第37話 英雄教会の使者
学院に英雄教会の使者が来るという知らせは、朝の鐘よりも早く広がった。
アルカディア魔法学院の正門前には、いつもより多くの生徒が集まっていた。白い石で造られた門柱には災厄忌の飾り布が掛けられ、黒い花と白金の剣を象った細工が朝風に揺れている。まだ早い時間だというのに、校舎へ続く石畳の両側には、聖魔法科の生徒たちや儀礼担当の教師が並び、妙に整った緊張が漂っていた。
ノア・クロウは、少し離れた渡り廊下の影からそれを眺めていた。
喉はまだ少し掠れている。
昨夜から完全に戻ったとは言いがたい。レオが朝から何度も水を渡し、喉を癒し、魔力回路を整えたせいで普通に話せる程度にはなっているが、声の底にはまだ薄いざらつきが残っていた。伴侶首輪の内側に刻まれた黒い亀裂も、消えていない。
鏡に映ったそれは、昨夜より少し沈んで見えた。
赤い輪の内側に、細い黒い線が三本絡む。
前世の同盟儀式で見た、あの汚れと似た形。
舞台道具の趣味ではない。
そう言った時、レオは答えなかった。
答えなかったということは、何か見当があるのだろう。しかもノアに言いたくない種類の見当だ。人類、沈黙で情報を漏らすのが下手すぎる。いや、レオが下手なのか。どちらでもいい。腹立たしいのは変わらない。
ノアは首元を軽く押さえた。
そこへ、隣から声がした。
「まだ熱い?」
レオ・アステルレインだった。
当然のように隣にいる。授業前だろうが、行事準備中だろうが、ノアの首輪の状態を確認するためなら、どこにでもいる。距離感が忠犬より近い。犬に失礼かもしれない。犬はもっと素直で可愛い。
ノアは肩をすくめた。
「見られただけで発熱するなら、そろそろ医務室じゃなくて鍛冶場に行った方がいいな」
「痛む?」
「今は平気」
「声は」
「朝から三回目」
「四回目だよ」
「数えるな。怖い」
レオは真面目な顔のまま、ノアの喉元へ視線を落とした。
ノアは一歩退いた。
「ここで喉点検始めるなよ。正門前で何の儀式だと思われる」
「君の声が少し掠れている」
「朝から王子様に声帯管理される平民、なかなかの見世物だな」
「見せたくない」
「はいはい」
レオの目は、いつもより冷えていた。
原因は分かっている。
英雄教会。
救国の英雄セラフィードを讃え、黒い災厄の討伐を神聖な歴史として語り継ぐ組織。災厄忌の儀礼監修にも関わる。学院にとっては伝統ある外部機関で、聖魔法科にとっては無視できない存在。
レオにとっては、地雷原に白い布を敷いて「神聖です」と言い張るような相手だろう。
正門の向こうから、馬車の音が聞こえた。
白い車体に、白金の聖印。
門の前で馬車が止まると、聖職者の長衣をまとった若い男が降り立った。
ラシェル・オルブライト。
年は二十代半ばほどに見える。淡い金茶の髪を後ろでゆるく束ね、清潔な白い法衣の胸元には英雄教会の聖印がある。顔立ちは柔らかく、目元には熱心さが宿っていた。穏やかで、礼儀正しく、信じているものを一度も疑ったことがなさそうな雰囲気。
嫌な種類の無垢さだ。
本人に悪気がないほど、踏み込む足が深くなる。
ラシェルは学院長と教師たちに丁寧に挨拶したあと、すぐにレオへ視線を向けた。
その瞬間、目が輝いた。
ノアは横で小さく呟いた。
「うわ」
レオが低く返す。
「何」
「信者の顔」
「やめて」
「もう遅い」
ラシェルはまっすぐこちらへ歩いてきた。
彼の法衣の裾が石畳を静かに擦る。胸元の聖印には、白金の光が薄く宿っていた。近づくほど、その聖印に刻まれた細い祈祷文が見えてくる。
ノアは目を細めた。
見覚えがある。
昨夜の仮面の内側に浮かんだ祈祷文。
完全に同じではない。だが、文字の曲がり方、祈りを縛る輪の形、終端に小さく刻まれた返しの線が似ている。英雄教会の古い儀礼文か。あるいは、仮面の術式が英雄教会の祈祷文を借りていたのか。
どちらにせよ、気分は良くない。
伴侶首輪が、かすかに熱を持った。
レオがすぐに気づく。
白金の魔力が指先へ灯りかけた。
ノアは小声で言った。
「過保護、待機」
「彼が君を見ている」
「目がある人間は見るものですー」
「見方が違う」
「お前も大概だぞ」
レオは否定しなかった。
否定しろ。
ラシェルは二人の前で足を止め、深く頭を下げた。
「レオ・アステルレイン様。お目にかかれて光栄です。英雄教会より参りました、ラシェル・オルブライトと申します」
レオは、完璧な礼で応じた。
「ご丁寧にありがとうございます。アステルレインです」
声は穏やか。
顔も穏やか。
だが、目がまったく笑っていない。
ラシェルはそれに気づかない。
いや、気づかないふりをしているのかもしれない。信仰というものは、都合の悪い表情を見落とす才能を人に与える。便利で怖い。道具は使い方を間違えるとだいたい人を刺す。
ラシェルは、熱のこもった目でレオを見た。
「噂には伺っておりました。聖魔法科の新入生代表でありながら、すでに高位の結界と浄化を扱えるとか。先ほど、正門の結界を通る際にも、アステルレイン様の魔力の名残を感じました。実に澄んだ白金の光でした」
「買いかぶりです」
「いいえ。アステルレイン様の聖魔法は、まるで救国の英雄の再臨のようです」
空気が止まった。
ノアの首輪が、じわりと熱を持つ。
レオの赤い糸が、冷たく張った。
レオは微笑んでいた。
微笑んでいるのに、その目だけが氷のように冷えていく。
ノアは横から軽く言った。
「王子様、信者獲得おめでとう」
レオは即答した。
「嬉しくない」
「だろうな」
ラシェルが、初めてノアへ視線を向けた。
その目に、先ほどまでの熱心な輝きとは別のものが混じる。
警戒。
値踏み。
そして、ほんのわずかな嫌悪。
ノアはにこりと笑った。
「どうも。黒魔法科の平民です。噛まないです。たぶん」
ラシェルは一瞬、反応に困った顔をした。
「あなたが、ノア・クロウさんですね」
「有名人だな、俺」
「災厄忌の準備中に、いくつか異常が起きたと聞いています」
「情報網が早い」
「英雄教会は、災厄忌の儀礼監修を担っています。異常があれば、確認する義務があります」
「異常扱いされる俺の立場」
ラシェルは穏やかに言った。
「黒魔法は、扱いを誤れば危険な力です。特に、災厄忌の時期には」
レオが、一歩前に出た。
自然な動きだった。
あまりにも自然で、ノアは少し遅れて気づいた。
レオが、ノアを背後へ隠す位置に立っている。
ノアは眉を寄せる。
「おい」
レオはラシェルを見たまま言った。
「ノアを儀礼の道具にしないでください」
ラシェルは目を瞬かせた。
「そのようなつもりは」
「黒魔法を見たいのでしょう」
「儀礼上、黒魔法科の協力が必要な場面があります。彼の魔法が安全に扱えるか、確認したいだけです」
「確認という言葉で、彼を測らないでください」
ラシェルの顔から、少し笑みが薄れた。
「アステルレイン様。危険を確認することは、彼を傷つけることではありません」
「彼を危険として見ることは、十分に傷になります」
ノアは横で軽く息を吐いた。
「王子様、俺の代わりに全部喋らない」
レオの肩がわずかに動く。
ノアは半歩横へ出た。
レオの背から、自分の顔を見せる。
ラシェルと視線が合った。
「黒魔法を見たいなら、授業見学申請でも出せば? 俺、展示品じゃないので突然の実演販売はやってない」
「実演販売……?」
「気にしないでください。俺の品のいい比喩です」
ラシェルは困惑したように沈黙した。
ノアは続けた。
「あと、危険かどうか確認したいって言うなら、それはまあ分かる。黒魔法は実際危ない。俺もそこは否定しない。でも、災厄忌だから黒魔法科の平民を警戒します、って顔されると、さすがに笑うしかないだろ」
ラシェルの眉が微かに動いた。
「あなたを黒い災厄と同一視しているわけではありません」
「へえ」
ノアは笑った。
「じゃあ、何で俺の首じゃなくて、首元を見てる?」
ラシェルの視線が一瞬だけ揺れた。
伴侶首輪は普通の生徒には見えない。
だが、英雄教会の司祭で、聖魔法に長けているなら、熱の揺らぎくらいは感じ取れるのかもしれない。ラシェルは完全には見えていない。けれど、何かがそこにあると察している。
レオの赤い糸が、強く張った。
首輪に熱が走る。
ノアは短く息を詰めた。
レオの防衛反応が、そのまま首輪へ返ってきている。
理不尽。
ただ見られただけで発熱する首輪、そろそろ学院備品として欠陥申請を出したい。
レオが手を伸ばしかけた。
ノアは小声で言う。
「ここで首輪ケアするな。余計に怪しい」
「熱い」
「お前のせいでもある」
「……ごめん」
「謝るなら落ち着け」
ラシェルは二人のやり取りを見ていた。
その目に、別の色が浮かぶ。
疑念。
ノアとレオの関係に対する疑念。
英雄教会の司祭として、聖魔法科の代表であるレオが、黒魔法科の平民へ過剰に寄っていることを見逃せないのだろう。
ラシェルは慎重に言った。
「アステルレイン様は、クロウさんをずいぶん気にかけておられるのですね」
レオは静かに答えた。
「はい」
即答だった。
ノアは頭を抱えたくなった。
もう少し隠せ。いや、隠されたら隠されたで腹が立つ。だが、正門前で即答するな。人類には社会的な温度というものがある。レオは時々、そこを聖魔法で焼き払う。
ラシェルは、少しだけ笑みを作った。
「黒魔法科の生徒を支えることは、聖魔法科としても尊い姿勢です。救国の英雄も、かつては多くの者を導いたと伝えられています」
レオの目が、さらに冷えた。
「僕は、英雄ではありません」
「もちろん、あなたご自身をそのまま英雄と同一視するつもりはありません。ただ、あなたの聖魔法には、その面影が」
「ありません」
短い言葉だった。
ラシェルの口が止まる。
ノアも、少しだけ目を細めた。
レオはいつもの穏やかな声で言った。
「僕はセラフィードではありません。救国の英雄でもありません。あなた方が祈るための器ではありません」
ラシェルの表情が強張った。
その場の教師たちも、少し空気を変えた。
英雄教会の使者に対し、真正面からそう言う聖魔法科の生徒は珍しいのだろう。しかも、レオはアステルレイン家の人間だ。教会側にとっても無視できない名家の子息。
ノアは、軽く笑った。
「王子様、信者に初手で現実を叩きつけるの、なかなか容赦ないな」
レオはノアを見た。
「茶化さないで」
「茶化さないと重いだろ」
「重くていい」
「よくない。床が抜ける」
ラシェルは、深く息を吸った。
それから、あくまで丁寧に頭を下げる。
「不快にさせたのであれば、申し訳ありません。ただ、私は本当に、あなたの聖魔法に敬意を抱いています」
「聖魔法だけを見てください」
「え?」
「英雄の影ではなく、僕の魔法だけを」
レオの声は静かだった。
その静けさが、ひどく痛かった。
ノアは、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。
レオは、英雄扱いを嫌っている。
それは知っていた。
けれど、今の声で少し分かった。
救国の英雄という名は、レオにとって称号ではなく、傷を飾り立てる額縁なのだ。
誰も、その額縁の中に何が入っているか見ない。
愛した伴侶を殺した男の手。
最後の声。
歓声。
鐘。
それを見ずに、英雄と呼ぶ。
ノアは、無意識に声を少し柔らかくした。
「……王子様、顔が怖い」
レオがこちらを見る。
ノアは肩をすくめる。
「花壇に聖水じゃなくて氷撒いてる顔してる」
「分かりにくい」
「俺の比喩、繊細だから」
「繊細?」
「そこ疑うな」
レオの目の冷たさが、ほんの少しだけ戻る。
完全にではない。
けれど、ノアの声を聞いて、今へ戻った。
レオの魂糸が、ノアの声の変化を拾う。
首輪の熱が少し下がった。
ラシェルは、そのやり取りを黙って見ていた。
やがて、彼の視線がノアへ戻る。
「クロウさん。あなたは、黒魔法を恐れていないのですね」
ノアは瞬きした。
「自分の魔法を毎回怖がってたら生活できないので」
「しかし、その力は」
「危険だって? それ、さっき聞いた」
ラシェルは言葉を止めた。
ノアは軽く笑う。
「危険なのは本当。でも、黒魔法だけが危険なわけじゃないだろ。白い祈りだって、人を縛る時は縛る」
ラシェルの胸元の聖印が、朝の光を受けた。
そこに刻まれた祈祷文。
仮面と似た線。
ノアは視線をそらさずに続けた。
「英雄教会の祈りが、全部きれいなものならいいな」
ラシェルの瞳が、わずかに揺れた。
その反応は、驚きだったのか、不快感だったのか、あるいは何か知っている者の動揺だったのか。
判別する前に、学院長が穏やかに割って入った。
「ラシェル司祭。儀礼監修の打ち合わせは会議室で行いましょう。アステルレイン君にも、後ほど聖魔法演舞について相談があります」
ラシェルは表情を整えた。
「承知しました」
そして、レオへ向き直る。
「アステルレイン様。災厄忌本番の儀礼について、ひとつお願いがございます」
レオは無言でラシェルを見た。
ノアの首輪が、なぜか先に熱を持つ。
嫌な予感は、だいたいよく当たる。人間の第六感は嫌な方向だけ有能だ。まったく腹立たしい。
ラシェルは、丁寧に言った。
「本番の儀礼で、一部だけで構いません。救国の英雄役として、聖魔法の奉納を務めていただけないでしょうか」
空気が、冷えた。
レオは沈黙した。
その沈黙は、短いのに重かった。
ノアはすぐに笑って、横から声を入れようとした。
「英雄役、人気だな。王子様、出演依頼が止まらないじゃん。マネージャー通してもらわないと」
軽く言ったはずだった。
けれど、レオの赤い糸が冷たく張った。
ノアの喉元で、伴侶首輪が静かに熱を返す。
レオは、まだ何も答えなかった。




