第21話 地下書庫の黒い頁
赤い糸は、眠りを許さなかった。
ノア・クロウが寮部屋の扉へ手を伸ばした瞬間、向かいの寝台からレオ・アステルレインの声がした。
「一人で行くつもり?」
暗がりの中で、ノアは肩をすくめた。
予想はしていた。
予想はしていたが、実際に声をかけられると腹が立つ。寝ていろと言いたい。眠っていろと言いたい。せめて、寝たふりくらい最後までやりきれと言いたい。どうせ起きているなら、最初から起きていた顔をしていればいいのに、なぜこの男は寝台の闇から静かに声をかけるのか。演出過多である。王子様は舞台効果まで完璧でなくていい。
ノアは振り返った。
「寝てろよ、王子様」
レオは上体を起こしていた。
月明かりの薄い部屋で、碧い目だけが静かに光を拾っている。白い寝衣の襟元は少しだけ乱れていたが、それでもノアよりよほど整って見えた。腹立たしい。寝起きくらい負けてほしい。いや、別に勝負していない。していないのに負けた気分になる。人類、無駄な比較で自滅しがちだ。
「君が一人で行くなら、僕は眠らない」
「脅し文句としては健康に悪いな」
「脅しじゃない」
「じゃあ何」
「事実だよ」
「事実で殴るのやめてくれませんかね」
ノアは扉から手を離した。
指先には、黒い花の紙片を封魔紙ごと挟んである。紙片は静かだった。静かすぎるほどに。だが、首元の伴侶首輪は熱を持っている。赤い糸が、レオへノアの行動を伝えていた。
分かっている。
分かっていて、それでも一人で行こうとした。
だから、これはノアの負けではない。たぶん。いや、負けでいい。勝ち負けで言えば、この首輪をつけられた時点でかなり負けている。認めたくないだけだ。
レオは寝台から降り、静かに上着を羽織った。
「地下書庫へ行くんだね」
「赤い糸、便利だな。もう俺の行き先を地図で表示してくれそう」
「地図はいらない。君がどこへ向かうかは分かる」
「怖い返事」
「黒い花の紙片を調べるなら、地下書庫だと思った」
「推理力の方か。少し安心した」
「糸も震えていた」
「安心返せ」
ノアは扉を開けた。
廊下は暗かった。
寮の夜間灯だけが、白い石造りの壁を青く照らしている。昼間はざわめきで満ちている男子寮も、夜半を過ぎれば足音一つ響く。遠くで風が窓を撫で、どこかの部屋の中から小さな寝息のような音が漏れていた。
ノアは声を潜めた。
「夜の図書館デートにしては監視が重い」
「デートなら嬉しいよ」
「そこ拾うな」
「君から言った」
「言葉の事故を回収するな。放置してくれ」
レオは隣に並んだ。
近い。
歩幅が違うはずなのに、なぜかぴたりと合う。廊下の角を曲がる時も、階段を降りる時も、レオはノアの半歩後ろにいる。守る位置。止める位置。逃がさない位置。
ノアは横目で見た。
「ついてくるだけじゃなくて、距離の取り方が重い」
「君が倒れた時に支えられる距離」
「倒れる前提かよ」
「地下書庫で黒魔導書関連の記録を読むなら」
「はいはい、さすが王子様。嫌な予測が上手」
レオは否定しなかった。
それが、いつも通り腹立たしい。
中央棟へ続く渡り廊下は、夜風が冷たかった。窓の外には学院の中庭が見える。噴水は止まっており、水面だけが月を淡く映していた。昼間に黒い花の紙片が貼られていた掲示板は、今は何もない顔をしている。何もなかったように。こういう顔をするものほど信用ならない。
地下書庫へ降りる階段は、中央棟の奥にあった。
一般生徒が自由に使える図書館とは違う。学院の古い記録、封印資料、禁書目録、結界維持に関わる術式帳などが収められている場所。入室には教師の許可が必要、と規則には書いてある。
ノアは階段前の結界札を見て、軽く笑った。
「許可制だってさ」
「知っている」
「破るの?」
「君が破るなら、僕も行く」
「共犯宣言、もっと躊躇して」
「君を一人で行かせるよりいい」
「重いなー。規則違反まで伴侶仕様」
レオは指先を上げた。
白金の聖魔法が、結界札の表面をそっと撫でる。壊すのではない。眠らせるような手つきだった。札の青い文字が一瞬だけ薄くなり、階段へ降りる扉の鍵が静かに外れた。
ノアは眉を上げた。
「お前、優等生の顔して鍵開けうまいな」
「結界を傷つけていない。朝までには戻る」
「そういう問題?」
「そういう問題にしておく」
「王子様、意外と悪い」
「君のためなら」
「俺を理由に悪事を正当化するな」
扉が開く。
冷えた空気が、下から流れてきた。
紙と埃と封印蝋の匂い。
古い石の湿った匂い。
魔力を長く閉じ込めた場所に特有の、金属にも似た苦い匂い。
ノアは息を吸い、少しだけ顔をしかめた。
嫌いな匂いではない。
けれど、身体の奥が反応する。
古い魔法書。
封じられた記録。
隠された名前。
そういうものは、たいてい人間に優しくない。わざわざ地下に閉じ込められている時点で、だいたい性格が悪い。地上で仲良く暮らせない書物を地下に集めるな。集めた結果、こうして夜中に人が降りる。人類、学習しない。
階段を降りると、地下書庫が広がっていた。
青白い魔力灯が、天井から等間隔に浮かんでいる。光は弱い。だが、古い本の背表紙や、結界棚の銀線を浮かび上がらせるには十分だった。棚は高く、奥まで並んでいる。木製の棚もあれば、黒い鉄でできた棚もある。いくつかの棚には、透明な結界が張られ、本の背に封印蝋が押されていた。
禁書目録。
封印記録。
古代魔法戦争年表。
王家血統術式索引。
結界破損報告書。
封印棚の端に、古い羽根ペンが勝手に動いていた。侵入者の記録を取っているのかもしれない。レオが白金の光をひと撫ですると、羽根ペンは一度震え、何も書かずに眠るように止まった。
ノアは小声で言った。
「優等生、証拠隠滅までできるの怖い」
「隠滅ではない。記録を止めただけ」
「言い方の問題じゃない」
レオは地下書庫の結界を確認していた。
棚の間をゆっくり見渡し、侵入検知の術式、禁書棚の封印、古い警報陣の位置を目だけで追っている。ノアが本を探している間、レオは周囲を見ている。危険を先に見つけるため。ノアを一人で行かせないため。逃げ道を確保するため。あるいは、逃げ道を塞ぐため。
たぶん全部だ。
ノアは封魔紙に挟んだ黒い花の紙片を取り出した。
古代語の欠片。
オル。
黒い災厄の器へ。
災厄は目覚めた。
紙片は地下書庫の空気に触れた瞬間、わずかに黒く濃くなった。首元の伴侶首輪が熱を持つ。ノアは指先で首を押さえた。
レオがすぐに振り向く。
「苦しい?」
「眠いだけ」
「嘘をつく時、声が軽くなる」
「その分析、ほんと嫌い」
「苦しい?」
「少し熱い。吐くほどじゃない」
「少しでも言って」
「今言った。満足?」
「少し」
「少し多いな」
ノアは棚の表示を追った。
古代語資料は地下書庫のさらに奥にあった。結界棚の一角。王家血統術式、戦争記録、禁書目録の近く。嫌な配置だ。古代語というだけなら普通の資料室にもあるはずだが、黒い花の紙片が反応するような文字は、どうやらこちら側らしい。
レオが棚の結界へ手をかざした。
白金の光が表面を調べる。
「開けられる?」
ノアが聞くと、レオは短く答えた。
「開ける」
「できるか聞いたんだけど、やる気で返された」
「君が調べるなら必要だ」
「最近のお前、規則違反が自然」
「君の影響かもしれない」
「俺のせいにするな」
結界棚が静かに開いた。
古い紙の匂いが、さらに濃くなる。
ノアは棚の背表紙を指で追った。
『古代ノクスヴェルト王家黒魔法体系』
『魔法戦争期における禁書形成過程』
『王家血液儀式と黒属性魔力の親和性』
『災厄記録断章』
その背表紙を見た瞬間、喉が詰まった。
災厄。
文字だけなのに、首輪が熱を持つ。
ノアは笑おうとした。
「名前の圧がすごいな。もっとかわいい題名にしてくれればいいのに」
声が少し掠れた。
レオはすぐ気づいた。
「ノア」
「大丈夫」
「大丈夫の声じゃない」
「お前の声判定、本当にうるさい」
ノアは『災厄記録断章』へ手を伸ばした。
触れた瞬間、黒い冷気が指先から上がる。
首元の熱が強くなった。
伴侶首輪が赤く脈を打つ。赤い糸がレオへ異常を伝える。魂糸がノアの呼吸の乱れを拾って、白金の光を震わせた。
レオが横から本を支えた。
「一人で触らないで」
「本まで同伴かよ」
「これは、よくない」
「見れば分かる。表紙の時点で性格悪い」
本を机へ運ぶ。
地下書庫の奥に、小さな閲覧机があった。青白い魔力灯が一つ浮かび、机の上だけを照らしている。椅子は二つ。まるで、二人で来ることが最初から決まっていたようだった。そういう偶然は嫌いだ。
ノアは椅子に座り、封魔紙の紙片を横に置いた。
レオは隣に座る。
近い。
当然のように近い。
「近い」
「何か起きたら止める」
「その理由、万能すぎて嫌い」
「今は必要だよ」
「今は、をまた使った」
レオは反論しなかった。
ノアは本を開いた。
頁は黒ずんでいた。
古い紙の黄ばみではない。墨を吸い込んだような黒。文字は古代語で、いくつかの部分は封印蝋で潰されている。読み取れる箇所を追うだけでも、喉の奥が重くなった。
黒魔導書。
その名前が、頁の中央にあった。
ノアは息を止めた。
セラフィードの腕。
黒い霧。
最期の笑み。
黒い頁。
喉の奥が詰まる。首輪が熱を持つ。胸の奥に圧が落ちる。瞳孔が開き、青白い魔力灯の光が少し滲んだ。赤い瞳の端に、血が集まるような熱が走る。
レオの手が、机の上でノアの手首に触れかけ、止まった。
「苦しい?」
「眠いだけって言っただろ」
「二回目の嘘だね」
「数えるな」
「声が軽い」
「ほんと嫌い、その分析」
ノアは頁へ視線を戻した。
読め。
読まなければ進まない。
黒い花の紙片が、何を呼んでいるのか。
首輪の内側で誰が「災厄」と呼んだのか。
オルという欠片が何なのか。
調べなければ、また呼ばれる。
ノアは古代語を追った。
黒魔導書は、自然発生した禁書にあらず。
戦争記録、王家の血、死者の声、封じられた怨嗟を材料として編まれし可能性あり。
編纂者、不明。
王家血統への反応、顕著。
特にノクスヴェルト王家黒属性魔力との結合率、異常。
ノアの指が止まった。
黒魔導書は、自然発生ではない。
誰かが編んだ。
王家の血と、戦争記録を使って。
喉の奥が、さらに詰まる。
紙の匂いが急に濃くなった。埃、封印蝋、古い血のような魔力の臭い。胃の奥が反応する。吐き気がこみ上げた。
「っ……」
ノアは口元を押さえた。
身体が前へ折れそうになる。膝が椅子の下で震え、魔力核へ鈍い圧が沈んだ。喉が鳴る。声にならない短い音が漏れかける。実際に吐くほどではない。だが、胸の奥から黒い霧を吐き出したくなるような気持ち悪さがあった。
レオがすぐに動いた。
白金の光が、ノアの背中ではなく、首元と胸の前に回る。触れずに支える。呼吸の通り道を整え、魔力核へ沈む圧を少し押し返した。
「息をして」
「してる……」
「浅い」
「実況すんな……」
「水」
「今はいらない」
「喉が詰まっている」
「分かってる」
ノアは机に片手をついた。
視界が少し暗い。
瞳孔が開いたまま戻りにくい。青白い魔力灯の周りに滲みが見える。目の奥が熱い。赤い瞳の縁がわずかに血走っているのが、自分でも分かった。
それでも、読む。
ノアは顔を上げた。
「続き」
「休んで」
「読める」
「ノア」
「読めるって言ってる」
声が低くなった。
レオは、そこで無理に止めなかった。
ただ、赤い糸の熱が強くなった。止めたい。読ませたくない。けれど、ノアが自分の意思で進もうとしていることも分かっている。レオの中で、その二つがぶつかっている。
ノアは頁をめくった。
封印蝋が一部剥がれている箇所があった。
そこに、黒い紋章が描かれていた。
三本の線が絡み、中央に目のような歪み。
ノアの首輪の内側に浮かんだもの。
黒い花の紙片に刻まれていたもの。
前世の同盟儀式の床で、違和感として見えたもの。
ノアの喉が、ひゅっと詰まった。
レオの白金の光が揺れる。
「これ」
「見覚えがあるね」
「お前にも?」
「首輪の内側で見た」
「だよな」
ノアは紋章の横の文字を読もうとした。
だが、そこは黒く潰れていた。
かろうじて、一文字だけ残っている。
オル。
ノアは息を呑んだ。
「紙片と同じ」
レオの声が低くなる。
「名前の一部かもしれない」
「嫌な響きだな」
「君は知っている?」
「知らない」
嘘ではなかった。
知らない。
だが、知らないはずなのに、身体の奥が反応している。
首輪の熱が、じわりと広がる。
黒い花の紙片が、机の上でかすかに震えた。
レオがすぐに封魔紙へ白金の光を流す。
ノアは頁の端を押さえた。
指先が冷たい。
黒い文字が、わずかに動いたように見えた。
「……今、動いた?」
レオが即座に顔を上げる。
「離れて」
「待て」
「ノア」
「待てって」
ノアは黒魔導書の断片記録へ視線を落とした。
頁の文字が、青白い魔力灯の下で揺れている。インクではない。黒い霧のような文字。古代語の形をしていたはずの線が、少しずつ別の形へ変わっていく。
ノアの喉が詰まる。
首輪が熱い。
赤い糸が、強く震え始める。
レオの手がノアの肩へ伸びた。
その瞬間、頁の黒い文字が、声を持った。
しかも、その声はノア自身の声だった。
掠れた、低い、どこか遠い声。
「戻れ」
地下書庫の青白い魔力灯が、一斉に揺れた。
レオの赤い糸が、強く震えた。




