第60話 ノアとして閉じ込めるな
朝の光は、ひどく薄かった。
窓硝子の向こうで、アルカディア魔法学院の塔が白く霞んでいる。夜明けの霧が中庭の芝を覆い、遠くの魔力灯はまだ消えきらず、淡い青を石畳の上に落としていた。鳥の声がした。どこかの寮室で扉が開く音もした。階下では、朝食の支度をする寮の魔導具が小さく鳴っている。
いつも通りの朝だった。
それが、少しだけ腹立たしい。
世界は昨夜の地下礼拝堂など知らない顔で、今日も当たり前に始まろうとしている。真儀礼が記憶に手をかけたことも、黒い水が喉ではなく魂の奥から声を引き出そうとしたことも、ノア・クロウの身体が石床の上で跳ね、声が壊れ、記憶の荒野へ落とされたことも、朝には関係がない。
朝というものは冷酷だ。
人類はよくこんなものを爽やかなどと呼べる。大した神経である。褒めてはいない。
ノアは、ぼんやりと目を開けた。
最初に見えたのは、天井だった。
白い石で組まれた寮室の天井。魔力灯の光は弱められていて、眩しすぎない。寝台の周りには、薄い白金の結界が張られていた。檻ではない。少なくとも、今のところは。外からの干渉を弾く膜で、ノアの声も呼吸も閉じてはいない。
次に感じたのは、喉の痛みだった。
焼けたような痛みではない。もっと深いところ。声が生まれる道の内側に、まだ黒い水の冷たさが薄く残っている。声を出そうとすると、そこが擦れる。魂糸の発声経路が、昨夜の干渉でまだぎこちないのだと、感覚だけで分かった。
身体は重い。
腕を動かすだけで、魔力回路の奥が鈍く軋む。背中から腰にかけて倦怠感が沈み、指先にはまだ細かな震えが残っていた。伴侶首輪は首元に薄く熱を持っている。鏡を見なくても分かる。黒い亀裂と、白い花紋。あの二つはまだ消えていない。
寝台の横で、椅子が小さく軋んだ。
「ノア」
レオの声だった。
近い。
いつからそこにいたのか、という問いは無意味だった。どうせ一晩中いる。水、布、治癒用の魔石、封印灯、喉を保護する細い聖魔法の糸、首輪の熱を鎮める小さな魔法陣。机の上に並ぶそれらが、答えを先に言っていた。
ノアはゆっくり視線を横へ向ける。
レオ・アステルレインは、寝台のすぐそばにいた。金髪はきちんと整っているのに、青い目の下に薄い疲労の影がある。制服の上着は脱いでいるが、襟元は乱れていない。寝ていない顔だった。けれど、ノアが目を覚ました瞬間、わずかに呼吸が変わった。
安堵。
それから、まだ終わっていない恐怖。
ノアは掠れた声を出した。
「……点呼、多い」
ひどい声だった。
自分の声とは思えないほど荒れている。砂を飲み込んだみたいにざらつき、言葉の端が擦れて消える。たったそれだけの台詞で、喉の奥がきしんだ。
レオの指先がわずかに動いた。
喉に触れたがっている。
けれど触れない。
「足りない」
レオはそう言った。
当然のような顔で。
ノアは片眉を上げようとした。うまく動いたかは分からない。
「怖いこと言うな、朝から」
「怖かったから」
返しがまっすぐすぎる。
ノアは息を吐いた。笑おうとしたが、喉が痛むので途中でやめる。笑うのにも喉は要る。人体は面倒だ。魔法で全部どうにかならないあたり、世界設計が雑である。
レオは銀杯を手に取った。水が満たされている。表面に白金の光が薄く浮かび、喉を刺激しないよう温度まで整えられていた。
「水を飲める?」
「飲めるかどうか聞くの、偉い」
「触れていい?」
「……支えるだけなら」
レオの手が慎重に伸びる。
杯の底を支え、ノアが自分で持つ形を崩さない。前なら、きっとそのまま飲ませようとした。今もそうしたいのだろう。目がそう言っている。だが、やらない。努力している。涙ぐましいというより、危なっかしい。猛獣がティーカップを持っているみたいな緊張感がある。
ノアはゆっくり水を飲んだ。
喉を通るたび、痛みが薄く鳴る。水は冷たすぎず、甘さもない。ただ、傷ついた声の道を濡らしていく。飲み込むたびにレオの視線が喉元へ落ちるので、ノアは少し睨んだ。
「見るな。穴でも空く」
「声が戻るか確認している」
「視線で?」
「できるならしたい」
「するな」
「しない」
即答だった。
いや、そこは即答できるのか。
ノアは軽く目を細める。
レオは、銀杯を置くと、少しだけ身を引いた。治癒に移りたいのに、許可を待っている距離だった。白金の魔力が指先で淡く揺れている。焦りを抑え込んだ光。喉へ流し込みたい。首輪の亀裂を閉じたい。魔力回路の乱れを整えたい。ノアが声を出せるようにしたい。できれば、その声がまず自分へ向くことを確認したい。
全部、顔に出ている。
王子様、隠し事が下手すぎる。
いや、穏やかに見えるぶん、むしろ悪質かもしれない。
「喉、見たい?」
ノアが言うと、レオは一瞬黙った。
「見たい」
「正直でよろしい。最悪だけど」
「触れていい?」
「許可制、継続中。どうぞ」
レオの指先が、ノアの首元へ近づく。
直接触れる前に、まず白金の光だけが届いた。喉の表面ではなく、魂糸の発声経路の周囲を撫でる。昨夜、黒い水に掴まれた場所。記憶の荒野で、前世の最後の言葉を引きずり出されそうになった場所。
光は、そこを無理に広げない。
閉じもしない。
黒い水の冷たさを少しずつ溶かし、擦り切れた魔力の糸を整える。伴侶首輪の黒い亀裂に触れる時も、レオは力を強めなかった。白い花紋の熱を鎮め、亀裂の奥へ入り込もうとする外部術式を押し返すだけに留めている。
やればできるじゃん。
声に出すとレオがまた過剰に受け止めそうなので、ノアは黙っておいた。
喉の痛みが少しずつ引いていく。
代わりに、身体の重さがはっきりした。全身の魔力回路が鈍い。昨日の重度反応で大きく乱れた後、まだ完全に戻っていない。背中、腕、指先、胸の奥。どこも薄く疲れている。力が入らないのではなく、力を入れると魔力が遅れてついてくる。
レオはそれにも気づいているのだろう。
喉の治癒を終えると、魔力回路の調整に移った。
「肩、痛む?」
「全体的に人生が痛む」
「身体の話をしている」
「じゃあ少し」
レオは白金の光を肩から腕へ流した。治癒というより、絡まった糸をほどくような作業だった。魔力回路の鈍さが少しずつ和らぐ。指先の震えも弱くなる。
その間、レオはほとんど喋らなかった。
喋ればノアが返そうとするからだと分かった。
気遣いである。
管理でもある。
人間関係というのは、どうしてこう複数の意味を同時に含むのか。単機能にしてくれ。面倒だから。
髪に触れられたのは、最後だった。
ノアの髪は、寝ている間に整えられていたらしい。それでも、レオはもう一度、乱れたところを指で梳いた。黒い髪の襟足をそっと払い、首輪にかからないようにする。
ノアは薄く目を開けた。
「髪まで点検?」
「首輪の亀裂を見るため」
「半分嘘」
「……落ち着くから」
「正直すぎて怖い」
「隠すよりいいかと思った」
「まあ、隠されたら減点」
「今は何点?」
「六点」
レオの指が止まる。
「下がった」
「髪を触りたい欲が出た」
「出た」
「認めるな、王子様」
「嘘は言いたくない」
「最悪に正直」
ノアは小さく息を吐いた。
それだけで少し喉が鳴る。レオの視線がすぐ向く。ノアは先に言った。
「平気」
「平気な声ではない」
「採点下げるぞ」
「……黙る」
レオは黙った。
少しだけ。
その沈黙の間に、朝の音が部屋へ入ってきた。廊下を歩く生徒の足音。遠くの鐘。寮監の声。中庭から届く鳥の鳴き声。日常が、扉の外で何も知らずに動いている。
ノアは天井を見上げた。
首輪の熱は、だいぶ落ち着いた。けれど黒い亀裂はまだある。白い花紋も残っている。真儀礼は未完成だ。ノアが拒んだから。あの言葉を言わなかったから。記憶に引きずられても、自分の声で前世の死を認めなかったから。
だが、敵は諦めない。
喉が駄目なら記憶へ来た。
記憶が駄目なら、次は何を使うのか。
考えるだけで嫌になる。
世の中、悪意だけは勤勉だ。もっと怠けろ。
レオが静かに口を開いた。
「君をイリアスとして殺させない」
ノアは目を閉じたまま、その言葉を聞いた。
昨夜も聞いた。
夢と現実の境目で聞いた。
荒野から戻った後、遠い声で聞いた。
レオにとって、それは誓いなのだろう。
前世で殺した。
世界に英雄として選ばれた。
愛した伴侶を災厄として終わらせた。
だから今度は、ノアをイリアスとして殺させない。
意味は分かる。
痛いほど分かる。
でも、それだけでは足りない。
ノアは、ゆっくり目を開けた。
喉が痛む。
それでも、言わなければならない言葉がある。
「俺をノアとして閉じ込めるなよ」
レオの顔が動きを止めた。
白金の魔力が、一瞬だけ揺れる。赤い糸がぴんと張り、痛むように震えた。伴侶首輪の白い花紋が淡く光り、黒い亀裂の熱が少しだけ引いていく。
ノアはレオを見た。
逃がさない、ではない。
見て、と言うために。
「イリアスとして殺させないのは、まあ、いい」
声は掠れている。
けれど、低く、はっきりしていた。
「でも、その代わりにノアをしまうな。前世の墓に入れるな。お前の怖さの箱にも入れるな」
レオは何も言わない。
ノアは続けた。
「俺は、あいつの記憶を持ってる。罪も、声も、たぶん傷もある。けど、今ここにいるのは俺だ。ノア・クロウだ。黒魔法科の平民で、制服が首詰まりすぎって文句言って、魔具工房で工具に興味持って、朝から水飲まされてる哀れな現役学生」
レオの唇が少し動いた。
哀れ、のところで反応しかけたのだろう。今は黙った。偉い。採点を上げてもいいかもしれない。
「俺を守りたいなら、俺を見ろ。イリアスの終わりじゃなくて、ノアの今を見ろ」
部屋の中が静かになった。
レオの青い目が、ノアから離れない。
まっすぐすぎて、少し痛い。
やがてレオは、ゆっくりと言った。
「努力する」
ノアは眉を寄せた。
「そこは即答で“分かった”って言う場面だろ」
「嘘は言いたくない」
「最悪に正直」
「分かっている、と言ったら、君を安心させられるかもしれない」
「うん」
「でも、僕はまだ閉じ込めたい」
うわ。
言った。
朝の空気に投げ込むには、あまりにも重い本音だった。普通の人間ならたぶん逃げる。ノアは逃げない。逃げる体力がないのもあるが、それ以上に、ここで逃げたらレオはその恐怖を肯定してしまう気がした。
面倒だ。
本当に面倒だ。
人間関係、複雑すぎる。もっと単純な仕様にしろ。
レオは続けた。
「君を部屋から出したくない。舞台にも、礼拝堂にも、誰かの視線の前にも出したくない。君の声を、誰にも、何にも渡したくない。怖い。君がまた、自分を犠牲にするのが怖い。僕の知らないところで終わるのが怖い」
レオの声は穏やかだった。
けれど、中身は穏やかではない。
「だから、閉じ込めたいと思う」
ノアは黙って聞いていた。
「でも」
レオの指先が、膝の上でかすかに震えた。
「それをしたら、君の今を消すことになる」
ノアの胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「君が言った。守るなら、消すなって。だから、閉じ込めない守り方を考える」
「すぐできる?」
「できない」
「正直」
「でも、探す」
レオの赤い糸が、ゆっくりと緩んだ。
完全には緩まない。そんな簡単に健全化されたら、それはそれで怖い。昨日まで地獄の契約者だった男が今朝いきなり優良物件になるわけがない。人間も魔法もそんなに都合よくできていない。残念ながら現実味はある。
だが、糸の張り方が少し変わった。
引き戻すためだけではない。
隣へ留めるための形に、ほんの少しだけ近づいた。
ノアは息を吐く。
「六点半」
レオが瞬いた。
「増えた?」
「半点だけな」
「理由は?」
「嘘つかなかった」
「じゃあ、次は七点を目指す」
「真面目か」
「真面目だよ」
「重い」
「知っている」
ノアは少しだけ笑った。
喉が擦れて、笑いはすぐ咳に変わりかける。レオが動こうとしたので、ノアは手で制した。
「平気」
「……本当に?」
「水」
レオはすぐに銀杯を渡した。
今度は底を支える前に、ちゃんと尋ねる。
「支える?」
「ん」
水を飲む。
喉が少し楽になる。
朝の光が少しずつ濃くなっていた。窓の外で霧が薄れ、中庭の芝が見え始める。今日も授業はあるのだろう。真儀礼に狙われても、前世の記憶に引きずり落とされても、学院は平気で一日を始める。やはり教育機関というものは狂っている。
ノアは枕へ背を預けた。
レオはその横で、治癒用の魔石を片づけずに置いたままにしている。まだ何かあればすぐ対応するつもりだ。過保護。だが今は、責める体力がない。
扉が控えめに叩かれたのは、その時だった。
レオの顔から温度が消える。
赤い糸がわずかに張る。
ノアは薄く目を開ける。
「朝から来客。人気者はつらいな」
「出なくていい」
「出なくても向こうが入ってくるやつだろ」
レオは立ち上がり、扉へ向かった。
開く前に、外からセドリックの低い声がした。
「バロウズだ。入るぞ。無事かは聞かない。無事ではない顔をしているだろうからな」
ノアは小さく笑った。
「先生、気遣いが雑」
レオが扉を開けると、セドリックが入ってきた。黒い外套の裾に朝露がついている。寝ていない顔だった。片手には古い羊皮紙の束。もう片方には、封印灯と、黒い紐で閉じられた小さな記録筒を持っている。
彼はノアの顔色を見て、眉間に皺を寄せた。
「喋るなと言いたいが、どうせ喋る顔だな」
「理解が早い」
「喉は?」
「営業短縮中」
「長く喋るな」
「はいはい」
「一回でいい」
セドリックは机の上に羊皮紙を広げた。
レオがすぐに問いかける。
「真儀礼の続きですか」
「ああ。声を直接引き出すのに失敗した。記憶からの再生も、クロウが拒んだ。儀礼はまだ完成していない」
ノアは肩をすくめる。
「めでたい話?」
「半分はな」
「嫌な半分が残ってる顔」
「残っている」
やっぱり。
こういう時だけ勘が当たる。迷惑な才能だ。
セドリックは記録筒を開き、一本の細い紙片を取り出した。そこには、黒でも白でもない、濁った灰色の術式が浮かんでいる。
「敵は次の段階に移る可能性が高い」
「次の段階、多すぎない? 定期購読か?」
「周囲の証言だ」
ノアの笑みが、少し止まった。
レオの目が冷える。
セドリックは淡々と続けた。
「真儀礼は本来、災厄本人の声を核にする。だが本人の声が取れない場合、周囲の証言を使って対象を再指定する補助術式がある。こいつは古い裁定儀礼の応用だ。多人数の認識、証言、恐怖、噂、記録を束ねて、対象を“そういうもの”として固定する」
ノアはゆっくり瞬きした。
「つまり?」
「お前の声で死を認めさせられないなら、周囲にお前を災厄だと認めさせる」
沈黙。
朝の鳥の声が、場違いなくらい明るく響いた。
ノアは、掠れた声で言った。
「今度は世論戦? 敵、急に現代的だな」
茶化した。
だが、笑えなかった。
レオの目から、温度が完全に消えていた。
赤い糸が、静かに、鋭く張り詰める。




