表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第二章【災厄忌と声の檻】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/66

第35話 今度も、君が殺す



 黒い仮面が、囁いた。


「今度も、君が殺す」


 その声は、大講堂の天井へ反響しなかった。


 舞台の上に立つノア・クロウの耳にも、客席の闇にも、壁に掛けられた災厄忌の旗にも届かなかったはずだ。仮面は、封じられる寸前の小さな隙間から、ただ一人へ向けて声を差し込んだ。


 レオ・アステルレインへ。


 その一言で、白金の聖魔法が揺らいだ。


 空中で仮面を縛っていた白金の糸が、ほんの一瞬だけ緩む。透明な檻の輪郭が歪み、聖句の一部が乱れた。大講堂の舞台に落ちていた黒い光が、そこへ食いつくように濃くなる。


 ノアは、それを見た。


 レオの指先が震えたことも。


 碧い瞳の奥から、いまの大講堂ではない景色が浮かんだことも。


 黒い荒野。


 最終討伐軍の旗。


 歓声。


 鐘。


 冷えていく身体。


 救国の英雄と呼ばれながら、愛した男の最期の声だけを抱えていた男。


 仮面は、そこへ手を入れた。


 ノアの前世名だけではない。


 レオの前世の傷まで、舞台へ引きずり出そうとしている。


 赤い糸が、激しく震えた。


 ノアの首元にある伴侶首輪メイト・カラーが、焼けるように熱を持つ。さっきまでの熱とは違った。警告ではない。圧でもない。もっと乱暴で、制御を失った熱だった。


 レオの情緒の乱れが、赤い糸を通じてノアへ返ってくる。


 仮面の外部術式が、前世名を引く。


 黒魔導書の残響が、それに反応する。


 伴侶首輪が、二人を繋ぎ止めようとして暴れる。


 黒い魔力と白金の魔力が、ノアの喉元で衝突した。


「っ……お前の地雷で俺が焼かれる仕様、理不尽すぎる……!」


 言い終える前に、喉が詰まった。


 熱が首輪から喉へ走る。皮膚ではない。もっと内側、声の通り道そのものを焼くような熱だった。赤い糸が黒く濁りかけ、魂糸がひどく軋む。


 仮面がもう一度震える。


 黒い紋章。


 白い祈祷文。


 同盟儀式を汚した外部術式に似た三本の絡む線。


 それらが重なり合い、ノアの前世名を掴んだ。


 イリアス。


 今度も、君が殺す。


 英雄。


 災厄。


 舞台へ。


 鐘が鳴った。


 現実の鐘ではない。


 前世の鐘だった。


 世界が黒い災厄の死を喜んだ鐘。


 その鐘が、ノアの頭蓋の内側で鳴り響いた。


 歓声が混ざる。


 救われた。


 災厄が死んだ。


 英雄が討った。


 世界は救われた。


 ノアの膝から力が抜けた。


 レオが振り返る。


「ノア!」


 その声は、焦っていた。


 けれど遅かった。


 首輪の熱が、喉を一気に焼いた。


 ノアの身体が弓なりに跳ねる。背筋が不自然に反り、指先が硬直した。足元の舞台板を爪が掻く。膝が崩れ、片手をつこうとしたが、腕も震えて支えきれなかった。


 瞳孔が開いたまま戻らない。


 赤い瞳の周囲に細い血管が浮き、黒い濁りが瞳の奥を走った。視界の端が白く飛びかける。焦点が合わず、目の前にいるレオの顔も、浮かんでいる仮面も、滲んで一つの光と影になった。


 喉の奥から、声が押し上げられる。


 声ではない。


 獣の咆哮に近かった。


 ノアは止めようとした。


 止まらなかった。


「が、あ゛……っ、あ゛あああああああッ!!」


 叫びは整わなかった。


 喉が裂けるように濁り、途中で息が詰まる。首輪の熱と黒い術式がぶつかり、声そのものが黒く歪む。叫びながら身体が大きく跳ね、肩が不規則に震えた。


 レオが遮音結界を張った。


 白金の透明な膜が、舞台上を包む。


 ノアの絶叫が、大講堂へ漏れない。


 客席の闇にも、舞台にも、仮面にも、誰にも渡さない。


 レオだけが聞く。


 その結界が張られた瞬間、ノアの奥で何かが冷たく笑った。


 守られている。


 閉じられている。


 独占されている。


 全部、同時に。


 レオの声が、結界の中で震えた。


「聞こえているよ。僕だけが聞いている」


 ノアは声にならない息を吐いた。


 答えようとしたが、舌がうまく収まらなかった。喉が引き攣り、舌先が震える。叫ぼうとしても、濁った息と泡混じりの呼吸だけが唇の端へ滲んだ。


 黒い魔力を吐き出すように、身体が折れる。


 胃の奥が強く痙攣し、ノアは舞台床へ片手をついて咳き込んだ。黒い魔力の残滓が喉を逆流するような吐き気があり、声にならない音が漏れる。過度に何かを吐き出すというより、身体が黒蝕の圧に耐えきれず、内側の魔力を押し戻している感覚だった。


 息が泡を含む。


 唇の端に白く濁った息が滲み、すぐにレオの白金の光がそれを拭うように流れた。


 ノアの身体が、また大きく跳ねた。


 背筋が弓なりに反り、膝が舞台板を打つ。指先が硬直し、爪が黒い床を引っ掻いた。伴侶首輪から流れ込む熱が強すぎて、喉の奥が焼ける。赤い糸が黒く濁りかけ、白金の光がそれを必死に押し返す。


 身体の制御が、一瞬途切れた。


 ノアは自分の身体が、自分の命令から外れたことを知った。屈辱が遅れてやってくる。魔法的限界反応だと分かっていても、身体が勝手に崩れる感覚は、意識に鋭く残る。汚れや詳細を見せつけるようなものではない。ただ、制御を奪われたという事実そのものが、ノアの奥を深く刺した。


 レオの表情が変わった。


 痛みを見た顔ではない。


 恐怖を見た顔だった。


 それでも、彼は目を逸らさなかった。


 白金の光を、ノアの喉と背中へ流し続ける。呼吸を整え、魔力回路の暴走を押さえ、黒く濁りかけた赤い糸を結び直そうとする。


 仮面の声が、なおも囁く。


 今度も、君が殺す。


 今度も。


 今度も。


 レオの白金が、一瞬また揺れた。


 その揺れが、赤い糸を通じてノアへ返る。


 首輪が熱を増す。


 ノアは、半ば白目を剥きかけた。焦点の合わない視線が舞台の天井を泳ぐ。瞳孔は開いたまま、赤い瞳の周囲に血管が浮いている。けれど完全に意識は落ちない。落ちてたまるか、とどこかで思った。


 また声が出た。


「ぐ、ぁ、あ゛、あ゛ああああああッ、げ、ぇ……ッ!!」


 叫びは途中で吐き気に濁った。


 息が詰まり、喉の奥で音が潰れる。背中が跳ね、肩が痙攣する。指先は舞台床を掻き続けていた。舌がうまく戻らず、言葉の形にならない。ただ、壊れた声だけがレオの結界の内側へ響く。


 レオの目が見開かれていた。


 泣いてはいない。


 だが、泣くよりひどい顔だった。


 彼は片手で仮面を封じ、もう片方でノアの赤い糸を支えている。どちらも手放せない。仮面を放置すればノアが引かれる。ノアだけを見れば仮面がレオの傷を抉る。二つの術式の間で、レオの聖魔法が軋んでいた。


 ノアは、崩れた視界の中でそれを見た。


 この男は、また全部持とうとしている。


 仮面の術式も。


 ノアの苦痛も。


 自分の前世の傷も。


 殺すと言われた呪いも。


 全部。


 全部、一人で握り潰そうとしている。


 ふざけるな。


 そう思った。


 声にならない。


 でも、思った。


 ノアは震える手を、舞台床から引き剥がした。指先が硬直していてうまく動かない。爪の下が痛む。腕はまだ痙攣している。それでも、レオの袖を掴んだ。


 レオがこちらを見る。


「ノア」


 ノアは息を吸った。


 泡混じりの息が喉で引っかかる。舌が重く、声が形にならない。首輪の熱はまだ強い。瞳孔は開いたまま、視界は安定しない。


 それでも、ノアは笑った。


 笑い損ねた。


 けれど、口の端を上げた。


「……最悪、だな……その独占欲……」


 掠れた低い声だった。


 喉が焼けたように痛む。


 だが、言えた。


 レオの顔が、揺れた。


 ノアは続ける。


「俺の声……勝手に、独り占めして……安心すんな……」


「安心していない」


「嘘つけ……」


 レオは答えなかった。


 仮面がまた震える。


 今度も、君が殺す。


 白金の魔力が大きく揺れた。


 ノアは、掴んだ袖を離さなかった。


 低く、途切れ途切れに言う。


「レオ……」


 その名に、レオの魔力が戻る。


 セラフィードではない。


 英雄ではない。


 殺した男ではない。


 レオ。


 今の名。


 ノアが呼ぶ名。


 レオは息を吸い、仮面へ向き直った。


 白金の聖魔法が、一気に強くなる。


「黙れ」


 静かな声だった。


 けれど、大講堂の闇が震えた。


「ノアを呼ぶな。ノアの声を奪うな。僕にその言葉を押しつけるな」


 仮面が軋む。


 黒い紋章が割れかけ、白い祈祷文が剥がれた。英雄教会の古い祈りに似た文字が、焼け焦げるように崩れていく。黒災忌会の花紋が散り、同盟儀式の汚染術式に似た三本の線が露出した。


 その奥に、さらに古い影が一瞬だけ見えた。


 誰かが、二人を反復させようとしている。


 英雄と災厄。


 殺す者と殺される者。


 声を求める者と、助けを求めない者。


 それを舞台の上で再現しようとしている。


 ノアは、ぼやける視界の中でそれを見た。


 見てしまった。


 レオも見た。


 その瞬間、レオの白金の光が仮面を完全に包み込んだ。


 黒い仮面が空中で停止する。


 内側の声が細くなる。


 鐘の音が遠ざかり、歓声が消え、前世の荒野の気配が薄れていく。ノアの首輪の熱も、少しずつ下がり始めた。


 身体の痙攣はすぐには止まらない。


 背中が小さく震え、指先がまだ硬直している。呼吸は浅く、喉は焼けている。瞳孔も完全には戻らない。黒い魔力の残滓が魔力回路に絡み、胸の奥に重さを残していた。


 レオは仮面を白金の封印で包み、舞台の上へ落とさず、空中に固定した。


 そして、ようやくノアの方へ向き直った。


 顔色が悪い。


 ノアより、よほど死人みたいな顔をしていた。


 ノアは、掠れた息で笑った。


「……王子様……顔、怖……」


「喋らないで」


「命令……?」


「お願い」


「お願いの顔じゃ……ない……」


 そこで、身体が傾いた。


 レオが受け止めた。


 今度はノアも拒まなかった。拒む力がほとんど残っていなかった。悔しいが、それが事実だった。


 レオの腕に抱えられる形になる。


 白金の光が、喉へ流れる。


 焼けたような痛みを和らげ、泡混じりだった呼吸を少しずつ整え、乱れた魔力回路をなぞっていく。伴侶首輪の熱も、ゆっくりと鎮められていった。


 けれど、レオの手は震えていた。


 ノアはそれに気づいた。


「……震えてる」


「うん」


「隠せよ」


「無理だよ」


「……正直すぎる」


「君が、あんな声を出した」


「出したくて……出したわけじゃない」


「分かっている」


「じゃあ……泣きそうな顔すんな」


「泣いていない」


「似たようなもんだろ……」


 レオは答えなかった。


 代わりに、ノアの額へ白金の光を流した。


 意識を落とさせないためではない。


 意識を無理に保たせるためでもない。


 ただ、痛みを下げ、呼吸を整えるための光だった。


 ノアは、薄く目を閉じた。


 大講堂の闇が遠くなる。


 仮面は封じられている。


 鐘の音も、今は聞こえない。


 でも、最後の言葉だけが残っていた。


 今度も、君が殺す。


 レオの傷へ向けられた言葉。


 ノアを引きずるだけではない。


 レオも同じ舞台へ戻そうとしている。


 英雄にして、また災厄を殺させるために。


 ノアは掠れた声で言った。


「……殺させるなよ」


 レオの腕が強張る。


「何を」


「お前に……俺を」


 レオの息が止まった。


 ノアはそれ以上言わなかった。


 言えなかった。


 声が切れた。


 レオは、ノアを抱き上げた。


 大講堂の客席を抜け、夜の廊下へ向かう。封じた仮面は白金の檻に閉じ込めたまま、舞台上へ固定されている。教師を呼ぶべきだと分かっている。だが、今はノアを部屋へ戻す方が先だった。


 廊下の魔力灯は薄く、夜の石床は冷たい。


 ノアは半分意識を保ったまま、レオの腕の中で息をしていた。喉が痛い。身体の奥が重い。首輪はまだ熱を残している。指先は震え、脚には力が入らない。


 それでも、意識は残っている。


 折れていない。


 それだけは、離さなかった。


 部屋へ戻ると、レオはノアを寝台へ寝かせた。


 水瓶をすぐに取る。


 喉へ聖魔法を流しながら、少しずつ水を飲ませる。無理に飲ませるのではない。喉が受けつける量を見ながら、静かに。ノアの呼吸が乱れるたび、手を止める。


 次に、魔力回路を整えた。


 首輪の熱を鎮める。


 黒く濁りかけた赤い糸を白金の光で包み、魂糸の軋みを解く。


 ノアの身体が冷えないよう、寝具を替え、汚れた布を取り除き、清潔な布で整えた。屈辱を見せつけるようなことはしない。ただ、魔法的限界反応で崩れた身体を冷やさないように、必要なことを淡々と行う。


 その手つきは丁寧だった。


 丁寧すぎて、重かった。


 レオは最後に、ノアの髪を梳いた。


 指が、黒髪の長い襟足を整える。


 前世の朝に似た手つき。


 だけど今は、戦場明けの穏やかな朝ではない。


 夜の事件の後だ。


 ノアは、掠れた声で言った。


「……髪まで、管理……?」


「絡まっていた」


「言い訳……下手……」


「うん」


「否定しろよ……」


 レオは小さく息を吐いた。


「君の声が戻るまで離れない」


「……今、喋ってるだろ」


「戻っていない」


「基準が厳しい……」


「君の声だから」


「……重い」


 そこで、ノアは眠りに落ちた。


 完全に安心したわけではない。


 ただ、身体が限界だった。


 翌朝。


 薄い朝日が、寮部屋の窓から入っていた。


 ノアは喉の痛みで目を覚ました。


 強い痛みではない。焼け跡のような鈍い違和感。身体は重く、指先にも少し痺れが残っている。けれど、昨夜のような痙攣はない。呼吸もできる。


 視線を動かすと、レオがそばにいた。


 椅子に座ったまま、一睡もしていない顔をしている。いや、実際に眠っていないのだろう。白い手には水の杯がある。


 ノアは掠れた声で言った。


「……舞台稽古でここまで壊れるとか、労災出る?」


 レオの表情が、わずかに歪んだ。


「出す相手を殺したくなるから、言わないで」


「朝から物騒……」


 レオは水を差し出した。


 ノアは受け取った。


 喉を通る水に、白金の聖魔法が混じっている。痛みが少しずつ引いていく。腹立たしいほど効く。文句を言う元気が、少し戻ってくる。


 レオは静かに言った。


「君の声は、僕が聞く」


 ノアは杯を下ろした。


「……朝から重い」


「昨日よりは軽いよ」


 ノアは笑えなかった。


 レオの顔も、笑っていなかった。


 ノアは首元へ手をやった。


 伴侶首輪は見えている。


 薄い赤い輪。


 けれど、その内側に、細い黒い亀裂のような模様が残っていた。


 昨夜の仮面が刻んだように。


 赤い糸の奥に、黒い傷がひとつ、沈んでいた。

 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ