第43話 災厄忌の朝
朝から、学院は白かった。
窓の外に見える中庭には、夜明け前から人の気配があった。白い花を詰めた籠を抱えた生徒たちが、石畳の道を小走りに渡っていく。黒い花と白金の剣を組み合わせた旗が、塔から塔へ吊るされ、朝風に大きく揺れていた。聖魔法科の生徒が灯した白金の魔力灯は、まだ薄青い朝の中で淡く瞬き、大講堂へ向かう廊下には、劇の衣装を運ぶ係の声が響いている。
祭りの日の空気だった。
浮き立って、忙しくて、どこか甘い。
誰かが笑い、誰かが走り、誰かが英雄劇の台詞をふざけて真似る。中庭の噴水の周りには、災厄忌の儀礼花が円形に並べられ、白い花弁が朝露を受けて光っていた。
ノア・クロウは、寮部屋の窓からそれを見ていた。
窓硝子に、黒髪の少年が映っている。
黒髪。襟足の長いウルフカット。赤い瞳。小柄な身体に、学院の制服。制服はきちんと着ればそれなりに整って見えるのだろうが、ノアの襟元は少し緩められ、上着もわずかに着崩されている。
いつものノア・クロウ。
黒魔法科の平民新入生。
絶世の美貌だの、危険な黒魔法だの、聖魔法科の王子様と相部屋だの、余計な視線を集める、騒がしい人生の持ち主。
けれど、鏡の中に一瞬だけ、違う影が重なった。
黒い礼装。
血と灰に汚れた髪。
赤黒く濁った瞳。
白金の光に貫かれる直前の、笑う男。
イリアス・ノクスヴェルト。
ノアは瞬きをした。
鏡には、もう自分しか映っていない。
ノアは口元だけで笑った。
「朝から顔色わる。鏡も空気読めよ」
軽く言ったつもりだった。
しかし声は、少し掠れていた。
喉の奥に薄いざらつきが残っている。数日前から続く声の乱れは、レオの治癒でずいぶん戻っているが、完全ではない。伴侶首輪の内側も、朝から熱い。
熱いというより、じわじわと燃えている。
赤い輪の内側には、あの黒い亀裂のような紋が残っていた。前世の同盟儀式に似た汚れ。英雄像の影、白い花、仮面、舞台魔法陣。全部がそこへ繋がっている気がして、気分が悪い。
ノアは首元に指を当てた。
熱は薄い。
だが、消えない。
背後で衣擦れがした。
振り返らなくても、誰かは分かる。
レオ・アステルレインは、部屋の小さな机の前に立っていた。水差しと杯を用意し、白金の治癒を薄く混ぜている。朝から当然のように。給水係としての動きに一切の迷いがない。王子様という肩書きより、最近はこちらの方が板についている気がする。人類、適応力の使いどころを間違えすぎである。
レオは杯を持って、ノアのそばへ来た。
「飲んで」
ノアは鏡越しに見た。
「命日の朝に給水係、縁起悪いな」
レオの手が止まる。
白い指が、杯の縁をかすかに強く握った。
ノアはしまったと思うより早く、笑って続けた。
「冗談。いや、半分くらい冗談」
「今日は一人にしない」
「毎日言ってないか、それ」
「毎日必要だから」
「必要性で押し切るな。怖い」
レオは否定しなかった。
いつものことだ。
けれど今朝の沈黙は、いつもより重い。
レオの金髪は、朝の光を受けて淡く輝いていた。整った顔。碧い瞳。白と金が似合う、完璧な聖魔法科の王子様。外では、誰もが彼を英雄役にふさわしいと言うだろう。
その言葉で、彼の中のどこが軋むのかも知らずに。
ノアは杯を受け取った。
水はぬるかった。
喉にやさしい温度。白金の治癒が薄く溶けていて、飲み込むと喉の奥に残った痛みが少しだけ和らいだ。
腹立たしいほど効く。
「……毎回思うけど、効くのが腹立つ」
「効くようにしている」
「努力の方向が完璧に介護」
「必要だから」
「それも毎日言ってる」
「毎日必要だから」
「会話が輪になってるぞ」
レオはノアの喉元を見た。
その視線だけで、首輪の熱が拾われる。
「首輪は?」
「朝から元気。俺より元気」
「痛い?」
「熱いだけ」
「触れてもいい?」
ノアは、すぐには答えなかった。
レオは待っている。
以前なら、待たなかったかもしれない。
危険だと判断すれば、赤い糸で止め、結界で閉じ、声を自分だけに閉じ込めた。管理だと言い、保護だと言い、ノアの自由よりノアの命を選ぼうとした。
今も、その衝動が消えたわけではない。
むしろ、今日という日には強まっている。
それでもレオは、今、待っている。
ノアは小さく息を吐いた。
「……少しだけ」
レオの指が、ノアの首元へ近づいた。
触れる手つきは丁寧だった。伴侶首輪の熱を鎮めるように、白金の聖魔法が薄く流れる。肌に強く押し付けるのではなく、赤い輪の上をなぞるように、光が広がっていく。
首輪の熱が、少しだけ下がった。
同時に、レオの赤い糸が細かく震えていることも分かった。
緊張している。
ずっと。
ノアの呼吸、喉の状態、首輪の熱、魔力回路の流れ、外の気配。レオはすべてを拾っている。拾わずにはいられないのだろう。
ノアは鏡の中のレオを見た。
「今日のお前、糸がうるさい」
「ごめん」
「謝るの早い」
「自覚している」
「じゃあ抑えろ」
「抑えている」
「これで?」
レオは黙った。
ノアは杯の水を少しだけ揺らす。
「正直者」
「君に嘘をつくと、声で分かる」
「お前も大概、顔に出る」
「そう?」
「今、世界滅亡三秒前みたいな顔してる」
レオの目が、わずかに伏せられた。
「……今日は、そういう日だから」
静かな声だった。
ノアは、軽口を返そうとした。
返せなかった。
今日は、黒い災厄が死んだ日。
世界にとっては、救国の英雄が災厄を討った日。
学院にとっては、災厄忌。
生徒たちにとっては、劇と演舞と儀礼のある特別な行事。
ノアにとっては、前世の命日。
レオにとっては、愛した伴侶を殺した日。
同じ日なのに、誰も同じものを見ていない。
窓の外から、明るい声が聞こえた。
「白い花、こっちです!」
「英雄旗、もう少し高く!」
「聖魔法演舞の衣装、汚さないで!」
ノアは笑った。
「楽しそうで何より」
自分で言って、喉の奥が少し冷えた。
レオは何も言わなかった。
ノアは杯を机に置き、制服の襟元へ手をやった。
整えようとする。
しかし鏡の中の自分と目が合って、手が止まった。
白い制服の襟。
前世の同盟儀式の日、イリアスも礼装の襟を嫌がっていた。セラフィードがそれを直した。今日は戦場じゃない、と言った。そうだといいな、と返した。
その朝が、血の中で壊れた。
ノアは、指先がわずかに冷えるのを感じた。
そんなものは、ノアの記憶ではない。
そう思おうとした。
しかし、鏡の中の赤い瞳が、一瞬だけ赤黒く濁って見えた。
ノアは笑う。
「朝から記憶上映会、営業熱心すぎ」
レオが近づく。
「何か見えた?」
「自分の顔。美形すぎてびっくりした」
「ノア」
「はいはい、嘘です」
軽く返した声が、少しだけ軽すぎた。
レオはそれを聞き逃さない。
しかし、問い詰めなかった。
代わりに、ノアの後ろに立ち、鏡越しに視線を合わせた。
「髪、整える」
ノアは反射的に避けかけた。
半歩。
それだけ。
レオの手が空中で止まる。
待つ。
また、待つ。
ノアは、鏡に映るレオの手を見た。
白く、長い指。
前世の朝にも、セラフィードはイリアスの髪を整えたのだろう。戦場明けの朝。水を渡し、喉を癒し、髪に触れた。あの頃はまだ、檻ではなかった。互いに選んだ朝だった。
今は違う。
でも、全部が違うわけでもない。
ノアは、低く言った。
「髪くらい自分でできる」
「知っている」
「なら何でやる」
レオは、ほんの少しだけ黙った。
それから言った。
「手が震えるから」
ノアは何も言えなくなった。
鏡の中で、レオの手は確かに震えていた。
わずかに。
本当に、わずかに。
でも、震えている。
ノアの髪に触れようとしている手。
水を渡す手。
喉を癒す手。
首輪の熱を鎮める手。
かつて、イリアスを討ったはずの手。
レオは、今日、そのすべてを思い出している。
ノアは口を開きかけた。
冗談が出てこない。
人間、肝心なところで喉が詰まるようにできているらしい。役に立たない設計だ。神様がいるなら仕様書を出せ。たぶん燃やす。
ノアは、ゆっくり息を吐いた。
「……乱暴にするなよ」
「しない」
「絡まってても引っ張るな」
「しない」
「あと、変に芸術的に結ぶな」
「しない」
「全部即答するな。美容師か」
レオの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それでいい。
その顔の方が、まだましだ。
レオの指がノアの髪に触れた。
黒髪を、丁寧に梳く。
襟足を整え、耳の横に落ちた髪を直し、額にかかった一房を横へ流す。手つきは慎重だった。壊れ物に触れるようではない。逃げ道を塞ぐようでもない。ただ、震える手を落ち着かせるために、ノアの髪を整えている。
ノアは鏡の中で、それを見ていた。
レオの目は真剣だった。
重い。
けれど、嫌ではない。
それが少し悔しい。
ノアはわざと軽く言った。
「俺の髪、メンタル安定剤にされてる?」
「うん」
「認めるなよ」
「嘘をつくと、君に分かる」
「分かる前に呆れる」
「呆れていても、許してくれた」
「今だけな」
「うん」
レオは、最後に襟元を直した。
指先が、制服の襟へ触れる。
ノアは一瞬だけ、息を止めた。
黒を基調にした礼装。
銀糸の刺繍。
同盟儀式の朝。
父王の血。
触るな。
呼ぶな。
俺の名前を、お前の声で呼ぶな。
ノアは目を閉じた。
鏡を見ない。
見なければ、今の自分だけが残る。
そう思ったのに、瞼の裏に一瞬だけ白金の光が過った。
レオの指が止まる。
「ノア」
「……平気」
「声が変わった」
「変わってませんー」
「軽い」
「お前の判定、朝から厳しい」
「今日だから」
ノアは目を開けた。
鏡の中のレオが、ひどく不安そうな顔をしていた。
それを見て、ノアは肩をすくめる。
「俺はここにいる」
レオの瞳が揺れた。
「うん」
「まだ行ってもないのに、もう葬式みたいな顔するな」
「今日は」
「知ってる」
「君の命日で」
「知ってる」
「僕が君を殺した日だ」
ノアの胸の奥が、鈍く痛んだ。
その言葉を、レオの口から聞くのは嫌だった。
だが、否定もできない。
できないままにしておくのも、もっと嫌だった。
ノアは、鏡越しではなく、身体ごと振り返った。
「今の俺を殺してない」
レオは息を止める。
「殺すなよ」
レオの顔が、痛みで歪む。
「殺さない」
「知ってる」
「絶対に」
「うん」
「君がまた自分を災厄にしようとしても」
「しない」
「君が一人で終わろうとしても」
「しない」
「君が僕を置いて」
「レオ」
ノアは、その名を少し強く呼んだ。
レオの言葉が止まる。
赤い糸が震えている。
伴侶首輪も、内側から熱を持っている。
けれど、ノアは逃げなかった。
「今日は一緒に行く。舞台にも上がる。お前の結界の中にも一応いてやる。だから、今から前世の最悪リストを全部読み上げるな。朝から胃もたれする」
レオは黙った。
それから、少しだけ息を吐く。
「……分かった」
「本当に?」
「努力する」
「そこは言い切れ」
「分かった」
「よろしい」
レオはノアの首輪へ、もう一度そっと聖魔法を流した。
熱が少し下がる。
魂糸はまだ細かく震えているが、先ほどよりはましだった。
ノアは机の上の杯をもう一度取り、残りの水を飲んだ。
「本番前の魔力回路調整は?」
レオが問う。
ノアは眉を上げた。
「試合前メンテ、今やる?」
「少しだけ」
「長くするなよ」
「許可を取る」
「覚えてて偉い」
「君に褒められると、少し困る」
「慣れろ」
レオは、ノアの手首には触れず、白金の魔力だけを細く伸ばした。
魔力回路の流れを確認し、黒魔法が過剰に跳ねないよう整える。首輪の熱、赤い糸の張り、喉の状態、胸の奥の圧。全部を拾っているのが分かる。
ノアは目を細めた。
「やっぱり管理っぽい」
「君が嫌なら止める」
「……嫌じゃない程度にしろ」
「分かった」
「成長してる。怖い」
「怖がらせたくはない」
「もうだいぶ怖いから手遅れ」
「ノア」
「でも、前よりはまし」
レオの手が止まりそうになる。
ノアはすぐに言った。
「止めるな。今いいこと言ったんだから、ちゃんと受け取れ」
レオは、静かに頷いた。
「受け取る」
「重く受け取るなよ」
「無理かもしれない」
「正直すぎる」
窓の外で、鐘が鳴った。
一度。
深く。
白金の音が、学院全体へ広がっていく。
災厄忌の開幕を告げる鐘だった。
中庭の生徒たちが、歓声を上げる。遠くの大講堂から、楽の音が聞こえ始めた。白い花が運ばれ、英雄旗が掲げられ、舞台の幕が開く準備が進む。
ノアは窓へ視線を向けた。
自分の命日を祝う音。
レオが、愛した男を殺した日を讃える音。
どこまでも白く、どこまでも明るい。
ノアは笑った。
笑わなければ、足が止まりそうだった。
「じゃ、行くか。俺の命日パーティー」
レオの息が止まった。
ノアはそれに気づいた。
けれど、言い直さなかった。
窓の外では、白い花が朝の光に揺れていた。




