第24話 同盟儀式の汚れ
白金の結界が、静かに揺れた。
寮の奥にある小さな談話室は、夜の中に沈んでいた。窓は黒く、外の中庭もほとんど見えない。机の上に置かれた小さな魔力灯だけが、青白い光で古い記録紙を照らしている。使われなくなった談話室には、少しだけ埃の匂いがあった。磨かれた床、壁際の本棚、誰も座らなくなった長椅子。夜の学院の静けさが、部屋の隅に澱のように溜まっている。
その中央で、レオ・アステルレインは記録を広げていた。
白金の結界は、外へ気配を漏らさないためのものだった。ノア・クロウが扉を開けた瞬間、その結界がわずかに震えたのだ。
「何を隠してる?」
ノアの声は軽くなかった。
廊下から入ってくる夜の冷気が、足元へ流れ込む。ノアは扉のところに立ったまま、机の上の記録を見ていた。封魔紙に挟まれた黒い花の紙片ではない。地下書庫で見つけた古い記録の写しでもない。レオがノアに見せず、一人で読み続けていたもの。
同盟儀式の術式図。
それが、机の上にあった。
レオはすぐに紙を隠さなかった。
ただ、指先だけが動いた。白金の光が記録の端へ薄く重なりかける。見せまいとする癖。守ろうとする手つき。あるいは、管理しようとする手つき。
ノアは目を細めた。
「隠すなら、もっと上手くやれよ。王子様、そういうところ詰めが甘い」
「ノア」
「呼び方で誤魔化すな」
ノアは部屋へ入った。
扉が背後で閉まる。談話室の空気が閉じた。レオの張った結界の中へ、ノアも入った形になる。首元の伴侶首輪が、じわりと熱を持った。
嫌な熱だった。
黒い花の紙片に触れた時とも、黒い頁に声を真似られた時とも少し違う。もっと古い。もっと深い。喉の奥ではなく、胸の内側に直接沈んでくるような熱。
ノアは机の前まで歩いた。
レオは座ったまま動かなかった。
記録紙には、古代語と現代語の両方で注釈が入っていた。術式図は複雑だった。黒と白、金と銀の魔力線が交差し、その中央に王印と血の媒介点がある。
誓約の杯。
王家の血。
聖魔法の安定輪。
黒魔法の接地陣。
同盟儀式。
その文字を読んだ瞬間、ノアの喉が詰まった。
白い床。
高い天井。
香の匂い。
並べられた旗。
セラフィードの白金の礼装。
イリアスの黒い正装。
襟を整える手。
父王の低い声。
今日を無駄にするな。
ノアは、瞬きをした。
違う。
それは自分の記憶ではない。
そう思うより早く、首輪が熱を持った。
レオがすぐに顔を上げる。
「座って」
「命令?」
「お願い」
「お願いに見せかけた監視だろ」
「今は、そう言われてもいい」
「ほんと開き直ったな」
ノアは笑った。
声は軽かった。
軽すぎた。
レオの目が、それを拾う。
ノアは机の向かいに座った。自分から座った。そこだけは譲りたかった。支えられて座るのは嫌だった。あまりに小さい抵抗だが、抵抗は抵抗だ。人間の尊厳、だいたいこういうみみっちいところで生き残る。情けないが、ないよりましだ。
ノアは記録へ視線を落とした。
文字を追う。
同盟儀式における魔力汚染の可能性。
外部術者による干渉痕。
王家の血を媒介にした誘導術式。
聖魔法に似せた偽装波長。
ルミナリア聖王国系聖印に近似するが、波長核に不一致あり。
ノアは、しばらく黙っていた。
それから、笑った。
「へえ。歴史って、ずいぶん雑な掃除してるんだな」
「ノア」
「何? 俺、今すごく品のいい感想を言ったつもりだけど」
「声が軽い」
「出た、声判定」
「震えている」
「気のせい」
「君は嘘をつく時、声が軽くなる」
「その分析、ほんと最悪」
ノアは記録を手に取った。
紙は古かったが、写しだから崩れるほどではない。端に封印蝋の跡がある。地下書庫の深部に置かれていた記録だと分かる。誰かが隠していた。あるいは、忘れられるように奥へ押し込んでいた。
文字が目に入る。
父王殺害時に観測された白金術式は、純粋な聖魔法ではない可能性が高い。
聖魔法へ偽装した外部術式。
王家血液の接触により自動起動。
対象はノクスヴェルト王家当主。
ノアの指先が止まった。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
父王。
あの血。
あの床。
あの一瞬。
イリアスは、何を見た。
何を信じた。
何を憎んだ。
セラフィードの国だと思った。
セラフィードの聖魔法だと思った。
あの白金の光が、父王を殺したのだと思った。
だから拒絶した。
だから黒魔導書に手を伸ばした。
だから世界を壊した。
もし、それが。
もし、それが作られた憎しみだったなら。
ノアの喉が詰まった。
胃の奥が揺れる。
吐き気が上がるほどではない。だが、胸の内側から黒い霧を吐き出したくなるような気持ち悪さがあった。視界の端が少し滲み、瞳孔が開きかける。赤い瞳の奥に、黒い濁りが一瞬だけ揺れた。
レオの白金の光が、机の上でかすかに動く。
ノアはすぐに片手を上げた。
「触るな」
声は短かった。
レオの手が止まる。
「苦しい?」
「苦しくない」
「嘘だね」
「嘘だよ」
ノアは笑った。
今度は、笑いにもならなかった。
「でも触るな」
「分かった」
レオは手を引いた。
その代わり、赤い糸が強く震える。魂糸がノアの呼吸の乱れを拾い、レオへ渡している。触らなくても分かる。手を引かれても、完全には離れていない。腹立たしい。便利すぎる魔法はだいたい人権に悪い。いや、伴侶契約に人権を期待する方が無謀なのかもしれない。最悪の学びである。
ノアは記録を机に置いた。
「俺には関係ないだろ」
レオは静かに見ていた。
「本当に?」
「関係ない。昔の王子様たちの不幸話だ」
「君は、そう言うと思った」
「なら聞くな」
「でも、聞く」
「しつこい」
「うん」
「うんじゃない」
ノアは肘をつき、額を片手で押さえた。
軽くした声が、喉の奥で割れかけている。首輪が熱い。胸に圧がある。記録に並ぶ文字が、まっすぐ読めなくなる。
外部術者。
偽装波長。
王家の血。
誘導。
汚染。
汚れ。
あの儀式は、最初から汚されていたのか。
白と黒の魔法が重なった一瞬。
隠れずに並べる未来が見えた一瞬。
その足元に、誰かが泥を流し込んでいたのか。
ノアは目を閉じた。
イリアスの怒り。
憎しみ。
父王の血。
セラフィードへの拒絶。
お前の国だ。
呼ぶな。俺の名前を、お前の声で呼ぶな。
その声が、胸の奥で反響した。
違う。
自分の声ではない。
そう言い切りたいのに、喉が覚えている。
ノアは笑った。
「すごいな。父親殺しの真相まで後出しで汚れてるとか、歴史家泣くだろ」
「ノア」
「何だよ。俺、かなり理性的に喋ってるぞ」
「君は今、理性的なふりをしている」
「ふりでもできれば上出来」
「そうやって逃げる」
「逃げて悪いか」
「悪くない」
ノアは目を開けた。
レオは、まっすぐこちらを見ていた。
「悪くない。けれど、一人で逃げるなら追う」
「またそれか」
「またそれだよ」
「本当にしつこいな、お前」
「知っている」
ノアは記録の端を見た。
そこに小さな文字があった。
封印蝋の跡で半分潰れている。ノアの視界はまだ少し揺れていて、細かい字はうまく読めない。だが、黒い線がいくつか残っていた。
オルド……
そこまで、かすかに見えた。
ノアは気づかずに視線を滑らせた。
だが、レオは見た。
レオの瞳が、一瞬だけ細くなる。
オルド。
黒い花の紙片にあった「オル」。
地下書庫の頁の端に浮かんだ「オルド」。
災厄と呼ぶ声。
黒魔導書を編んだ可能性のある何者か。
レオは、その欠片を読んだ。
けれど、言わなかった。
ノアは見逃した。
レオはそれを、見逃させたままにした。
ノアが顔を上げる。
「また隠した?」
レオは沈黙した。
それだけで答えだった。
ノアは笑った。
「ほんと分かりやすいな、王子様」
「君に今、これ以上は」
「言うな」
ノアの声が低くなった。
「それ以上言ったら、俺は本当に怒る」
レオは唇を閉じた。
白金の結界の中で、沈黙が落ちる。
ノアは記録をもう一度見た。
父王殺害に、外部術者の干渉があった可能性。
それが何を意味するのか、考えたくなかった。
もし、セラフィードの国ではなかったなら。
もし、セラフィード本人の魔法ではなかったなら。
もし、憎む相手を間違えたまま、黒魔導書へ手を伸ばしたのなら。
イリアスは何を壊した。
何のために世界を焼いた。
誰を憎んだ。
何を殺した。
ノアは、自分の手を見た。
現世の手だ。
黒魔法科新入生の手。
紙片の痺れが残った指先。
けれど、そこに血の温度が蘇る。
父王の血ではない。
もっと多くの血。
仲間。
家族。
兵。
一般人。
世界。
黒い災厄が殺したもの。
ノアは唇を噛んだ。
吐き気が少しだけ上がる。喉の奥で止める。瞳孔が開き、魔力灯の光が眩しくなる。首輪が熱を持ち、赤い糸が胸の奥で軋む。
短い呻きが漏れた。
「っ……」
レオが立ち上がりかける。
ノアは鋭く睨んだ。
「来るな」
レオは止まった。
その顔に痛みが走った。
ノアはすぐ目を逸らした。
見たくなかった。
見れば、揺れる。
揺れれば、レオは入ってくる。
今は、それが嫌だった。
「俺には関係ない」
ノアはもう一度言った。
今度は、声が低かった。
「俺はノアだ。昔の王子が何を間違えたかなんて、俺には関係ない」
レオは、静かに言った。
「君がそう言うなら、今はそう聞く」
「今は、って言うな」
「分かった」
「分かったって言うな。どうせ分かってない」
「分かっていないかもしれない」
「正直でうざい」
ノアは椅子から立った。
少し足元が揺れた。
レオが反射的に手を伸ばしかける。
ノアはそれより早く机に手をついた。
「平気」
「そう見えない」
「見るな」
低い声だった。
レオは手を引いた。
ノアは記録を机の上に置いたまま、談話室の扉へ向かった。レオの結界が解ける。扉を開けると、廊下の冷たい空気が流れ込んだ。
首輪が熱い。
赤い糸が震えている。
レオが追いかけようと立ち上がる気配がした。
だが、一瞬だけ止まった。
止めるべきか。
行かせるべきか。
その迷いが、赤い糸を通じてノアの首元へ伝わってきた。
ノアは振り返らなかった。
「ついてくるな」
言って、廊下へ出た。
白い石造りの廊下は、夜の青い魔力灯に照らされている。寮の奥は静かだった。誰もいない。足音だけが響く。ノアは早足で歩いた。胸の圧がまだ残っている。吐き気も、喉の詰まりも、首輪の熱も。
それでも、今は一人になりたかった。
中庭へ行こう。
空気を吸おう。
自分がノアだと、もう一度言い聞かせよう。
赤い糸が、強く震えた。
背後で、談話室の扉が開く音がした。
レオは結局、追ってきた。




