第33話 舞台から呼ぶ声
三〇七号室の闇は、薄かった。
窓の外では、夜の学院が静まり返っている。中庭の魔力灯は間隔を空けて淡く灯り、石畳の上に白い輪を落としていた。遠くの塔の時計は夜更けを過ぎた時刻を示し、寮の廊下からは足音ひとつ聞こえない。
ベッドの上で、ノア・クロウは目を開けた。
首元が熱い。
伴侶首輪が、内側から焼けるように脈打っている。痛みというほどではない。だが、無視できる熱でもなかった。赤い糸が魂の奥で震え、喉の奥へ細い棘を差し込むような感覚を返してくる。
次の瞬間、声が聞こえた。
「イリアス」
耳ではなかった。
壁の向こうでも、窓の外でもない。首輪の内側から、喉の奥へ直接滑り込んでくる声だった。
「災厄」
「戻れ」
「舞台へ」
ノアは一度、深く息を吸った。
胸の奥が重い。喉が詰まり、瞳孔が少しだけ開く。指先が冷えた。けれど、倒れるほどではない。叫ぶほどでもない。いつものように、笑える程度の最悪だ。
向かいの寝台で、衣擦れがした。
レオ・アステルレインも同時に起きていた。
月明かりの薄い部屋の中で、金髪が淡く浮かぶ。眠っていたはずなのに、碧い目にはもう眠気がなかった。白金の魔力が、彼の指先に静かに灯っている。
赤い糸が、二人の間で張り詰めていた。
ノアは首元を押さえ、わざと軽く言った。
「深夜放送、多すぎない? 学院、夜更かし推奨派?」
レオは笑わなかった。
「行かないで」
「まだ何も言ってないだろ」
「君が行く声をした」
「声で未来予知するな」
ノアはベッドの端に腰を下ろした。
足裏が床に触れる。夜の床は冷たい。石と木が混ざった寮の床板は、昼間よりずっと固く感じた。部屋の魔力灯は消えているのに、レオの白金の光だけが、わずかに壁を照らしている。
首輪の熱はまだ続いていた。
大講堂。
舞台。
黒い魔法陣。
イリアス・ノクスヴェルトの名。
あそこから呼んでいる。
セドリックに、舞台周辺へ近づくなと言われたばかりだ。教師たちは調査をしている。学院側は表向き、古い舞台装置の不具合として処理しようとしている。誤作動。便利な言葉。便利すぎて、真実を隠す時にも使える。まったく、人類は言葉の悪用だけは器用だ。
ノアは軽く息を吐いた。
「行かなきゃ分からないだろ」
レオの声が低くなる。
「分からなくていい」
「俺の名前を呼ばれてるんだぞ」
「君の名前じゃない」
「そうだな。俺が認めてない名前だ」
「だから行かせたくない」
ノアは顔を上げた。
レオは寝台から降りていた。
白い寝衣の上に、すでに制服の上着を羽織っている。いつ着たのか。たぶん、眠る気など最初からほとんどなかったのだろう。魔力灯もつけない部屋で、彼はまっすぐノアを見ている。
見張っている、という言葉を使うと、レオは少し傷ついた顔をする。
けれど、事実は事実だ。
ノアは笑った。
「王子様、俺が一人で行くと思ってる?」
「思っている」
「信用ないな」
「君が危険に向かう時の行動力は信用している」
「それ、褒めてない」
「うん」
「うんじゃない」
レオは一歩近づいた。
赤い糸が、首元でわずかに強くなる。ノアは目を細めた。熱はまだ我慢できる。胸の奥の圧も、息を整えれば耐えられる。
だが、呼ばれている。
舞台から。
名前で。
認めていない名で。
それを放置する方が気持ち悪かった。
ノアは立ち上がった。
その瞬間、レオの表情が硬くなる。
「ノア」
「行く」
「駄目だ」
「駄目って言われて止まる性格だと思う?」
「思っていない」
「じゃあ言うな」
「言う」
「面倒くさい男」
「知っている」
ノアは扉へ向かった。
その足が、一歩目で止まった。
足首を掴まれたわけではない。
床に何かが絡んだわけでもない。
けれど、魂の奥に引っかかりが生まれた。赤い糸が強く張り、ノアの足元の影が白金の光で縫い止められる。身体ではなく、移動しようとする意志そのものに針が通されたような感覚だった。
ノアは息を詰めた。
膝が少しだけ揺れる。
首輪が熱を返す。
「……俺の足まで管理対象か」
声が低くなった。
レオは動かなかった。
白金の光が、彼の指先から細く床へ落ちている。現実の鎖ではない。魔法的な魂糸。乱暴に縛るものではない。けれど、確かにノアの移動を止めている。
「君が自分から危険へ行くなら」
「俺は犬じゃない」
「知っている。だから余計に怖い」
ノアはレオを見た。
その顔は、穏やかではなかった。
怒鳴っていない。乱れてもいない。けれど、碧い目の奥に、恐怖があった。前世の荒野で、イリアスが一人で全部を持って死んだ記憶。助けを求めなかった伴侶。殺すしかなかった最後の朝。レオが現世で何を恐れているのか、ノアはもう分かってしまっている。
分かることと、許すことは違う。
首輪の熱が強まった。
赤い糸の圧が、喉元へ返ってくる。
「っ……お前の不安で俺が焼かれる仕様、ほんと理不尽……」
短い呻きが混じった。
それだけで、レオの指が震えた。
糸の圧が緩む。
止めたい。
離したくない。
けれど、傷つけたくない。
その矛盾が、彼の手の震えに出ていた。白金の光が一瞬だけ乱れ、床に落ちた影が揺れる。
ノアは、足を動かした。
今度は動いた。
レオは引き戻さなかった。
ただ、苦しそうに見ていた。
ノアは扉の前で振り返る。
「レオ。俺を守るなら、俺の知らないところで俺のことを決めるな」
レオは沈黙した。
その沈黙は長かった。
夜の部屋に、互いの呼吸だけが残る。首輪の熱はまだ少しある。赤い糸は張ったまま、けれどさっきよりも緩んでいる。レオの白金の魔力は、床から消えかけていた。
ノアは続けた。
「一緒に来い。それなら文句ないだろ」
「文句はある」
「でも来るだろ」
「行く」
「即答すんな。怖いな王子様」
レオは返さなかった。
ただ、枕元に置いてあった小さな水瓶を取った。
ノアはそれを見て、思わず眉を上げる。
「夜間遠足に水筒付き?」
「君の声が乱れると思った」
「予言者かよ」
「経験だよ」
その言葉に、ノアは一瞬だけ黙った。
経験。
レオが言う経験は、たいてい古い傷の名前をしている。
ノアは軽く肩をすくめた。
「はいはい、過去の王子様は用意周到でえらいですねー」
「今の僕も用意している」
「なお悪い」
二人は部屋を出た。
寮の廊下は静まり返っていた。
白い石壁には夜の青が落ち、間隔を置いて灯る魔力灯が、消えかけの月のように揺れている。扉はすべて閉じていた。新入生たちの部屋からも、物音はしない。遠くで寮監の巡回用魔具が小さく鳴ったが、すぐにまた静寂へ沈んだ。
ノアの足音と、レオの足音だけが響く。
レオは半歩後ろではなく、隣に並んだ。
完全に前へ出て塞ぐことはしない。
しかし、すぐに手を伸ばせる距離にはいる。
妥協としては、非常にレオらしい。腹立たしいほど半端で、腹立たしいほど分かりやすい。
ノアは横目で見た。
「今、俺の前に出たいの我慢してる?」
「している」
「正直でよろしい」
「褒めている?」
「皮肉」
「知っている」
階段を下りる。
石段は夜気で冷えていた。窓の外に、中庭の旗が見える。災厄忌の準備で飾られた黒い花と白金の剣の旗。昼間は行事の飾りに見えたそれが、夜には葬列の布のように揺れていた。
ノアの首輪が、また熱を持つ。
大講堂へ近づいている。
赤い糸が張る。
レオの魂糸が、ノアの呼吸の乱れを拾っているのが分かった。
ノアはわざと軽く言った。
「見張りながら歩くの、疲れない?」
「疲れない」
「嘘つけ。お前、最近寝てないだろ」
「君も寝ていない」
「俺の話にすり替えるな」
「君の話をしている」
「してない。今はお前の話」
レオは少しだけ黙った。
「眠ると、遅れる気がする」
ノアは足を止めかけた。
止めなかった。
止まると、その言葉をまともに受け止めてしまう気がした。
遅れる。
前世で、間に合わなかった男の言葉だった。
ノアは前を見たまま言う。
「寝ろ。王子様が寝不足で倒れたら、絵面が悪い」
「君が倒れた方が悪い」
「張り合うな」
「張り合っていない」
「同レベルだぞ」
レオは小さく息を吐いた。
それは笑いではなかった。
廊下を進むにつれ、魔力灯の数が少なくなる。
大講堂へ続く渡り廊下は、普段なら生徒で賑わう場所だ。だが夜は、白い花の飾りと災厄忌の旗だけが並んでいた。昼間に取り外されたはずの黒い布飾りの一部が、まだ壁際に残っている。床に落ちた細い飾り紐が、黒い蛇のように見えた。
大講堂の扉が見えてきた。
閉まっている。
けれど、扉の隙間から黒い光が漏れていた。
光というには暗すぎる。
闇が発光しているような、嫌な色だった。
ノアの伴侶首輪が、熱く脈を打つ。
喉が詰まる。
胸の奥に圧が落ちる。
膝から力が抜けかけるが、まだ立てる。ノアは自分の足に力を入れた。
レオが水瓶を差し出す。
「飲んで」
「まだ大丈夫」
「飲んで」
「命令?」
「お願い」
「だからお願いの顔じゃない」
ノアは結局、水瓶を受け取った。
冷たい水が喉を通る。微かに白金の聖魔法が混じっている。認めたくないが、効く。喉の詰まりが少しだけ和らぐ。
ノアは水瓶を返した。
「給水係、仕事が早い」
「君の声が乱れると思った」
「何度も言うな。予言者感が増す」
「経験だよ」
「それも二回目」
「何度でも言う」
「重い」
レオは答えず、大講堂の扉へ手をかけた。
扉は鍵がかかっていなかった。
昼間、調査中のはずだった。
開くはずがない。
そう思う前に、扉は静かに内側へ動いた。
軋む音すらしない。
招かれているようだった。
ノアは口元を歪める。
「歓迎されてるな」
「嬉しくない」
「俺も」
二人は中へ入った。
夜の大講堂は、昼間とは別物だった。
客席は暗く沈み、長い影が段差を覆っている。高い天井は黒に近い藍色で、吊り下げられた魔力灯はすべて消えていた。舞台だけが薄く光っている。黒い光。白金にも似せきれていない、濁った光。
大講堂に、人はいない。
昼間の生徒たちの声も、教師の指示も、舞台装置の音もない。
静かだった。
あまりに静かで、前世の戦場跡を思わせた。
雨上がりの泥。
焦げた旗。
亡骸を埋める手。
白い小石。
黒い木片。
ノアは一瞬だけ瞬きをした。
違う。
ここは学院だ。
舞台だ。
前世の戦場ではない。
そう言い聞かせる間もなく、舞台中央に置かれていた黒い災厄役の仮面が、ゆっくりと浮かび上がった。
誰も触れていない。
仮面は、黒い花弁のような目元をこちらへ向けた。
裏側から、声がする。
「イリアス」
ノアは笑った。
「呼び出ししつこいな。出席確認なら現世名で頼む」
仮面は答えない。
代わりに、舞台床の魔法陣が薄く起動した。
昼間とは違う。
ゆっくりと、何層もの紋様が浮かび上がる。
黒い花の紋。
古い白い祈祷文。
聖魔法に似せた偽装波長。
同盟儀式の汚染術式に似た三本の絡む線。
黒災忌会だけではない。
英雄教会だけでもない。
黒魔導書の残響だけでもない。
英雄と災厄、その両方を舞台へ乗せるための式。
ノアは軽口を失いかけた。
喉が詰まる。
瞳孔が少しだけ開く。
胸の奥へ、黒い圧が沈む。
レオがすぐにノアの前へ出ようとした。
ノアは低く言った。
「隠すな。見えない」
レオは止まった。
「見せたくない」
「俺が見ないと分からない」
「君を使って分かりたくない」
「俺抜きで俺の問題を解くな」
沈黙が落ちた。
レオの横顔に、苦しさが浮かぶ。
歯を食いしばるような沈黙だった。守りたい。隠したい。見せたくない。けれど、ノアは見なければならない。レオが勝手に決めてはいけない。
それを、彼も分かっている。
分かっているのに、手放せない。
レオは、半歩だけ横へずれた。
完全には離れない。
けれど、ノアの視界を塞がない。
ノアは息を吐いた。
「偉い」
「褒めている?」
「半分」
「残りは」
「もっと早くやれ」
「……分かった」
二人は舞台へ向かった。
客席の間を抜け、黒い光の方へ進む。足音が大講堂に響く。舞台下の階段へ近づくほど、首輪の熱は強くなる。赤い糸が張る。レオの魂糸がノアの呼吸を拾っている。
ノアは階段の前で一度立ち止まった。
胸の圧はある。
膝も少し頼りない。
だが、上がれる。
ノアは舞台へ足をかけた。
その瞬間、災厄役の仮面が、ふわりと動いた。
黒い仮面がノアの方へ近づく。
顔へ。
目元へ。
被せようとするように。
レオの赤い糸が強く引かれた。
首輪が熱を持つ。
ノアは息を詰めながら、笑った。
「……顔面認証、趣味悪いな」
仮面はさらに近づいた。
その内側から、遠い鐘の音が聞こえた。
前世の鐘。
黒い災厄が討たれた日、世界中が鳴らした祝福の鐘。
その音が、仮面の内側で、静かに鳴り始めた。




