第41話 本番で会おう
白い花は、朝の光の中でも白かった。
寮部屋の机の上に置かれたそれは、夜の礼拝室で拾った時よりも、よほど無害に見えた。薄い花弁。淡い金色の芯。英雄教会の儀礼で使われる祈りの花。清め、追悼、勝利、救済。そういう清潔な言葉を背負わされている花。
だが花弁の裏には、古代語で短く書かれていた。
本番で会おう。
ノア・クロウは、その文字を眺めて、掠れの残る声で笑った。
「招待状多すぎない? 俺、人気者すぎて困る」
寝台の脇に立っていたレオ・アステルレインが、すぐに言った。
「嬉しそうに言わないで」
「嬉しくない時ほどふざけるタイプなので」
「知っている」
「分かってるなら流せ」
「流したくない」
「重い」
ノアは椅子に腰掛けたまま、花を指で弾きかけてやめた。
触るな、とレオに言われる気配が濃すぎた。すでにレオの視線は、花とノアの指の間を往復している。人間の視線だけで柵が作れるなら、今のノアの周囲には白金の柵が三重くらい建っている。便利だ。いや、便利ではない。鬱陶しい。
喉は、まだ少し痛い。
前夜の礼拝室で、英雄像の影がノアの声を偽った。
助けて。
助けてと、ノアの声で、レオに聞かせた。
その反動で赤い糸が暴走し、伴侶首輪が焼けるように熱を持ち、ノアは床の上で崩れた。あの時の喉の痛みは、レオの治癒でかなり引いたが、声の底にはまだ薄いざらつきが残っている。
レオは朝から何度も水を渡し、喉を癒し、魔力回路を整えた。
許可を取りながら。
そこだけは、進歩した。
たぶん。
ノアは杯を手に取った。
中の水には、また白金の治癒が薄く混ぜられている。喉にやさしい温度。王子様の給水サービス、本当に板につきすぎている。これが愛か管理か介護かと聞かれたら、全部である。厄介な盛り合わせだ。
「定期点検長い」
「まだ掠れている」
「声出てるだろ」
「戻りきっていない」
「基準が厳しい」
「君の声だから」
「それ、万能理由だと思うなよ」
レオは答えない。
否定しない時の顔だ。
ノアは肩をすくめ、花へ視線を戻した。
白い花。
黒災忌会の黒い花とは違う。
黒い花なら分かりやすかった。黒い災厄を崇める者たち。黒魔導書の残響。黒い災厄の器。そういう趣味の悪い単語が並ぶ相手なら、まだ黒くて親切だ。
だが、これは白い。
英雄教会の儀礼花。
それがいちばん嫌だった。
白いものが清いとは限らない。人間の歴史を少しめくれば、そんなことは嫌というほど分かる。白い布は血を隠すのにも使える。祈りは刃を包むのにも便利だ。まったく、人類は包装技術だけは無駄に発達している。
扉が叩かれた。
短く、無駄のない音。
レオが先に動きかける。
ノアは目で止めた。
「俺の部屋でもある」
「分かっている」
「分かってるやつは一歩下がる」
レオは一歩下がった。
少しだけ。
本当に少しだけ。
ノアは扉を開けた。
廊下に立っていたのは、黒魔法科教師セドリック・バロウズだった。いつも通り黒い外套を羽織り、片手に古い革の手袋をしている。眠たそうな目つきに見えるが、視線は鋭い。部屋の中を一瞥しただけで、机の上の白い花、ノアの喉元、レオの位置、全部を把握した顔をした。
「朝から面倒事の匂いがするな」
ノアは笑った。
「先生、挨拶が黒魔法科向きすぎる」
「お前が廊下に漏らした魔力の残りを見れば、だいたい察する」
「漏れてました?」
「少しな。喉は」
「生きてます」
「声は死にかけだ」
「辛口診断」
レオが横から言う。
「まだ治癒が必要です」
セドリックはレオを見た。
「過剰治療はするな」
「していません」
「その即答は信用しづらい」
レオは黙った。
セドリックは部屋へ入り、机の前で足を止めた。
白い花を見下ろす。
「英雄教会の儀礼花か」
「ですよね」
「どこで拾った」
「礼拝室。英雄像の影が妙なことをしたあと」
セドリックの目が細くなる。
「妙なこと」
ノアは花弁の裏を指した。
「まず、影が俺の声を偽って、助けてって言った」
レオの赤い糸が、冷たく張る。
伴侶首輪が、じわりと熱を返した。
ノアは顔をしかめる。
「お前、反応するな。俺が熱い」
「……ごめん」
セドリックはそのやり取りを見て、わずかに眉を寄せた。
「声を偽った?」
「はい。俺本人は言ってません。そこ重要」
「分かっている」
「分かってない人がたまにいるので」
レオが目を伏せた。
ノアは一瞬だけ言いすぎたかと思ったが、取り消さなかった。
必要な線引きだ。
セドリックは花を手袋越しに持ち上げた。
その瞬間、赤い糸が一瞬だけ白く濁った。
ノアの首元に、冷たい違和感が走る。
熱ではない。
冷たさ。
氷の糸が皮膚の内側を撫でるような、不快な感触だった。
ノアは短く息を詰めた。
レオが即座に反応する。
「ノア」
「平気。冷たいだけ」
「触らないで」
「俺、触ってない」
「花に」
「先生が持ってる」
「それでも嫌だ」
ノアはセドリックを見た。
「先生、王子様が花に嫉妬してます」
セドリックは呆れたように言う。
「アステルレイン、落ち着け」
レオはセドリックを見た。
静かな顔。
だが、目は穏やかではない。
「その花はノアへ触れました」
「触れたのは影だ。花は残された媒介だろう」
「媒介ならなおさら危険です」
「危険だから調べる」
「ノアから離して調べてください」
「今、離している」
セドリックは花を机の中央へ置き直し、持参した小さな封印布を広げた。黒い刺繍の入った布だ。黒魔法科の教師らしい、光を吸うような素材だった。
「クロウ、触れるな」
「はいはい」
「アステルレイン、燃やすな」
「……はい」
「今の間は何だ」
「燃やした方が安全だと思いました」
「安全と情報破壊を混同するな」
ノアは小さく笑った。
「先生、俺が言いたいこと全部言ってくれる」
レオはノアを見た。
「君が近づいたものを燃やしたいわけじゃない」
「うん」
「君に触れたものを消したいだけだよ」
「もっと悪い言い換えきたな」
セドリックがため息をついた。
「お前ら、調査中に痴話喧嘩の形をした危険会話をするな」
「痴話喧嘩じゃないです」
「危険会話は否定しないんだな」
「否定すると嘘になるので」
セドリックはもう一度ため息をついた。
この教師、苦労が多そうだ。原因の一部が自分たちなのは理解している。申し訳ない気持ちはある。反省は、まあ、そのうち考える。人間、全部を一度に背負うと腰をやる。
セドリックは封印布の上へ花を置き、指先に黒い魔力を灯した。
ノアの黒魔法とは違う。
教師の魔力は、乾いた夜のように落ち着いていた。深いが、荒れていない。花弁の裏に刻まれた古代語をなぞると、文字が黒く浮かび上がる。
本番で会おう。
その下に、肉眼ではほとんど見えない細い祈祷文があった。
セドリックの眉が動く。
「英雄教会の正式な儀礼文ではないな」
レオがすぐに問う。
「では、偽装ですか」
「似せている。いや、古い形を使っていると言う方が近い。現行の英雄教会が使う祈祷文より古い。語尾の処理が違う。祈りを閉じる部分が歪んでいる」
ノアは机へ肘をつきかけて、レオの視線を感じてやめた。
「古い、歪んだ祈祷文?」
「そうだ」
「英雄教会の古文書とかに残ってるやつ?」
「可能性はある」
セドリックは花弁を慎重に裏返し、魔力の層を一枚ずつ読む。
「聖魔法の残滓がある。だが純粋な聖魔法ではない。黒魔法が混じっているわけでもない。もっと性質が悪い。聖魔法の祈りの形を使って、別の術式を通す構造だ」
レオの顔が冷える。
「ラシェル・オルブライト」
ノアはすぐに言った。
「司祭様が黒幕って決めるには早いだろ」
「君に近づいた」
「近づいた人間全員疑うな」
「努力する」
「そこは否定しろ」
レオは否定しない。
ノアは額を押さえた。
「ほんと、否定する気がない男」
「ラシェルは君を観察していた」
「司祭様どころか、学院中けっこう俺を見てるぞ。黒魔法科の平民で、聖魔法科の王子様と相部屋で、首輪つき。そりゃ見るだろ」
「最後の言い方はやめて」
「事実ですー」
「事実の形をした皮肉は、時々僕を刺す」
「仕返しみたいに言うな」
セドリックが咳払いした。
「話を戻せ」
「戻してます」
「どこがだ」
「精神的には」
「最悪の返答だな」
セドリックは花へ視線を戻した。
黒い魔力で古い祈祷文の構文を写し取る。空中に細い文字列が浮かんだ。古代語の祈り。英雄教会の儀礼。白い花の祈祷文。
その中に、異物が混ざっていた。
三本の線が絡む構文。
ノアの首輪の亀裂。
同盟儀式の汚れ。
黒い仮面の術式。
同じ気配。
ノアは思わず息を止めた。
「……それ」
セドリックも気づいたらしい。
表情が険しくなる。
「これは英雄教会の祈祷文ではない」
レオの声が低くなる。
「オルドレイスの術式」
その名が部屋に落ちた。
完全な沈黙。
ノアは、レオを見た。
「今、普通に言ったな」
「断定はできない」
「でもその名前出した」
レオは、ノアを見返した。
「同じ構文がある。黒魔導書の断片記録、同盟儀式の汚染術式、仮面の内側、君の首輪の亀裂。完全に同一ではないけれど、核が似ている」
セドリックは、空中の文字列を睨む。
「教会が意図して使っているとは限らない。古い祈祷文の中に、すでに混ぜられていた可能性がある」
「つまり、知らずに使ってる?」
ノアが問うと、セドリックは頷いた。
「あり得る。長い歴史の中で聖句として保存され、意味を変えられずに継承されてきたなら、内部の構文が何に繋がるか分からず使っている者もいるだろう」
「信仰って怖いな。使用許諾読まずに魔法発動してるみたいなもんだ」
「例えは軽いが、おおむねそうだ」
「認められた」
レオは花を見つめていた。
白い花。
祈りの花。
本番で会おう。
彼の白金の魔力が、静かに冷えていく。
「どちらにしても、ノアを災厄忌へ出すべきではありません」
ノアはすぐに顔を上げた。
「またそれか」
「危険だ」
「危険なのは分かってる」
「なら」
「出ないって選択で相手が諦めると思うか?」
レオは黙った。
セドリックも無言になる。
ノアは白い花を見る。
「向こうは、台本にも、仮面にも、英雄像にも仕掛けてる。声まで偽った。俺たちを本番へ引っ張りたいんだろ。こっちが逃げたら、別の手を使うだけじゃないか?」
レオの赤い糸が、強く張った。
首輪が熱を持つ。
ノアは顔をしかめる。
「だから、熱い」
「君を危険に近づけたくない」
「知ってる。でも俺抜きで俺の問題を解くなって言っただろ」
「……覚えている」
「よろしい」
セドリックは、花を封印布で包んだ。
「これは預かる」
「燃やさない?」
「燃やさない。分析する」
レオは不満そうだった。
ノアは横目で見る。
「燃やしたそうな顔」
「燃やしたい」
「正直すぎる」
「努力はしている」
「その努力、今は評価する」
レオの顔が少しだけ複雑になる。
褒められたと思ったのか、皮肉だと思ったのか分からない顔だ。両方である。人間の言葉は便利だ。一本で二回刺せる。
その時、部屋の外から鐘が鳴った。
朝の授業開始を告げる鐘ではない。
災厄忌の準備開始を告げる特別な鐘だった。
学院の塔から、白金の音が広がる。
レオの顔がさらに冷える。
ノアの首輪にも、細い熱が走った。
セドリックは封印布を懐にしまい、低く言った。
「学院長へ報告する。お前たちも呼ばれるだろう」
「今から嫌な予感しかしない」
「その予感はだいたい当たる」
「先生、慰める気あります?」
「ない」
「潔い」
呼び出しは、昼前に来た。
学院長室ではなく、学院中央棟の小会議室だった。大きな窓から中庭が見え、災厄忌の飾り付けを進める生徒たちの姿がある。黒い花、白い剣、英雄劇の旗。楽しそうな声が遠くで弾んでいた。
部屋には学院長、セドリック、聖魔法科教師エリシア・グレイス、そしてノアとレオがいた。
学院長は穏やかな老婦人だったが、今日の表情は硬かった。
「白い花の件は聞きました」
ノアは椅子に座りながら言った。
「招待状としてはだいぶ不親切でした」
「冗談で済ませられるものではありません」
「はい」
素直に返すと、学院長が少しだけ驚いた顔をした。
ノアは内心で肩をすくめる。
別にいつも全部を茶化したいわけではない。茶化さないと喉に詰まるものが多いだけだ。人間、消化できない感情を抱えすぎである。もっと柔らかく調理してから出してほしい。
学院長はレオへ視線を向けた。
「アステルレイン君。あなたが災厄忌への出席を避けたい理由は、理解しています」
レオは静かに言った。
「なら、ノアを出席させないでください」
「それはできません」
即答だった。
レオの赤い糸が張る。
ノアの首輪が熱を持つ。
ノアは小声で言った。
「落ち着け。会議室で燃えるな」
「燃えていない」
「糸が怒ってる」
「……ごめん」
学院長は、そのやり取りを見て目を細めた。
何かを言いかけたが、今は飲み込んだ。
「災厄忌本番には、学院中の生徒、教師、英雄教会の関係者が集まります。すでに来賓も招いています。表向きに中止すれば、混乱が起きます」
「混乱より、ノアの安全が優先です」
「もちろんです。だからこそ、出席してもらいます」
レオの顔が冷えた。
「意味が分かりません」
学院長は、ゆっくりと言った。
「逃げれば、向こうは別の方法で君たちを舞台へ上げる」
部屋の空気が、重く沈んだ。
ノアは窓の外を見た。
中庭では、災厄忌の旗が風に揺れている。
黒い花。
白い剣。
英雄と災厄。
何度も繰り返された役。
ノアは笑おうとして、やめた。
レオの赤い糸が、冷たく震えていた。




