第39話 聖像の影
夜の学院は、昼間よりも白く見えた。
月明かりが白い石壁に落ち、塔の窓は黒い硝子のように沈んでいる。災厄忌の飾り布は、風に揺れても音を立てなかった。黒い花と白金の剣を模した旗が、廊下の壁際に静かに並び、昼間には行事の装飾に見えたものが、夜には葬列の布に似ていた。
ノア・クロウは、礼拝室へ続く廊下を歩きながら、小さく欠伸を噛み殺した。
寝不足だ。
喉はまだ完全ではない。昨夜の黒い仮面の干渉で焼けたようになった声は、レオの治癒で戻っているが、底にざらつきが残っている。伴侶首輪の内側には黒い亀裂のような紋があり、それが時折、熱を返す。
前世の同盟儀式に似た汚れ。
英雄教会の儀礼書にも、黒い仮面にも、首輪の亀裂にも、同じ気配があった。
ノアは首元を押さえた。
隣を歩くレオ・アステルレインが、すぐに視線を向ける。
「痛む?」
「見ただけで反応するの、便利すぎて嫌だな」
「答えて」
「熱いだけ。痛くはない」
「声は」
「夜の廊下で喉問診するな。怪しい」
「誰もいない」
「そういう問題じゃない」
レオは答えなかった。
片手には小さな水瓶を持っている。
まただ。
どこへ行くにも水を持つ男になっている。ノアの喉が乱れることを想定しているのだろう。準備が良い。良すぎる。過去の傷が生活スキルに転職している。嫌な成長である。
ノアは横目で見た。
「水筒王子」
「必要になるかもしれない」
「もう肩書きが増えすぎて渋滞してるぞ」
「君の喉が無事なら、それでいい」
「会話の着地点が重い」
レオの顔は、昼間からずっと硬かった。
英雄教会の司祭ラシェル・オルブライト。
救国の英雄を崇拝し、現世のレオを英雄の再来のように見ている若い司祭。彼の持つ聖印には、黒い仮面に浮かんだ祈祷文と似たものが刻まれていた。さらに、礼拝室の英雄像の影が一瞬だけ黒く歪んだ。
その異変を、学院側はまだ知らない。
ノアとレオは、夜になってから確認に向かっていた。
セドリックに報告すべきだと、ノアも思った。
思ったが、先に見るべきだとも思った。
自分たちが何に反応しているのか。
英雄像の影に何が隠れているのか。
それを見ずに大人に渡せば、また「誤作動」や「古い儀礼の残響」で丸められる可能性がある。人類は都合の悪いものに名前をつけて棚に上げるのが得意だ。棚の耐久力を過信しすぎである。
礼拝室の扉の前で、レオが足を止めた。
ノアも止まる。
扉は閉じられている。
昼間は開かれていた白い扉が、夜には重く見えた。扉の上部には聖印が彫られ、白金の小さな魔力灯がひとつだけ灯っている。
レオの指先に、白金の魔力が薄く宿った。
鍵はかかっていない。
扉は静かに開いた。
礼拝室の中は、月光で満たされていた。
白い石壁。
聖魔法の灯り。
祭壇の祈りの布。
左右の壁に並ぶ古い聖印。
そして奥に立つ、救国の英雄セラフィードの像。
昼間に見た時よりも、ずっと大きく見えた。
白い石で彫られた青年像は、聖剣を掲げている。長く流れる髪、整った顔立ち、凛々しい目元。足元には黒い影が踏み伏せられている。英雄が災厄を討つ姿。救済の象徴。世界の朝を取り戻した者。
レオは、その像を見上げたまま動かなかった。
ノアは隣で軽く言う。
「本人より美化されてそう」
レオの視線が、ゆっくりこちらへ動いた。
「君は見たことがあるの?」
ノアは一瞬だけ、息を止めた。
しまった。
すぐに笑う。
「歴史画の話」
軽くした声だった。
わざと。
レオは追及しなかった。
ただ、赤い糸が反応する。
首元に、薄い熱が走った。
ノアは指で首輪を押さえ、口元だけで笑った。
「嘘発見器、精度高すぎ」
「君が下手なんだ」
「優しさのない評価」
「優しくしたら、君は逃げる」
「今のもまあまあ刺さる」
レオは像へ視線を戻した。
月明かりに照らされた英雄像は、白く、美しく、冷たかった。
ノアは、その横顔を見る。
レオはこの像を見るのが苦しいのだろう。
セラフィードの姿を模した像。
けれど、そこには何もない。
助けを求めろと叫んだ声も、腕の中で冷えていく身体も、世界の歓声にかき消された喪失も、何も刻まれていない。ただ、綺麗な英雄だけが立っている。
嘘ではないのかもしれない。
でも、本当でもない。
厄介だ。世の中、完全な嘘より中途半端な本当の方がよほど性質が悪い。
ノアは祭壇へ近づいた。
足音が白い床に小さく響く。
「昼間、影が歪んだのはこの辺か」
「像の右側」
「よく覚えてるな」
「君も覚えている」
「俺は観察力があるので」
「うん」
「そこは茶化せよ」
「本当だから」
ノアは英雄像の足元へ視線を落とした。
像が踏みつけている黒い影。
石で彫られたはずのそれが、妙に生々しく見えた。黒い災厄を象徴する影。顔はない。形も曖昧だ。ただ、英雄に踏まれるためだけに存在している。
ノアは眉を寄せる。
「雑な悪役造形」
「見なくていい」
「見るなって言われると見る」
「知っている」
「なら言うな」
「言いたい」
「面倒くさい男」
レオは何も返さなかった。
白金の魔力を薄く広げ、英雄像の土台へ触れる。聖魔法は像の表面を走り、台座に刻まれた祈祷文をなぞった。
その瞬間。
影が動いた。
ノアは息を止めた。
像の足元にある黒い影が、石から剥がれるように揺れた。液体のように広がり、白い床の上へ滲む。
その黒の中から、小さな花が咲いた。
黒い花。
花弁は薄く、夜の影でできているようだった。ノアの黒魔法の花ではない。ノアの魔力とは違う。黒魔導書の残響とも少し違う。もっと古く、もっと乾いている。祈りの奥で腐ったもののような匂いがした。
レオが身構える。
ノアも指先へ黒い霧を集めかけた。
だが、花はノアへ向かわなかった。
英雄像の影に沿って、静かに咲いたまま揺れている。
その時、英雄像の口元が動いた。
声はなかった。
少なくとも、ノアには聞こえなかった。
けれど、レオの顔が変わった。
血の気が引いた。
白金の魔力が、乱れた。
ノアの伴侶首輪が、一気に熱を持つ。
赤い糸が強く震えた。
レオの前世傷に反応した魔力が、ノアへ反動として流れ込む。
胸の奥が圧迫される。
喉が詰まる。
瞳孔がわずかに開き、足元が一瞬遠くなった。ノアは祭壇の縁に手をついた。短く呻く。
「っ……今度はお前側の幻聴で俺が焼かれてる?」
レオは答えられなかった。
顔色が悪い。
唇がわずかに開いている。
まるで、聞こえるはずのない声を聞いたように。
ノアは、痛みを堪えながら言う。
「何て言った」
レオは沈黙した。
「レオ」
その名で呼ぶと、レオの目が少しだけ戻る。
けれど、まだ遠い。
ノアの首輪は熱を持ったままだ。
赤い糸が、レオの動揺を拾い続けている。
レオは低く言った。
「……今度も殺せ、と」
ノアは言葉を失った。
英雄像が。
救国の英雄を模した聖像が。
レオへ、そう言った。
今度も殺せ。
黒い仮面の時は、今度も君が殺す。
今度は、命令に近い。
殺せ。
英雄として。
救済として。
儀礼として。
ノアの胸の奥に、冷たい怒りが沈んだ。
「聖像のくせに、言葉選び最悪だな」
レオは動かない。
ノアは、できるだけ軽く言った。
「本人より美化されてるどころか、本人に喧嘩売ってるぞ。訴えたら勝てる」
「ノア」
「何」
「君に反動が」
「来てるな。めちゃくちゃ理不尽」
「ごめん」
「謝るなら落ち着け」
レオの白金の魔力が揺れた。
また首輪が熱を持つ。
ノアは低く呻いた。
「っ……だから、落ち着けって言ってるだろ……!」
「分かっている」
「分かってる顔じゃない」
「……分かっている」
レオの声が苦しかった。
ノアは、祭壇に手をついたまま、ゆっくり息を整えた。
重度ではない。
まだ立てる。
吐き気もない。
喉の詰まりと胸の圧、首輪の熱、視界の端の軽い揺れ。中度の反応。耐えられる。耐えられるからといって腹が立たないわけではない。反動被害、そろそろ労働組合が必要だ。伴侶首輪被害者の会。会員一名。悲しい。
レオは、英雄像を睨んでいた。
睨む、というより、押し殺している。
白金の聖魔法が、像の影へ向かって伸びる。だが、その光は先ほどより乱れていた。触れたくないものに触れている。けれど、触れなければならない。そんな魔力だった。
ノアは、わざと声を柔らかくした。
「レオ」
レオの肩が微かに動く。
「見る相手を間違えるな」
「……分かっている」
「像じゃない。影だ」
レオは息を吸った。
白金の光が、少しだけ澄む。
「うん」
「よし」
「君に指示されるとは思わなかった」
「俺もお前を指導する日が来るとは思わなかった。人生って怖いな」
軽口を叩くと、レオの目がわずかにこちらへ戻る。
首輪の熱が少し下がった。
ノアはそれを感じ取り、内心で小さく息を吐く。
やはり、レオを今へ戻すには、名前と声が効く。
腹立たしいが、それが事実だった。
英雄像の影が、また揺れた。
黒い花が増える。
一輪、二輪、三輪。
白い床の上に、影だけでできた花が咲いていく。花弁の縁には白い祈祷文のような細い線が浮かび、中心には古い封印術式が刻まれていた。
ノアは目を細める。
「黒災忌会の花じゃないな」
「英雄教会の古い封印術式に近い」
「教会側か」
「少なくとも、教会の古い祈りを使っている」
「祈りって便利だな。人の傷も封印も殺せ命令も包める」
レオは答えなかった。
白金の光で、影の花へ触れる。
花は燃えない。
代わりに、花弁の裏から文字が浮かんだ。
英雄は災厄を討つ。
災厄は英雄に討たれる。
役は繰り返される。
ノアは、ぞっとした。
それは祈りではない。
筋書きだ。
英雄と災厄を、決められた役へ戻すための封印術式。いや、封印というより誘導に近い。英雄像に刻み、礼拝室に置き、災厄忌の儀礼で何度も祈らせることで、形を固定する。
英雄は殺す者。
災厄は殺される者。
その繰り返し。
ノアは低く言った。
「悪趣味どころじゃないな」
レオの白金の魔力が、再び冷えた。
「壊す」
「待て。強引に壊したら反動来るだろ」
「来ても」
「俺にも来るんだぞ」
レオの手が止まった。
そこは効いた。
ノアは息を吐く。
「よし。今の俺、かなり有用」
「自分を盾にしないで」
「してない。事実を言っただけ」
「同じだよ」
「違いますー」
レオは苦しげに眉を寄せた。
それでも、強引には壊さなかった。
白金の聖魔法を細く編み直す。切断ではなく、封じる形へ。影の花の根を辿り、英雄像の台座の下へ潜り込んだ古い術式を浮かび上がらせる。
そこに、黒い花ではない紋があった。
英雄教会の古い聖印。
その裏側に隠された、歪んだ結び目。
ノアの首輪の亀裂と同じ、三本の線が絡む形。
同盟儀式の汚れに似た形。
レオも見た。
顔色がさらに悪くなる。
「またそれか」
ノアが呟く。
レオは、低く答えた。
「教会の聖像に、なぜこれがある」
「そりゃあ、教会が聖なる組織だからじゃない?」
「ノア」
「皮肉だよ。怒るな。首が熱い」
レオは唇を引き結んだ。
怒りを抑えている。
その抑えた怒りすら、赤い糸を通じてノアへ伝わる。首輪がまた熱を持ちかけたが、レオはすぐに自分の魔力を絞った。反動を抑えるように、深く息を吸う。
少し成長した。
いや、この状況で成長を褒めるのも妙だ。地獄の中で火加減を調整できるようになっただけである。人類はすぐ地獄に生活技術を持ち込む。
レオは英雄像の影へ手をかざした。
「封じる」
「壊さずに?」
「今は」
「よろしい」
「君に許可された」
「感謝していいぞ」
「ありがとう」
「素直すぎて調子狂う」
レオの白金の光が、影を包んだ。
黒い花が一輪ずつ閉じていく。花弁がほどけ、影が細い糸になり、白金の封印へ絡め取られていく。英雄像の足元に広がっていた黒が、少しずつ石の中へ押し戻される。
その間、像の口元は動かなかった。
けれど、ノアは嫌な感覚を覚えた。
ただ封じられているだけではない。
見ている。
像ではなく、像に仕込まれた何かが。
レオが最後の封印句を唱える。
白金の輪が台座を囲み、黒い影を押さえ込んだ。
礼拝室の空気が、少しだけ軽くなる。
ノアの首輪の熱も引いていった。
レオは息を吐く。
その瞬間だった。
封じられた影の奥から、声がした。
ノアの声だった。
掠れていて。
弱くて。
それでも、はっきりとレオへ届くように作られた声。
「助けて」
ノアは言っていない。
口を開いてもいない。
だが、影の中から、ノアの声でその言葉が響いた。
レオが凍りついた。
白金の魔力が、完全に止まった。
ノアの首輪が、冷たい熱を返した。




