第31話 前世名の魔法陣
大講堂の空気が凍った。
舞台中央に浮かんだ黒い魔法陣は、誰の合図も受けていなかった。魔具科の演出用魔力炉はまだ調整中で、聖魔法科の演舞陣も教師の許可を待っていた。ノア・クロウの黒い霧も、すでに舞台床から引かれている。
それなのに、黒い円は勝手に起動した。
舞台板の隙間から滲むように線が浮かび、古い文字が幾重にも絡む。黒いはずの魔法陣は、輪郭だけ白金に似せた光をまとっていた。白金の皮を被った黒。聖魔法のように見せかけた、ひどく湿った異物。
そこに、名が浮かぶ。
イリアス・ノクスヴェルト。
その名は、舞台上の全員に見えていた。
民衆役の生徒が息を呑む。英雄役の代役は模造聖剣を握ったまま動けない。衣装係の女子生徒が黒い外套を落とし、布が舞台袖の床に広がった。聖魔法科の生徒たちは顔を見合わせ、劇科の上級生は台本を胸に抱いたまま、唇を震わせている。
「今の……」
「黒い災厄の、本名……?」
「どうしてここに」
「誰が起動した?」
ざわめきが、客席側から舞台裏まで波のように広がっていく。
黒い災厄の名は、歴史の授業で誰もが知っている。災厄忌の英雄劇にも出てくる。かつて世界を壊し、救国の英雄セラフィードに討たれた男。黒魔導書を取り込み、王国を焼き、友も家族も国々も壊した災厄。
その名が、なぜ今、現世の学院の舞台魔法陣に浮かんだのか。
誰も答えられない。
ノアは、舞台袖に立ったまま、その文字を見ていた。
喉が詰まる。
首元の伴侶首輪が、焼けるように熱を持つ。
イリアス。
またその名だ。
仮面の裏から呼ばれた名。黒い頁が囁いた名。認めない名前。ノアのものではないと、何度も心の中で切り捨てた名。
それなのに、身体は先に反応する。
瞳孔がわずかに開き、舞台灯が滲む。赤い糸が魂の奥で強く張り、喉の奥へ熱が絡んだ。胸の内側に圧が落ちる。指先が冷たくなる。首輪の赤い輪が、脈打つように熱を返してくる。
ノアは笑った。
笑うしかなかった。
「悪趣味な演出だな。誰だよ、舞台装置に古代名呼ばせたの」
声は軽かった。
軽くした。
軽くしすぎた。
その一瞬で、レオ・アステルレインが動いた。
レオはノアの前に立った。
ほとんど反射だった。白と金の制服の背が、ノアの視界を半分塞ぐ。舞台中央の魔法陣からノアを隠すように。ざわめく生徒たちの視線から、ノアの顔を覆うように。
ノアは舌打ちしたくなった。
目立つ。
かばわれる方が、よほど怪しい。
ただでさえ大講堂中の視線が前世名に集まっているのに、聖魔法科の王子様が黒魔法科の平民新入生の前へ立てば、余計に注目されるに決まっている。保護行動としては雑だ。いや、レオにとっては正しいのだろう。ノアを見せない。ノアの顔を、声を、反応を、他人の目から隠す。それが優先された。
ノアは低く言った。
「かばうな。余計怪しい」
「見せたくない」
「俺は展示品じゃない」
「知っている」
「知ってる動きじゃない」
レオは振り返らない。
視線は魔法陣へ向けたままだった。指先には白金の魔力が灯っている。だが、すぐに撃たない。舞台上には生徒がいる。下手に壊せば、魔法陣が暴発する可能性もある。
教師たちも動き始めた。
劇科担当の教師が生徒たちを舞台袖へ下げ、聖魔法科教師が魔法陣の外周へ結界を張ろうとする。魔具科の教師は演出用魔力炉を確認し、顔色を変えた。
「こちらは起動していません!」
「舞台陣も本来の式ではない。誰が混ぜた?」
「生徒を下げろ!」
大講堂のざわめきが、さらに大きくなる。
その中で、舞台中央の黒い魔法陣だけが、静かだった。
静かに、ノアを見ているようだった。
名前を浮かべたまま。
イリアス・ノクスヴェルト。
ノアは奥歯を噛んだ。
「名前で脅すとか、やり方が古い」
軽く言ったつもりだった。
だが、首輪の熱が強くなる。
魔法陣から細い黒い線が伸びた。
目に見える線ではない。魔力の感覚だけだ。けれど、ノアには分かった。魔法陣がノアの黒魔法を呼んでいるのではない。もっと深い場所へ触れようとしている。
魂へ。
前世名と結びついた、ノアの奥へ。
赤い糸が強く震えた。
レオの肩がわずかに動く。
「ノア、下がって」
「調べる」
「下がって」
「命令は聞こえませーん」
「ノア」
「俺に反応してるなら、俺が見た方が早いだろ」
「君の魂に触れようとしている」
「だからだろ」
ノアはレオの横から一歩出ようとした。
レオの手が、反射的にノアの前へ伸びる。
触れはしない。
けれど、止める意思は明確だった。
ノアの声が低くなる。
「どけ」
「どかない」
「舞台の真ん中で所有者面するな」
「所有じゃない」
「じゃあ何」
「守りたい」
「守るふりで隠すな」
レオの目が揺れた。
一瞬だけ。
ノアはその隙に、魔法陣へ視線を向けた。
外周は黒い。だが、内側の線に白金の偽装が混ざっている。聖魔法に似せた波長。けれど、聖魔法ではない。ノアが見た同盟儀式の汚れと同じ匂いがする。黒いのに、白いふりをしている。舞台演出用の魔法陣の下に、別の式が忍び込んでいた。
誰かが仕込んだ。
黒災忌会だけではない。
黒魔導書の残響だけでもない。
もっと古い、もっと根の深い何か。
ノアは指先へ黒い霧を集めた。
解析用の細い魔力。舞台に触れず、魔法陣の外周だけをなぞる程度のもの。
しかし、その瞬間、黒い魔法陣が笑うように震えた。
イリアス・ノクスヴェルト。
文字が強く光る。
ノアの喉が詰まった。
「っ……」
黒い線が、ノアの魔力へ食いつく。
指先からではない。
名前からだ。
魂の奥に隠された古い扉を、その名でこじ開けようとする。ノア・クロウではなく、イリアス・ノクスヴェルトとして引きずり出そうとする。
膝から力が抜けた。
ノアは踏みとどまろうとしたが、舞台袖の床が遠く感じた。喉が締まる。胸の奥へ圧が沈み、息が途中で止まる。瞳孔が開き、赤い瞳の奥に黒い濁りが揺れた。指先が細かく痙攣する。黒い霧が制御を失いかけ、爪の周りで震えた。
短い絶叫が、喉から引きずり出された。
「ぐ、ぁ……っ、名前で、引っ張るな……!」
声は長く続かなかった。
喉が詰まり、途中で潰れる。息が引き攣る。叫びというより、魂を引かれた痛みが声の形になったようだった。
レオが即座に結界を張った。
白金の透明な膜が、ノアの周囲を包む。
遮音結界。
大講堂のざわめきが一瞬で遠くなる。
ノアの声は外へ漏れない。
周囲の生徒には、ノアがただ膝を崩しかけ、レオが支えようとしたようにしか見えなかったかもしれない。だが、結界の内側では、ノアの荒い息と、掠れた呻きだけが残っている。
レオの手がノアの肩へ伸びた。
今度は触れた。
崩れかけた身体を支えるために。
ノアは拒もうとしたが、膝が持たない。片膝が床につく寸前、レオが支えた。白金の魔力が背中と喉元を包み、赤い糸が魂の奥へ伸びる。魔法陣に引かれかけた何かを、強く引き戻す。
伴侶首輪が、焼けるように熱い。
だが、その熱は今、楔にもなっていた。
魔法陣の黒い力が前世名でノアを引く。
赤い糸がノアを今へ引き戻す。
レオの声が、結界の内側で低く響いた。
「ノア」
ノアは息を荒げた。
「っ、は……名前、呼ぶなって……言ってないけど……今は、助かる……」
「君はノアだ」
「分かってる……」
「ノア・クロウだ」
「分かってるって……!」
ノアはレオの腕を掴んだ。
指先はまだ痙攣している。うまく力が入らない。それでも、掴んだ。支えられているだけにはしたくなかった。自分で掴んだことにしたかった。魂の奥を引かれる感覚に対して、現世の指先で抵抗したかった。
レオの白金の光が、ノアの喉元へ流れる。
首輪の熱を鎮めるのではなく、今は赤い糸を補強している。魂糸がノアの声を拾い、レオだけへ届ける。外には漏らさない。舞台には渡さない。大講堂の生徒たちにも、黒い魔法陣にも、ノアの声を聞かせない。
ノアは息を整えながら、皮肉を吐いた。
「また……閉じたな」
「聞かせたくない」
「誰に」
「全部に」
「ざっくりしすぎ……」
「君の声を、あの名前に縛らせたくない」
レオの声は穏やかだった。
だが、ひどく冷えていた。
ノアはその冷たさを聞いて、少しだけ笑った。
「重いな、王子様……」
「軽くしないで」
「軽くしないと、重すぎて潰れる」
レオは答えなかった。
代わりに、ノアの呼吸が整うまで白金の光を流し続けた。
結界の外では、教師たちが舞台魔法陣へ封印をかけ始めている。聖魔法科教師の白金の陣、魔具科教師の制御札、黒魔法科教師セドリック・バロウズの黒い封鎖線。三つの魔力が舞台中央へ重なり、暴走を抑えようとしていた。
だが、その下で、一瞬だけ別の紋章が浮かんだ。
三本の線が絡み、中央に歪んだ目のような穴を持つ紋。
ノアは見た。
レオも見た。
教師たちは、封印作業に気を取られていたのか、誰も反応しなかった。
紋章はすぐに消える。
ノアは掠れた声で言った。
「今の」
「見た」
「またあれか」
「うん」
「どこにでも出てくるな。暇なのか、黒幕候補」
「笑わないで」
「笑ってないと、かなり嫌な気分なんだよ」
レオの指先が、ノアの肩の上でわずかに強くなる。
それが拘束ではなく、支えだと分かる程度には、ノアはもうこの男の触れ方を覚えてしまっていた。
それも嫌だった。
嫌なのに、今は支えが必要だった。
腹立たしい。
心底腹立たしい。
魔法陣の黒い文字が、教師たちの封印で少しずつ薄れていく。
イリアス・ノクスヴェルト。
その名が消える寸前、もう一度だけノアの喉が詰まった。引かれる。奥から。古い名へ。死んだ男へ。災厄へ。
ノアは唇を噛んだ。
低く言う。
「俺はノアだ」
レオがすぐに返す。
「うん」
「お前が言わせるな。俺が言う」
「うん」
「うん多い」
「今は聞く」
「いつも聞け」
ノアの声は掠れていた。
だが、戻ってきていた。
自分の声だった。
レオは、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
遮音結界が解かれる。
大講堂の音が一気に戻ってきた。生徒たちのざわめき、教師の指示、魔力陣の封印音、舞台袖で誰かが泣きそうな声で友人の名を呼んでいる音。現実の音が、耳に押し寄せる。
ノアはレオの腕から身体を離した。
少しふらついたが、立った。
レオが手を伸ばしかける。
ノアは睨んだ。
「立てる」
「分かった」
「今にも支えますって顔やめろ」
「顔は変えられない」
「努力しろ」
レオは黙った。
舞台中央の魔法陣は、封印されていた。
セドリックが、黒い封鎖線を指先で回収している。聖魔法科教師が生徒たちへ離れるように指示し、魔具科教師は演出装置の記録を確認していた。
劇科の上級生が、青い顔で言った。
「舞台装置の誤作動、でしょうか……」
別の生徒が頷こうとする。
「そう、ですよね。演出陣が混線したとか」
「でも、あの名前……」
「偶然じゃ」
ノアは笑った。
喉はまだ痛い。
声も掠れている。
それでも、笑った。
「便利な言葉だな、誤作動」
周囲の生徒たちは、どう返せばいいか分からない顔をした。
レオは舞台中央の封印陣を見ていた。
その横顔は、ひどく静かだった。
静かすぎて、怖いほどだった。
彼は低く言った。
「誤作動ではない」
白金の魔力が、彼の指先で冷たく灯っていた。




