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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第二章【災厄忌と声の檻】

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第44話 英雄劇開幕

 大講堂は、朝から眩しかった。


 高い天井から吊るされた聖魔法の灯りが、白金の光を幾重にも落としている。壁には英雄旗が並び、白い花の輪飾りが柱から柱へ渡されていた。舞台の左右には、黒い災厄を象徴する黒い花と、救国の英雄を象徴する白金の剣が飾られている。相反する二つの印が、まるで最初から正しく噛み合うものだったかのように、綺麗に配置されていた。


 その綺麗さが、ノア・クロウには少し気持ち悪かった。


 大講堂の中央には、英雄劇の舞台装置が組まれている。黒く染められた塔。ひび割れた王冠の作り物。黒い布で覆われた魔法陣。舞台奥には、救国の英雄が災厄を討つ場面のための巨大な背景幕が垂れていた。白金の空を背に剣を掲げる英雄。足元に伏す黒い影。


 なんというか、分かりやすい。


 分かりやすすぎて、逆に不愉快だった。


 世界は善と悪を並べたがる。片方を白く、片方を黒く塗れば、考える手間が省けるからだ。人類の脳は省エネ志向が過ぎる。省いた分の重さは、だいたい誰か一人の胸に落ちる。いい迷惑である。


 ノアは客席の端に座っていた。


 黒魔法科代表として、舞台の異常術式を検知する役割を与えられている。舞台袖に近い、だが観客席からは少し外れた位置だ。前方には教師席、中央には生徒たち、後方には来賓席。英雄教会の使者たちも白い法衣で並び、若い司祭ラシェル・オルブライトの姿もあった。


 ラシェルは祈るように手を組み、舞台を見つめている。


 その横顔は真摯だった。


 だからこそ、余計に面倒だ。


 悪意の顔をしてくれれば殴りやすいのに、世の中はだいたい善意の顔で地雷を埋めてくる。やめてほしい。せめて看板くらい立てろ。


 ノアの隣には、レオ・アステルレインがいる。


 白金の聖魔法防壁を張るため、舞台と客席を一望できる位置を選ばされていた。表向きは儀礼の安全管理。実際には、レオがノアを自分の結界内に置くための場所でもある。


 レオの白金の魔力は、椅子の足元から薄く広がっていた。


 目には見えにくいが、ノアには分かる。舞台周辺、客席の前列、ノアの足元、そしてノアの首元へ、細い結界の線が伸びている。強制的な拘束ではない。けれど、何かあれば即座に閉じられる形だ。


 ノアは小声で言った。


「結界、近い」


 レオがすぐに視線を向ける。


「苦しい?」


「苦しくはない。近い」


「離す?」


 そう聞いてくるようになった。


 ノアは少しだけ目を細めた。


「今はそのままでいい」


 レオの表情が、ほんのわずかに緩む。


「分かった」


「嬉しそうにするな。許可制を覚えた幼児みたいだぞ」


「覚えたことを褒めて」


「えらいえらい」


「少し雑だね」


「丁寧に褒める気力が今日はない」


 レオはそれ以上言わなかった。


 ノアの喉が少し掠れていることを、朝から何度も気にしている。今も手元には水瓶がある。観劇に水筒持参。過保護もここまで来ると装備である。いや、違う。護衛装備としては正しい。精神的には重い。重すぎる。秤が壊れる。


 周囲は浮き立っていた。


 聖魔法科の生徒たちは、これから始まる演舞の話をしている。黒魔法科の少数の生徒たちは端の方で静かに固まり、魔具科のルカが客席の少し離れた位置からノアへ軽く手を振っていた。治癒魔法科のアイリスは、白い花の籠を抱えながら不安そうにこちらを見ている。


 ノアはルカへ小さく手を振り返した。


 その瞬間、レオの赤い糸が細く張る。


 ノアは横目で見た。


「今のも?」


「……少し」


「友達に手を振っただけ」


「分かっている」


「分かってる顔じゃない」


「努力している」


「今日の努力ポイント多すぎるな」


 レオは、ノアから視線を外して舞台を見た。


 外しただけで、意識は外れていない。


 魂糸がノアの呼吸を細かく拾っている。ノアの喉の動き、声の軽さ、胸の奥の圧、首輪の熱。全部。拾いすぎだ。情報過多で本人が壊れないのが不思議である。いや、わりと壊れているか。


 開幕の鐘が鳴った。


 大講堂のざわめきが、一気に静まる。


 白金の灯りが落ち、舞台だけが明るく照らされた。幕がゆっくりと左右に開く。白い煙が床を這い、舞台中央に語り部役の生徒が現れた。


 澄んだ声が響く。


「かつて世界は、黒き災厄に呑まれかけました」


 観客が息を呑む。


「国は焼かれ、塔は沈み、黒き花は王冠を覆いました。災厄は人の心を失い、世界を闇へ沈めようとしたのです」


 ノアは、口元だけで笑った。


 便利な導入だ。


 何を壊したのか。


 なぜ壊したのか。


 何を残そうとしたのか。


 全部削って、黒い災厄は悪でした、と置けば済む。歴史とは恐ろしい。切り抜き機能が強すぎる。


 舞台の奥から、黒い外套をまとった災厄役の生徒が現れる。


 顔には黒い仮面。


 手には黒い杖。


 背後には黒い霧の舞台魔法が広がり、擬似的な黒い花が咲いた。


 観客席から小さなどよめきが起こる。


 ノアは軽く言った。


「演出過剰だな。災厄さん、ずいぶん悪趣味な台詞回ししてる」


 レオがすぐに言う。


「聞かなくていい」


「聞こえるんだよ」


 ノアの声は、軽すぎた。


 自分でも分かった。


 レオも分かっている。


 赤い糸が、短く震えた。


 舞台上の黒い災厄役は、胸に手を当て、低く笑う。


「世界は腐った。ならば、すべてを黒で塗り潰そう。王も民も、祈りも光も、我が災厄の前では等しく灰となる」


 生徒たちがざわめく。


 怖がっているというより、劇の空気に乗っている。


 黒い災厄は、分かりやすい悪として舞台に立っていた。声音も、身振りも、台詞も、すべてが過剰だった。壊すために壊す者。笑いながら世界を焼く者。救いようのない悪。


 ノアは、膝の上で指を組んだ。


 喉が少し詰まる。


 首輪が薄く熱を持つ。


 まだ大丈夫だ。


 重くはない。


 ただ、胸の奥が少しだけ圧迫される。


 舞台の黒い霧は本物の黒魔法ではない。舞台用の安全な模擬術式だ。けれど、その輪郭の奥に、わずかな歪みが混じっている。ノアの黒魔法が、それを拾った。


 外部術式。


 まだ動いてはいない。


 眠っている。


 だが、いる。


 ノアは目を細める。


 レオが気づく。


「何か見えた?」


「まだ寝てる」


「何が」


「舞台の底。変なのがいる」


 レオの白金の魔力が静かに広がる。


「防壁を強める」


「やりすぎるなよ。客席ごと檻にするな」


「分かっている」


「本当に?」


「努力する」


「今日の努力、本当に多い」


 レオは答えなかった。


 舞台では、災厄が国々を壊す場面が進んでいる。


 黒い布が塔を覆い、魔力灯が暗くなり、王冠の小道具が床に落ちる。黒い花が王座を包み、語り部が叫ぶ。


「人々は祈りました。世界の終わりに、ただ一筋の光を」


 その瞬間、舞台上部から白金の光が差した。


 救国の英雄役が現れる。


 金髪に見えるよう光を当てられた青年。白い衣装。手には聖剣の小道具。彼が舞台へ立つと、客席から自然に拍手が起こった。


 ノアの隣で、レオの呼吸がほんの少し乱れた。


 ノアは横目で見る。


 レオの顔は変わっていない。


 穏やかに整っている。


 けれど、赤い糸は冷たく張り詰めていた。


 舞台の英雄は、災厄へ向かって剣を掲げる。


「黒き災厄よ。お前の闇は、ここで終わる」


 拍手が起こる。


 ノアは、笑った。


「分かりやすい正義だな」


 声が少し掠れた。


 レオが水瓶を取る。


「飲んで」


「観劇中に給水、過保護すぎ」


「声が掠れている」


「耳が良すぎる」


「君の声だから」


「万能理由、また出た」


 ノアは水を受け取った。


 喉に流し込むと、掠れが少し和らぐ。白金の治癒が薄く混ざっている。朝よりも控えめだ。レオなりに、今は過剰に触れないようにしているのだろう。


 それでも、心配は隠せていない。


 ノアは水瓶を返す。


「助かった」


 レオが少し目を見開いた。


「……うん」


「何その顔」


「君が素直だった」


「命日くらい素直になってもいいだろ」


 レオが息を止める。


 しまった。


 また刺した。


 だが、ノアは言い直さなかった。


 刺さる現実を全部避けて歩くには、今日は白い花が多すぎる。


 舞台では、英雄と災厄の問答が続いていた。


 災厄役は、笑いながら叫ぶ。


「我は滅びを望む。光などいらぬ。救いなどいらぬ。世界は我と共に沈めばいい」


 ノアは、軽く息を吐いた。


 台詞が歪みすぎている。


 イリアスは、世界を完全に死なせたいわけではなかった。


 少なくとも、ノアの中に残る記憶はそう言っている。


 世界を憎んだ。


 王家を憎んだ。


 戦争を憎んだ。


 父王の血を忘れられなかった。


 セラフィードを拒み、黒魔導書に呑まれ、罪を重ねた。


 それでも、世界そのものを終わらせたかったわけではない。


 自分だけが悪になることで、何かを残そうとした。


 それが正しかったとは言わない。


 罪は消えない。


 だが、舞台の上の黒い災厄は、あまりにも平面だった。


 ノアは小さく呟く。


「悪役、仕事が楽そうでいいな」


 レオは聞き逃さない。


「ノア」


「何でもない」


「何でもない声じゃない」


「お前、声の職人か何か?」


「君の声だけだよ」


「それが怖いんだって」


 レオの指が、膝の上でかすかに震えていた。


 彼は遮音結界を張りたがっている。


 分かる。


 ノアの掠れた声を、観客にも舞台にも外部術式にも渡したくないのだろう。だが前回、ノアは言った。


 勝手に閉じるな。


 俺の声を、お前の檻にするな。


 だからレオは迷っている。


 その迷いが、赤い糸を通じて伝わってくる。


 ノアは小声で言った。


「張るなよ」


 レオの肩がかすかに動く。


「分かっている」


「どうしても必要なら、先に言え」


「うん」


「即答できるなら偉い」


「……ありがとう」


「重く受け取るな」


「無理かもしれない」


「じゃあ軽く努力しろ」


 舞台上では、英雄が災厄に向かって歩く。


 白金の光が強くなる。


 客席の生徒たちは息を呑み、何人かはすでに目を輝かせていた。英雄劇の山場が近づいている。災厄が討たれる場面。世界が救われる場面。祝福すべき場面。


 レオの赤い糸が、さらに張った。


 ノアの伴侶首輪が熱を持つ。


「っ……」


 短い呻きが漏れた。


 すぐに唇を噛みそうになって、やめた。


 喉を塞ぐな。


 声を隠すな。


 自分の声を、他人にも偽物にも檻にも渡すな。


 ノアはゆっくり息を吐いた。


 瞳孔が少し開いているのが分かる。視界の端が白く揺れた。胸の奥の圧が強まり、首輪の熱が輪の形を持つ。中度の反応。まだ崩れない。崩れてたまるか。


 レオの白金の魔力が、ノアの足元へ静かに広がる。


 手首は掴まない。


 肩にも触れない。


 赤い糸を通じて、ノアの魂の足場を支えるように、細い光が下から添えられた。


 ノアは、それを感じた。


 拘束ではない。


 今は、支えだ。


 ノアは視線だけでレオを見た。


「……今のは、まあ、あり」


 レオの目が少しだけ揺れた。


「分かった」


「毎回そうしろ」


「努力する」


「努力ポイント追加」


 レオは薄く頷いた。


 舞台の英雄が、災厄へ剣を向ける。


 災厄役は笑う。


「来るがいい、英雄よ。お前の光ごと、我が闇で呑んでやろう」


 観客席から緊張した笑いが起こる。


 子どもっぽい興奮。


 美しい英雄が悪しき災厄を討つ。


 その単純な構図を、誰も疑っていない。


 ノアは、胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。


 舞台の底に眠っていた歪みが、少しずつ起きている。


 外部術式が、台詞に反応している。


 英雄。


 災厄。


 討つ。


 殺す。


 救う。


 その言葉が重なるたび、舞台魔法陣の底で黒と白が混ざり、古い構文が目を開ける。


 ノアは低く言った。


「レオ」


「分かっている」


「舞台の底」


「防壁を張る」


「張りすぎるな」


「分かっている」


 レオの声は、ぎりぎりで抑えられていた。


 彼も気づいている。


 舞台が、ただの劇ではなくなり始めている。


 語り部が叫んだ。


「そして英雄は、世界の祈りを背負い、災厄へ最後の言葉を告げた!」


 空気が張り詰める。


 客席のすべての視線が舞台へ集まった。


 英雄役の生徒が剣を掲げる。


 台本なら、ここで浄化の言葉を言うはずだった。


 白金の光よ、黒き災厄を打ち払え。


 そう続くはずだった。


 だが、舞台上の英雄役は、一瞬だけ動きを止めた。


 顔から表情が抜ける。


 瞳の焦点が、舞台ではないどこかへ合う。


 ノアの首輪が、焼けるように熱を持った。


 レオが立ち上がりかける。


 次の瞬間、英雄役が、台本にない言葉を言った。


「助けを求めろ、災厄」


 ノアの赤い瞳が、見開かれた。


 レオが立ち上がった。

 



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