第29話 仮面の裏の名
黒い災厄役の仮面は、ノア・クロウの指先で静かに冷えていた。
大講堂の舞台裏は、昼間の光から切り離されたように薄暗い。舞台の上では劇科の生徒たちが台詞合わせを続けている。聖魔法科の演舞班が白金の魔法陣を床へ描き、魔具科の生徒が照明用の魔力炉を調整し、舞台袖では衣装係が黒い外套の裾を直していた。布が擦れる音、木箱を動かす音、魔力灯の低い唸り、誰かの笑い声。
その全部が、急に遠くなった。
仮面の裏から、声がした。
「イリアス」
耳ではない。
舞台裏の空気を震わせたわけでもない。
仮面の内側に刻まれた黒い紋章が、ノアの指先から伴侶首輪へ、伴侶首輪から喉の奥へ、直接その名を押し込んできた。
ノアの指が止まる。
喉が詰まった。
首元の赤い輪が、じわりと熱を持つ。赤い糸が張り詰める。魂の奥を細い針で引かれたような感覚。黒い仮面はただの小道具の顔をして、ノアの認めていない場所へ手を伸ばしてくる。
イリアス。
その名を呼ばれると、身体が先に反応する。
否定するより早く、喉が熱くなる。
忘れたふりをするより早く、胸の奥が軋む。
ノアは、唇の端だけを上げた。
「仮面に名前呼ばれるとか、学園の備品ホラー強すぎ」
声は軽かった。
軽くした。
だが、いつもの軽口よりわずかに遅れた。その遅れを、レオ・アステルレインが聞き逃すはずがなかった。
舞台袖の少し離れた場所で、白金の魔力が灯る。
レオは即座に振り返っていた。
碧い目が、ノアの手の中の仮面を捉える。大講堂のざわめきの中で、レオだけが別の空気をまとっていた。穏やかな顔。整った立ち姿。けれど、その表情から温度が消えている。
彼には声そのものは聞こえていないはずだ。
それでも、赤い糸を通じて異常が伝わったのだろう。ノアの喉の詰まり、伴侶首輪の熱、指先の硬直、声が軽くなりすぎた一瞬。それら全部が、レオへ渡っている。
便利すぎて腹が立つ。
魂糸の情報共有、そろそろ解約したい。契約解除窓口はどこだ。たぶん目の前の王子様が握り潰している。最悪だ。
レオが近づいてくる。
「ノア」
「はいはい、無事ですー。備品に呼ばれただけ」
「それを渡して」
レオの手が伸びる。
ノアは仮面を後ろへ避けた。
「だから勝手に没収するなって」
「これは君を呼んだ」
「俺の名前じゃない」
レオの目がわずかに細くなる。
声は穏やかなままだった。
「君が認めない名前だ」
ノアの中で、何かが冷えた。
大講堂の音が戻ってくる。生徒たちの声。魔力炉の唸り。衣装係が針箱を閉じる音。舞台の上で英雄役の代役が台詞を読み上げる声。
だが、ノアとレオの周囲だけが、少しだけ静かだった。
ノアは仮面を握り直した。
黒い仮面の裏に刻まれた紋章が、指先へ冷たく触れる。黒災忌会の黒い花とも違う。英雄教会の紋とも違う。もっと古い。もっと湿っている。黒魔導書の頁の残響とも完全には重ならない。
同盟儀式の床に仕込まれた、あの偽装波長に近い。
聖魔法に似せた黒。
白金の形を被った汚れ。
ノアは喉の奥で息を整えた。
「認めないも何も、俺はノア・クロウだぞ。黒魔法科の平民新入生。災厄忌の便利黒煙係にされかけてる、かわいそうな優良生徒」
「優良生徒は夜中に地下書庫へ入らない」
「そこ掘り返す? 王子様も共犯だろ」
「君だけを責めていない」
「俺も俺を褒めてない」
ノアは仮面を見下ろした。
黒い表面は、不気味なほど静かだ。ついさっき名前を呼んだとは思えない。口元は悪役らしく歪んでいる。目の穴は細く、こちらを見上げているようにも見えた。
舞台小道具に見られている気分になるとは、人生いよいよ終わりである。
いや、まだ終わらない。終わってたまるか。
ノアは指先に黒い霧を集めた。
仮面の裏の紋章を、軽くなぞる。
すぐに伴侶首輪が熱を持った。
「ノア」
レオの声が低くなる。
ノアは仮面を見たまま答えた。
「調べなきゃ分からないだろ」
「君を使って調べる必要はない」
「俺のことだろ」
「だから嫌なんだ」
白金の光が、レオの指先に濃く灯る。
ノアは、その言い方に一瞬だけ黙った。
だから嫌なんだ。
その声には怒りがあった。だが、それ以上に恐怖があった。ノアが自分に関わるものを自分で調べようとするたび、レオはその先に別の光景を見る。黒魔導書へ手を伸ばしたイリアス。助けを求めなかった男。世界を焼き、一人で終わりへ向かった伴侶。
知っている。
分かる。
分かってしまうから腹が立つ。
「俺が俺のこと調べちゃ駄目って、かなり無茶言ってるぞ」
「駄目とは言っていない」
「止める気満々の顔で言うな」
「僕が調べる」
「お前が隠すから信用ならない」
レオは黙った。
その沈黙が答えだった。
ノアは仮面へ再び黒魔法を流した。
ごく薄く。
舞台上で使った黒い霧よりさらに細い。紋章の溝へ入り込ませるだけの魔力。黒い霧が仮面の裏を這い、刻まれた線へ触れる。
瞬間、指先に痺れが走った。
「っ……」
短い呻きが喉の奥で潰れる。
黒い痺れは、爪の下から神経へ入ってくるようだった。指先が冷える。皮膚の内側を黒い糸で引かれる。首元の伴侶首輪が熱を増し、喉が細く詰まる。
瞳孔が開く。
舞台裏の魔力灯が、少し滲んだ。
黒い仮面の紋章が、赤黒い光を帯びる。
そこに、古い術式の層が見えた。
黒災忌会の黒い花より古い。
英雄教会の聖印より深い。
黒魔導書の頁というより、それを編む前に使われた糸のような術式。王家の血。誘導。偽装波長。外部から儀式へ流し込むための、汚れた回路。
ノアは息を呑んだ。
「これ……」
レオが一歩踏み込んだ。
「離して」
「待て」
「離して」
「あと少し」
「ノア」
「これ、同盟儀式の……っ」
言いかけた瞬間、仮面の裏の紋章が強く反応した。
喉の奥へ黒い声が刺さる。
イリアス。
戻れ。
災厄。
ノアの首輪が熱を持ち、赤い糸が強く張る。魂糸がノアの声の揺れを拾い、レオへ叩きつけるように伝えた。
レオの白金の光が、ノアの手ごと仮面を包んだ。
焼かない。
砕かない。
だが、黒い紋章とノアの指先の間へ割って入る。
痺れが途中で断ち切られた。
ノアの指が反射的に震える。
仮面が落ちかけた。
レオがそれを受け止める。
そのまま、ノアの手から奪おうとした。
ノアは睨んだ。
「勝手に持ってくな」
「危険だ」
「だから調べるんだろ」
「君に触れる必要はない」
「俺に触れてるんだよ、もう」
「だから嫌なんだ」
また、それ。
ノアは息を吐いた。
喉が少し痛い。首輪はまだ熱い。指先には黒い痺れが残っている。軽度ではない。けれど崩れるほどでもない。中途半端に不快で、中途半端に痛い。いちばん腹立つ種類の異常だ。
舞台袖の数人が、こちらを見ていた。
異変に気づいたらしい。
ルカが工具箱を置いて近づいてくる。
「ノア? 大丈夫か?」
ノアはすぐ笑った。
「備品の自己主張が強くてびっくりしただけ」
「仮面、何かあった?」
「多分、保管状態が悪い。呪われてるかもな」
「冗談に聞こえないからやめろ」
「俺も今、冗談かどうか迷ってる」
劇科の上級生も慌てて来た。
「仮面に不具合?」
レオが先に答えた。
「この仮面は使わない方がいいと思います」
声音は穏やかだった。
だからこそ、周囲の生徒たちは強く反論しづらい。
だが、劇科の生徒は困った顔をした。
「でも、これ、災厄役の中心衣装なんです。古い型を使っているから雰囲気もあるし、舞台監督の先輩もこれで進めるって」
ノアは仮面を見た。
レオの手の中にある。
白金の光で包まれているせいか、今は静かだ。
だが、裏側の紋章は消えていない。
「誰が倉庫から出したんだ?」
ノアが聞くと、上級生は首を傾げた。
「衣装係の先輩です。でも、管理表には前から載っていました。災厄忌用の古い備品だって」
「管理表、見られる?」
「たぶん、準備室にあります」
「あとで見たい」
「え、うん。いいけど」
レオの視線がノアへ刺さった。
ノアは横目で見る。
「何」
「また自分で調べるつもりだね」
「俺のことだって言っただろ」
「君に触れるものだ」
「お前、そろそろ世界全部に嫉妬するぞ」
「君に触れるなら、するかもしれない」
即答だった。
ノアは顔をしかめた。
「引くほど重いな」
「知っている」
「知ってて言うな」
ルカが二人を見比べて、乾いた笑いを漏らした。
「とりあえず、仮面は一回調べた方がよさそうだな。魔具科の検査台を使えば、魔力反応くらいは見られる」
レオが言う。
「僕も立ち会います」
ノアが続ける。
「俺も」
「ノア」
「俺も」
レオの眉がわずかに動く。
ノアは低く言った。
「俺抜きで俺に関係あるものを管理するな」
赤い糸が震えた。
レオは、しばらく何も言わなかった。
大講堂のざわめきが、少しずつ戻ってくる。舞台の上では台詞合わせが再開し、魔力灯が調整され、聖魔法演舞の光が床を走る。けれど、ノアとレオの間だけは、まだ仮面の裏の声が残っていた。
レオは静かに言った。
「分かった。君も見る。ただし、僕の隣で」
「条件がつくと思った」
「つける」
「堂々としすぎ」
「君を一人にしない」
「それ、最近の口癖?」
「誓いに近い」
「やめろ。重くするな」
ノアは軽く返した。
だが、声の奥がまだ少し揺れていることを自覚していた。
イリアス。
仮面の裏から呼ばれた名。
俺の名前じゃない。
そう言った。
そう言ったのに、伴侶首輪は反応した。
喉が詰まった。
黒魔法回路が震えた。
身体だけが、否定に追いつかない。
最悪だ。
身体はもっと空気を読んでほしい。
放課後、魔具科の検査台で仮面を調べることになった。
だが、災厄忌の準備はそれで止まらない。
大講堂では、劇の通し稽古が続く。仮面は一時的に別の小道具で代用すると決まったが、舞台監督の上級生はどうしても本番までに原因を確認したがっていた。
日が傾き、大講堂の魔力灯が本番用の光に切り替わる頃、予行演習の声がかかった。
黒い外套を羽織った災厄役の生徒が、舞台袖で緊張した顔をしている。仮面はまだ検査前だというのに、代用品では演技の感覚が違うと言い出したらしい。衣装係が問題の仮面を手に持ち、ノアの方を見た。
「ノア君、さっき反応を見たよね。これ、少しだけつけてもらってもいい? 本当に危険か、黒魔法科の感覚で確認してほしくて」
大講堂の空気が、ほんの少しだけ止まった。
ノアは仮面を見た。
黒い表面。
歪んだ口元。
裏に刻まれた紋章。
前世名を呼んだ声。
首輪が熱を持つ。
赤い糸が、即座に強く張った。
レオが、ノアより先に言った。
「つけないで」
穏やかな声だった。
けれど、命令の形をしていた。
ノアはレオを見た。
「命令?」
レオの碧い目は、仮面だけを見ていなかった。
ノアの喉元。
指先。
声。
そして、その奥にある認めない名前まで見ていた。
レオは静かに言った。
「お願いに聞こえた?」




