第26話 災厄忌の予告
朝の鐘が鳴り終わったあと、学院の空気は少しずつ騒がしくなっていった。
アルカディア魔法学院の中央掲示板には、青白い魔力光をまとった告知紙が何枚も浮かび上がっていた。授業変更、寮の清掃当番、図書室の閉架整理。そうした普段の知らせの中央に、ひときわ大きなポスターが貼られている。
黒と白を基調にした紙だった。
黒い花。
白金の剣。
その中央に、古風な文字で大きく書かれている。
災厄忌。
黒い災厄が救国の英雄に討たれた日を記念する、学院の年中行事。歴史学科の展示、聖魔法科の演舞、劇科有志による英雄劇、黒魔法科協力展示。そこに並ぶ文字は、どれも妙に華やかで、祭りの準備を告げる紙らしく飾られていた。
ノア・クロウは、そのポスターを見上げていた。
まだ朝の光が残る廊下に、生徒たちの声が満ちている。掲示板の周囲には、早くも人だかりができていた。下級生は目を輝かせ、上級生は去年の演目がどうだったかを話している。聖魔法科の生徒たちは代表演舞の話で盛り上がり、劇に出る生徒は役の選考について噂していた。
楽しそうだった。
楽しそうで、ひどく遠かった。
ノアはポスターの文字を眺めた。
救国の英雄セラフィード。
黒い災厄討伐劇。
聖魔法科代表演舞。
黒魔法科協力展示。
黒い災厄の討伐を祝う行事。
命日を、行事にしている。
自分のものではない。
そう言うのは簡単だった。
ノアはイリアスではない。黒い災厄ではない。死んだ王子でもない。今ここにいるのは、黒魔法科の平民新入生で、制服を着崩し、朝から首輪の熱に文句を言い、魔具工房の匂いを気に入り、友人に菓子をねだる程度には普通に今を生きているノア・クロウだ。
だが、首元の伴侶首輪は静かに熱を持っていた。
赤い糸が、掲示板の文字へ反応している。
英雄。
災厄。
討伐。
その言葉が廊下に並ぶたび、喉の奥へ細い熱が刺さる。
ノアは笑った。
「俺、黒魔法科として災厄役に推薦されそう」
声は軽かった。
軽くした。
隣にいたルカが、腕を組んでポスターを見上げながら笑った。
「似合いすぎて審査員が困るな」
「褒めてる?」
「舞台映えはすると思う」
「魔具科、感想が率直すぎる」
「黒い霧とか出せるだろ。演出要らずじゃん」
「本人に災厄役させる学院、さすがに趣味悪すぎるだろ」
ノアは肩をすくめた。
その横で、アイリス・ミルナーは笑わなかった。
治癒魔法科の制服をきちんと着た彼女は、ポスターとノアの横顔を交互に見ていた。薄桃色の瞳には、不安が浮かんでいる。黒い花の紙片のことを直接知っているわけではない。地下書庫の頁も、首輪の内側から響いた声も知らない。それでも、何かがおかしいことは感じているのだろう。
ノアはアイリスへ軽く手を振った。
「大丈夫。学院行事で殺される予定はまだない」
アイリスの顔がさらに曇る。
「冗談にしないでください」
「あ、はい。真面目に怒られた」
ルカがノアを小突こうとして、途中で手を止めた。
その視線が横へ動く。
レオ・アステルレインが、少し離れた場所に立っていた。
ポスターを見ている。
動かない。
白と金の制服。金髪。碧眼。朝の光の中で、誰が見ても完璧な聖魔法科の王子様だった。周囲の生徒たちも、その姿に気づき始めている。
誰かが小さく囁いた。
「アステルレイン様なら、英雄役にぴったりですね」
別の生徒が頷く。
「本当に。救国の英雄そのものみたい」
「聖魔法科代表演舞も、殿下が出られるのかな」
レオは、ゆっくり視線を動かした。
声をかけた生徒たちへ、いつもの穏やかな顔を向ける。乱れのない微笑み。礼儀正しい声。遠くから見れば、完璧だった。
「僕は、英雄役には向いていません」
生徒たちは謙遜だと受け取った。
「またまた」
「ご本人がそう言っても、絶対に似合いますよ」
「今年の演舞、楽しみです」
レオは何も言わなかった。
微笑みだけを返した。
だが、ノアには分かった。
目が笑っていない。
ノアは横から口を挟んだ。
「王子様、謙遜が上品すぎて嫌味に聞こえるぞ」
レオの視線が、ようやくノアへ向く。
その瞬間、首元の赤い糸が震えた。
ノアは表情を変えなかった。
ルカが空気を変えるように笑った。
「でも、ノアとレオが劇に出たら目立ちそうだよな」
「やめろ。俺は大道具係がいい。黒い霧出す係。台詞なしで頼む」
「声、通るのにもったいない」
アイリスが小さく言って、すぐに口を押さえた。
ノアは一瞬だけ目を瞬いた。
それから、いつも通り笑った。
「治癒魔法科まで俺の声に注目し始めた。王子様の監視が増えるからやめとけ」
レオの顔が、ほんの少しだけ動いた。
ルカは「監視?」と首を傾げたが、ノアは答えなかった。答える前に、掲示板の横で教師が災厄忌の準備委員募集について説明を始めたからだ。
廊下はいっそう騒がしくなる。
英雄劇。
演舞。
展示。
討伐再現。
生徒たちの声が、楽しげにそれらの言葉を行き交わせる。
ノアは、その明るさに少しだけ目を細めた。
たぶん、悪気はない。
彼らにとって黒い災厄は歴史の中の怪物で、救国の英雄は聖なる物語で、災厄忌は学院行事だ。誰かの痛みではない。誰かの命日でもない。まして、その場に当人がいるなど思うはずもない。
だから、笑える。
楽しみにできる。
そういうものだ。
人間は、遠い悲劇を祭りに変える。
たぶん、そうしなければ忘れられないものもあるのだろう。問題は、忘れられなかった側がここにいることだ。世界はだいたい配慮が足りない。いや、足りたことがあったか怪しい。
レオは静かに掲示板を見ていた。
ノアは、その横顔を見ないふりをした。
昼を過ぎる頃には、学院中が災厄忌の話で満ちていた。
食堂の壁にも小さな告知が貼られ、教室の黒板横には準備日程が掲示され、図書室では歴史資料の特設棚が作られ始めていた。聖魔法科では代表演舞の候補者が噂され、劇科の生徒たちは英雄役と災厄役の選考について声を弾ませている。
黒魔法科の教室にも、災厄忌の協力展示についての知らせが来た。
黒魔法史。
禁書管理。
黒属性魔力と封印術。
その説明を聞きながら、ノアは机に頬杖をついていた。
セドリック・バロウズは教卓に立ち、いつも通り淡々と説明している。感情を表に出さない教師だが、今日は少しだけ視線が鋭かった。ノアを見る回数が多い。
「黒魔法科は、歴史展示の一部に資料協力を行う。危険な術式は扱わない。実演も基礎魔力制御の範囲に限る」
マルクが小声で言った。
「災厄忌、毎年けっこう派手なんだろ」
サナが腕を組む。
「聖魔法科が主役みたいになるから嫌い」
眠そうな少年がぽつりと言った。
「黒魔法科、だいたい悪役説明の横に置かれる」
「最悪じゃん」
ノアは笑った。
「協力展示って名前の晒し台か。学院、言い換えが上手」
セドリックの視線が飛んできた。
「ノア」
「はい、真面目に聞いてますー」
「今年は、例年より注意しろ」
「俺に言ってます?」
「お前にも言っている」
教室の空気が少しだけ変わった。
ノアは軽く肩をすくめる。
「人気者はつらいな」
声は明るかった。
明るすぎた。
セドリックの目が細くなる。だが、それ以上は言わなかった。
放課後、ノアは中央棟の廊下でレオに捕まった。
捕まった、という表現が正しいかは怪しい。ただ、レオが当然のようにそこにいて、ノアが歩いていく先に立っていた。それだけだ。だが結果として進路を塞がれているので、だいたい捕まったで合っている。人類、結果がすべてと言うには雑だが、こういう時だけ便利な言葉だ。
ノアは立ち止まった。
「待ち伏せ?」
「君がここを通ると思った」
「もう驚かない自分が嫌だな」
「嫌なら、予定を教えて」
「教えなくても把握してるだろ」
「君の口から聞きたい」
「その台詞、ほんと面倒」
レオは少しだけ目を伏せた。
「話したい」
「災厄忌?」
「うん」
「王子様、顔が深刻すぎる。学園行事だぞ」
「君にとっては違う」
「俺にとっても学園行事ですー」
ノアは廊下の窓際へ歩いた。
外の中庭では、早くも数人の生徒が舞台用の仮設台を運んでいる。黒い布、白金の旗、模擬剣。準備の早さに感心するべきなのか、呆れるべきなのか。
レオが隣に立つ。
窓からの光が二人の足元に落ちた。
ノアは軽く言った。
「で? 俺が災厄役で、お前が英雄役だったら笑う?」
「笑わない」
「冗談だぞ」
「知っている」
「ならその顔やめろ」
レオは答えなかった。
首元の赤い糸が、強く震えた。
ノアの伴侶首輪が熱を持つ。
「っ……」
短い呻きが漏れた。
喉の奥に熱が走り、胸の奥がぎゅっと押される。重くはない。倒れるほどでもない。だが、レオの感情が赤い糸を通じて返ってきたのが分かった。
恐怖。
悔恨。
喪失。
それらが、ノアの首輪を熱くする。
ノアは首元を押さえ、眉を寄せた。
「っ……お前の情緒で首輪熱くなるの、理不尽すぎない?」
「ごめん」
「謝るなら冷やせ」
レオはすぐに白金の光を灯した。
廊下の端、誰からも見えにくい位置で、ノアの首元へ触れない距離から聖魔法を流す。伴侶首輪の熱を鎮めるための光。いつもより少しだけ揺れていた。
ノアはそれに気づいた。
レオの手が震えている。
ほんのわずかに。
指摘しようと思えばできた。茶化そうと思えば、いくらでも言えた。王子様、手が震えてますけどー。英雄役、緊張してる? そんな軽口が喉まで来た。
けれど、言わなかった。
レオの震えは、今から自分を縛ろうとするものではなかった。
もっと古い傷の震えだった。
白金の光が首輪の熱を少しずつ鎮める。喉の詰まりが和らぎ、胸の圧が軽くなる。レオは最後に水筒を差し出した。
ノアは受け取った。
「命日予告で喉渇く人生、濃いな」
レオは笑わなかった。
ノアもそれ以上は言わなかった。
夕方、災厄忌の英雄劇に使われる古い台本が各科へ配られた。
劇科のものとは別に、歴史授業用の簡略版らしい。薄い冊子で、表紙には白金の剣と黒い花が描かれている。題名は、救国の英雄と黒い災厄。
ノアは黒魔法科の教室でそれを受け取った瞬間、思わず笑った。
「表紙からして胃もたれしそう」
ルカは魔具科の台本を持って、あとから廊下で合流した。
「うちにも来た。劇で使う魔具の説明がある」
「災厄役用の煙幕とか?」
「ありそう」
「俺、貸し出されない?」
「さすがに人間を煙幕扱いはしないんじゃないかな」
「学院なら分からん」
アイリスは冊子を胸に抱えていた。
「これ、毎年配られているそうです。でも、今年は少し装丁が違うって先輩が言っていました」
「違う?」
「表紙に黒い紋章が入っているのが、今年からだと」
ノアの指が止まった。
表紙の黒い花の下。
装飾のように見えた小さな紋様がある。
三本の線が絡むような形。
中央に歪みはない。だが、似ている。
黒い花の紙片。
地下書庫の頁。
同盟儀式の汚染術式。
ノアは笑った。
「学院行事、凝ってるなー」
声は軽い。
軽くしすぎた。
レオは隣で台本を見ていた。
顔に温度がない。
ノアは台本を開いた。
紙の匂いがする。新しく刷られたばかりのインクの匂い。けれど、表紙の黒い紋章の周辺だけ、微かに古い魔力の気配がした。封印蝋に似た、乾いた匂い。
物語は、ひどく単純だった。
黒い災厄が世界を壊す。
人々が泣く。
救国の英雄セラフィードが立ち上がる。
聖なる剣で災厄を討つ。
世界に光が戻る。
分かりやすい。
分かりやすすぎる。
ノアは頁をめくった。
そして、終盤の台詞を見つけた。
黒い災厄の最期の言葉。
そこには、歪められた台詞が載っていた。
悪役の嘲笑として。
世界を呪い、英雄を嘲り、敗北すら認めない怪物の最後の負け惜しみとして。
ノアは、しばらくそれを見た。
喉の奥が詰まる。
けれど笑った。
「悪役、台詞回しが古いな」
声が軽すぎた。
自分でも分かる。
レオは、ノアの手元から台本を取った。
静かに閉じる。
「読まなくていい」
ノアはレオを見た。
「また管理?」
レオは、台本を閉じたまま答えた。
「うん」
否定しない。
もう、否定しない。
ノアは笑った。
「開き直るなよ、王子様」
「これは、読まなくていい」
「俺が決めることだろ」
「今は、僕が止めたい」
「また“今は”」
「うん」
「便利だな、その言葉」
レオは台本を返さなかった。
ノアはしばらくその手を見ていたが、無理に取り返さなかった。取り返したところで、今ここで読めばレオの赤い糸がまた震える。首輪が熱を持つ。喉が詰まる。周囲の生徒に見られる。面倒が増える。
それに、読んでしまった。
もう十分だ。
歪められている。
あの最後の言葉は、こんな単純な嘲笑ではなかった。
そう思った瞬間、ノアは自分に腹が立った。
なぜ、自分がそう思う。
なぜ、知っているように感じる。
ノアはイリアスではない。
そう繰り返しても、喉の奥の熱は消えなかった。
夜。
三〇七号室の魔力灯は、もう落とされていた。
レオは自分の寝台にいる。眠っているかどうかは怪しい。いや、ほぼ眠っていないだろう。最近のレオは、ノアが何かしそうな夜には眠らない。睡眠を犠牲にした監視。健康にも人格にも悪い。まあ、人格にはもうだいぶ悪影響が出ている。
ノアは静かに寝台から抜け出した。
昼間、レオが閉じた台本。
返されなかったはずのそれは、結局ノアの机に置かれていた。読まなくていいと言ったくせに、完全に隠しはしなかった。読ませたくない。けれど隠しきることへの後ろめたさがある。面倒な男だ。中途半端な良心を持つな。持つなら全部持て。
ノアは台本を開いた。
表紙の黒い紋章が、夜の薄明かりの中でわずかに沈んで見える。
頁をめくる。
英雄の台詞。
民の嘆き。
災厄の嘲笑。
白金の剣。
黒い花。
最後の頁へ進む。
そこに、印刷ではない文字があった。
誰かの手書き。
黒いインク。
いや、インクではない。
乾いた黒い魔力で書かれた一文。
災厄は、まだ死んでいない。
赤い糸が激しく震えた。
向かいの寝台で、レオがすぐに身体を起こす。
ノアは台本を見下ろしたまま笑った。
「学園行事、思ったより本格派だな」
首元の伴侶首輪が、熱く脈を打った。




