第30話 英雄役には向いていない
大講堂の空気は、朝から浮き立っていた。
高い天井から吊るされた魔力灯が、舞台の上へ白金と淡青の光を落としている。古い梁には災厄忌用の飾り布が掛けられ、黒い花を模した布飾りと、白金の剣を象った細工が交互に揺れていた。舞台袖には衣装掛けが並び、英雄役の白い外套、模造聖剣、黒い災厄役の外套、代用の仮面、民衆役の薄布が雑然と吊られている。
床には、聖魔法演舞用の白金の魔法陣が薄く描かれていた。
まだ起動していないのに、そこだけ空気が澄んで見える。舞台奥には黒い布で覆われた背景幕があり、魔具科の生徒たちが照明角度を調整していた。古い木材の匂い、幕の埃っぽさ、魔力炉の金属臭、衣装に染みついた香油の匂いが混ざっている。
ノア・クロウは舞台袖で腕を組み、その光景を眺めていた。
「災厄忌って、準備だけ見ると普通に学園祭っぽいんだよな。題材が命日じゃなな。題材が命日じゃければ」
隣でルカが魔具箱を閉めながら言った。
「言い方」
「命日を舞台化する側にも少しは言ってやれ」
「俺は魔具係だからな。倫理より照明の角度を任されてる」
「人類、分業すると責任感が薄まる」
「急に重いこと言うな」
ノアは肩をすくめた。
黒魔法科代表としての協力、という名目で、ノアは今日の予行演習に呼ばれていた。担当は黒い霧の演出調整。災厄登場時に床から黒い霧を這わせる。それだけなら簡単だ。黒魔法をほんの薄く広げ、舞台装置の煙に輪郭を与えればいい。
問題は、何を演出しているかだった。
黒い災厄。
世界を壊した怪物。
救国の英雄に討たれる悪。
それを、ノアの黒魔法で飾る。
なかなかいい趣味をしている。よくない意味で。
舞台中央では、劇科の生徒たちが台詞の確認をしていた。民衆役の女子生徒が悲鳴の練習をし、黒い災厄役の男子生徒が外套の裾を踏んでよろけ、周囲から笑いが起こる。聖魔法科の数人は白金の光で演舞用の線を空中に描き、その横で教師が手順を確認していた。
誰も悪気はない。
だから、余計にたちが悪い。
ノアは舞台袖の椅子に置かれた黒い外套へ視線をやった。仮面は今、魔具科の検査台へ回されている。代用の仮面が置かれているが、見た目は少し安っぽい。問題の仮面にあった古い紋章は、今は見えない。けれど、ノアの指先にはまだ痺れの名残があった。
イリアス。
仮面の裏から呼ばれた名。
俺の名前じゃない。
そう言った。
そう言ったのに、伴侶首輪は反応した。
ノアは首元に触れそうになって、やめた。
見ている男がいるからだ。
少し離れた場所に、レオ・アステルレインが立っていた。
聖魔法科の代表演舞の打ち合わせで呼ばれているらしい。金髪碧眼、白と金の制服、すらりとした長身。舞台上の魔力灯より目立つ。本人にそのつもりがないのがまた腹立たしい。存在が舞台装置に勝つな。生身の発光体か。いや、発光はしていない。顔と雰囲気で光るな。
聖魔法科の生徒たちは、レオを囲んでいた。
「アステルレイン様、やっぱり英雄役もお願いできませんか」
「今の代役だと、どうしても立ち姿が弱くて」
「一場面だけでも。最後の討伐場面で聖剣を掲げるところだけなら」
「聖魔法科代表演舞とつなげられますし、絶対に映えます」
レオは、いつものように穏やかに微笑んでいた。
「僕は英雄役には向いていません」
「そんなことないですよ」
「見た目も魔法も、セラフィード役そのものじゃないですか」
「立ち居振る舞いも綺麗ですし」
「むしろアステルレイン様以外に誰がいるのって感じです」
周囲の声は明るい。
好意的で、期待に満ちている。
誰も、レオの目が笑っていないことに気づかない。
ノアは舞台袖から声を投げた。
「王子様、舞台映えは保証するぞ」
レオの視線がノアへ向いた。
ほんの一瞬、白金の光が冷えたように感じた。
「僕は英雄役には向いていない」
「謙遜に聞こえないな」
「向いていない」
同じ言葉だった。
けれど、二度目の声は静かに冷えていた。
ノアは、それ以上茶化せなかった。
レオの声には、礼儀正しさの下に硬い拒絶があった。英雄と呼ばれることへの拒絶。セラフィードとして立たされることへの拒絶。舞台上で、愛した男を討つ役をもう一度演じさせられることへの拒絶。
ノアは視線を外した。
聖魔法科の生徒たちは気まずそうに笑った。
「あ、えっと、無理なら大丈夫です」
「でも、本当に似合うと思っただけで」
「すみません、しつこく言って」
レオは頭を下げた。
「気にしないでください。演舞の調整は予定通り手伝います」
断り方は完璧だった。
完璧すぎて、逃げ道がなかった。
舞台監督役の上級生が手を叩いた。
「それじゃ、通し稽古始めます! 照明、魔具、聖魔法演舞班、位置確認してください。黒魔法演出は災厄登場場面と討伐直前の二箇所でお願いします」
ノアは片手を上げた。
「はいはい、黒煙係入りまーす」
ルカが横から小声で言う。
「黒煙係、雑に聞こえるけどかなり重要だぞ」
「重要な煙。出世したな、俺の黒魔法」
「本番は暴れさせるなよ」
「失礼だな。俺は品行方正な黒魔法科新入生だぞ」
「品行方正な奴は自分でそう言わない」
「言った者勝ち」
舞台の魔力灯が落ち、客席側が暗くなる。
大講堂の空気が変わった。
先ほどまで雑然としていた生徒たちの声が少しずつ収まり、舞台だけが光を受ける。緞帳代わりの古い幕が左右へ引かれ、英雄劇の読み合わせが始まった。
語り役の生徒が、朗々と声を上げる。
「かつて、世界は黒い災厄によって闇に沈んだ。王国は焼かれ、民は嘆き、祈りは黒い花に呑まれた」
ノアは舞台袖で指先を軽く振った。
黒い霧が、床の端から薄く流れる。
低く、冷たく、光を吸う霧。
生徒たちが小さく感嘆する気配があった。
舞台の上では、民衆役が膝をつき、黒い災厄役が黒い外套をまとって現れる。代用仮面のせいで少し迫力は落ちるが、舞台灯と黒い霧が補っていた。
黒い災厄役の生徒が、台本を読み上げる。
「祈れ。叫べ。お前たちの声など、すべて黒に沈めてやろう」
ノアは眉を上げた。
「台詞がだいぶ元気」
ルカが肘で小突いた。
「静かに」
「はいはい」
語り役が続ける。
「その時、白金の光をまといし救国の英雄セラフィードが立ち上がった。英雄は聖剣を掲げ、黒き災厄へ告げる」
代役の英雄役が前へ出る。
白い外套を羽織った男子生徒だった。真面目な顔をしている。悪くはない。けれど周囲がレオを推した理由は分かってしまう。立ち姿、魔法の気配、白金の光との馴染み方。その全部が、レオとは違う。
代役の生徒が台詞を読む。
「黒き災厄よ。お前の罪に救いはない。世界を汚した悪しき魂を、僕が聖なる光で討ち滅ぼす」
赤い糸が、強く震えた。
ノアの首輪が熱を持つ。
喉の奥が詰まった。
胸の内側へ圧が落ちる。瞳孔がわずかに開き、舞台灯が滲む。黒い霧を出していた指先が、一瞬だけ乱れた。
ノアは息を止める。
声を出さないようにした。
だが、短い呻きが漏れた。
「っ……」
小さな音だった。
周囲には聞こえない。
しかし、レオには聞こえた。
聞こえたどころか、魂糸が拾った。ノアの喉の震え、首輪の熱、胸の圧、ほんの一瞬開いた瞳孔。全部が赤い糸を通じて伝わった。
舞台袖の空気が、薄く閉じる。
ノアはすぐに気づいた。
音が遠くなる。
舞台上の台詞も、衣擦れも、魔力灯の唸りも、すべて一枚隔てられたように遠ざかる。白金の透明な結界が、ノアの周囲だけを静かに包んでいた。
遮音結界。
レオが張った。
ノアは横を見た。
レオは少し離れた場所にいるはずだった。けれど、白金の糸だけがこちらへ届いている。視線も。碧い目は舞台を見ていない。ノアを見ている。
ノアは低く言った。
「また閉じたな」
声は結界の内側にだけ落ちた。
レオは近づいてきた。
「君の声を、舞台に渡したくない」
「舞台って何だよ。さっきの、ただの呻きだろ」
「君の声だよ」
「所有物みたいに言うな」
「違う」
「違わない顔してる」
レオは答えなかった。
白金の結界は、ノアの声だけを拾っていた。周囲には漏れない。舞台上の生徒たちは気づかない。劇は続いている。英雄役の台詞が進み、黒い災厄役が嘲笑し、民衆が祈る。
その全部が、ノアの外側で進んでいる。
閉じられている。
守られているのか、囲われているのか、もう分かりにくい。
いや、分かっている。
両方だ。
だいたいこの男のやることは両方でできている。愛と管理、保護と独占、心配と監視。二つずつ混ぜるな。人間には処理しきれない。人類の情緒処理能力を何だと思っている。
ノアは首元を押さえた。
熱はまだ残っている。
重くはない。けれど、呼吸を浅くするには十分だった。
「今の台詞、史実なのか?」
ノアは舞台へ視線を戻しながら言った。
レオの顔がわずかに硬くなる。
「違う」
「やっぱり」
「セラフィードは、あんな言葉は言っていない」
声が低かった。
静かだったが、冷えていた。
ノアは薄く笑う。
「英雄譚、盛るねえ」
「都合よく書き換えられている」
「英雄は悪を討つ。悪に救いはない。分かりやすいからな」
「分かりやすくするために、全部削っている」
「お前が言うと重い」
レオは舞台を見た。
白金の魔力が、指先でかすかに震えている。
「セラフィードは、最後まで助けを求めろと言った」
ノアの喉が、また詰まった。
助けを求めろ。
今度こそ言え。
僕に縋れ。
助けてくれと、言え。
記憶ではない。
そう言いたい。
けれど、声の形を身体が知っている。
ノアは笑った。
「その台詞は、劇に向かないな」
「どうして」
「救国の英雄が悪役に縋れって叫ぶ劇、観客が困る」
「困ればいい」
レオの声が低い。
ノアは横目で見た。
「王子様、だいぶ本音が漏れてる」
「今日は抑えるのが難しい」
「正直すぎるのも問題だぞ」
「君が軽くするから」
「俺のせい?」
「半分」
「残り半分は」
「僕のせい」
「珍しく公平」
舞台上で、討伐場面の稽古が始まった。
英雄役が模造聖剣を掲げる。聖魔法科の演舞班が白金の光を補助し、黒い災厄役の足元へノアの黒い霧が求められる。ノアは結界の中で息を整え、指先を動かした。
黒い霧が舞台へ流れる。
結界の内側からでも、魔法は届く。
舞台床を這い、災厄役の外套の裾を覆う。白金の光と黒い霧が重なる。綺麗だった。あまりに綺麗で、胸が悪くなる。
英雄役が台詞を読む。
「聖なる光よ、黒き災厄を討て!」
赤い糸がまた震えた。
ノアは今度は声を出さなかった。
唇を噛み、喉の奥の呻きを押し込める。首輪が熱い。胸の圧がある。瞳孔が少し開いたまま戻りにくい。だが、倒れない。崩れない。こんな舞台稽古ごときで崩れてたまるか。
レオの視線が痛い。
ノアは軽く睨み返した。
「見るな。黒煙係は業務中ですー」
「声が苦しそう」
「声出してないだろ」
「出していなくても分かる」
「ほんと最悪な特技」
レオは結界を保ったまま、ノアの喉元へ触れない距離で白金の光を流した。
首輪の熱が少しだけ下がる。
ノアは文句を言おうとして、喉が楽になったせいで余計に腹が立った。効くな。いちいち効くな。文句の足場が崩れる。
「勝手にケアするな」
「倒れないように」
「倒れない」
「知っている」
「じゃあ何で」
「君が立っているために、僕が何もしない理由にはならない」
「理屈が重い」
「うん」
「うんじゃない」
劇の討伐場面が終わる。
黒い災厄役が倒れ、白金の光が舞台を満たす。周囲の生徒たちが拍手をした。まだ稽古なのに、達成感があるらしい。演出としては成功だ。黒い霧も、白金の光も、舞台効果としてよく映えている。
ノアは舞台を見た。
倒れる災厄役。
剣を掲げる英雄役。
拍手。
祝福。
歓声。
どこかで見た光景の形だけを、明るく整え直したもの。
ノアは静かに息を吐いた。
「悪趣味だけど、舞台映えはするな」
レオは答えなかった。
遮音結界は、まだ解かれていない。
ノアは横目で言った。
「もう終わったぞ。閉じたままにするな」
「少し待って」
「何を」
「君の声が戻るまで」
「声、出してないって」
「戻っていない」
ノアは軽く笑った。
笑い声は、確かに少し掠れていた。
レオの顔が曇る。
「ほら」
「嬉しそうにするな」
「嬉しくない」
「じゃあその顔やめろ」
「無理だと思う」
「最近それ多いな」
レオはようやく結界を解いた。
大講堂の音が一気に戻ってくる。拍手、話し声、魔力灯の唸り、衣装が擦れる音。閉じられていた耳が急に開いたようで、少しだけ眩暈がした。
ノアは何でもない顔をした。
劇科の上級生が駆け寄ってくる。
「黒い霧、すごくよかった! 本番もあの感じでお願いできる?」
「本番まで俺が黒煙係として生きてたらな」
「縁起悪いこと言わないで」
「災厄忌で縁起を気にするの面白いな」
上級生は困ったように笑った。
その後ろで、舞台監督が声を上げた。
「最後に魔法陣の確認をします! 全員、舞台中央を空けてください!」
聖魔法演舞の魔法陣とは別に、舞台中央には黒い円形の装飾陣が描かれていた。災厄が倒れる場面で、黒い霧を吸い込むための演出用魔法陣だと説明されていたものだ。
ノアはそれを見た。
違和感がある。
描かれていた時には気づかなかった。だが、今は黒い霧を何度も流したせいか、舞台床の魔力の流れが少しだけ見える。あの円形の奥に、別の線が隠れている。
黒魔法科のものではない。
魔具科の演出用でもない。
聖魔法科の演舞陣でもない。
ノアの首輪が熱を持つ。
「レオ」
低く呼ぶと、レオもすでに気づいていた。
白金の魔力が指先に灯る。
「下がって」
「俺に言うな。舞台上の連中に言え」
言い終わる前に、魔法陣が勝手に起動した。
黒い線が、舞台床から浮かび上がる。
照明ではない。
ノアの黒魔法でもない。
黒い円は一瞬で広がり、白金に似せた薄い光をまとった。大講堂の空気が凍る。生徒たちの声が途切れる。舞台上の民衆役が動きを止め、英雄役が模造聖剣を握ったまま固まった。
魔法陣の中央に、古い文字が浮かぶ。
それは、ノアの喉の奥へ直接響いた。
大講堂全体にも、低く、冷たく、確かに聞こえた。
「イリアス・ノクスヴェルト」
誰も動かなかった。
ノアの指先から、温度が消えた。
レオの赤い糸が、張り裂けそうに震えた。




