、前世の救済失敗を知っている。


 誰かが、あの言葉を知っている。


 助けてくれと言え。


 レオはそのことに気づき、目を細めた。


 怒りが、白金の光を冷たくする。


 しかし、今は追及より先にノアだった。


 ノアの身体が、最後に大きく震えた。


 白目を剥きかけた視線がゆっくり戻りかけ、また外れる。喉が引き攣り、泡混じりの息が浅く続いた。黒い魔力の逆流は収まり始めているが、魔力回路は鈍く震えている。


 レオはノアを抱え上げた。


 客席の喧騒も、舞台の崩れた音も、遠ざけるように白金の結界を張る。


 今度は、ノアを閉じ込めるためではない。


 外の術式を入れないため。


 それでもノアが目覚めていたなら文句を言っただろう。


 レオはその声が恋しかった。


 掠れていても。


 怒っていても。


 最悪だなと吐き捨てられても。


 声が戻れば、それでよかった。


 ノアは、もう叫べなかった。


 喉が壊れたように掠れ、音にならない息だけが漏れる。意識は薄く、身体はまだ小さく震えている。


 レオは低く言った。


「連れて帰る」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 教師たちか。


 学院か。


 英雄教会か。


 舞台か。


 それとも、前世の自分か。


 白金の光が、ノアを包む。


 大講堂の扉が開かれ、レオはノアを抱えたまま外へ出た。


 部屋へ戻るまでの廊下で、ノアは一度だけ身体を震わせた。


 レオはすぐに足を止める。


「ノア」


 返事はない。


 ただ、喉の奥から小さな掠れた息が漏れた。


 レオは、その音に縋るように目を伏せた。


 寮部屋へ戻ると、すぐに水を用意した。


 喉の治癒。


 魔力回路の調整。


 伴侶首輪の熱を鎮める。


 赤い糸の黒い濁りを解く。


 髪を梳く。


 身体を冷やさないよう布を替える。


 重度反応で失われた身体制御の痕も、ただ淡々と処理する。見せつけない。責めない。恥として扱わない。魔法的限界反応の結果として、必要なケアだけを続ける。


 レオは一つずつ許可を取れなかった。


 ノアが眠っているからだ。


 だから、声に出して告げた。


「喉を癒すよ」


 白金の光を流す。


「首輪の熱を鎮める」


 赤い輪の内側へ触れる。


「魔力回路を整える」


 黒魔法が跳ねないよう支える。


「水を置く」


 枕元に杯を置く。


「髪を梳く」


 指先で乱れた黒髪を直す。


 返事はない。


 けれど、レオは続けた。


 夜が過ぎた。


 朝の光が窓へ触れた時、ノアはまだ眠っていた。


 喉は腫れ、声は戻りきっていない。伴侶首輪の熱は下がったが、内側に黒い濁りが薄く残っている。赤い糸も、まだ不安定だった。


 レオは寝台の横に座ったまま、眠っていなかった。


 ノアの呼吸を聞いている。


 喉が鳴るたびに、水を用意し直す。


 髪が頬にかかれば直す。


 首輪が熱を持てば鎮める。


 外では、まだ災厄忌の鐘が残っていた。


 終わっていない。


 その気配が、学院全体に滲んでいる。


 レオは眠るノアを見つめ、低く呟いた。


「……命日イベント、二度と来させない」


 ノアは答えなかった。


 答えられる喉ではなかった。


 その代わり、赤い糸がかすかに震えた。


 朝になっても、学院から届いた知らせは短かった。


 儀礼はまだ終わっていない。


 レオはその文面を見て、静かに目を伏せた。


 白金の魔力が、冷たく澄んでいった。



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