第36話 声は戻ったか
朝の光は、薄かった。
寮部屋の窓から差し込む白い光は、まだ完全には温度を持っていない。夜の冷えが床板に残り、窓辺の机に置かれた水差しの表面には、淡い光だけが静かに揺れていた。
ノア・クロウは、喉の痛みで目を覚ました。
最初に戻ってきたのは、身体の重さだった。
寝台に沈み込んだ背中が、自分のものではないように重い。腕を動かそうとしても、魔力回路の奥に鈍い抵抗がある。指先は痺れていないのに、力を入れるまでに少し時間がかかった。呼吸をすると、喉の奥が焼け残った紙のように痛む。
昨夜の大講堂。
黒い仮面。
鐘の音。
世界の歓声。
今度も、君が殺す。
首元が、じわりと熱を返した。
ノアは、片手を持ち上げようとして、途中で止まった。腕が重い。仕方なく、目だけを動かす。
部屋は整えられていた。
昨夜、自分が運び込まれた時とは明らかに違う。寝具は替えられている。枕も、掛け布も清潔なものになっていた。汗と魔力の残滓を含んだ布は、部屋の隅の洗浄籠へ入れられ、白金の小さな封印光で包まれている。身体も冷えていない。首元には薄い聖魔法の残光があり、喉の痛みを抑えるように微かに脈打っていた。
髪も整えられていた。
襟足の長い黒髪は、寝乱れたままではなく、指で梳かれた跡がある。少し悔しいくらい丁寧だ。腹立たしい。介護能力が高い攻め、倫理以外の性能を盛るな。いや、今は助かっている。助かっているのがまた腹立たしい。
寝台のそばに、レオ・アステルレインがいた。
椅子に座ったまま、まったく眠った様子がない。
金髪は少し乱れている。白と金の制服ではなく、夜着の上に上着を羽織ったままだ。碧い目の下にはうっすら疲労が見えたが、視線はノアの喉元から離れていなかった。
手元には、水の入った杯。
その隣には、治癒用の小瓶、清潔な布、魔力回路を整えるための小さな白金石が置かれている。
完全に看病体勢だった。
ノアは喉を鳴らそうとして、失敗した。
声が出るか分からない。
少し息を吸い、掠れた声で言った。
「……介護、板につきすぎ」
ひどい声だった。
自分でも分かる。
掠れている。薄い。喉の奥に砂が残っているみたいだ。昨夜の絶叫が、まだ声帯の奥に焼きついている。
レオの表情が動いた。
安堵。
痛み。
執着。
全部が一瞬で重なる。
「声は戻った?」
第一声がそれだった。
ノアは、かすかに眉を寄せた。
「第一声……それかよ」
「僕には大事だから」
「俺の体調より?」
「体調も見ている」
「声の方が先に出た」
「うん」
「否定しろよ」
レオは否定しなかった。
大変よろしくない。
ノアはため息をつこうとして、喉が痛んだ。小さく咳き込む。すぐにレオが水を差し出した。
杯の縁に白金の光が流れている。
喉を刺激しないよう、温度はぬるい。冷たすぎず、熱すぎない。魔法的にも物理的にも過保護。水まで王子様仕様である。世の中、無駄に整っているものほど逃げ場がない。
「飲んで」
「……言われなくても飲む」
ノアは杯を受け取ろうとした。
手が少し震えた。
レオがすぐ支えようとする。
ノアは睨んだ。
「持てる」
レオは手を止めた。
だが、完全には引かない。杯が傾いたらすぐ支えられる距離で待っている。
ノアはゆっくり水を飲んだ。
喉に沁みる。
けれど、痛みは少しずつ薄れる。白金の聖魔法が、喉の内側をなぞるように広がった。昨夜、黒い仮面の術式と赤い糸の暴走で焼けたようになっていた声の通り道を、静かに覆っていく。
ノアは杯を下ろした。
「……効くのが腹立つ」
「痛い?」
「さっきよりはまし」
「もう少し治癒を流す」
「待て。俺は医務室の備品じゃない」
「分かっている」
「分かってるやつの手じゃない」
レオは黙ったまま、ノアの喉元へ手を伸ばす。
触れる寸前で止まった。
許可を待っている。
昨夜は、待てなかった。
仮面の術式が暴れ、ノアが崩れ、赤い糸が黒く濁りかけて、レオは遮音結界を張り、声を閉じた。ノアの絶叫を誰にも聞かせず、自分だけが聞いた。
あの時の声を、レオは覚えている。
たぶん、一音も取りこぼさず。
そう思うと、ノアの背筋に薄い寒気が走った。
ノアは小さく顎を引いた。
「……少しだけ」
レオの手が、首元へ近づく。
直接肌を撫で回すような触れ方ではない。伴侶首輪の上へ、白金の聖魔法を薄く流すだけだった。それでも、首元にある赤い輪が反応する。熱が少し下がり、代わりに内側の黒い亀裂がじわりと浮いた。
ノアは息を止めた。
鏡を見なくても分かる。
首輪の内側に、黒い傷が残っている。
仮面が残したもの。
いや、仮面だけではない。
もっと古い外部干渉が、赤い糸の内側へ爪を立てた痕。
レオの指先が、その黒い亀裂の近くで止まる。
ノアはレオを見た。
「何か分かった顔」
「……まだ確定ではない」
「出た。隠す時の丁寧語」
「隠しているわけじゃない」
「じゃあ今言え」
レオは黙った。
ノアは掠れた声で笑った。
「はい隠してる」
「君の声が戻ってから話す」
「俺の声を理由にするな」
「理由にしている」
「堂々とすんな」
レオは、首輪の熱を鎮めながら言った。
「昨夜の亀裂は、仮面の術式だけで入ったものじゃないと思う」
ノアの笑みが止まる。
レオの白金の光が、首輪の内側をなぞる。
「仮面は入口だった。けれど、その奥にもっと古い干渉がある。黒災忌会の花紋でも、黒魔導書の残響そのものでもない。舞台魔法陣に混ざっていた外部術式に近い」
「同盟儀式の汚れ?」
レオの指が一瞬だけ止まる。
「……似ている」
「似てるだけ?」
「まだ、そう言うしかない」
「便利な逃げ道」
「うん」
「認めるな」
ノアは目を閉じた。
喉が痛い。
身体が重い。
それでも頭だけは妙にはっきりしてくる。
黒い仮面。
英雄教会に似た祈祷文。
黒災忌会の黒い花。
同盟儀式に似た外部術式。
前世名。
レオへの「今度も、君が殺す」。
誰かが、英雄と災厄をもう一度舞台へ引きずり出そうとしている。
そんな感じがする。
気のせいであってほしいが、気のせいで済むなら昨夜ノアはあんな声を出していない。人類、気のせいという便利箱に何でも詰めすぎである。箱がもう破裂している。
レオの聖魔法が、喉の奥へ少し深く入った。
ノアは眉を寄せる。
「ん……」
「痛い?」
「変な感じ」
「声を出して」
「検査?」
「うん」
「医師でもないくせに」
「君の声なら分かる」
「それを当然みたいに言うな」
ノアは少し息を吸った。
「……あー」
声は出た。
掠れている。
低い。
けれど、形にはなる。
レオの目が、その音を拾う。
ただ聞いているのではない。
確かめている。
自分の場所へ戻ってきたか。
昨日、仮面と舞台と前世名に引きずられた声が、今、誰の前で鳴っているのか。
ノアは、うんざりしたように目を細めた。
「お前、俺の声が戻ったか確認したいんじゃなくて、自分に戻ったか確認してるだろ」
レオは、否定しなかった。
静かに言った。
「うん」
ノアは言葉を失った。
そこは否定しろ。
いや、否定されたらされたで腹が立ったかもしれない。
けれど、肯定されるともっと腹が立つ。
レオは、ノアの喉から手を離さなかった。
「昨夜、君の声が仮面に引かれた。前世名にも、鐘にも、歓声にも。僕の声にも反応したけれど、君が君の声を戻すまで時間がかかった」
「それで?」
「戻ったか、確かめたかった」
「お前に?」
「僕に」
「……最悪」
「うん」
「そのうん、やめろ。全部認めればいいと思ってるだろ」
「思っていない」
「じゃあ少しは否定しろ」
「否定したら、君は信じる?」
ノアは黙った。
信じない。
言わなくても伝わったのだろう。
レオは静かに続けた。
「だから、否定しない」
ノアは、寝台の上で少しだけ顔を背けた。
窓の外は朝になっている。
普通の朝だ。
昨夜、大講堂で黒い仮面に前世記憶を引きずられ、重度反応を起こし、獣じみた絶叫を上げた後の朝だとは思えないくらい、空は平然としている。世界は本当に図太い。少しは気まずそうに曇れ。
レオは、次に魔力回路の調整へ移った。
ノアの腕に触れず、白金の光だけを流す。指先の硬直、膝に残る震え、背中の強張り、喉の炎症、首輪の熱。ひとつずつ確認し、強すぎない光で整えていく。
その手つきは、徹底していた。
昨夜、ノアの身体が制御を失ったことも、レオは淡々と処理していた。寝具は替えられ、身体が冷えないように整えられ、魔法的限界反応で乱れた体温も戻されている。恥を暴くためではない。傷つけるためでもない。必要な後始末として、静かに、丁寧に。
それが分かるから、余計に文句を言いづらい。
言うけど。
「……過保護」
「うん」
「管理」
「うん」
「介護」
「うん」
「返事が雑」
「全部、当たっているから」
「自覚ある重症患者」
「君も重症だった」
「こっちは物理的にだよ」
「僕も、たぶん別の意味でそうだよ」
ノアは横目で見た。
レオの顔は穏やかだった。
けれど、目が眠っていない。
昨夜の言葉がまだ残っているのだろう。
今度も、君が殺す。
レオの前世傷を抉った声。
ノアは掠れた声で言った。
「……昨日のあれ」
レオの手が止まる。
「何」
「仮面の最後のやつ」
「今は話さなくていい」
「お前が決めるな」
レオは黙った。
ノアは続けた。
「今度も殺すってやつ。お前、真に受けるなよ」
レオは、すぐには答えなかった。
沈黙が、朝の部屋に落ちる。
水差しの中で光が揺れた。
「真に受けない努力はする」
「努力じゃ足りないってセドリック先生に言われるぞ」
「分かっている」
「分かっててその返事か」
「僕は、君がまた一人で全部を終わらせようとしたら、止める」
「それと殺すは違う」
「違う」
「なら、混ぜるな」
レオはノアを見た。
碧い目が、ほんの少しだけ揺れる。
「君も、混ぜないで」
「何を」
「前世のイリアスと、今のノアを」
ノアの喉が詰まった。
今度は痛みではない。
言葉の方が刺さった。
ノアは笑おうとした。
失敗した。
掠れた息だけが漏れる。
「……お前がそれ言うの、ずるくない?」
「ずるいと思う」
「じゃあ言うな」
「でも言う」
「性格悪い」
「うん」
「肯定の王子様」
レオは、ようやくほんの少しだけ口元を緩めた。
笑ったというには薄い。
けれど、昨夜から初めて見た、ほんの少し人間らしい表情だった。
ノアはそれを見て、余計に疲れた。
人の体力を表情で削るな。
レオは最後に、ノアの髪へ手を伸ばした。
ノアは避けようとした。
身体が重くて、少し遅れた。
レオの指が、襟足の黒髪を梳く。
「髪まで整えなくていい」
「絡まっている」
「それ、昨日も聞いた」
「今日も絡まっている」
「俺の髪に厳しい」
「君の髪だから」
「理由が怖い」
レオは答えず、静かに髪を整えた。
前世の朝。
戦場明け。
水。
掠れた声。
髪を整える手。
その反復だと、ノアは気づいていた。
レオも気づいている。
だから重い。
ただのケアではない。
喪失した朝を、現世で必死に繋ぎ直している。
ノアは目を伏せた。
「……声、戻っただろ」
「まだ掠れている」
「喋れてる」
「でも、いつもの声じゃない」
「いつもの声って何」
「僕を茶化す時の、軽すぎる声」
「それ褒めてる?」
「好きだよ」
「朝からやめろ。喉より心に刺さる」
レオは真顔だった。
この男、本当に冗談の逃げ道を燃やしてくる。ひどい。人類の軽口文化を尊重しろ。
ノアは水をもう一口飲んだ。
喉の痛みは少しずつ引いている。
身体はまだ重い。
魔力回路も鈍い。
けれど、起き上がれそうではあった。
ノアは寝台からゆっくり身体を起こした。
レオが支えようとする。
ノアは手で制した。
「自分で起きる」
「分かった」
「分かった顔で構えるな」
「倒れたら支える」
「倒れない」
「知っている」
「じゃあ構えるな」
「無理」
「ほんと無理多いな」
ノアは、ゆっくり立ち上がった。
膝に少し力が入りづらい。だが、立てる。足元がふわつくが、歩けないほどではない。
鏡の前へ向かった。
レオがすぐ後ろに来る。
近い。
近いが、何も言わないことにした。どうせ来る。もうこの男に距離感を期待するのは、人類が戦争を反省するくらい難しい。
鏡には、少し青白い顔をしたノアが映っていた。
黒髪は整えられている。赤い瞳はまだ少し疲れている。喉元には薄い赤い伴侶首輪。その輪の内側に、黒い亀裂のような模様が走っていた。
ノアは息を止めた。
亀裂の奥。
ただの黒い傷ではない。
細い線が三本絡み、中央に歪んだ穴のような形を作っている。
見覚えがあった。
前世の同盟儀式。
父王の血。
聖魔法に似せた偽装波長。
儀式場の床に、一瞬だけ浮かんだ違和感。
あれと、同じ形。
ノアの声が、低く落ちた。
「……これ、舞台道具の趣味じゃないな」
レオは答えなかった。
鏡の中で、彼の顔から温度が消えていた。




