第42話 舞台へ上がるしかない
学院長室は、古い紙の匂いがした。
高い天井まで届く本棚が、四方の壁を埋めている。背表紙の色は赤褐色や深緑、黒、灰色で、どれも年月にくすんでいた。棚の上段には封印鎖のかかった魔法契約書が並び、下段には学院の創設記録や、各国との協定書らしい厚い冊子が収められている。
窓際には、大きな机。
磨かれた濃い木目の上に、羽根ペン、封蝋、古い地図、白金の小さな魔力灯が置かれていた。机の奥の壁には、学院創設者の肖像画が掛けられている。厳格そうな老魔法士の肖像だった。片手に杖、片手に古い魔導書を持ち、背後には白い塔と黒い書庫が描かれている。
窓の外には中庭が見えた。
災厄忌の準備が進んでいる。
白い花を運ぶ生徒。黒い布を広げる生徒。舞台へ向かう大講堂の扉に、白金の剣と黒い花を組み合わせた飾りを結ぶ教師。誰もが忙しそうだった。誰もが、自分たちが綺麗な儀礼を準備していると信じている顔をしていた。
ノア・クロウは、窓辺の光を横目で見ながら椅子に座っていた。
隣にはレオ・アステルレイン。
レオは立っていた。座るよう勧められても、一度も腰を下ろしていない。背筋は伸び、表情は穏やかに整っている。けれど、白金の魔力はずっと薄く張り詰めたままだった。
ノアの首元では、伴侶首輪が微かに熱を持っている。
強い痛みではない。
けれど、警戒をやめるなと内側から囁くような熱だった。
学院長は机の向こうに座っていた。
白髪をきっちり結った老婦人。いつもの穏やかな笑みは薄く、今日は学院長としての顔をしている。手元には、英雄教会の儀礼書、セドリックが封じた白い花、舞台魔法陣の写し、そして古い学院創設記録が置かれていた。
セドリック・バロウズは窓際に立ち、腕を組んでいる。
黒魔法科教師らしく、部屋の明るさに少しだけ不機嫌そうな顔だ。いや、たぶん元からそういう顔なのだろう。人類は表情筋だけで誤解を生む。面倒な生き物だ。
学院長が口を開いた。
「結論から言います。災厄忌本番には、二人とも出席してください」
レオの返答は早かった。
「お断りします」
空気が固まった。
学院長は驚かなかった。
セドリックも、まあそう言うだろうな、という顔をしている。
ノアは椅子の背に軽くもたれた。
「王子様、即答が速すぎて議事録が泣くぞ」
「泣かせておけばいい」
「わりと本気で機嫌悪いな」
「君を舞台へ上げる気はない」
レオの声は静かだった。
静かだからこそ、逃げ道がない。
学院長は両手を机の上で組んだ。
「アステルレイン君。あなたの気持ちは理解しています。ですが、ここまでの異常は、すべてあなた方二人に反応しています。台本、仮面、舞台魔法陣、英雄像の影、白い花。どれも、片方だけではなく、英雄と災厄の構図そのものへ干渉している」
「だからこそ、ノアを遠ざけるべきです」
「遠ざけた結果、別の場所で発動したら?」
レオの目が冷える。
学院長は続けた。
「すでに礼拝室の聖像にまで干渉が出ています。災厄忌本番の舞台だけが危険とは限りません。寮、教室、礼拝室、地下書庫。あなた方がどこへいても、術式が追ってくる可能性がある」
ノアは首元へ指をやった。
伴侶首輪の熱が、少しだけ強くなる。
レオの不安だ。
こちらへ流れてくる。
ノアは低く言った。
「熱い」
レオがすぐにこちらを見る。
「痛い?」
「まだ平気。落ち着け」
「……ごめん」
「謝るなら落ち着け、の回数記録更新中だな」
セドリックが短くため息をつく。
「お前たちは場を選んで痴話めいた危険会話をしろ」
「痴話じゃないです」
「危険会話は否定しないのか」
「そのへんは事実なので」
「面倒な正直さだ」
学院長は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
けれどすぐに、視線を記録へ落とす。
「白い花に刻まれた古い祈祷文を、バロウズ先生が分析しました。英雄教会の儀礼花であることは間違いありません。ただし、現行の正式祈祷文とは異なります。古い形です」
セドリックが補足する。
「祈りの構文に、外部術式が混ざっている。英雄教会が意図的に使っているか、古い儀礼の中へ知らずに継承してきたかは断定できない」
ノアは机の上の白い花を見た。
封印布の中に収められているのに、白さは失われていない。
「綺麗な顔で厄介事持ってくる花だな」
「花に罪はない」
レオが言った。
ノアは横目で見た。
「お前、花にも嫉妬してたじゃん」
「それとこれは別だよ」
「便利な別枠」
学院長は、古い創設記録へ手を置いた。
「学院創設時の記録にも、英雄教会と黒魔導書封印に関する記述があります」
レオの顔が動いた。
ノアも、思わず背を少し起こす。
学院長は詳しくは開かなかった。
古い表紙の上を、指先だけでなぞる。
「アルカディア魔法学院は、表向きは各魔法科の教育機関として設立されました。しかし創設初期には、戦後処理、禁書の封印、英雄教会との儀礼協力も担っていたようです」
「黒魔導書も?」
ノアが問うと、学院長は一瞬だけ黙った。
「断片的な記録はあります」
「断片的って便利な言い方」
「完全な記録は、封印指定です」
「やっぱり便利」
セドリックが低く言う。
「ふざけるな。ここは重要だ」
「ふざけてないです。ふざけないと胃が死ぬだけで」
学院長は、ノアを責めなかった。
「詳細は、今は開示できません。ですが、英雄教会と黒魔導書封印の関係は無視できません。今回の干渉が黒災忌会だけのものではない可能性は高いでしょう」
レオが静かに言った。
「英雄教会そのものを調べるべきです」
「調べます。ただ、儀礼本番を中止すれば、相手は隠れます」
「ノアを危険に晒して誘き出すのですか」
白金の魔力が、冷たく張った。
ノアの首輪が反応する。
喉の奥に違和感が走った。
「レオ」
ノアは短く呼んだ。
レオがこちらを見る。
「焼ける」
レオはすぐ魔力を抑えた。
「ごめん」
「本日二回目」
「数えないで」
「数える側の気持ちにもなれ」
レオは苦しげに目を伏せた。
その顔を見て、ノアは言葉を軽くしようとしてやめた。
軽くすれば楽になる場面と、軽くしない方がいい場面がある。
腹立たしいが、今は後者だ。
ノアは学院長を見た。
「出た方が早いと思います」
レオが即座に振り返る。
「ノア」
「逃げ回って首輪焼かれるより、舞台で犯人待った方が早いだろ」
「君を餌にする気はない」
「俺は釣り餌じゃなくて釣り竿持つ側ですー」
「そうやって、君はまた前へ出る」
レオの声が、低くなった。
怒りではない。
恐怖だ。
ノアはそれを聞き取ってしまった。
前世のセラフィードも、きっと何度も同じ声を出したのだろう。
助けを求めろ。
戻れ。
僕のところへ。
イリアスは行った。
戻らなかった。
だから現世のレオは、ノアが「前へ出る」と言うだけで赤い糸を張る。
ノアは少しだけ視線を落とした。
けれど、引かなかった。
「俺だって、無駄に前へ出たいわけじゃない」
「知っている」
「なら止めるな」
「知っていても、止めたい」
「それも知ってる」
「なら」
「でも、止められても行く」
レオの瞳が揺れる。
ノアは、できるだけ軽く言った。
「俺、逃げ足だけはそれなりにあるので」
「前世の君も、そう見えた」
空気が少し止まる。
ノアは笑った。
軽すぎる声になりかけた。
レオの目がそれを拾う前に、ノアは息を整えた。
「今の俺を、あいつの続きだけで測るな」
レオは黙った。
「俺はノア・クロウだ。黒魔法科の平民で、首輪つきで、やたら重い王子様と相部屋で、今のところ人生が非常に騒がしい新入生」
「首輪つきは言わなくていい」
「事実ですー」
「そこだけ軽くする」
「重く言った方がいい?」
「いい」
レオの声に少しだけ痛みが混じる。
ノアは肩をすくめた。
「まあ、とにかく。俺はイリアスじゃない。でも、イリアスの名前で引っ張られてるのは俺だ。だったら、俺が見る」
「僕も見る」
「うん」
「君一人では行かせない」
「それはもう諦めてる」
「諦めるのが早い」
「お前がしつこいから」
学院長は、二人のやり取りを静かに聞いていた。
やがて、机の上の一枚の図を広げる。
災厄忌本番の舞台配置図だった。
大講堂の中央舞台。
客席。
聖魔法科の演舞位置。
黒魔法科の補助陣。
来賓席。
英雄教会の儀礼補助席。
そして、舞台魔法陣。
「本番での役割を伝えます。アステルレイン君には、聖魔法防壁を担当してもらいます。舞台周辺と客席の間に、異常術式が流れ出ないよう結界を張る」
レオは眉を寄せる。
「ノアは」
「クロウ君には、黒魔法による異常術式の検知を担当してもらいます。黒災忌会、黒魔導書残響、外部術式。いずれも黒魔法の反応域に近い。君の感知が必要です」
レオが低く言った。
「彼の魔力を使わせるのですか」
「最小限です」
「最小限でも反応する」
「だから、あなたの防壁が必要になる」
学院長は二人を見た。
「二人の魔法が噛み合う必要があります。アステルレイン君の聖魔法が舞台を守り、クロウ君の黒魔法が異常を拾う。互いを拒む形ではなく、補い合う形で」
ノアは、ふっと笑った。
「双星みたいだな」
言ってから、しまったと思った。
レオの表情が、少しだけ動く。
セドリックも黙る。
学院長の目に、何か深いものがよぎった。
ノアはわざと軽く続けた。
「いや、名前が大げさすぎて肩凝るやつ」
レオが、静かに言った。
「君と並ぶなら、悪くない」
ノアの喉が詰まった。
前世の戦場。
黒い霧。
白金の光。
双星の英雄。
そう呼ばれた二人。
ノアは笑おうとして、少し失敗した。
「そういうの、今言うな。会議室が死ぬほど気まずい」
「ごめん」
「謝るな。余計気まずい」
セドリックが眉間を押さえた。
「お前たち、会議室を恋愛劇場にするな」
「してません」
「している」
「先生まで」
「事実だ」
学院長が小さく咳をした。
ようやく話を戻す合図だ。
「本番前に、魔力回路の調整を行ってください。クロウ君は前夜から強い黒魔法を使わないこと。アステルレイン君は、防壁構築のために魔力を温存すること」
レオがすぐに言う。
「本番前に、僕がノアの魔力回路を確認します」
ノアは横を見る。
「試合前メンテ?」
「君が倒れないため」
「俺、馬車か何か?」
「違う」
「返事が早い。そこは分かってるんだ」
「君は物じゃない」
レオの声は、まっすぐだった。
ノアは少しだけ黙った。
前に言った言葉を、覚えている。
俺は物じゃない。
それをレオは覚えている。
覚えた上で、まだ首輪はある。赤い糸もある。結界もある。管理もある。
矛盾だらけだ。
でも、ほんの少しだけ違う。
許可を取るようになった。
遮音結界を一部解いた。
自分の不安で首輪が焼けることに気づくようになった。
全部が十分ではない。
けれど、ゼロでもない。
ノアは鼻で笑った。
「倒れないように、か」
「うん」
「俺が嫌って言ったら?」
「……理由を聞く」
「お。成長」
レオは少しだけ困ったような顔をした。
「君に成長と言われると、複雑だ」
「褒めてますー」
「たぶん半分は皮肉だ」
「正解」
学院長は、静かに息をついた。
「本番まで、時間はありません。今後、白い花、黒い花、英雄像、舞台道具、すべての監視を強めます。ですが、向こうが狙っているのは、最終的には本番です」
ノアは窓の外を見た。
中庭の飾り付けが、さらに進んでいる。
笑っている生徒たちがいる。
災厄忌を楽しみにしている。
誰かの命日で。
誰かの傷で。
誰かが英雄にされ、誰かが災厄にされる儀礼で。
ノアは、喉の奥の違和感を飲み込んだ。
「じゃあ、舞台へ上がるしかないわけだ」
レオの赤い糸が、また強く張る。
だが今度は、すぐには首輪が熱くならなかった。
レオが抑えたのだ。
ノアはそれに気づいた。
レオは低く言った。
「舞台に出るなら、僕の結界の中にいて」
「檻じゃなくて?」
「結界」
「違いは?」
「君が嫌だと言ったら、形を変える」
ノアは目を瞬いた。
それから、少しだけ笑った。
「……今のは、まあ、結界って呼んでやる」
レオの表情が、わずかに和らぐ。
ほんの少し。
だが、すぐに戻った。
「でも、君を危険から離すためなら、僕はまた間違えるかもしれない」
「不穏な自己申告やめろ」
「だから、言って」
「何を」
「僕が間違えたら」
ノアはレオを見上げた。
レオは、まっすぐ見返してくる。
綺麗な王子様の顔。
その奥に、前世で愛した男を殺した傷と、現世で二度と失いたくない狂気がある。
ノアは、軽く笑った。
「言うよ。俺の声、好きなんだろ」
「好きだよ」
「即答すんな」
「でも、好きだよ」
「だから朝でも昼でも重いんだよ、お前」
学院長室を出ると、廊下には災厄忌本番用の白い花が並べられていた。
大きな籠に入れられた儀礼花。
花弁は白く、芯は薄金色。清めと追悼と勝利の象徴。
その中の一輪だけが、黒く枯れていた。
白い花弁の端から墨を吸ったように黒が広がり、中心は灰色に沈んでいる。周囲の花は何も変わっていない。ただ、その一輪だけが、すでに焼け落ちたみたいに萎れていた。
ノアは足を止めた。
レオも止まる。
赤い糸が、静かに震えた。
ノアは枯れた花を見下ろし、掠れの残る声で笑った。
「歓迎ムード、最悪だな」




