第23話 管理って言ったな
朝の三〇七号室は、冷えていた。
窓の外では、アルカディア魔法学院の中庭に薄い朝日が落ちている。噴水の水音はいつも通りで、白い石造りの校舎も、寮の廊下を行き交う生徒たちの足音も、何ひとつ変わっていない。魔力灯は淡く消えかけ、小卓の上には水の入った杯が置かれていた。
いつもの朝だった。
けれど、空気だけが違う。
机の引き出しには、黒い花の紙片が封魔紙に包まれて入っている。地下書庫から持ち出された記録の一部は、レオ・アステルレインの手元にある。ノア・クロウには見せられていない。
まだ君に見せるべきではない。
そう言ったレオは、否定しなかった。
そういうの、管理って言うんだぞ。
うん。
その一言が、夜からずっと部屋の壁に貼りついているようだった。
ノアは寝台の上で身体を起こした。
首元に、伴侶首輪の熱が残っている。強くはない。だが、朝の喉へ細く絡み、目覚めた瞬間から「そこにある」と知らせてくる。薄い赤い輪は鏡を見なくても分かった。赤い糸は、昨夜もずっと震えていた。
ノアは向かいの寝台を見た。
すでに整えられている。
当然のように。
レオは小卓のそばに立っていた。白と金の制服を着て、金髪も乱れなく整えている。手元には水。いつも通りすぎて腹立たしい。寝不足の顔をしていないのも腹立たしい。こちらは明らかに睡眠の質が悪かったというのに、王子様だけ朝から完成品である。人類、いや王族、せめて目の下に疲れくらい出せ。
ノアは掠れた声で言った。
「おはよう、管理者様」
レオは、いつものように静かにこちらを見た。
「おはよう、ノア」
「否定しろよ」
「否定したら、君は信じる?」
「信じない」
「なら、言葉を無駄にしたくない」
ノアは一瞬、何も言えなかった。
それから、乾いた笑いが漏れた。
「朝から正直すぎて最悪。せめて取り繕う努力をしろ」
「取り繕ったら、君は余計に怒る」
「今も怒ってるけどな」
「知っている」
「そういうところ」
レオは水の杯を差し出した。
ノアはそれを見た。
喉は確かに掠れている。地下書庫で黒い頁に自分の声を使われ、赤い糸が濁りかけ、遮音結界の中で息を整えた。その余韻がまだ残っていた。水を飲めば楽になる。レオの白金の光を受ければ、声は戻る。
分かっている。
だからこそ、すぐ受け取るのが嫌だった。
ノアは杯を見たまま、言った。
「今日はいい」
レオの手が止まる。
「喉が掠れている」
「だから?」
「水を飲んだ方がいい」
「自分で飲む」
「分かった」
レオは杯を小卓に置いた。
それ以上は押してこなかった。
少しだけ意外だった。
ノアは警戒したまま小卓へ手を伸ばし、自分で杯を取った。レオは動かない。白金の光も灯さない。ただ見ている。見ているだけでも十分鬱陶しいが、今朝はまだましだった。
水を飲む。
喉の痛みが少し和らぐ。
レオは低く尋ねた。
「治癒は?」
「いらない」
「分かった」
「そこで引くんだな」
「君が拒んだ」
「いつもは拒んでも来るだろ」
「今朝は、君が本気で嫌がっている」
ノアは杯を持ったまま、レオを見た。
レオは淡々としている。
だが、その目はノアの喉元を見ていた。伴侶首輪の熱を見ている。掠れた声を聞いている。拒絶の温度を測っている。
ノアは眉を寄せた。
「拒絶の本気度まで判定するな」
「してしまう」
「するな」
「努力する」
「その努力、信用できた試しがない」
レオは返事をしなかった。
沈黙が落ちる。
朝の光は柔らかいのに、部屋の空気は硬い。ノアは杯を小卓へ戻し、制服に手を伸ばした。首元の赤い輪を隠すように襟を整える。他人には見えない。だが自分には見える。レオにも見える。だから隠す意味などほとんどない。それでも襟を直す。無駄でも、しないよりはましな時がある。人類の尊厳、大体そういう小さい抵抗でできている。
レオは机の上に一枚の紙を置いた。
ノアはそれを横目で見た。
「何」
「今日の予定」
「俺の?」
「うん」
ノアは動きを止めた。
紙を手に取る。
そこには、今日の予定がきれいに書かれていた。
午前。黒魔法制御理論。黒魔法実習室。
昼食。食堂南側。
午後。古代語基礎。図書室で資料確認予定。
放課後。魔具工房へ立ち寄る可能性。
帰寮予定。夕食後。
ノアは紙を見下ろしたまま、しばらく黙った。
文字はレオのものだった。
綺麗で、整っていて、余白まで正しい。見ているだけで腹立たしいほど整っている。内容はもっと腹立たしかった。自分が手帳に書いたわけでもない。口に出していない予定まで含まれている。
ノアはゆっくり顔を上げた。
「俺の予定表、俺より詳しいのやめろ」
「必要だから」
「それ、世間では監視って呼ぶんだぞ」
「僕は管理と呼んでいる」
ノアの中で、何かがすっと冷えた。
軽口が、喉の手前で止まる。
伴侶首輪が熱を持った。
赤い糸が、レオの声に反応して細く震える。ノアの胸の奥に圧が落ちた。怒りとも、息苦しさとも違う。自分の輪郭を、誰かの手帳に勝手に写し取られたような不快感だった。
ノアは低く言った。
「レオ。俺は物じゃない」
赤い糸が、強く震えた。
それはノアの怒りだけに反応したものではなかった。
レオの不安に反応していた。
初めて、はっきり分かった。赤い糸はノアの魔力変動だけを拾っているのではない。レオの感情にも揺れる。ノアが「物じゃない」と言った瞬間、レオの中で何かが強く震え、その震えが糸を通じてノアの首輪へ返ってきた。
熱い。
ノアは小さく息を詰めた。
レオの表情は穏やかだった。
だが、糸は隠せない。
「知っているよ。だから失いたくない」
「だから、じゃない」
ノアの声は低いままだった。
「だから管理していい、にはならない」
「分かっている」
「分かってるならやめろ」
「やめられない」
「昨日から正直すぎて腹立つんだよ」
レオは紙へ視線を落とした。
「君の行き先を知らないと、不安になる」
「俺は幼児じゃない」
「知っている」
「物でもない」
「知っている」
「それで予定表を作るな」
「君が一人で地下書庫へ行こうとした」
「だからって全部把握する理由にはならない」
「僕にはなる」
ノアは、拳を握った。
怒鳴らなかった。
怒鳴ったら負ける気がした。いや、勝ち負けではない。けれど、ここで声を荒げれば、レオはきっとその声まで拾う。怒りの高さ、喉の掠れ、息の乱れ。全部、赤い糸と魂糸で覚える。そう思うだけでさらに腹が立つ。声まで相手の情報にされるのは、本当にろくでもない。
ノアは、紙を机に置いた。
「俺が今日、図書室に行くって、誰から聞いた」
「昨日、古代語資料を調べると言っていた」
「魔具工房は」
「ルカが誘っていた」
「帰寮時間は」
「君は夕食後に戻るつもりだった」
「何で分かる」
「昼食後に荷物を部屋へ戻さない日は、放課後に寄り道する。けれど、黒魔法理論の課題がある日は、夕食後には戻る」
ノアは、今度こそ言葉を失った。
見られている。
細かく。
予定として、習慣として、声として、呼吸として。
ノア・クロウの一日が、レオの中で勝手に組み立てられている。
それは、怖い。
ただ束縛されるよりも、もっと気味が悪かった。自分の日常の癖まで把握され、それを当然のように差し出される。首輪より見えにくく、赤い糸より静かで、けれど確かに逃げ道を狭めてくる。
ノアは、掠れたため息を吐いた。
「お前さ、優秀さの使い方を間違ってる」
「そうかもしれない」
「そうかもじゃない。間違ってる」
「でも、知っていれば止められる」
「何を」
「君が一人で奥へ行くこと」
「またそれか」
「またそれだよ」
レオの声は穏やかだった。
けれど、その穏やかさが今朝は少しだけ痛かった。
ノアは首元を押さえた。赤い輪が熱い。喉の奥に薄い圧がある。朝の水は飲んだが、治癒を拒んだせいで掠れが残っている。けれど、その掠れは自分で選んだものだ。自分の喉の違和感くらい、自分で持ちたかった。
「レオ」
「うん」
「俺が一人で行くことと、お前が俺を全部把握することは別だ」
「うん」
「うんじゃなくて」
「分かっている。でも、君が一人で行くと、僕は前のことを思い出す」
ノアの胸の奥が、きしんだ。
前のこと。
どれのことか、聞かなくても分かる。
黒い荒野。
最終討伐。
助けを求めず、笑って死んだ誰か。
ノアは認めていない。
認めていないが、レオの中では終わっていない。あの時、手が届かなかった。助けてと言わせられなかった。声を聞けなかった。だから今、ノアの予定まで把握する。呼吸まで聞く。首輪をつける。声を閉じる。
ひどい理屈だ。
痛い理屈でもある。
ノアはそれを見てしまう自分が嫌だった。
「それで俺を縛るな」
声は少し掠れた。
レオは、今度は手を伸ばさなかった。
「縛っているね」
「また否定しない」
「否定したら、君は怒る」
「否定しなくても怒る」
「うん」
「うん多いな、今日」
ノアは椅子に座った。
力が抜けたわけではない。怒りはまだある。けれど、朝から糸と喉と予定表と真正面から殴り合うのは疲れる。人間の精神力には限度がある。魔法学院はそこを履修科目に入れた方がいい。
レオは少し離れた場所に立っていた。
近づかない。
珍しい。
ノアが本気で拒んだから、距離を測っているのだろう。測っている時点で管理者様だ。皮肉の精度が高すぎて腹が立つ。
ノアは机に置かれた予定表を指で弾いた。
「これは没収」
「必要なら、もう一枚書く」
「書くな」
「分かった」
「本当に?」
「今日は」
「今日は」
ノアは顔を覆った。
「もう、その言い方ほんと嫌い」
「嘘はつきたくない」
「嘘より厄介な正直さってあるんだな。勉強になる」
朝食へ向かう前、レオはもう一度だけ水の杯を見た。
ノアはそれに気づき、先に言った。
「喉はこのままでいい」
「痛む?」
「痛むけど、いい」
「……分かった」
レオの声が、ほんの少しだけ沈んだ。
ノアはそれを聞き取ってしまった。
こちらが拒んだことで、レオは傷ついている。傷ついているが、今朝は手を出さない。そこに少しだけ苛立ちと、少しだけ罪悪感のようなものが混じる。ああ、面倒くさい。人間関係、感情の種類が多すぎる。もっと単純な仕様にしてほしい。無理だろうが。
ノアは立ち上がった。
「行くぞ、管理者様」
「その呼び方を続けるの」
「嫌なら否定しろ」
「否定したら、君は信じる?」
「信じない」
「なら、言葉を無駄にしたくない」
「同じ返しするな。腹立つ」
レオは少しだけ微笑んだ。
ほんの少しだけ。
ノアはその顔を見て、余計に腹が立った。
その日は、いつもより長かった。
午前の黒魔法制御理論では、ノアは何度か首元を押さえた。伴侶首輪の熱は強くない。だが、朝のやり取りのせいか、赤い糸がずっと細く震えていた。レオの不安なのか、自分の苛立ちなのか、もう判別しにくい。糸を通じて互いの感情が混ざるようで気味が悪い。
昼食では、ルカがいつものように話しかけてきた。
「今日、魔具工房来る?」
ノアはパンをちぎりながら答えた。
「行く予定だったけど、ちょっと図書室優先かな」
「また古代語?」
「趣味が暗いので」
「黒魔法科っぽい」
「偏見を雑に投げるな」
ルカは笑った。
その笑いに、ノアも少し笑った。
首元の糸が、遠くで小さく震える。
レオは食堂の別の席にいた。
だが、ノアには分かった。
聞いている。
いや、感じている。
ノアが誰と話し、どこへ行く予定を変え、どの声を使っているか。レオは全部拾っている。
腹立たしい。
だが、もう驚きは薄れている。
慣れたくないものに慣れ始めるのは危険だ。人類、檻にも順応する。だから檻は怖い。
午後、図書室で古代語資料を広げても、地下書庫の記録ほどの収穫はなかった。黒い花、災厄、器、オルという欠片。一般資料では、せいぜい古い戦争詩の中に似た単語がある程度だった。
ノアは何冊か借りるふりをして、実際にはほとんど頭に入っていないまま本を閉じた。
レオが隠した記録。
そこに何があったのか。
地下書庫の黒い頁の端に浮かんだもの。レオが白金の光で隠したもの。ノアには見せるべきではないと言ったもの。
知りたい。
知らないままにされるのが一番嫌だ。
夕食後、ノアは寮へ戻った。
予定表通りに。
それがまた腹立たしかった。
部屋へ入ると、レオは机の前にいなかった。珍しい。小卓には水がある。いつも通り。けれど本人はいない。ノアは眉を寄せた。
机の引き出しも、寝台も、窓辺も変わらない。
だが、レオの上着がない。
ノアは小さく息を吐いた。
「管理者様が不在かよ」
それなら、こちらもやることがある。
ノアは自分の机へ向かい、黒い花の紙片を取り出した。封魔紙越しに、古代語の細い文字を追う。黒災忌会。器。災厄。オル。何度読んでも、腹立たしくなる単語ばかりだ。
やがて夜が深くなった。
レオは戻らない。
ノアは、ふと違和感を覚えた。
赤い糸が、いつもより静かすぎる。
完全に切れているわけではない。首輪はそこにある。熱もある。だが、レオの気配が少し遠い。隠している。たぶん、意図的に。
ノアは立ち上がった。
部屋を出る。
廊下へ出ると、夜間灯が白い石壁を青く照らしていた。レオの気配は、中央棟の方ではない。寮の奥。共用学習室か、空き部屋か。ノアは赤い糸の微かな方向を辿った。
皮肉な話だ。
管理される側が、糸を使って管理者を探している。
最悪の相互監視社会である。誰も得をしない。いや、レオは得をしているかもしれない。腹立つ。
寮の奥、使われていない小さな談話室に、灯りがあった。
扉は少しだけ開いている。
ノアは中を覗いた。
レオがいた。
机の上に、地下書庫から持ち出した記録を広げている。白金の結界が薄く張られ、周囲へ文字の気配が漏れないようにしていた。レオは一人で読んでいる。表情は硬い。
その手が、かすかに震えていた。
ノアは息を潜めた。
机の上の記録に、黒い術式図が描かれている。
同盟儀式の魔法陣に似ていた。
いや、似ているだけではない。ノアの記憶の奥にある白い床。黒と白、金と銀の旗。誓約の杯。王印。父王の血。ルミナリア聖王国の聖魔法に偽装された白金の刃。
それらが、一瞬で喉の奥へ戻った。
記録には古代語で一文が記されていた。
同盟儀式は外部術者によって汚染された可能性。
レオの指が、その行を押さえていた。
震えている。
ノアは扉を開けた。
「何を隠してる?」
レオが顔を上げた。
白金の結界が、静かに揺れた。




