第34話 黒い仮面
黒い仮面は、笑っているように見えた。
実際には、仮面に表情などない。黒い硬質な面に、歪んだ口元と、花弁のように広がる目元の装飾が刻まれているだけだ。舞台用の小道具。災厄忌の英雄劇に使われる、黒い災厄役のための仮面。
それだけのはずだった。
それなのに、夜の大講堂で浮かび上がったそれは、明らかにこちらを見ていた。
ノア・クロウの顔へ、ゆっくりと近づいてくる。
黒い舞台の上で、仮面の縁が濁った光をまとっている。仮面の裏には、あの紋章が刻まれているはずだった。黒災忌会の黒い花とも、黒魔導書の頁とも、英雄教会の祈祷文とも少し違う。けれど、どれとも完全に無関係ではない、ひどく気持ちの悪い重なり方をした紋章。
ノアは舞台の上に立っていた。
客席は暗い。大講堂には誰もいない。高い天井も、眠った魔力灯も、閉ざされた扉も、すべてが夜の中へ沈んでいる。舞台中央だけが、薄く黒い光を帯びていた。
遠い鐘の音が聞こえる。
それは大講堂の鐘ではなかった。
学院の塔の鐘でもない。
もっと遠い、もっと古い、身体の奥に残っている鐘。
黒い災厄が討たれた日、世界が歓喜して鳴らした鐘。
ノアの喉が詰まる。
伴侶首輪が熱を持った。赤い糸が、魂の奥で強く張る。レオ・アステルレインが隣で白金の魔力を灯す気配がした。
仮面は、なおも近づく。
顔へ。
目元へ。
被せるように。
ノアは笑った。
笑うしかなかった。
「記憶上映会ならチケット代払ってからにしてくれ」
声は震えていた。
それが、自分でも分かった。
軽口で押し流すには、鐘の音が近すぎる。仮面が近づくたび、首輪の熱が強くなる。喉が細く締まり、胸の奥へ黒い圧が落ちる。瞳孔がわずかに開き、暗い舞台がひどく鮮明に見えた。
仮面の内側から、声が溢れた。
歓声。
救われた。
災厄が死んだ。
英雄万歳。
鐘。
鐘。
鐘。
その奥で、別の声が裂けるように響いた。
「助けを求めろ!!」
ノアの呼吸が止まった。
セラフィードの声。
怒鳴っている。
泣きそうで、怒っていて、祈っていて、壊れかけている声。
「僕に縋れ、イリアス!!」
「助けてくれと、言え!!」
ノアは一歩後ろへ下がろうとした。
だが、足が重い。
仮面の術式が、前世名へ触れている。ノア・クロウではなく、イリアス・ノクスヴェルトへ。認めていない名。否定し続けている名。けれど、伴侶首輪と黒魔法回路と魂の深い場所が、勝手に反応してしまう名。
赤い糸が、一瞬、黒く濁りかけた。
レオが鋭く息を吸う。
次の瞬間、白金の結界が張られた。
音が遠ざかる。
大講堂の空気が一枚隔てられる。レオの遮音結界だった。ノアの声を、舞台にも、仮面にも、黒い魔法陣にも渡さないための結界。
レオの声が近くで響く。
「君の声を、これに渡さない」
ノアは喉を押さえ、笑った。
「俺の声、ほんと人気だな……」
言った直後、仮面の裏から黒い魔力が伸びた。
細い糸のようだった。
黒いのに、表面だけ白く見せかけている。聖魔法の祈祷文に似せた、嫌な形。黒災忌会の熱狂より冷たく、黒魔導書の飢えより狡い。英雄と災厄の両方を舞台へ縫い止めようとするような術式だった。
それが、ノアの前世名を掴む。
イリアス。
仮面は、声にならない声でその名を呼んだ。
首輪が強く熱を持つ。
「っ……!」
ノアの膝が揺れた。
喉が詰まり、胸の奥で何かが引き攣る。瞳孔が開き、舞台の黒い光が刃のように目へ入った。呼吸が浅くなる。足元の黒い魔法陣が、足裏から魂へ響いてくる。
ノアは堪えようとした。
だが、声が漏れた。
「ぐ、ぁ……っ、呼ぶな……!」
短い絶叫だった。
整った悲鳴ではない。喉の奥を黒い糸で引かれ、息を無理やり裂かれたような声。叫びはすぐに潰れ、掠れた息へ変わる。膝が崩れかけ、指先が震えた。
レオがノアの横へ踏み込む。
腕を掴むのではなく、背中の近くへ白金の光を流した。支えるための光。赤い糸を補強し、仮面の術式からノアを引き戻すための光。
けれど、完全には前に立たない。
さっき、ノアが言ったからだ。
隠すな。見えない。
俺抜きで俺の問題を解くな。
レオは、それを守ろうとしていた。
苦しそうに。
今すぐノアを自分の背後へ隠したいくせに、半歩横に留まっている。白金の魔力が揺れている。守りたい。隠したい。閉じ込めたい。けれど、ノアの視界を奪ってはいけない。
その矛盾が、痛いほど見えた。
ノアは荒い息を整えながら、仮面を睨んだ。
「しつこい……名前呼びサービスは要らないって……」
仮面は答えない。
代わりに、鐘が強くなる。
世界の歓声が重なる。
救われた。
災厄が死んだ。
英雄が討った。
英雄が。
英雄が。
黒い災厄を。
ノアの奥で、別の声が微かに揺れた。
低く、壊れかけて、それでも笑った声。
ざまぁみろ。
ノアの喉が焼けるように熱くなった。
その言葉は、自分が言ったものではない。
そう言い切りたい。
なのに、喉が覚えている。
あの笑い方を。
あの息の途切れ方を。
最後に泣かなかった意地を。
ノアは片手で首元を押さえた。
伴侶首輪が熱い。赤い糸が張る。魂糸がノアの声の乱れを拾い、レオへ届けている。レオの白金の光が、その声を結界の内側へ閉じ込めている。外へ漏らさない。舞台へ渡さない。仮面へ奪わせない。
その徹底ぶりが腹立たしい。
そして、少しだけ助かっているのが、もっと腹立たしい。
レオが仮面へ手をかざした。
「離れろ」
声は穏やかだった。
しかし、大講堂の空気が震えるほど冷えていた。
白金の聖魔法が、レオの手の中で刃の形を取る。治癒ではない。浄化でもない。焼くための光。仮面の術式を切り裂き、黒い紋章ごと封じるための聖魔法。
仮面の内側から、別の声がした。
今度は、ノアへではなかった。
「英雄も、まだ終わっていない」
レオの魔力が揺らいだ。
ノアは、荒い息の中でレオを見た。
白金の光が、一瞬だけ乱れている。
レオの目が、仮面を見据えたまま硬くなっていた。碧い瞳の奥に、前世の荒野の影が落ちる。
英雄。
救国の英雄。
黒い災厄を討った男。
世界から称えられた男。
愛した伴侶を殺した男。
仮面は、ノアだけでなくレオにも触れた。
正確には、セラフィードの傷へ。
ノアは息を吐いた。
「……おい。レオ」
レオは答えない。
仮面の声はさらに低く囁く。
「救国の英雄」
「災厄を討つ者」
「今度も、舞台へ」
レオの白金の光が、さらに不安定になる。
ノアは顔をしかめた。
自分の方も余裕はない。喉は痛い。首輪は熱い。膝はまだ少し怪しい。仮面はまだ近い。前世の歓声と鐘が、頭の奥で鳴り続けている。
だが、レオの白金が揺らぐのはまずい。
この男が揺らぐ時は、だいたい碌なことにならない。
ノアは掠れた声で言った。
「王子様、仮面相手に傷口開くな。備品に負けるぞ」
レオの視線が、一瞬だけノアへ戻った。
「ノア」
「俺はまだここにいる。お前も戻れ」
言ってから、ノアは少しだけ自分に腹が立った。
戻れ。
さっきから仮面が言っていた言葉だ。
だが、意味が違う。
レオへ言うそれは、前世へ戻れではない。
今へ戻れ、だった。
レオの喉がわずかに動いた。
白金の光が安定する。
ノアは呼吸を整え、仮面を睨んだ。
「英雄も災厄も、そんなに暇じゃないんでな。呼び出しは予約制にしてくれ」
仮面が震えた。
黒い魔法陣の光が濃くなる。
英雄教会の祈祷文に似た白い文字が、仮面の内側から滲む。古い祈りの形をしている。だが、祈りではない。祈りの皮を被った命令だ。
災厄を舞台へ。
英雄を舞台へ。
役を与えろ。
名を呼べ。
物語を繰り返せ。
ノアは歯を食いしばった。
「……趣味が悪い」
レオが一歩前へ出た。
今度は、ノアの視界を完全には塞がない角度だった。
白金の聖魔法が、仮面へ向けて走る。
仮面の黒い紋章が抵抗する。黒い花紋が浮き、白い祈祷文が重なり、同盟儀式の汚染術式に似た三本の線が絡み合う。黒と白と金が、仮面の内側でねじれていく。
レオの声が低く落ちる。
「ノアを呼ぶな」
白金の光が仮面を包む。
「ノアの声を奪うな」
黒い紋章が焼けるように弾けた。
「ノアを、舞台に上げるな」
ノアは片眉を上げた。
「最後のはもう上がってる」
「黙って」
「はいはい」
レオの聖魔法が、仮面を焼き切ろうとする。
しかし、仮面は燃えなかった。
代わりに、内側から鐘の音が溢れる。
前世の鐘。
救済を祝う鐘。
誰かの死を喜ぶ鐘。
世界中の歓声が、大講堂の天井へぶつかるように膨らんだ。
ノアの喉がまた詰まる。
膝が落ちかける。
レオの赤い糸が強く引き戻す。
ノアは短く呻いた。
「っ、ぐ……!」
瞳孔が開き、視界の端が暗くなる。だが、白目を剥くほどではない。倒れない。吐かない。まだ立てる。ノアは自分の足へ力を込めた。
レオが一瞬こちらを見ようとする。
ノアは低く言う。
「見るな。仮面見ろ」
「君が」
「立ってる」
「……分かった」
レオは仮面へ視線を戻した。
白金の魔法陣が、彼の足元に広がる。透明な檻。魂糸。封印の聖句。だが、先ほど仮面から漏れた祈祷文とは違う。レオの聖魔法は、もっと澄んでいる。強すぎて怖いほど、まっすぐだった。
仮面が、ノアへ最後に囁く。
「戻れ」
ノアは笑った。
「断る」
仮面が、レオへ囁く。
「英雄」
レオの白金が揺れる。
ノアはすぐに言う。
「レオ」
その名で、レオの魔力が戻った。
セラフィードではない。
救国の英雄ではない。
レオ・アステルレイン。
今の名。
現世の名。
ノアが呼んだ名。
レオは、仮面へ白金の封印を落とした。
黒い仮面が、空中で止まる。
表面の黒い光が弱まり、目元の花弁のような装飾が鈍く沈む。裏側の紋章へ白金の糸が巻きつき、内側から染み出していた黒い声が細くなっていく。
鐘の音が遠ざかる。
歓声も、セラフィードの叫びも、イリアスの最後の笑いも、薄い霧の向こうへ沈んでいく。
ノアの喉が、ようやく少し開いた。
荒い息が漏れる。
レオは仮面を封じるため、さらに聖魔法を重ねた。
その瞬間、仮面が最後に囁いた。
今度は、はっきりとレオへ向けて。
「今度も、君が殺す」
白金の魔力が揺らいだ。
レオの指先が、わずかに震えた。
ノアの首輪が、熱く脈を打った。




