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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第一章【赤い糸は檻になる】

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第22話 戻れと呼ぶ黒い声



 黒い頁が、ノア・クロウの声で囁いた。


「戻れ」


 その声は、地下書庫の冷えた空気を震わせなかった。


 耳に届いたわけでもない。


 机の上に開かれた古い断片記録。その黒ずんだ頁に並ぶ文字が、声という形を取っただけだった。けれど、それは確かにノアの声だった。掠れ方も、低さも、喉の奥で笑い損ねたような乾いた響きも、何もかも似ていた。


 似ていた、では足りない。


 同じだった。


 ノアは、喉を押さえた。


 自分は喋っていない。


 唇も動いていない。


 息すら止めていた。


 それなのに、自分の声が、自分ではないものの言葉を吐いた。


 背筋に、冷たいものが這った。


 嫌悪だった。


 恐怖より先に、嫌悪が来た。首筋から背中へ、細い黒い虫が這い降りるような感覚。声は、自分のものだ。軽口も、掠れ声も、嘘をつく時に少し軽くなる声も、レオに嫌になるほど聞き分けられている声も、全部ノアのものだ。


 それを、頁が勝手に使った。


 ノアは低く言った。


「俺の声で喋るな」


 声が掠れていた。


 怒りよりも、吐き気に近い嫌悪が混じっている。


 隣にいたレオ・アステルレインの表情から、温度が消えた。


 青白い魔力灯の下で、彼の碧い目が頁を見ていた。怒鳴らない。荒げない。だが、指先に灯る白金の光が、静かに鋭くなる。地下書庫の冷えた空気が、さらに一段冷たくなった気がした。


 レオは、とても穏やかな声で言った。


「君の声を、返して」


 黒い頁は答えなかった。


 代わりに、文字が揺れた。


 古代語の線が、頁の上でほどけ、また別の形へ組み上がる。黒い霧でできた虫の群れのように、文字がじわじわと動く。ノアはそれを見ているだけで喉が詰まった。


 首元の伴侶首輪メイト・カラーが熱を持つ。


 赤い輪の内側で、昨夜聞いた黒い声が目を覚ます。


 災厄。


 黒い災厄。


 戻れ。


 ノアは奥歯を噛んだ。


 違う。


 戻る場所などない。


 戻るも何も、ここが今だ。


 アルカディア魔法学院の地下書庫。冷えた石床。青白い魔力灯。紙と埃と封印蝋の匂い。隣にいるのは、レオ・アステルレイン。白金の聖魔法を指先に灯した、現世の聖魔法科の王子様。


 封印庫ではない。


 黒い荒野ではない。


 最終討伐の日ではない。


 それでも、頁は呼ぶ。


「イリアス」


 その名が落ちた瞬間、ノアの首輪が焼けるように熱を持った。


「っ……!」


 喉が詰まる。


 胸の奥へ圧が沈む。


 赤い糸が、黒く濁りかけた。いつもなら白金の光に包まれ、レオへ繋がる赤い糸。その中心に、黒い墨を一滴垂らしたような濁りが走る。伴侶首輪の輪郭が一瞬だけ歪み、喉の奥に黒い爪を立てた。


 ノアの黒魔法回路が反応した。


 指先から黒い霧がこぼれる。机の上の頁へ向かおうとする。拒むためか、応えるためか、自分でも分からない。黒い霧は本来ノアの魔力だ。なのに、頁の黒い文字がそれを引き寄せる。


 膝から力が抜けた。


 椅子が後ろへずれ、床に擦れる音が地下書庫へ響く。ノアは机の縁を掴もうとしたが、指先が震えてうまく力が入らなかった。首輪の熱が喉を締め、魔力核へ沈む圧が呼吸を浅くする。


 短い絶叫が、喉から漏れた。


「ぐ、ぁ……っ、やめ、ろ……っ!」


 叫びは長く続かなかった。


 喉が詰まり、途中で潰れた。息が引き攣り、声は黒い頁へ吸い込まれるように途切れる。瞳孔が開く。青白い魔力灯の光が輪になって滲み、視界の端が赤黒く濁った。ノアの赤い瞳の奥に、黒魔導書の残響が混ざる。目の縁に細い血管が浮き、焦点が一瞬だけ頁へ縫い止められた。


 吐き気が喉元まで上がる。


 だが、吐きはしなかった。


 ノアは唇を噛み、黒い霧を指先で握り潰すように散らした。身体は揺れている。膝が床に落ちた。石床の冷たさが膝を通じて伝わる。惨めだ。腹立たしい。頁ごときに膝をつかされている事実が、何よりも腹立たしい。


 レオが動いた。


 白金の聖魔法が、一気に地下書庫の閲覧机を包む。


 まず、ノアの声を閉じた。


 周囲へ漏れないように。


 頁へ奪われないように。


 青白い魔力灯の光が揺れ、机の周囲に透明な結界が降りる。外の棚の気配が遠ざかり、紙の匂いも埃の気配も薄くなる。音が閉じ込められた。ノアの荒い呼吸さえ、結界の内側で白金の糸に包まれている。


 ノアは床に片膝をついたまま、苦しい息で笑った。


「また閉じたな」


 レオは、頁から目を離さない。


「君の声を、これ以上奪わせない」


「俺の声……封鎖する口実、多すぎ……」


「今は必要だよ」


「今は、って言うな……」


 声が掠れる。


 それでも、声はノアのものだった。


 レオの白金の糸が、それを確かめるように震えた。


 レオは片手で頁へ聖魔法を向け、もう片方の手をノアの喉元へ近づけた。触れない距離で止まる。白金の光が首輪の熱へ流れ、赤い糸を黒い濁りから引き離そうとした。


 赤い糸が震える。


 黒い濁りが抵抗する。


 ノアの喉に熱が走った。


「っ、ん……!」


 短い呻きが漏れた。


 レオの目が細くなる。


 怒っている。


 ノアへではない。黒い頁へ。ノアの声を使い、前世名で呼び、伴侶首輪へ黒い濁りを混ぜようとしたものへ。


 レオの声は、あくまで穏やかだった。


「返して」


 黒い頁の文字がざわめく。


 戻れ。


 イリアス。


 器。


 災厄。


 ノアは歯を食いしばった。


「俺は、ノアだ……!」


 その声は低く、掠れていた。


 だが、確かに自分で出した声だった。


 頁の文字が一瞬止まる。


 レオの白金の光がそこへ入り込んだ。


 聖魔法は、黒い文字を焼かなかった。無理に焼けば、記録ごと壊れる。代わりに、文字と声の間を切り離すように、細い白金の糸を頁の上へ走らせた。黒い文字が、音を失っていく。ノアの声を真似ていた響きが剥がされ、ただの古い文字へ戻されていく。


 黒い頁が震えた。


 その隅に、別の文字が浮いた。


 オルド。


 レオは見た。


 ノアも頁を見ていたが、視界がまだ揺れていた。瞳孔が開き、赤黒く濁った目では、文字の端までは追えない。レオの白金の光が、一瞬だけ強くなり、浮かんだ文字を隠すように頁の上へ重なった。


 ノアは気づかなかった。


 レオは何も言わなかった。


 やがて、黒い頁の震えが止まった。


 結界の中に、静けさが戻る。


 ノアは床に膝をついたまま、机の脚に片手を添えて息を整えた。呼吸はまだ浅い。喉が焼けるように痛い。首輪の熱は落ち着き始めているが、赤い輪の内側に黒い汚れのような余韻が残っている気がした。


 レオが膝をついた。


 視線が近くなる。


 白金の光が、ノアの喉元へもう一度流れた。今度は封じるためではなく、整えるため。掠れた声の通り道を癒し、首輪の熱を鎮め、黒く濁りかけた赤い糸をゆっくり元へ戻していく。


 丁寧だった。


 苛立つほど丁寧だった。


 ノアは苦笑した。


「……声、返ってきた?」


「今、確認している」


「声紋認証かよ……」


「君の声だから」


「だから確認するなって言っても、どうせするんだろ」


「する」


「即答すんな」


 レオの指先が、ノアの喉元から少しだけ離れた。


 触れていないのに、触れられているような感覚が残る。白金の光が声帯の周囲をなだめ、呼吸を整え、黒い頁に乱された魔力回路を押し戻していく。


 ノアは椅子へ戻ろうとした。


 膝に力が入りにくい。


 レオが支えようとする。


 ノアは一瞬だけ睨んだが、手を払わなかった。払うほどの余裕がなかった。腹立たしい。こういう時に限ってレオの手は役に立つ。世界はノアに対してだいぶ嫌がらせが上手い。


 椅子へ座ると、ようやく息が落ち着いた。


 レオは結界をまだ解かない。


 ノアは周囲を見た。


 白金の遮音結界が机の周囲を包んでいる。外の書庫の音は遠い。羽根ペンが動く気配も、棚の封印が軋む音も、ほとんど聞こえない。ノアの声だけが、結界の中でレオへ向かう。


「まだ閉じてる」


「必要だから」


「俺の声を守ってるのか、閉じ込めてるのか、たまに分からなくなるな」


 レオは黙った。


 ノアは目を細めた。


「そこで黙るなよ」


「どちらも、していると思う」


「正直で最低」


「嘘をついても君には分かる」


「分かりたくないね、本当に」


 ノアは黒い頁を見た。


 もう声はしない。


 だが、そこにあった文字は、まだ意味を持っている。黒魔導書グリモワール・アビスは自然発生ではなく、誰かが王家の血と戦争記録を使って編んだ可能性がある。黒い紋章。オルという欠片。そして今、レオが隠した何か。


 ノアは息を整えながら、頁の端へ視線を向けた。


 そこには何もなかった。


 だが、不自然に白金の光が残っている。


 レオが何かを隠した。


 ノアはすぐ分かった。


 分かりたくなくても分かる。


 この男は、ノアに見せたくないものを隠す時、あまりにも静かになる。


「今、何かあっただろ」


 レオは答えなかった。


 ノアは椅子の背に身体を預ける。


「レオ」


「喉は?」


「話を逸らすな」


「まだ掠れている」


「逸らすなって言ってる」


 レオは、黒い断片記録へ視線を落とした。


 それから、ごく自然な動きで本を閉じた。


 白金の封印を重ねる。


 さらに、自分の上着の内側へ小さな記録紙を滑り込ませた。


 ノアの目が細くなる。


「隠したな」


 レオは静かに言った。


「まだ君に見せるべきではない」


 ノアは笑った。


 喉が掠れているせいで、笑い声は低く、ざらついていた。


「そういうの、管理って言うんだぞ」


 レオはノアを見た。


 否定しなかった。


「うん」


 白金の結界の中で、赤い糸が静かに熱を持った。




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