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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第一章【赤い糸は檻になる】

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第25話 一人にしない


 夜明け前の学院は、昼間とは別の場所のようだった。


 アルカディア魔法学院の塔は、まだ薄い青の中に沈んでいる。尖塔の先に残った夜の色が、ゆっくりと白へ溶けていく。中庭の芝生は朝露に濡れ、ひと踏みすれば靴の底へ冷たさが染みる。石畳には夜の湿り気が残り、魔力灯の淡い光が、ところどころ水の膜に滲んでいた。


 遠くで、鳥が一度だけ鳴いた。


 まだ起きている生徒は少ない。寮の窓はほとんど暗く、食堂から湯気が立ち始めるには少し早い。噴水も眠っているように静かで、白い水盤の縁に溜まった水だけが、空の薄青を映していた。


 ノア・クロウは、中庭の古いベンチに座っていた。


 制服の上着は羽織っているだけで、襟元は少し崩れている。黒髪は寝起きのまま、襟足の長いウルフカットが首筋へ落ちていた。赤い瞳は、朝の光を受けても明るくならない。むしろ夜の名残をまだ抱えたように、暗く沈んでいる。


 首元の伴侶首輪メイト・カラーが、薄く熱い。


 それは、痛みではない。


 だが、不快だった。


 熱があるというだけで、そこに誰かの手がかかっている気がする。赤い糸が魂の奥から首へ集まり、見えない輪を作っている。ノアが一人になろうとした時点で、糸は震えた。部屋を出る前から、レオへ伝わったはずだ。


 それでも、ノアは出てきた。


 一人になりたかった。


 一人になって、考えたかった。


 いや、違う。


 考えたくなかったのかもしれない。


 同盟儀式の記録。


 父王殺害の術式。


 外部術者による汚染の可能性。


 それらの文字が、頭の奥に貼りついて離れない。


 前世のイリアス・ノクスヴェルトが何を見て、何を信じて、何を憎んだのか。その根元が揺らいでいる。父王を殺したのは本当にルミナリア聖王国だったのか。セラフィード・ルミナリアの聖魔法に似せられた術式は、誰かが仕組んだものではなかったのか。


 もし、そうなら。


 もし、イリアスの憎しみが誰かに作られたものだったなら。


 ノアは膝の上で手を握った。


 芝生の匂いがする。


 冷たい朝露と、石と、眠った土の匂い。


 けれど鼻の奥には、別の匂いが戻っていた。香炉の煙。儀式場の白い床。鉄錆。倒れた杯。父王の血。白金の術式の偽りの光。


 嫌な記憶だ。


 自分のものではない。


 そう言いたい。


 何度でも。


 自分はノア・クロウだ。平民出身の黒魔法科新入生。学院の制服を着崩し、教師に睨まれ、ルカの魔具工房で黒魔法対応回路に口を出し、アイリスに少しだけ心配され、レオに首輪をつけられた非常に不本意な現世の人間。


 イリアスではない。


 黒い災厄ではない。


 世界を壊した王子でもない。


 父王の血で黒魔導書へ手を伸ばした男ではない。


 そう繰り返すたびに、喉の奥が詰まった。


 認めていないのに、身体が先に覚えている。


 声が、熱が、赤い糸が、黒い頁が、ノアの否定を笑うように反応する。


 馬鹿らしい。


 前世だの、災厄だの、器だの、伴侶だの。


 どいつもこいつも、人の名前を勝手に上書きしようとする。


 ノアは空を見上げた。


 塔の先に、白い朝が滲んでいる。


「……ほんと、趣味悪い」


 自分の声は掠れていた。


 地下書庫で黒い頁に自分の声を使われてから、喉の調子は完全には戻っていない。レオの水と聖魔法でだいぶ整えられているはずなのに、胸の奥にまだ黒いざらつきが残っている。


 中庭の端から、足音がした。


 静かな足音だった。


 芝生を踏む音も、石畳を踏む音もほとんどしない。けれど、ノアには分かった。赤い糸が首元でほんの少し熱を増す。魂の奥が、近づく相手を知っている。


 ノアは振り返らずに言った。


「追跡お疲れ、王子様」


 レオ・アステルレインは、少し離れた場所で足を止めた。


 朝の薄い光の中で、白と金の制服が静かに浮かび上がる。彼も上着を羽織っているだけだった。金髪はいつもより少しだけ柔らかく乱れ、碧い目には眠っていない人間の静けさがあった。


 それでも、立ち姿は崩れない。


 腹立たしいほどに。


「一人になりたかった?」


「なりたかったから一人で出たんですー」


 ノアは軽く返した。


 いつもの調子に近づける。朝の空気に合わないほど軽い声。けれど、自分でも分かる。少しだけ軽すぎた。


 レオはそれを聞き取った。


 当然のように。


「君が一人でいる時が、一番危ない」


「それ、偏見」


「経験だよ」


 ノアは黙った。


 その言葉は、朝の冷えた空気の中でやけに重かった。


 経験。


 レオが言うと、それは今の学院生活だけを指さない。夜の地下書庫でも、黒い花の紙片でも、魔具工房でもない。もっと古い場所を指す。


 黒い荒野。


 最後の朝が来なかった場所。


 イリアスが一人で全部を持って死んだ場所。


 ノアは笑った。


「経験豊富な王子様は言うことが違うなー」


「軽くした」


「朝だからな。空気は軽い方がいい」


「君の声は軽くない」


「出た、声判定」


 レオはベンチの隣まで来た。


 すぐ座らない。


 ノアの許可を待っているような距離だった。昨日から、レオは時々こうする。近づきたいのに、ノアが本気で嫌がる時だけ、ほんの少しだけ止まる。その止まり方すら観察されているようで腹が立つ。


 ノアは芝生を見たまま言った。


「座れば」


 レオは隣に座った。


 ベンチが小さく軋む。


 近い。


 けれど、肩は触れない。


 レオはしばらく黙っていた。


 中庭の空は、少しずつ明るくなっていく。塔の輪郭が青から白へ変わり、魔力灯の光は薄れていく。遠くの鳥が、もう一度鳴いた。


 沈黙の方が先に耐えきれなくなったのは、ノアだった。


「俺はどこにも行かないって」


 自分でも、少し雑な言い方になったと思った。


 レオは、横顔をこちらへ向けないまま答えた。


「前も、そう見えた」


 喉の奥が詰まった。


 ノアは笑った。


 軽く。


 軽くしようとした。


「前って何の話?」


「君が認めない話」


「認めてないなら、俺の話じゃないな」


「君はそう言う」


「そう言うも何も、そうだろ」


 レオは、膝の上で手を組んでいた。


 指先がわずかに白い。


 力が入っている。


「僕には、そう見えない」


「お前の見え方まで責任取れない」


「分かっている」


「分かってるなら」


「でも、放っておけない」


 ノアは顔を上げた。


 中庭の先に、古い石碑があった。


 今まで気にしたことはなかった。苔むした石で、古い学院創設者の言葉でも刻まれているのだろうと思っていた。けれど夜明けの斜めの光が当たったせいか、表面の模様が見えた。


 紋章。


 三本の線が絡むような、古い模様。


 中央に目のような歪みはない。だが、似ている。


 同盟儀式の床にあった違和感。


 黒い花の紙片。


 地下書庫の黒い頁。


 首輪の内側に浮かんだ黒い紋章。


 そのすべての、薄い残響のような模様が、学院の中庭にある古い石碑に刻まれていた。


 ノアの首輪が熱を持つ。


「っ……」


 短い呻きが、喉の奥で潰れた。


 レオがすぐこちらを向く。


「ノア」


「……何でもない」


「何でもない声じゃない」


「また声判定」


 ノアは笑おうとしたが、胸の奥に圧が落ちた。首輪の熱は強くない。だが、赤い糸が震えている。ノアが一人になりたいと思った時からずっと震えていた糸が、今度はレオの不安と混ざって、首元を締めるように熱を持った。


 レオの喪失恐怖。


 ノアの拒絶。


 石碑の紋章。


 全部が赤い糸の中で絡まる。


 ノアは首元を押さえた。


 息を整える。


 重度ではない。倒れるほどではない。だが、喉が詰まり、胸の内側を細い手で押されたような圧がある。瞳の奥がわずかに熱くなった。


 レオが小さな水筒を差し出した。


 いつ持ってきたのか。


 いや、きっと追いかける時点で持ってきたのだ。


 腹立たしい準備のよさだった。


「水」


 ノアは水筒を見た。


「野外介護まで始めたの?」


「場所は関係ない」


「言い切るな」


「喉が掠れている」


「そうだな。誰かさんの首輪が朝から熱いからな」


「ごめん」


「謝るなら首輪外せ」


「それはできない」


「知ってた」


 それでも、ノアは水筒を受け取った。


 冷たい水が喉を通る。ほんの少し白金の光が混じっている。レオが準備した水だと分かる。飲むと喉が楽になる。これも腹立たしい。役に立つものほど文句が言いづらい。いや、文句は言う。そこは譲らない。


 レオはノアの首元へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 ノアは水筒を返しながら言った。


「今日はいい」


「熱がある」


「分かってる」


「少しだけでも」


「いい」


 レオは手を引いた。


 その動きに、ほんの少しだけ痛みがあった。


 ノアは見なかったふりをした。


 見たら、言葉が鈍る。


 それは嫌だった。


 ノアはもう一度、石碑を見た。


「なあ、あの石碑」


 レオも視線を向ける。


 朝の光が強くなり、模様は少し見えにくくなっていた。さっきほどはっきりしない。まるで、見られる時間を選んでいるようだった。


「学院創設時の結界碑だと思う」


「お前、知ってた?」


「形までは」


「似てる」


「うん」


 レオの声が低くなる。


 彼も気づいたのだ。


 あの模様が、ただの装飾ではないことに。


 ノアは唇の端を上げた。


「この学院、思ったより地下も地上も趣味悪いな」


「調べる必要がある」


「俺もそう思う」


「一人では行かせない」


「またそこへ戻る」


「戻るよ」


 レオの声は静かだった。


 けれど、揺るがなかった。


「僕は、君を一人にしない」


 ノアは横を見た。


 レオの顔は朝の光の中で穏やかだった。だが、その穏やかさの奥には、硬い決意がある。あまりにも強く、あまりにも重い。優しさだけではない。愛情だけでもない。喪失への恐怖が、すでに誓いの形をしている。


 ノアは笑った。


「それ、俺の意思は?」


「聞く」


「聞くだけ?」


「従えるかは、内容による」


「最悪」


「うん」


「うんじゃない」


 ノアは水筒を膝の上で転がした。


 朝露に濡れた芝生の匂いが濃くなっていく。塔の上で、早朝の鐘が鳴る準備をしているのか、遠くで金属が小さく震える音がした。


 ノアは、低い声で言った。


「レオ。今の俺まで、あいつの墓に入れるな」


 レオの呼吸が止まった。


 一瞬だけ。


 ノアは続けた。


「あいつが一人で終わったからって、俺が一人になったら全部同じになるわけじゃない。俺が黙ったら、あいつが黙った時と同じになるわけじゃない。俺が一人で中庭に出ただけで、墓場みたいな顔するな」


 レオは何も言わなかった。


 ノアは、まっすぐ前を見たまま言った。


「俺はノアだ。あいつの墓に、今の俺まで入れるな」


 首輪が熱を持った。


 けれど、今度はさっきとは違う熱だった。


 痛みよりも、糸が戸惑うような震え。


 レオの不安が揺れている。ノアの拒絶も揺れている。赤い糸は、二人の間で細く震え続けた。


 レオは、長い沈黙のあと、言った。


「……分かっている」


「分かってるなら、その顔やめろ」


「すぐには、無理だと思う」


「正直で嫌」


「でも、覚える」


「俺を?」


「今の君を」


 ノアは返事に困った。


 そういう時だけ、レオは最悪なほど正しい言い方をする。


 今の君。


 その言葉は、器でも、災厄でも、前世名でもなかった。


 ノアは顔を逸らした。


「じゃあ、まず一人で中庭にいるくらいで追跡するのをやめるところからだな」


「それは難しい」


「台無し」


「君が黙って出るから」


「はいはい、申請制ね」


「申請しても、ついていく」


「もっと悪い」


 レオが少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 ノアはため息をついた。掠れた息だったが、朝の空気の中では少し軽く聞こえた。たぶん、気のせいだ。そういうことにしておく。


 学院の鐘が鳴った。


 朝を告げる鐘だった。


 一度、二度、三度。塔から響く音が、中庭の空気を震わせる。芝生の露が光り、噴水がゆっくりと動き始めた。遠くの寮の窓が一つ、また一つと明るくなる。


 鐘の後、中央掲示板の方で小さな魔法音が鳴った。


 学院の新しい告知が貼られた合図だ。


 ノアとレオは、ほぼ同時にそちらを見た。


 中庭から見える位置にある掲示板へ、青白い告知紙が浮かび上がる。遠目にも、中央に描かれた黒と白の紋が見えた。学院行事の印。だが、その周囲に飾られた黒い花と白金の剣の意匠が、ノアの喉を詰まらせた。


 数人の早起きした生徒が、掲示板の前に集まっていく。


 誰かが読み上げた。


「災厄忌の準備……」


 その言葉が、朝の空気を切った。


 黒い災厄を討った日を記念する、学院の追悼と祝祭。


 黒い災厄の討伐を祝う行事。


 ノアは、しばらく掲示板を見ていた。


 そして、笑った。


「命日イベントとか、趣味悪いな」


 軽く言ったつもりだった。


 だが、隣のレオの顔から血の気が引いていくのが見えた。


 朝の光の中で、彼の碧い目だけがひどく冷たく、痛んでいた。



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