第35話 今度も、君が殺す
黒い仮面が、囁いた。
「今度も、君が殺す」
その声は、大講堂の天井へ反響しなかった。
舞台の上に立つノア・クロウの耳にも、客席の闇にも、壁に掛けられた災厄忌の旗にも届かなかったはずだ。仮面は、封じられる寸前の小さな隙間から、ただ一人へ向けて声を差し込んだ。
レオ・アステルレインへ。
その一言で、白金の聖魔法が揺らいだ。
空中で仮面を縛っていた白金の糸が、ほんの一瞬だけ緩む。透明な檻の輪郭が歪み、聖句の一部が乱れた。大講堂の舞台に落ちていた黒い光が、そこへ食いつくように濃くなる。
ノアは、それを見た。
レオの指先が震えたことも。
碧い瞳の奥から、いまの大講堂ではない景色が浮かんだことも。
黒い荒野。
最終討伐軍の旗。
歓声。
鐘。
冷えていく身体。
救国の英雄と呼ばれながら、愛した男の最期の声だけを抱えていた男。
仮面は、そこへ手を入れた。
ノアの前世名だけではない。
レオの前世の傷まで、舞台へ引きずり出そうとしている。
赤い糸が、激しく震えた。
ノアの首元にある伴侶首輪が、焼けるように熱を持つ。さっきまでの熱とは違った。警告ではない。圧でもない。もっと乱暴で、制御を失った熱だった。
レオの情緒の乱れが、赤い糸を通じてノアへ返ってくる。
仮面の外部術式が、前世名を引く。
黒魔導書の残響が、それに反応する。
伴侶首輪が、二人を繋ぎ止めようとして暴れる。
黒い魔力と白金の魔力が、ノアの喉元で衝突した。
「っ……お前の地雷で俺が焼かれる仕様、理不尽すぎる……!」
言い終える前に、喉が詰まった。
熱が首輪から喉へ走る。皮膚ではない。もっと内側、声の通り道そのものを焼くような熱だった。赤い糸が黒く濁りかけ、魂糸がひどく軋む。
仮面がもう一度震える。
黒い紋章。
白い祈祷文。
同盟儀式を汚した外部術式に似た三本の絡む線。
それらが重なり合い、ノアの前世名を掴んだ。
イリアス。
今度も、君が殺す。
英雄。
災厄。
舞台へ。
鐘が鳴った。
現実の鐘ではない。
前世の鐘だった。
世界が黒い災厄の死を喜んだ鐘。
その鐘が、ノアの頭蓋の内側で鳴り響いた。
歓声が混ざる。
救われた。
災厄が死んだ。
英雄が討った。
世界は救われた。
ノアの膝から力が抜けた。
レオが振り返る。
「ノア!」
その声は、焦っていた。
けれど遅かった。
首輪の熱が、喉を一気に焼いた。
ノアの身体が弓なりに跳ねる。背筋が不自然に反り、指先が硬直した。足元の舞台板を爪が掻く。膝が崩れ、片手をつこうとしたが、腕も震えて支えきれなかった。
瞳孔が開いたまま戻らない。
赤い瞳の周囲に細い血管が浮き、黒い濁りが瞳の奥を走った。視界の端が白く飛びかける。焦点が合わず、目の前にいるレオの顔も、浮かんでいる仮面も、滲んで一つの光と影になった。
喉の奥から、声が押し上げられる。
声ではない。
獣の咆哮に近かった。
ノアは止めようとした。
止まらなかった。
「が、あ゛……っ、あ゛あああああああッ!!」
叫びは整わなかった。
喉が裂けるように濁り、途中で息が詰まる。首輪の熱と黒い術式がぶつかり、声そのものが黒く歪む。叫びながら身体が大きく跳ね、肩が不規則に震えた。
レオが遮音結界を張った。
白金の透明な膜が、舞台上を包む。
ノアの絶叫が、大講堂へ漏れない。
客席の闇にも、舞台にも、仮面にも、誰にも渡さない。
レオだけが聞く。
その結界が張られた瞬間、ノアの奥で何かが冷たく笑った。
守られている。
閉じられている。
独占されている。
全部、同時に。
レオの声が、結界の中で震えた。
「聞こえているよ。僕だけが聞いている」
ノアは声にならない息を吐いた。
答えようとしたが、舌がうまく収まらなかった。喉が引き攣り、舌先が震える。叫ぼうとしても、濁った息と泡混じりの呼吸だけが唇の端へ滲んだ。
黒い魔力を吐き出すように、身体が折れる。
胃の奥が強く痙攣し、ノアは舞台床へ片手をついて咳き込んだ。黒い魔力の残滓が喉を逆流するような吐き気があり、声にならない音が漏れる。過度に何かを吐き出すというより、身体が黒蝕の圧に耐えきれず、内側の魔力を押し戻している感覚だった。
息が泡を含む。
唇の端に白く濁った息が滲み、すぐにレオの白金の光がそれを拭うように流れた。
ノアの身体が、また大きく跳ねた。
背筋が弓なりに反り、膝が舞台板を打つ。指先が硬直し、爪が黒い床を引っ掻いた。伴侶首輪から流れ込む熱が強すぎて、喉の奥が焼ける。赤い糸が黒く濁りかけ、白金の光がそれを必死に押し返す。
身体の制御が、一瞬途切れた。
ノアは自分の身体が、自分の命令から外れたことを知った。屈辱が遅れてやってくる。魔法的限界反応だと分かっていても、身体が勝手に崩れる感覚は、意識に鋭く残る。汚れや詳細を見せつけるようなものではない。ただ、制御を奪われたという事実そのものが、ノアの奥を深く刺した。
レオの表情が変わった。
痛みを見た顔ではない。
恐怖を見た顔だった。
それでも、彼は目を逸らさなかった。
白金の光を、ノアの喉と背中へ流し続ける。呼吸を整え、魔力回路の暴走を押さえ、黒く濁りかけた赤い糸を結び直そうとする。
仮面の声が、なおも囁く。
今度も、君が殺す。
今度も。
今度も。
レオの白金が、一瞬また揺れた。
その揺れが、赤い糸を通じてノアへ返る。
首輪が熱を増す。
ノアは、半ば白目を剥きかけた。焦点の合わない視線が舞台の天井を泳ぐ。瞳孔は開いたまま、赤い瞳の周囲に血管が浮いている。けれど完全に意識は落ちない。落ちてたまるか、とどこかで思った。
また声が出た。
「ぐ、ぁ、あ゛、あ゛ああああああッ、げ、ぇ……ッ!!」
叫びは途中で吐き気に濁った。
息が詰まり、喉の奥で音が潰れる。背中が跳ね、肩が痙攣する。指先は舞台床を掻き続けていた。舌がうまく戻らず、言葉の形にならない。ただ、壊れた声だけがレオの結界の内側へ響く。
レオの目が見開かれていた。
泣いてはいない。
だが、泣くよりひどい顔だった。
彼は片手で仮面を封じ、もう片方でノアの赤い糸を支えている。どちらも手放せない。仮面を放置すればノアが引かれる。ノアだけを見れば仮面がレオの傷を抉る。二つの術式の間で、レオの聖魔法が軋んでいた。
ノアは、崩れた視界の中でそれを見た。
この男は、また全部持とうとしている。
仮面の術式も。
ノアの苦痛も。
自分の前世の傷も。
殺すと言われた呪いも。
全部。
全部、一人で握り潰そうとしている。
ふざけるな。
そう思った。
声にならない。
でも、思った。
ノアは震える手を、舞台床から引き剥がした。指先が硬直していてうまく動かない。爪の下が痛む。腕はまだ痙攣している。それでも、レオの袖を掴んだ。
レオがこちらを見る。
「ノア」
ノアは息を吸った。
泡混じりの息が喉で引っかかる。舌が重く、声が形にならない。首輪の熱はまだ強い。瞳孔は開いたまま、視界は安定しない。
それでも、ノアは笑った。
笑い損ねた。
けれど、口の端を上げた。
「……最悪、だな……その独占欲……」
掠れた低い声だった。
喉が焼けたように痛む。
だが、言えた。
レオの顔が、揺れた。
ノアは続ける。
「俺の声……勝手に、独り占めして……安心すんな……」
「安心していない」
「嘘つけ……」
レオは答えなかった。
仮面がまた震える。
今度も、君が殺す。
白金の魔力が大きく揺れた。
ノアは、掴んだ袖を離さなかった。
低く、途切れ途切れに言う。
「レオ……」
その名に、レオの魔力が戻る。
セラフィードではない。
英雄ではない。
殺した男ではない。
レオ。
今の名。
ノアが呼ぶ名。
レオは息を吸い、仮面へ向き直った。
白金の聖魔法が、一気に強くなる。
「黙れ」
静かな声だった。
けれど、大講堂の闇が震えた。
「ノアを呼ぶな。ノアの声を奪うな。僕にその言葉を押しつけるな」
仮面が軋む。
黒い紋章が割れかけ、白い祈祷文が剥がれた。英雄教会の古い祈りに似た文字が、焼け焦げるように崩れていく。黒災忌会の花紋が散り、同盟儀式の汚染術式に似た三本の線が露出した。
その奥に、さらに古い影が一瞬だけ見えた。
誰かが、二人を反復させようとしている。
英雄と災厄。
殺す者と殺される者。
声を求める者と、助けを求めない者。
それを舞台の上で再現しようとしている。
ノアは、ぼやける視界の中でそれを見た。
見てしまった。
レオも見た。
その瞬間、レオの白金の光が仮面を完全に包み込んだ。
黒い仮面が空中で停止する。
内側の声が細くなる。
鐘の音が遠ざかり、歓声が消え、前世の荒野の気配が薄れていく。ノアの首輪の熱も、少しずつ下がり始めた。
身体の痙攣はすぐには止まらない。
背中が小さく震え、指先がまだ硬直している。呼吸は浅く、喉は焼けている。瞳孔も完全には戻らない。黒い魔力の残滓が魔力回路に絡み、胸の奥に重さを残していた。
レオは仮面を白金の封印で包み、舞台の上へ落とさず、空中に固定した。
そして、ようやくノアの方へ向き直った。
顔色が悪い。
ノアより、よほど死人みたいな顔をしていた。
ノアは、掠れた息で笑った。
「……王子様……顔、怖……」
「喋らないで」
「命令……?」
「お願い」
「お願いの顔じゃ……ない……」
そこで、身体が傾いた。
レオが受け止めた。
今度はノアも拒まなかった。拒む力がほとんど残っていなかった。悔しいが、それが事実だった。
レオの腕に抱えられる形になる。
白金の光が、喉へ流れる。
焼けたような痛みを和らげ、泡混じりだった呼吸を少しずつ整え、乱れた魔力回路をなぞっていく。伴侶首輪の熱も、ゆっくりと鎮められていった。
けれど、レオの手は震えていた。
ノアはそれに気づいた。
「……震えてる」
「うん」
「隠せよ」
「無理だよ」
「……正直すぎる」
「君が、あんな声を出した」
「出したくて……出したわけじゃない」
「分かっている」
「じゃあ……泣きそうな顔すんな」
「泣いていない」
「似たようなもんだろ……」
レオは答えなかった。
代わりに、ノアの額へ白金の光を流した。
意識を落とさせないためではない。
意識を無理に保たせるためでもない。
ただ、痛みを下げ、呼吸を整えるための光だった。
ノアは、薄く目を閉じた。
大講堂の闇が遠くなる。
仮面は封じられている。
鐘の音も、今は聞こえない。
でも、最後の言葉だけが残っていた。
今度も、君が殺す。
レオの傷へ向けられた言葉。
ノアを引きずるだけではない。
レオも同じ舞台へ戻そうとしている。
英雄にして、また災厄を殺させるために。
ノアは掠れた声で言った。
「……殺させるなよ」
レオの腕が強張る。
「何を」
「お前に……俺を」
レオの息が止まった。
ノアはそれ以上言わなかった。
言えなかった。
声が切れた。
レオは、ノアを抱き上げた。
大講堂の客席を抜け、夜の廊下へ向かう。封じた仮面は白金の檻に閉じ込めたまま、舞台上へ固定されている。教師を呼ぶべきだと分かっている。だが、今はノアを部屋へ戻す方が先だった。
廊下の魔力灯は薄く、夜の石床は冷たい。
ノアは半分意識を保ったまま、レオの腕の中で息をしていた。喉が痛い。身体の奥が重い。首輪はまだ熱を残している。指先は震え、脚には力が入らない。
それでも、意識は残っている。
折れていない。
それだけは、離さなかった。
部屋へ戻ると、レオはノアを寝台へ寝かせた。
水瓶をすぐに取る。
喉へ聖魔法を流しながら、少しずつ水を飲ませる。無理に飲ませるのではない。喉が受けつける量を見ながら、静かに。ノアの呼吸が乱れるたび、手を止める。
次に、魔力回路を整えた。
首輪の熱を鎮める。
黒く濁りかけた赤い糸を白金の光で包み、魂糸の軋みを解く。
ノアの身体が冷えないよう、寝具を替え、汚れた布を取り除き、清潔な布で整えた。屈辱を見せつけるようなことはしない。ただ、魔法的限界反応で崩れた身体を冷やさないように、必要なことを淡々と行う。
その手つきは丁寧だった。
丁寧すぎて、重かった。
レオは最後に、ノアの髪を梳いた。
指が、黒髪の長い襟足を整える。
前世の朝に似た手つき。
だけど今は、戦場明けの穏やかな朝ではない。
夜の事件の後だ。
ノアは、掠れた声で言った。
「……髪まで、管理……?」
「絡まっていた」
「言い訳……下手……」
「うん」
「否定しろよ……」
レオは小さく息を吐いた。
「君の声が戻るまで離れない」
「……今、喋ってるだろ」
「戻っていない」
「基準が厳しい……」
「君の声だから」
「……重い」
そこで、ノアは眠りに落ちた。
完全に安心したわけではない。
ただ、身体が限界だった。
翌朝。
薄い朝日が、寮部屋の窓から入っていた。
ノアは喉の痛みで目を覚ました。
強い痛みではない。焼け跡のような鈍い違和感。身体は重く、指先にも少し痺れが残っている。けれど、昨夜のような痙攣はない。呼吸もできる。
視線を動かすと、レオがそばにいた。
椅子に座ったまま、一睡もしていない顔をしている。いや、実際に眠っていないのだろう。白い手には水の杯がある。
ノアは掠れた声で言った。
「……舞台稽古でここまで壊れるとか、労災出る?」
レオの表情が、わずかに歪んだ。
「出す相手を殺したくなるから、言わないで」
「朝から物騒……」
レオは水を差し出した。
ノアは受け取った。
喉を通る水に、白金の聖魔法が混じっている。痛みが少しずつ引いていく。腹立たしいほど効く。文句を言う元気が、少し戻ってくる。
レオは静かに言った。
「君の声は、僕が聞く」
ノアは杯を下ろした。
「……朝から重い」
「昨日よりは軽いよ」
ノアは笑えなかった。
レオの顔も、笑っていなかった。
ノアは首元へ手をやった。
伴侶首輪は見えている。
薄い赤い輪。
けれど、その内側に、細い黒い亀裂のような模様が残っていた。
昨夜の仮面が刻んだように。
赤い糸の奥に、黒い傷がひとつ、沈んでいた。




