第27話 災厄は、まだ死んでいない
夜の三〇七号室は、静かだった。
寮の廊下からは、もう足音も聞こえない。窓の外に沈む学院の中庭は暗く、噴水の水音だけが遠く細く続いている。魔力灯は落とされ、二つの寝台と机と小卓が、月明かりの中で輪郭だけを残していた。
向かいの寝台で、レオ・アステルレインは眠っているように見えた。
見えるだけだ。
ノア・クロウは、その事実をよく知っていた。
レオは眠っているふりがうまい。呼吸は規則正しく、寝具もほとんど乱さず、白い横顔は薄闇の中でも静かだ。けれど、赤い糸は完全には緩んでいない。ノアがわずかに動くたび、首元の伴侶首輪が、熱とも警告ともつかない細い感覚を返してくる。
眠っていない。
あるいは、眠っていてもこちらを聞いている。
どちらにしても厄介だった。
ノアは寝台から抜け出し、床へ足を下ろした。冷たい。夜の床は容赦がない。まるで人間の足裏から現実を押し込んでくるようだ。そういう仕事は頼んでいない。世界は余計な気遣いをする。
机の上には、災厄忌の台本が置かれていた。
昼間、レオが「読まなくていい」と閉じたものだ。結局、完全には隠さなかった。机に置いた。見える場所に。読ませたくないのか、読ませてもいいのか、罪悪感なのか、信用したいのか、何なのか分からない。レオはときどき、一番面倒な形で善良になる。
ノアは椅子に座り、台本を引き寄せた。
表紙には、白金の剣と黒い花が描かれている。その下に、小さな紋様。三本の線が絡むような模様。黒災忌会の紙片や、地下書庫の記録、同盟儀式の汚れに似ている。
印刷のはずなのに、そこだけ墨が沈んでいるように見えた。
首元が少し熱い。
ノアは息を吐いた。
「はいはい、反応しなくていいからな」
小さく呟いて、台本を開く。
昼間も読んだ。
救国の英雄。
黒い災厄。
民の嘆き。
聖なる剣。
悪役の嘲笑。
単純に整えられた歴史は、読み物としては分かりやすいのだろう。分かりやすくするために、余計な血や矛盾や沈黙を削り落としたのだ。人間は物語にするとき、都合の悪いものをよく捨てる。捨てられた側はたまったものではない。もっとも、捨てた側は忘れているので心底たちが悪い。
ノアは頁をめくった。
黒い災厄が世界を呪う。
英雄セラフィードがそれを討つ。
光が戻る。
鐘が鳴る。
人々が救われたと叫ぶ。
ノアの指が止まる。
最後の頁。
昼間見た歪められた台詞のさらに下に、文字があった。
印刷ではない。
手書きだった。
黒いインクのように見える。けれど、インクではない。乾いた黒い魔力が紙へ染み込み、文字の形に固まっている。
災厄は、まだ死んでいない。
赤い糸が激しく震えた。
首元の伴侶首輪が熱を持つ。今度の熱は、ただの警告ではなかった。喉を内側から押さえるような、声の出口に黒い手をかけられたような熱。
ノアの呼吸が一瞬止まる。
瞳孔がわずかに開いた。
指先が冷える。
台本の紙を押さえる指の感覚が薄くなり、爪の下から冷たいものが入ってくるようだった。
向かいの寝台で、衣擦れがした。
レオが起きる。
当然のように。
ノアは、台本から目を離さないまま笑った。
「学園行事、思ったより本格派だな」
声は軽い。
軽くした。
けれど喉の奥は詰まっている。声の出口が熱で狭くなっている。伴侶首輪が赤く脈打ち、赤い糸がレオへ異常を伝えている。
レオは寝台から降りた。
足音はしない。
月明かりの中、白い寝衣の裾が揺れる。金髪は少し乱れている。だが、その顔から眠気は消えていた。碧い目は、台本を見ている。
笑わない。
「見せて」
声は穏やかだった。
穏やかなのに、冷えていた。
ノアは台本を少し横へずらした。
「勝手に没収するなよ、管理者様」
「君に触れたものは確認する」
「俺の所有権どうなってんの?」
「君の所有権は君にある」
「じゃあ台本を奪うな」
「台本は君じゃない」
「屁理屈の方向が嫌」
レオの指先に、白金の光が灯った。
ノアは台本を閉じず、逆に頁を押さえた。熱が指先から上がる。黒い手書き文字が、紙の上でほんの少し濡れたように光った。
レオの眉がわずかに動く。
「触れ続けないで」
「読んでる途中」
「もう読んだ」
「俺が決める」
「その文字は君を呼んでいる」
「最近、紙も本も花も俺を呼びすぎなんだよ。友達多いな、俺」
「笑わないで」
「笑わないと気持ち悪いんだよ」
ノアは言ってから、自分の声が掠れていることに気づいた。
レオも気づいた。
白金の光が強くなる。
台本の手書き文字から、黒い魔力が滲み出した。黒災忌会の紙片にあった黒とは違う。黒魔導書の断片記録から漏れた残響とも違う。もっと細く、もっと狡い。聖魔法に似せた輪郭を薄くまとっている。黒いのに、どこか白金に見せかけようとする歪み。
ノアは目を細めた。
嫌な気配だった。
前世の同盟儀式。
白い床に落ちた父王の血。
聖魔法に似せられた偽装波長。
外部術者による汚染。
あの記録の線が、台本の手書き文字に微かに重なる。
ノアは息を吸った。
喉が詰まる。
首輪が熱い。
胸の奥に圧が落ちる。
「……これ、黒災忌会と違うな」
レオの目が台本へ落ちる。
「分かる?」
「分かりたくないけど、分かる。あの黒い花より、もっと気持ち悪い」
「同盟儀式の術式に似ている」
その言葉で、部屋の空気がさらに冷えた。
ノアは台本から手を離さなかった。
「やっぱり?」
「うん」
「最悪だな。学園行事の台本から、前世の式場の汚れが出てくるとか、趣味が悪いにも限度がある」
「ノア」
「何」
「台本を置いて」
「嫌」
「手が冷えている」
「見て分かるの怖いな」
「糸で伝わっている」
「便利な監視装置め」
「今は必要だよ」
「出た、“今は”」
ノアは笑った。
笑った瞬間、手書き文字の黒が指先へ伸びた。墨のような筋が、紙から爪の端へ触れる。
伴侶首輪が強く熱を持つ。
「っ……」
短い呻きが漏れた。
ノアの指先が一瞬だけ動かなくなる。冷たい。黒い魔力が、皮膚へ入る前に赤い糸が反応する。魂糸が声の乱れを拾い、レオへ渡す。レオの顔から、さらに温度が消えた。
白金の光が台本の上へ降りる。
焼くのではない。
封じる。
黒い文字からノアの指先を引き離すように、白金の細い線が紙の表面を走った。手書き文字は、一瞬だけ抵抗するように滲む。黒い筋が、災厄という文字の周囲で震えた。
レオの声は静かだった。
「離して」
「だから命令口調」
「お願い」
「お願いの顔じゃない」
「お願いだよ、ノア」
ノアは、そこで指を離した。
負けたわけではない。
指先の冷えが不快だっただけだ。
そういうことにしておく。人間の自尊心はこういう雑な言い訳で何とか延命する。便利だ。あまり誇れないが。
レオは台本を引き寄せた。
ノアはすぐに言う。
「没収すんな」
「確認するだけ」
「返す?」
「危険がなければ」
「管理者様、判断基準が信用できない」
「君に触れた」
「紙だぞ」
「君に触れた」
二度目の声は、低かった。
怒っている。
台本に。
紙に。
文字に。
災厄という言葉に。
ノアへ触れたすべてへ。
レオの独占欲は、ついに物品にまで広がっていた。いや、すでに広がっていた気もする。本、紙片、声、呪い、行事。対象が増えすぎだ。どこまで行くのか。星に嫉妬し始めたら止めよう。止まるかは知らない。
レオは台本の手書き文字へ白金の光を重ねた。
文字の黒い魔力は、じわりと沈む。だが消えない。奥に残る。紙そのものへ染み込んでいるようだった。
レオの瞳が鋭くなる。
「黒災忌会の紙片とは違う」
「さっき言った」
「黒魔導書の残響とも違う」
「それも分かる」
「偽装している」
「何に」
「聖魔法に」
ノアは黙った。
喉の奥がまた詰まる。
偽装聖魔法。
同盟儀式。
父王殺害。
外部術者。
汚染。
繋がる。
嫌なほど、繋がっていく。
ノアは椅子の背にもたれた。
「……俺、災厄忌の台本読んでただけなんだけどな」
「うん」
「普通、眠れない夜に台本読んだら退屈して寝る流れじゃない?」
「この台本は普通じゃない」
「学院行事まで普通じゃないとか、もう何なら普通なんだよ」
レオは答えなかった。
ノアは指先を見た。
爪の端が、少し黒い。
昼間の黒い花の紙片とは違う。もっと細い。黒いのに、どこか白っぽく見せかけるような、嫌な色。
レオがその手へ視線を向ける。
「見せて」
「指先まで確認?」
「うん」
「もう隠さないな」
「隠しても君は怒る」
「隠さなくても怒るぞ」
「うん」
「その“うん”ほんと腹立つ」
ノアは手を差し出した。
レオは指先を取った。
丁寧に。
触れ方は柔らかい。だが、白金の光は冷たい。ノアの爪の端に残った黒い魔力を、少しずつ剥がしていく。ノアの喉がまた詰まる。台本の文字が、剥がされる瞬間に小さく震えた気がした。
耳元ではない。
紙の上でもない。
首輪の内側で、かすかに声がした。
死んでいない。
ノアは眉を寄せた。
レオの手が止まる。
「聞こえた?」
「……気のせい」
「ノア」
「聞こえた。満足?」
「何て」
「死んでいない、って」
レオの指先に、白金の光が強く灯った。
台本が机の上でわずかに震える。
ノアは息を吐いた。
「こっちは死んだ覚えも生き返った覚えもないんだけどな」
「君を災厄として呼んでいる」
「俺はノアだって何回言わせる気だろうな、世界」
「僕は聞いている」
「お前にだけ聞かれても困る」
「それでも聞く」
ノアは、それ以上言わなかった。
喉が少し痛む。
熱は引いてきたが、首輪の奥に黒い余韻が残っている。赤い糸はまだ震えている。魂糸はノアの声の乱れを拾い続けている。レオの白金の光がそれを包み、整え、押さえている。
部屋は静かだった。
窓の外の中庭は暗く、噴水の水音だけが遠い。
ノアは、ふと思った。
命日。
死んだ日。
それを祝われる。
舞台で再現される。
台詞を歪められる。
悪役として笑わせられる。
ノアはイリアスではない。
それでも、胸の奥に薄い嫌悪が沈んでいる。
人が死んだ日を、そんなふうに飾るな。
そう思ってしまう。
思ってしまった自分が腹立たしかった。
ノアはわざと軽く言った。
「なあ、俺が本当に災厄役やったら、演技指導できそうじゃない?」
レオの手が止まった。
「しなくていい」
「冗談」
「知っている」
「その顔やめろって」
「無理だと思う」
「最近、無理の自己申告が多いな」
「君のことだから」
「理由にするな」
レオはノアの指先から黒い魔力を抜き終えた。
それでも、手を離さない。
ノアは眉を上げる。
「終わったなら離せ」
「声がまだ少し掠れている」
「指先と声、関係ある?」
「ある」
「あるのかよ」
「君は嫌なものを見ると、喉が詰まる」
「観察記録を本人に報告するな。怖い」
レオは、ようやく手を離した。
台本は封魔紙に挟まれ、机の端へ置かれた。
ノアはそれを見て言った。
「返せよ」
「返す。ただし、今夜はもう読まないで」
「命令?」
「お願い」
「お願いにしては封魔紙の包み方が厳重」
「君が読もうとしたら分かる」
「つまり監視」
「うん」
「堂々とするな」
ノアはため息をついた。
掠れたため息だった。
レオは水を差し出した。
いつの間に用意したのか。
もう驚かない。驚きたくない。慣れたくもない。どれを選んでも面倒だ。水差しを見るたびに人生の選択肢がろくでもない方向へ増えるの、どうにかしてほしい。
ノアは杯を受け取った。
「台本読んだだけで喉ケアされる人生、濃いな」
「君の声が夜の間ずっと軽かった」
「声の報告書でも作ってる?」
「作れると思う」
「作るな」
水を飲む。
喉の熱が少し下がる。
レオの白金の光が、ごく薄く杯の水に混じっている。腹立つほど効く。喉が楽になる。声が少し戻る。
ノアは杯を返した。
「はい、返却。声もたぶん無事です」
「まだ確認している」
「だから声紋認証やめろ」
レオは少しだけ目を伏せた。
「君の声を、あの文字に渡したくない」
「台本相手に言う台詞じゃない」
「君を呼んだ」
「呼ばれてない。書かれてただけ」
「赤い糸が反応した」
「この糸、反応しすぎなんだよ。情緒不安定か」
「僕のせいもある」
「自覚あるなら落ち着け」
「努力する」
「うん、無理そう」
レオは否定しなかった。
その沈黙が、もう答えだった。
翌朝。
ノアは結局、ほとんど眠れなかった。
浅い眠りの中で、何度か黒い文字を見た。災厄は、まだ死んでいない。白金に似せた黒い波長。黒い花。台本の頁。舞台の上で笑う悪役。聖なる剣。歓声。鐘。
目覚めた時、喉は掠れていた。
当然のように、レオは水を渡した。
ノアは寝台の上でそれを見上げる。
「朝から給水係、本当に転職する?」
「君の喉が戻っていない」
「台本読んだだけで喉ケアされる人生、濃いな。昨日も言った気がするけど、濃いものは何度でも濃い」
「君の声が夜の間ずっと軽かった」
「夢の中まで聞くなよ」
「聞こえた」
「最悪」
ノアは水を受け取り、飲んだ。
喉が少し楽になる。
レオは、いつも通り首輪の熱を確認しようとしたが、ノアが目で止めると、今朝は手を出さなかった。出さなかっただけで、見てはいる。人間、見るだけでも圧はある。王子様はそこをそろそろ学んでほしい。多分学んでもやめない。腹立つ。
朝食後、中央棟へ向かう途中で、災厄忌の準備係に呼び止められた。
相手は劇科の上級生だった。腕に準備委員の腕章をつけ、片手に書類を抱えている。笑顔は明るい。悪気がない。悪気がない人間ほど、時に一番鋭く踏み込んでくる。世界の嫌な仕様である。
「ノア・クロウさんですよね?」
「はいはい、黒魔法科のノアですー。何か壊しました?」
「いえ、そうではなくて。災厄忌の演目で、黒魔法科代表として協力していただきたいんです」
ノアは瞬きをした。
レオの赤い糸が、隣で静かに震え始める。
上級生は書類を開いた。
「黒い災厄役の補助です。黒魔法演出の監修と、可能なら一部実演をお願いしたくて。クロウさん、黒魔法適性測定でかなり優秀だったと聞いていますし」
廊下の音が、少し遠くなった。
ノアは書類を見た。
黒い災厄役。
補助。
演出。
実演。
命日を祝う行事で、死んだ本人役の補助を頼まれる。
いや、本人ではない。
ノアはイリアスではない。
そう思った。
思ったのに、笑いが出た。
「命日イベントで本人役とか、学院は人の心をどこに置いてきたんだ?」
軽く言った。
軽くしすぎた。
隣で、レオの赤い糸が震えた。
強く。




