第38話 英雄役の依頼
学院の礼拝室は、白かった。
床も、壁も、柱も、磨かれた石で造られている。窓には淡い色硝子が嵌められ、朝から午後へ移りかけた光が、白金と淡青の帯になって床へ落ちていた。天井は高く、声を出せば静かに反響する。壁際には長椅子が並び、祭壇の上には古い祈りの布が掛けられていた。
その布にも、聖印が刺繍されている。
白金の糸で縫い込まれた輪。剣。翼。祈りの文字。
それだけなら、ただ清らかな礼拝室に見えただろう。
だが、ノア・クロウには、祭壇奥の英雄像が妙に気に障った。
白い石で彫られた青年像。高く掲げた聖剣。片膝をつき、黒い影を踏み砕く姿勢。顔立ちは理想化され、凛々しく、悲しみの影など少しもない。像の台座には、救国の英雄セラフィードを讃える古い聖句が刻まれている。
英雄は災厄を討ち、世界に朝を取り戻した。
ノアはその文字を一瞥し、口元だけで笑った。
朝ねえ。
世界というものは、誰かの夜を踏み台にしても、平然と朝を名乗る。実に図太い。人類の記録係は、都合の悪い血痕を布で隠して「美談」と呼ぶ才能に恵まれすぎている。
首元の伴侶首輪が、かすかに熱を返した。
ノアは指先で軽く押さえる。
隣に立つレオ・アステルレインが、すぐに気づいた。
「熱い?」
「礼拝室が清らかすぎて拒否反応」
「冗談で済ませないで」
「じゃあ、像の趣味が悪くて首が熱い」
「それも冗談?」
「半分くらい本気」
レオは英雄像を見上げた。
碧い目に、冷えた光が落ちる。
彼は今日も完璧に整っていた。白と金を基調にした学院制服、乱れのない襟、澄んだ聖魔法の気配。礼拝室に立つ姿だけ見れば、誰もが思うだろう。救国の英雄役にふさわしい、と。
それがどれほど残酷な言葉か、たぶんこの部屋のほとんどの人間は知らない。
礼拝室には、学院長、聖魔法科教師、儀礼担当の生徒数名、黒魔法科教師セドリック・バロウズ、そして英雄教会の若い司祭ラシェル・オルブライトがいた。
ラシェルは祭壇の近くに立っている。
白い法衣は皺ひとつなく、胸元には英雄教会の聖印が輝いていた。その聖印に刻まれた祈祷文は、やはり昨夜の黒い仮面の内側に浮かんだものと似ている。完全に同じではない。けれど、線の曲がり方が似ている。祈りを輪に閉じる結び目が似ている。
ノアは、その聖印をじっと見た。
ラシェルは、それを黒魔法科の不躾な視線と受け取ったのか、少しだけ眉を動かした。
だが、すぐにレオへ向き直る。
「アステルレイン様。本日は、お時間をいただきありがとうございます」
レオは丁寧に礼を返した。
「学院の指示ですから」
淡々としている。
敬意も礼儀もある。
だが、歓迎はない。
ラシェルは気づいているのか、いないのか。柔らかな笑みを保ったまま続けた。
「災厄忌は、ただの学院行事ではありません。救国の英雄が黒い災厄を討ち、世界が破滅から救われた日を、次代へ伝える大切な儀礼です。学院の若き魔法士たちが、その意味を正しく学ぶことには、大きな意義があります」
ノアは口を開きかけた。
セドリックの視線が飛んできた。
黙っていろ、という目だ。
ノアは口を閉じた。偉い。非常に偉い。今の自分には賞状が必要である。たぶん誰もくれない。世の中は不公平だ。
ラシェルは祭壇脇の机に置かれた儀礼書を開いた。
古い革表紙。白金の金具。端には英雄教会の聖印。紙は黄ばんでいるが、保存状態は良い。頁をめくるたび、乾いた紙と香の匂いが空気へ溶けた。
ラシェルの指が、ある頁で止まる。
「本番の儀礼では、英雄と災厄の対比を象徴する場面があります。災厄の魔力を聖魔法が打ち払い、浄化の光が世界を照らす。例年は教会側の補助司祭が英雄役を務めますが、今年はぜひ、アステルレイン様にお願いしたいのです」
礼拝室に、期待の気配が広がった。
聖魔法科の生徒たちは、レオを見た。教師たちも、止めはしない。学院長は穏やかな顔をしていたが、断ってほしくなさそうな空気を隠しきれていない。
ノアは、少しだけ目を細めた。
全員、勝手だ。
白と金の似合う綺麗な王子様を、英雄像の前に置けば絵になる。聖魔法も美しい。立ち姿も完璧。儀礼として映える。来賓も喜ぶ。英雄教会も満足する。
その内側に何があるかは、見ない。
大変便利である。
人間は他人を象徴にしたがる。象徴にした瞬間、そこにある顔や声や傷を見なくて済むからだ。楽な作業で何より。巻き込まれる側は地獄だが。
ラシェルは熱心に言った。
「あなたほどふさわしい方はいません。澄んだ白金の聖魔法、気品、立ち居振る舞い。救国の英雄の名を穢さず、儀礼を務められる方は、学院でも限られています」
レオは穏やかに答えた。
「僕は、その役には向いていません」
「ご謙遜を」
「謙遜ではありません」
声は静かだった。
静かすぎて、礼拝室の空気が少し冷える。
ラシェルは微かに表情を引き締めた。
「アステルレイン様。これは英雄教会の儀礼として必要なものです。もちろん無理強いをするつもりはありませんが、あなたが務めてくだされば、生徒たちにも深い学びになるでしょう」
「学び」
レオはその言葉を、冷たい水に沈めるように繰り返した。
「災厄を討つ英雄の姿を学ぶということですか」
「はい。英雄は、災厄を討つことで世界を救いました」
レオの目が冷えた。
「その言い方は、好きではありません」
ラシェルは迷いなく返した。
「事実です」
礼拝室の空気が、少しだけ軋んだ。
レオは、微笑まなかった。
「事実の形をした祈りは、時々人を殺します」
その声は、刃のようだった。
大きくはない。
むしろ穏やかで、整っている。
けれど、その整い方が怖い。感情を押し殺して磨いた刃のような声だった。
ラシェルは言葉を失った。
聖魔法科の生徒たちも、息を呑む。
ノアは横から軽く言った。
「王子様、今のはだいぶ刺さる言い方」
レオはノアを見ない。
「刺さるように言った」
「うわ、否定しない」
「否定する必要がない」
「最近それ多いな。会話の逃げ道が壊滅してる」
レオの赤い糸は、冷たく張っていた。
伴侶首輪が少し熱を持つ。レオの拒絶と怒りが、糸を通じてノアにも流れ込んでいる。喉の奥に違和感が走った。軽度だ。耐えられる。けれど、レオの感情に首元を焼かれる仕様は、やはり納得がいかない。
ノアは首元を押さえ、小声で言った。
「お前の怒りで俺が熱いんだけど」
レオの視線がすぐに動く。
「痛い?」
「まだ平気。落ち着け」
「……ごめん」
「謝るなら落ち着け。これ何回目?」
「数えていない」
「俺は数え始めようかな」
ラシェルが、ノアへ視線を移した。
その目には、明らかな警戒がある。
「クロウさんにも、儀礼への協力をお願いしたいと考えています」
レオの白金の魔力が、指先に灯りかけた。
ノアはそれを横目で見る。
早い。
早すぎる。
まだ何も言われていない段階で防衛反応が出ている。忠犬を超えて自動防衛魔具である。いや、魔具に失礼か。魔具は命令なしに嫉妬しない。
ノアはラシェルへ笑いかけた。
「俺にも出演依頼? まさか災厄役の黒煙係とか言わないよな」
「黒魔法科代表として、災厄役の魔法演出に協力していただければと」
「言った」
ノアは乾いた笑いを漏らした。
「俺たち、英雄と災厄セット売りされてる?」
赤い糸が、びんと強く震えた。
レオの顔から、温度が消える。
ノアはすぐに片手を上げた。
「今のは皮肉。燃えるな王子様」
「燃えていない」
「光ってる」
レオの指先の白金の魔力が、確かに明るくなっていた。
ラシェルは、少し困ったように言う。
「誤解しないでください。あなたを黒い災厄と同一視するつもりはありません。ただ、黒魔法の正しい制御を示すことは、災厄忌において大切な意味を持ちます」
「正しい制御ね」
ノアは笑った。
「便利な言葉だな。正しいってつけると、だいたい何でも清潔に見える」
「皮肉ですか」
「品のいい感想です」
ラシェルの表情が、ほんの少し硬くなる。
ノアは続けた。
「俺の黒魔法を使って、黒い災厄の恐ろしさを演出する。レオの聖魔法を使って、英雄の救済を見せる。で、拍手をもらって、祈って、今年の災厄忌も無事終了。綺麗な行事だな」
セドリックが、低くノアの名を呼んだ。
「クロウ」
「黙れって?」
「言葉を選べ」
「かなり選んでます」
「なら、もっと選べ」
ノアは肩をすくめた。
ラシェルは、ノアを見つめていた。
「あなたは、災厄忌を軽んじているのですか」
「俺は、誰かの死を綺麗に飾る行事が苦手なだけ」
礼拝室が静かになった。
ノアの声は軽くなかった。
しまった、と少しだけ思った。
軽口で逃げ損ねた。
レオの魂糸が、その声の変化を拾う。伴侶首輪の熱が、一瞬だけ別の質を持った。心配ではなく、痛みに反応する熱。
ラシェルは、少しだけ目を伏せた。
「黒い災厄によって、多くの者が死にました。救国の英雄が彼を討たなければ、世界は滅びていた」
ノアは笑わなかった。
「知ってるよ」
その声が、自分で思ったより低かった。
レオがこちらを見る。
ノアはすぐ、口元だけで笑う。
「歴史の授業で習ったからな。黒魔法科の平民でも、教科書くらい読めますー」
レオの目が、苦しげに揺れた。
ラシェルは儀礼書へ視線を落とす。
「災厄忌の儀礼書には、黒い災厄の最期の言葉も記されています。それは傲慢な悪の嘲笑として、長く語り継がれてきました」
ノアの喉が詰まった。
ほんの一瞬。
だが、レオは気づいた。
赤い糸が張る。
首輪が熱を持つ。
ノアは声を出す前に、唇を噛みそうになった。やめる。噛むな。反応するな。あれはノアの言葉ではない。イリアスの言葉だ。前世の最期だ。自分には関係ない。
そう思うほど、喉の奥が焼けた。
レオが一歩前に出る。
「その頁を閉じてください」
ラシェルが顔を上げる。
「なぜですか」
「今、読む必要はありません」
「儀礼の説明です」
「ノアの前で読む必要はありません」
「アステルレイン様」
「閉じてください」
礼拝室の灯りが揺れた。
レオの白金の魔力が、部屋の聖魔法の灯りに反応したのだ。強くはない。けれど、明らかに空気が変わった。
ノアは小さく言った。
「レオ」
その一言で、レオの魔力が少しだけ戻る。
レオはノアを見る。
ノアは、かすれないように意識して言った。
「俺は平気」
「嘘だ」
「即答するな」
「声が軽い」
「お前の声判定、本当に面倒」
「でも当たる」
「だから面倒なんだよ」
ラシェルは、二人のやり取りを黙って見ていた。
英雄教会の司祭として、そこに何を見たのか。
黒魔法科の危険な平民と、聖魔法科の英雄候補。
それとも、英雄と災厄の再演。
いずれにせよ、その視線はもう無邪気ではなかった。
学院長が、穏やかな声で場を整えようとした。
「ラシェル司祭。アステルレイン君の英雄役については、本人の意思を尊重しましょう。学院としても強制はできません」
レオはすぐに言った。
「お断りします」
はっきりと。
迷いなく。
ラシェルの表情が曇る。
「……そうですか」
「僕は英雄役には立ちません」
「理由を伺っても?」
「その役は、誰かを救うためのものではないからです」
レオの声は静かだった。
「誰かを殺したことを、美しく見せるための役です。僕は、それを演じません」
ノアは、何も言わなかった。
茶化せなかった。
レオの横顔は、ひどく白かった。
ラシェルは唇を引き結んだ。
しかし学院長がそこで口を開く。
「ただし、アステルレイン君。災厄忌の本番には出席してもらいます。聖魔法科代表として、来賓席での儀礼参加は避けられません」
レオの目がわずかに冷える。
学院長は続けた。
「クロウ君も同様です。黒魔法科代表として、儀礼には出席してください。演出協力については保留としますが、完全な欠席は認められません」
ノアは軽く手を上げた。
「拒否権は?」
「ありません」
「学院、民主主義を学び直した方がいい」
「学院は議会ではありません」
「知ってますー」
レオの赤い糸が、まだ冷たく張っている。
ノアの首輪がじわりと熱を持つ。
礼拝室の白い光が、妙に眩しい。
ラシェルは儀礼書を閉じた。
その時、ノアは見た。
頁の端に、薄く黒い染みのようなものが浮かんでいる。ほんの一瞬だった。儀礼書の古い文字の裏側で、三本の線が絡むような小さな紋が揺れた。
同盟儀式の汚れ。
仮面の術式。
伴侶首輪の亀裂。
同じ形。
ノアが目を細めた瞬間、それは消えた。
礼拝室に、何事もなかったような静けさが戻る。
だが、祭壇奥の英雄像の影が、ほんの一瞬だけ黒く歪んだ。
白い石の床の上で、英雄の剣の影が、災厄の花のような形にほどけた。
ノアはそれを見た。
レオも見た。
ラシェルは気づかなかった。
あるいは、気づかないふりをした。




