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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第二章【災厄忌と声の檻】

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第40話 偽物の助けて





 礼拝室の空気が、凍った。


 白い石壁に囲まれた夜の礼拝室は、月明かりだけで青白く沈んでいる。祭壇の布も、壁の古い聖印も、長椅子の影も、すべてが音を失っていた。


 英雄像の足元に封じられた黒い影。


 その奥から、ノア・クロウの声がした。


「助けて」


 ノアは言っていない。


 喉を動かしてもいない。唇も開いていない。


 けれど、声は確かにノアのものだった。


 掠れていて、弱くて、縋るようで、レオ・アステルレインの心臓を狙うためだけに作られたような声。


 レオが凍りついた。


 白金の聖魔法が、ぴたりと止まる。


 その顔から、血の気が引いていった。英雄像の影を封じていた聖魔法の輪がわずかに乱れ、床に落ちた黒い花の残滓が、静かに震える。


 ノアは、すぐに理解した。


 これはレオに聞かせるための声だ。


 前世で、セラフィードが何度も求めた言葉。


 助けてくれと言え。


 僕に縋れ。


 僕を呼べ。


 イリアスが最後まで言わなかった言葉。


 それを、影が偽物として使った。


 ノアの声で。


 ノアは、腹の底から嫌悪した。


「俺の声で、俺が言ってないこと言うな」


 低い声だった。


 茶化す余裕はなかった。


 レオの指先が震える。


 それから、白金の聖魔法が荒れた。


 いつもの精密な光ではない。冷静に組まれた結界でもない。傷口へ塩を叩き込まれたような、乱れた光だった。英雄像の影を消そうとして、聖魔法が鋭く膨れ上がる。


 赤い糸が急激に張った。


 伴侶首輪メイト・カラーが、ノアの首元で熱を爆ぜさせる。


「っ……!」


 喉が詰まった。


 レオの動揺が、赤い糸を通じてそのままノアへ流れ込む。影の術式が、偽物の「助けて」をさらに深く響かせる。赤い糸と首輪と魂糸が、本物の声と偽物の声を識別しようとして軋む。


 だが、遅い。


 影がまた、ノアの声で叫んだ。


「助けてえぇえええええええええええ」


 礼拝室の白い石壁に、偽物の声が絡みついた。


「たすけてえええええレオ」


 レオの呼吸が止まる。


 ノアの首輪が焼けるように熱を持つ。


「レオオオオオオオオオオオオオオオ!!」


 赤い糸が暴走した。


 ノアの喉に、熱が突き刺さる。


 黒い亀裂が首輪の内側で広がり、外部術式が魂糸へ触れた。黒い花の残滓、英雄像の影、祈りを装った封印術式、レオの前世傷、ノアの声。全部が、一瞬で噛み合わない歯車みたいに衝突する。


 ノアの膝が折れた。


 両手を床につく前に、背筋が強く跳ねる。身体が弓なりに反り、指先が硬直した。白い石床を爪が掻き、耳障りな音が礼拝室に響く。


 ノアの瞳孔が開いた。


 赤い瞳の周囲に細い血管が浮かび、黒い魔力が瞳の奥で濁る。焦点が合わない。英雄像もレオも白い壁も、ぐにゃりと歪んで見えた。


 喉が裂けるように声が壊れる。


「あ゛、が……っ、あ゛ああああああッ!!」


 それは整った悲鳴ではなかった。


 喉の奥を焼かれ、赤い糸に引き裂かれ、黒い術式に声を歪められた咆哮だった。叫びは途中で詰まり、息が引き攣り、口元に泡混じりの呼吸が滲む。


 レオが遮音結界を張った。


 白金の膜が礼拝室を包み、ノアの声を外へ漏らさない。


 誰にも聞かせない。


 影にも、壁にも、英雄像にも、外の廊下にも。


 自分だけが聞く。


 それが保護であると同時に、独占でもあることを、ノアは身体の奥で理解した。


 だが、言葉にならない。


 声が崩れる。


「あぎぎぎぎぎぎぎぎっ……!?」


 喉が引き攣り、舌がうまく収まらない。音が意味を持つ前に潰れる。背中が跳ね、肩が不規則に震え、脚が床を蹴った。逃げようとしているのではない。身体が魔法的限界反応で勝手に暴れている。


 ノアは床の上でのたうつ。


 白い石床に片肘を打ち、膝が滑る。四肢がばらばらに跳ねる。黒い魔力を吐き出すように身体が折れ、喉の奥から濁った息が漏れた。


「んぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……ッ!!」


 声は途中で掠れ、泡混じりの息に変わる。


 レオの顔が歪んだ。


 彼はすぐにノアへ駆け寄ろうとしたが、影がまた偽物の声を出した。


「助けて、レオ」


 レオの足が止まる。


 その一瞬が、ノアへ反動として返った。


 伴侶首輪がさらに熱を持つ。


「んぉっ、お゛ぉおおおおおおおおおお……ッ!?」


 ノアの身体が大きく跳ねた。


 背筋が反り、喉が仰け反る。舌先が震え、声が形にならない。赤い瞳は血走り、焦点の合わない視線が天井を泳いだ。唇の端に泡混じりの息が滲み、レオの白金の光がすぐに呼吸を支えようと伸びる。


 だが、レオの聖魔法も乱れている。


 偽物の「助けて」が、彼の一番深い場所を掴んで離さない。


 ノアの口から、次の叫びが落ちた。


「んぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい……ッ!?!!」


 白い石床に爪が立つ。


 指先が硬直し、黒い魔力が皮膚の下で暴れる。胸の奥が圧迫され、魔力回路が赤い糸に引きずられる。首輪の黒い亀裂が熱を増し、喉の奥へ焼けつくように広がった。


 身体の制御が、また一瞬途切れた。


 ノアは自分の身体が、自分の意思から外れる感覚を知った。魔法的な限界反応だと分かっていても、その屈辱は消えない。衣服と布地が冷たくなり、レオの白金の光がすぐに身体を冷やさないよう包み込んだ。見せるためのものではない。暴くためのものでもない。ただ、崩れた身体を守るための処置だった。


 ノアは意識の奥で、それを理解する。


 理解した上で、腹が立つ。


 守られている。


 閉じられている。


 聞かれている。


 全部が同時に来る。


 影が、さらにノアの声を真似た。


「助けて」


 ノアの中で何かが切れた。


 喉が焼ける。


 声が裂ける。


「ごわ゛れ゛る゛ぅ”う゛うぅ”う゛ううぅうう゛!? あ゛つ”い゛い゛い゛ぃ゛い゛い゛ぃ゛い゛ぃ゛よおおおおお!!!!!」


 叫びは理性を保っていなかった。


 首輪の熱が喉から胸へ走り、赤い糸が魂の奥で軋む。ノアの身体は石床の上で跳ね、脚が不規則にばたついた。背中が反り、肩が痙攣し、腕が床を掻く。吐き気に似た黒い魔力の逆流で身体が大きく折れ、泡を含んだ息が唇からこぼれた。


 レオが、ようやくノアのそばへ膝をつく。


「ノア」


 その声は震えていた。


 ノアには答えられない。


 悲鳴しか出ない。


「おおおおぉお゛ぉぉおお゛おおおおお゛おおおッッッ!? おごおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!! お゛ッ!!!!!?」


 レオの白金の光が、ノアの喉へ伸びる。


 しかし、ノアの声は結界の中へ閉じ込められていた。


 誰にも渡さないように。


 レオだけが聞くように。


 それが、今はひどく苦しい。


 ノアの奥に、わずかに理性が戻った。


 戻ったというより、怒りが理性の代わりに立ち上がった。


 このまま閉じられるな。


 偽物に声を使われ、レオに声を囲われ、そのどちらにも自分の声を決められるな。


 ノアは、床に爪を立てながら、喉を震わせた。


「もぉ゛やめでええ゛ええええ゛えええ!!!!」


 それは、影へ向けたものか、首輪へ向けたものか、レオへ向けたものか、ノア自身にも分からなかった。


 だが、影はその声に重ねるように、また偽物を吐いた。


「レオ、助けて」


 レオの目が揺れる。


 赤い糸がさらに張る。


 ノアの首輪が、また焼けた。


「ぎぁあああああああああああああああああああ!!!!?」


 ノアは床の上で跳ねた。


 白目を剥く寸前まで視線が上がる。瞳孔は開いたまま戻らず、赤い瞳の端には細い血管が浮いている。舌がうまく収まらず、声が崩れ、喉の奥で泡混じりの息が鳴った。


 レオが手を伸ばす。


 ノアの額へ触れようとして、止める。


 許可。


 それを思い出したのだ。


 こんな状況でも。


 ノアは、ぐちゃぐちゃになった呼吸の中で、ほんの一瞬だけそれを見た。


 レオの指が震えている。


 閉じ込めたい。


 抱え込みたい。


 全部聞きたい。


 全部守りたい。


 だが、ノアの声を奪いたくない。


 その矛盾で止まっている。


 影が笑うように揺れた。


 また偽物の声。


「助けてえええええええ」


 ノアの身体が反射的に折れる。


「おほぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……ッ!?!」


 声が濁る。


 言葉ではなく、喉と魔力回路が裂かれる反応だった。官能ではない。快楽でもない。黒い術式と赤い糸の暴走が、身体から声を強制的に引きずり出しているだけだ。ノアの意思はそこにない。


 だからこそ、ノアは怒った。


 怒りだけで、意識を繋いだ。


 レオが唇を震わせる。


「聞こえている」


 ノアの目が、揺れながらレオを捉えた。


 聞こえている。


 その言葉が、昨夜と同じ意味を持ちかけた。


 僕だけが聞いている。


 閉じ込めている。


 ノアの喉から、壊れた声が漏れる。


「もおいやああ゛あああああああああぁあ゛ああああ!!!!!!!!」


 絶叫のあと、わずかに空白が落ちた。


 ノアの身体はまだ震えている。


 膝は折れ、背中は石床に近い。指先は硬直し、喉は焼け、胸は上下している。泡混じりの息が唇の端で滲み、レオの白金の光がそれを支える。


 だが、ノアの目に、ほんの少しだけ焦点が戻った。


 レオは、それを見た。


 ノアは、舌がうまく回らないまま、必死に声を押し出した。


「……か、ってに……閉じる、な……」


 レオが息を止めた。


 遮音結界が、揺れる。


 ノアは続けた。


「おれの、声……お前の、檻に……すんな……」


 掠れていた。


 途切れていた。


 まともな声ではなかった。


 けれど、それはノア本人の声だった。


 偽物ではない。


 影の声ではない。


 レオが、初めて結界を一部解いた。


 すべてを解いたわけではない。礼拝室の外へ悲鳴が流れ出ないよう、最低限は残している。けれど、ノアの声を完全に自分だけへ閉じ込める形ではなくなった。


 レオは低く言う。


「分かった」


 その声も震えていた。


「ごめん。ノア」


 ノアは答えられなかった。


 しかし、目を逸らさなかった。


 レオは、今度はゆっくり手を伸ばした。


「喉を癒してもいい?」


 ノアは荒い息の中で、小さく頷いた。


 白金の光が、喉へ流れる。


 先ほどより慎重だった。


 ノアの声を塞がないように。押さえ込まないように。偽物の声と本物の声を、レオ自身が間違えないように。


 影が、またノアの声で囁こうとした。


 レオの目が冷えた。


 だが今度は、乱れなかった。


「黙れ」


 短い言葉。


 白金の封印が、英雄像の影へ落ちる。


 黒い花の残滓が震え、古い封印術式が露出する。英雄教会の祈祷文に似た線の奥で、赤い糸と伴侶首輪に触れていた外部術式が、細く光った。


 誰かが見ている。


 二人の契約を。


 ノアの声を。


 レオの反応を。


 その可能性が、空気の中に冷たく浮かんだ。


 レオはそれ以上、声を荒げなかった。


 白金の聖魔法を細く編み、影の口を封じた。


 偽物の「助けて」は途切れた。


 礼拝室に、荒い呼吸だけが残る。


 ノアは床に崩れたまま、しばらく動けなかった。


 レオはすぐに抱き上げなかった。


 先に、ノアの目を見る。


「触れていい?」


 ノアは、ほんの少しだけ息を吐く。


「……遅い、学習……」


「うん」


「でも……まし……」


「ありがとう」


「礼、言うな……疲れる……」


 そこで、レオがノアを支えた。


 完全に抱え込むのではなく、ノアが自分の腕を使えるように、背と肩を支える。白金の光が喉を癒し、胸の圧を下げ、魔力回路の乱れを少しずつ整えた。首輪の熱も、慎重に鎮めていく。


 床の冷えが身体へ入らないよう、レオは外套を広げた。


 ノアの衣服や布地の乱れも、見せつけるようには扱わない。魔法的限界反応で制御を失った身体を、淡々と守る。恥を抉らない。傷を増やさない。必要な処置だけを、許可を取りながら進める。


 ノアは、半分閉じかけた目でレオを見た。


「……許可制、覚えろよ……」


「覚える」


「今だけじゃなくて……」


「覚える」


「……二回言えばいいと、思うな……」


「三回言う?」


「黙れ……」


 レオは黙った。


 ノアの喉を癒す白金の光だけが、静かに続いた。


 礼拝室の床には、黒い花の残滓が消えたあと、白い花が一輪だけ落ちていた。


 ノアは、それに気づいた。


「……花」


 レオが振り向く。


 白い花。


 英雄教会の儀礼で使われる、祈りの花だった。昼間、ラシェルの持っていた祈りの布にも同じ花が刺繍されていた。花弁は白く、中心だけが薄い金色をしている。


 ノアは、震える指先でそれを拾った。


 レオが止めかける。


 ノアが睨む。


 レオは止まった。


 花弁の裏に、古代語が書かれていた。


 本番で会おう。


 ノアは掠れた声で笑った。


「……招待状まで、趣味が悪い」


 レオの白金の魔力が、静かに冷えていった。



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