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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第二章【災厄忌と声の檻】

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第28話 黒い災厄役



 大講堂の扉を開けた瞬間、古い布と木材と魔力灯の匂いがした。


 アルカディア魔法学院の大講堂は、普段の授業棟とはまるで違う空気を持っていた。白い石壁は同じでも、天井は高く、梁には古い金具が並び、正面には大きな舞台がある。舞台の奥には深い紺色の幕が吊られ、その上から災厄忌用の黒い布と白金の飾り紐が重ねられていた。端は少し擦り切れ、歴代の行事で使われてきた時間の匂いがする。


 舞台袖には、衣装掛けが並んでいた。


 白金の外套。


 模造聖剣。


 英雄役の冠飾り。


 黒い外套。


 黒い災厄の仮面。


 黒い布は、ただの布なのに、重く見えた。舞台照明の魔力灯がまだ完全には灯っていないせいか、外套の裾は床の影へ溶け込んでいる。仮面は衣装掛けの横の台に置かれ、黒い花弁のような装飾が目元に広がっていた。目の穴は細く、そこから覗く者を人ではなく別のものに見せるための形をしている。


 ノア・クロウは、その仮面を見て、口元を引き上げた。


「うわ、趣味が重い。これ被ったら肩まで凝りそう」


 隣にいたルカが、舞台装置の箱を抱えながら笑った。


「黒い災厄っぽくはあるな」


「褒められても嬉しくないやつ」


「俺が作ったわけじゃない」


「じゃあ誰がこんな陰気な仮面を用意したんだよ。製作者の心配した方がいい」


 舞台の中央では、劇科の生徒たちが台詞合わせをしていた。聖魔法科の上級生は、白金の光を細く伸ばし、演舞用の魔法陣を確認している。天井から吊られた魔力灯が一つずつ調整され、舞台の床に円形の光を落としていた。


 舞台裏の床には、黒い霧を模した薄布、魔力煙を出す魔具、模造の黒い花、倒れた王冠の小道具が並べられている。どれも丁寧に作られていた。丁寧すぎるほどに。悪意ではなく熱意で用意されたものは、時々悪意より刺さる。人類、善意で鋭利なものを磨くな。


 ノアは肩をすくめた。


 黒魔法科代表として協力。


 そう言われた時点で嫌な予感はしていたが、実際に大講堂へ来てみれば、予感よりずっと面倒だった。舞台装置の担当生徒たちは、ノアを見ると目を輝かせた。珍しい魔具を見る時の目と似ている。黒魔法科の平民首席。測定不能に近い黒魔法。黒い霧も、影も、魔力の濁りも自在に扱える便利な存在。


 便利。


 その言葉が、だいぶ気に入らない。


 劇科の上級生が、台本を抱えて駆け寄ってきた。


「ノア君、来てくれてありがとう。さっそくなんだけど、災厄が出現する場面で黒い霧を出せないかな。魔具でも出せるんだけど、本物の黒魔法の方が迫力があると思って」


 ノアはにっこり笑った。


「俺、便利な黒煙発生装置じゃないんだけど」


「あ、もちろん危険のない範囲で」


「その説明、余計に発生装置感あるな」


 相手は少し慌てた。


 悪い人ではないのだろう。むしろ真面目で、行事を成功させたいだけに見える。そういう善良さは扱いづらい。悪意なら蹴ればいい。善意は蹴るとこちらが悪者になる。面倒な設計だ。誰が作った、人間社会。


 別の生徒が、衣装掛けから黒い外套を持ち上げた。


「これ、災厄役の衣装なんだけど、黒魔法で裾に少し影をまとわせられる?」


「災厄役って響き、入学初月の平民に背負わせるには重すぎない?」


「え、あ、そういう意味じゃなくて」


「分かってる分かってる。大丈夫、俺の肩は丈夫ですー。たぶん」


 ノアは外套を見た。


 黒い。


 ただの黒ではない。照明の下でも沈む黒。歩いた時に、裾が床の影を拾うように作られている。黒い災厄を舞台上で大きく見せるための布。重さはそれほどないはずなのに、見ているだけで喉が少し詰まった。


 首元の伴侶首輪が、薄く熱を持つ。


 ノアはすぐに笑う。


「この外套、着たら絶対暑いだろ。災厄になる前に熱中症で倒れる」


 ルカが横から口を挟む。


「魔力冷却の裏地ついてるぞ」


「余計な機能が充実してる」


「舞台衣装としては高性能だな」


「災厄役、福利厚生だけいいの嫌だな」


 ノアが外套に指先を伸ばしかけた時、赤い糸が小さく震えた。


 振り返るまでもなく、レオ・アステルレインが来ているのが分かった。


 大講堂の入口近くに、レオは立っていた。聖魔法科の生徒数人に囲まれ、代表演舞の話をされている。白と金の制服、金髪碧眼、整った顔。大講堂に入っただけで、舞台照明より目立つ。実に腹立たしい発光体である。本人は光っていない。聖魔法科だからだろうか。いや、たぶん顔面の問題だ。世の中は残酷である。


 聖魔法科の上級生が、笑顔で言った。


「アステルレイン君、英雄役も本当に似合うと思うよ。演舞だけじゃなく、劇にも少し出ない?」


「救国の英雄セラフィード役なら、君しかいないって声もあるんだ」


「金髪碧眼で聖魔法の天才なんて、まさにぴったりだし」


 レオは穏やかに微笑んだ。


「僕は、英雄役には向いていません」


「またまた。謙遜しなくても」


「本当に似合うと思うけどな」


「立っているだけで雰囲気が出るよ」


 周囲は盛り上がっている。


 レオの目は笑っていなかった。


 ノアは外套の横から声を投げた。


「似合うぞ、英雄様」


 レオの視線が、まっすぐノアへ向いた。


 ほんの一瞬、空気が冷えた。


「やめて」


 声は低かった。


 普段の穏やかさから、ほんの少しだけ沈んだ声。怒鳴ってはいない。けれど、その一言には触れてはいけない場所を踏んだ時の硬さがあった。


 ノアは口を閉じた。


 周囲の生徒たちは、その変化をほとんど気づかない。気づいても、真面目な謙遜だと思ったのだろう。聖魔法科の上級生はなおも笑っている。


「照れてる?」


「本当に嫌なら無理には言わないけど、候補として考えておいて」


 レオは静かに頭を下げた。


「ありがとうございます。でも、僕は演舞の調整に集中します」


 断り方は礼儀正しかった。


 完璧だった。


 完璧すぎて、壁のようだった。


 ノアはそれを見て、軽く舌打ちしたい気持ちを飲み込んだ。自分で茶化しておいて何だが、レオの反応は思ったより深かった。英雄役。セラフィード。救国。討伐。愛した男を殺した日を、劇にする。その役を似合うと言われる。


 笑えない。


 笑えないのに、笑うしかない。


 それはノアも同じだった。


 劇科の上級生が、気を取り直すように台本を開いた。


「それで、災厄登場の場面なんだけど、黒い外套に合わせて、床から黒い霧が上がるようにしたいんだ。ノア君、危なくない範囲でできそう?」


「黒い霧だけならできる。人を呑んだり声を食ったりする機能はつけないから安心してくれ」


「声を食う?」


「冗談」


 ノアは指先に黒い魔力を集めた。


 大講堂の舞台床に、薄い黒い霧が広がる。低く、重く、床を撫でるように。魔具の煙よりずっと静かで、形がある。黒い花の影が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。生徒たちが感嘆の声を上げる。


「すごい」


「本当に黒い災厄みたいだ」


 その言葉で、首輪が熱を持つ。


 ノアは笑った。


「褒め言葉として受け取っていいのか、それ」


「ごめん、そういう意味じゃなくて」


「分かってる分かってる。俺、今日めちゃくちゃ分かりがいいので」


 声が軽い。


 軽すぎる。


 レオが遠くでこちらを見ている。


 魂糸が、ノアの声の軽さを拾っているのが分かった。嫌になるほど分かる。レオはこの声を覚える。災厄役と言われた時の軽すぎる声。黒い霧を出した時の、茶化すためだけに明るくした声。台本を読む前から、すでに傷の形を測っている。


 ノアは、舞台床へ広げた黒い霧を指先で散らした。


「こんなもんでどう?」


「十分。むしろ本番ではもっと抑えた方がいいかも」


「災厄が控えめ演出。健全だな」


 ルカは魔具の調整箱を覗き込んでいた。


「この黒霧に魔具の照明合わせれば、かなり映えるぞ。ノア、もう一回出せる?」


「俺を煙幕係として酷使するつもりだな」


「技術協力だ」


「便利な言葉」


 ノアはもう一度、軽く黒い霧を出した。今度は影の輪郭を薄くし、舞台上で役者の足元に絡む程度に抑える。劇科の生徒たちは喜んだ。舞台照明担当も魔力灯の角度を変え、黒い霧に白金の光を重ねる。


 その光が、少しだけ嫌だった。


 黒い霧と白金の光。


 美しく重なるはずだったもの。


 かつては、同じ魔法陣の上で反発しなかったもの。


 今は舞台演出として、英雄が災厄を討つための効果になる。


 ノアは視線を外した。


 舞台袖の机に、台本が何冊も置かれている。


 そのうち一冊を、劇科の生徒がノアへ渡した。


「黒魔法演出の位置、ここに印をつけておいたから確認してもらえる?」


「はいはい、黒煙発生装置の作業指示書ね」


「だから、ごめんって」


「冗談だって。半分くらい」


 ノアは台本を開いた。


 頁には、災厄の登場場面、民の悲鳴、英雄の祈り、黒い災厄の嘲笑が書かれている。昼間読んだ簡略版より、舞台用の台詞はさらに飾られていた。


 黒い災厄は、狂った悪として描かれている。


 理由もなく世界を憎み、人々の命を弄び、救国の英雄の聖なる声を嘲る怪物。


 そこに迷いはない。


 罪悪感もない。


 最後の言葉も、ただの悪役の負け惜しみにされている。


 ノアは笑った。


「悪役、ずいぶん元気だな」


 声が軽すぎた。


 台本の文字が少し滲む。


 喉の奥が詰まる。


 首輪が熱い。


 しかし、膝が崩れるほどではない。重い反応は来ない。ただ、胸の奥に薄い圧が落ちる。瞳孔がわずかに開き、舞台灯が眩しく見えた。


 レオが近づいてくる気配がした。


 ノアは台本を閉じずに言った。


「来るなよ、管理者様。台本くらい自分で読める」


 レオは隣で足を止めた。


「声が変だった」


「舞台用の感想声ですー」


「違う」


「何でも分かる顔するな」


「分かる」


「そこは謙遜しろ」


 レオは台本へ視線を落とした。


 その頁を見て、表情が消える。


「読まなくていい」


「またそれ」


「これは、読まなくていい」


「俺が読むものまで管理対象?」


「うん」


「堂々と言うな」


「君を傷つけるものだから」


「傷つくかどうかも俺が決める」


「君は傷ついても笑う」


「便利な技だろ」


「嫌いだ」


 その声が、思ったより低かった。


 ノアは一瞬黙った。


 レオは台本を奪わなかった。昼間なら取ったかもしれない。今は、手を伸ばさない。ただ、ノアが持っている台本を見ている。ノアの手元と、喉元と、声の変化を見ている。


 それも十分に圧がある。


 ノアは台本を閉じた。


「はい、読書終了。満足?」


「少し」


「少し多いな」


 ルカが向こうから呼んだ。


「ノア、災厄の仮面も一回見てくれる? 魔力灯に反応する素材らしい」


「仮面まで俺の担当?」


「黒魔法に反応するか見たいだけ」


「便利な検査機扱いも追加。今日の俺、役職多いな」


 ノアは仮面の置かれた台へ向かった。


 レオもついてくる。


 ついてくるなと言う気力は、少しだけ減っていた。どうせ来る。言っても来る。ならもう歩幅だけ合わせておけばいい。慣れではない。諦めでもない。たぶん効率化だ。人間はこうやって檻の中で言い訳を覚える。嫌な進化である。


 災厄役の仮面は、近くで見るとさらに陰気だった。


 黒い表面に、赤黒い線が細く入っている。目元は鋭く、頬のあたりには黒い花のような模様。口元は笑っているように歪んでいる。舞台上で遠くから見れば、不気味で映えるだろう。


 ノアは鼻で笑った。


「悪役顔が露骨。もう少し控えめなデザインにしろよ」


 劇科の生徒が言う。


「古い資料を参考にしたらしいよ」


「古い資料はだいたい信用ならない」


「衣装係の先輩が、倉庫にあった古い型を使ったって」


「倉庫にあったものを疑わず使うな。そこから呪われるんだぞ」


「怖いこと言わないで」


「黒魔法科からの親切な忠告ですー」


 ノアは仮面の縁へ指を伸ばした。


 触れる直前、首輪が熱を持つ。


 レオの赤い糸も同時に震えた。


「ノア」


「触るだけ」


「待って」


「待つと面倒になる気配がする」


 ノアは仮面を持ち上げた。


 裏側が見えた。


 そこに、紋章が刻まれていた。


 三本の線が絡み、中央に小さな歪みを持つ黒い印。


 黒い花の紙片。


 地下書庫の黒い頁。


 同盟儀式の汚れ。


 台本の手書き文字。


 すべてに似た形。


 ノアの指が、止まった。


 仮面の裏から、声がした。


 耳ではない。


 指先から、首輪を通って、喉の奥へ直接滑り込む声。


「イリアス」


 ノアの呼吸が止まる。


 レオが即座に振り返った。


 白金の魔力が、指先に灯った。




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