第20話 器と呼ぶな
黒い花の紙片は、机の上に置かれていた。
白金の封魔紙に挟まれ、さらに小さな結界具で四隅を押さえられている。それでも、紙片はただの紙には見えなかった。花弁の形をした黒い縁は、灯りを吸い込むように沈み、中央に刻まれた古代語は、読む者の目の奥へ細い棘を入れてくるようだった。
夜の三〇七号室は静かだった。
窓の外では、中庭の噴水が低く鳴っている。寮の廊下の足音はもう遠く、魔力灯の光だけが机の上へ落ちていた。白い壁も、二つの寝台も、小卓の水差しも、夜の薄い影をかぶっている。
ノア・クロウは、椅子に片膝を立てるようにして座り、黒い紙片を覗き込んでいた。
指先には、まだ少し痺れが残っている。
昼間、紙片に触れた時に入り込んだ黒い花の紋様は、レオ・アステルレインの聖魔法でほとんど抜かれていた。だが、爪の端にほんのわずかな黒が残っている。墨のような、影のような、洗っても落ちない記憶のような黒だった。
首元も熱い。
薄い赤い輪が、皮膚の上ではなく魂の表面に浮いている。伴侶首輪。他人には見えない。けれど、ノアとレオには見える。見えるだけでなく、反応する。黒い花の紙片を前にすると、赤い糸がごく細く震え、喉の奥に熱を灯した。
ノアは、わざと軽く言った。
「器だってさ。俺、収納家具じゃないって何回言えばいい?」
机の向こうに座っていたレオは、紙片を見ていなかった。
ノアを見ていた。
相変わらず姿勢がいい。夜になっても、制服の襟は乱れていない。金髪は柔らかく光を受け、碧い目は穏やかなはずなのに、奥の温度は低かった。黒い花の紙片が置かれてから、ずっとこの調子だ。
レオは静かに言った。
「君は器じゃない」
ノアは口元を上げた。
「そこは同意してくれるんだ」
「君は、僕の伴侶だ」
その言葉で、ノアの笑みが止まった。
伴侶。
短い言葉だった。
けれど、その二文字は部屋の空気を変えるには十分だった。白金の光。赤い糸。雨の礼拝堂跡。朝の水。髪を整える手。黒い荒野。最後まで助けを求めなかった声。
記憶ではないと言い切りたい。
夢だと言いたい。
前世など知らないと笑いたい。
だが、その言葉だけは、笑う前に喉へ引っかかる。
ノアは少し遅れて、軽い声を作った。
「王子様、そういう重い単語を夜に投げるな。床が沈む」
「軽く言える言葉じゃない」
「なら、なおさら気軽に言うな」
「気軽ではないよ」
「知ってる。だから嫌なんだよ」
レオの視線が、ノアの首元へ落ちた。
赤い輪が熱を持つ。
伴侶という言葉に反応したのだと分かった。赤い糸が魂の奥で震え、喉の周囲に細い熱を回す。まるで、その言葉を契約が喜んでいるようだった。
ノアは首を押さえた。
「……勝手に反応するな」
「痛い?」
「痛くはない。腹立つ」
「熱が上がった」
「実況するな。お前の糸だろ」
「僕の糸だから分かる」
「だから腹立つんだよ」
ノアは紙片へ目を戻した。
黒い花の裏側には、さらに細かい古代語が隠れている。昼間読んだ「黒い災厄の器へ」という文だけではない。もっと小さい文字。花弁の端、封印式の隙間、黒い紋様に紛れるように書かれた欠片。
古代語は、普通の文字よりも読むのに神経を使う。
意味だけではない。魔力の流れ、文字の深さ、誰へ向けて書かれたか。古い術式を兼ねた文面は、読む行為そのものが触れることに近かった。だから首輪が反応する。だからレオが近い。
近い。
距離が近い。
ノアはちらりと横を見た。
いつの間にか、レオは椅子を机の角へずらしていた。向かいではなく、すぐ横。腕を伸ばせば触れられる距離。ノアが紙片へ手を伸ばせば、レオがその手を止められる距離。
ノアは目を細めた。
「近い」
「紙片が反応したら止める」
「俺が逃げる距離も減らしてるだろ」
「逃げるの?」
「逃げたい気持ちは毎秒ある」
レオは否定しなかった。
その沈黙が、また腹立たしい。
ノアは紙片の縁を軽く押さえた。触れると指先が冷える。黒い痺れがまた爪の下に入り込もうとしたが、レオの白金の魂糸がすぐ横で震えた。見張りだ。完全に見張り。人間、保護という名でここまで露骨に監視してくる。図太いにもほどがある。
ノアはため息をついた。
「器扱いは駄目で、伴侶首輪はいいわけ?」
レオの目が、紙片からノアへ戻った。
「違う」
「どこが?」
「僕は君を失いたくない」
「それ、答えじゃなくて欲望」
空気が止まった。
ノアの声は低かった。
軽口ではない。
逃げるための冗談でもない。
レオの矛盾へ、真正面から刃を当てる声だった。
レオは怒鳴らなかった。
顔色も変えなかった。
ただ、赤い糸が強く熱を持った。
「っ……」
ノアは短く呻いた。
喉の奥が詰まる。伴侶首輪が一瞬きつく熱を持ち、胸の奥へ圧が落ちた。魔力核が細く締められるような感覚。瞳孔がわずかに開く。机の上の黒い花が、赤い視界の端で揺れた。
レオの指が伸びる。
だが、ノアは手を上げて止めた。
「触るな。今のはお前のせいだろ」
「君が苦しそうだった」
「苦しくさせたのは、誰の糸?」
「僕だね」
「正解。じゃあ手を出すな」
レオの手が止まる。
ノアはゆっくり息を吐いた。
赤い熱はすぐには引かない。喉の奥に輪の形が残っている。伴侶という言葉に契約が喜び、器という言葉にレオが怒り、矛盾を突かれた瞬間に糸が熱を持つ。
最低の会話構造だ。
喧嘩に魔法反応を混ぜるな。面倒すぎる。
ノアはレオを見た。
「黒災忌会だか何だか知らないけど、あいつらは俺を器って呼んだ。災厄を入れるもの、目覚めさせるもの、都合のいい入れ物。腹立つよ。そりゃ腹立つ」
レオは黙って聞いていた。
「でも、お前も似たことしてる」
「違う」
「だからどこが」
「君を何かのために使いたいわけじゃない」
「じゃあ何のために首輪つけた」
「君を失わないため」
「だから、それはお前のためだろ」
レオの瞳が揺れた。
ノアは逃がさなかった。
「俺のためって言うなら、俺の自由も見ろ。俺の選択も見ろ。俺が嫌だって言う声も聞け。守るって言いながら、俺の逃げ道を潰すな」
「君は逃げ道があると、死ぬ方へ行く」
「それを決めるな」
「決めていない」
「決めてる」
ノアの声が、さらに低くなる。
首輪が熱を持つ。
だが、止めない。
「俺が自分を壊すって、お前はすぐ言う。俺が一人で背負うって、お前はすぐ決める。だから先に結ぶ。だから先に塞ぐ。だから先に管理する。レオ、それは俺を見てるんじゃない。お前が失った何かを見てる」
レオの顔から、色が引いた。
ほんの少しだけ。
けれど、確かに。
ノアは息を吸った。
言いすぎたかもしれない。
だが、言わなければいけなかった。
首輪の熱が強くなる。赤い糸が痛いほど震える。魂糸がノアの声の乱れを拾い、レオへ伝えている。レオはそれを全部聞いている。声だけではない。喉の詰まり、胸の圧、言葉の奥にある恐怖まで。
だからこそ、ノアは逃げなかった。
「俺は器じゃない」
静かに言った。
「災厄の器でも、お前の喪失の受け皿でもない」
レオは、長く黙った。
夜の部屋に、噴水の音だけが遠く聞こえる。机の上の黒い花の紙片は、封魔紙の中で沈黙している。魔力灯の光は揺れず、窓の外の中庭も暗いままだった。
やがて、レオが低く言った。
「分かっている」
ノアは笑いそうになった。
「分かってるなら、何でその顔?」
「分かっていても、怖い」
「答えになってない」
「うん」
「うんじゃない」
「君を失うことを考えると、正しくいられない」
レオの声は、穏やかだった。
けれど、柔らかくはなかった。
剥き出しに近い声だった。
「黒災忌会が君を器と呼ぶことは許せない。黒魔導書の残響が君を呼ぶことも許せない。前世の名が、君を連れていこうとすることも許せない」
「前世って言うな」
「でも、君は覚えている」
「認めてない」
「認めなくても、首輪が反応する」
「最悪の証拠を出すな」
ノアは首元を押さえた。
赤い輪が熱い。
伴侶。
器。
災厄。
全部、違う場所から自分を呼ぶ言葉だった。
ノア・クロウという名前が、薄くなるような気がした。
だから余計に腹が立った。
「なあ、レオ」
「何」
「俺の名前はノアだぞ」
レオが目を見開いた。
ほんのわずかに。
ノアは笑った。
「黒い災厄でも、器でも、イリアスでもない。少なくとも今は、ノア・クロウ。平民出身、黒魔法科、制服を着崩して教師に怒られがちな新入生。黒魔法はちょっと得意。首輪は不本意。朝の水は腹立つけど飲む。そういう俺」
レオの喉が、小さく動いた。
「ノア」
「そう。それ」
ノアは紙片を指で弾いた。
封魔紙の中で、黒い花がかすかに揺れる。
「こいつらにも、お前にも、そこを忘れられると困る」
レオは、今度こそ何も言えなかった。
沈黙の中で、赤い糸の熱が少しだけ落ち着いた。完全には消えない。けれど、喉を締めるような強さは引いた。
レオが、ゆっくり手を伸ばした。
今度はノアの首元ではなく、机の上に置かれた黒い花の紙片へ。
ノアはそれを止めなかった。
レオは封魔紙ごと紙片を持ち上げ、灯りへかざす。黒い花の裏、端の方に小さな文字があった。ノアがまだ読み解いている途中だったものだ。
レオの目が、そこを見つける。
「これは」
「小さすぎて読みにくい。たぶん名前の欠片か、符号」
ノアは身を乗り出した。
首輪が少しだけ熱を持つ。レオも距離を詰める。近い。近いが、今さらだ。どうせこの男は離れない。
黒い花の端に、小さく刻まれた古代語の欠片があった。
オル。
それだけ。
単語にも満たない。
だが、ただの飾りではない。黒い封印式の中心から外れた場所に、意図的に隠されている。発信者の名の一部か、術式の鍵か、古い神名か。
ノアは目を細めた。
「オル……?」
レオも同じ文字を見ていた。
「知っている?」
「知らない。けど、嫌な感じはする」
「紙片から?」
「いや。もっと奥」
喉の奥が冷える。
黒い花の紙片ではない。
それに触れた時、首輪の内側で聞こえた声。災厄と呼ぶ声。世界をもう一度、と囁いた何か。その奥に、同じ音の欠片があった気がする。
オル。
ノアは紙片から目を離した。
「学院の地下書庫、古代語資料あったよな」
レオの視線が動く。
「行くつもり?」
「調べるだけ」
「今?」
「夜の方が人が少ない」
「一人で?」
ノアはわざと軽く笑った。
「王子様、質問が三段階で重い」
「答えて」
「寝ろよ」
「答えて」
ノアは紙片を封魔紙に包み直し、机の引き出しへ入れた。
「今日はもう寝る」
嘘だった。
自分でも分かる雑な嘘だった。
レオも当然分かっている顔をした。だが、その場では追及しなかった。
魔力灯が落とされる。
夜が深くなる。
ノアは寝台へ入り、しばらく目を閉じていた。向かいの寝台からは、レオの規則正しい呼吸が聞こえる。眠っているように聞こえる。聞こえるだけだ。
時計の針が夜半を過ぎる頃、ノアはそっと布団を抜け出した。
首元の赤い輪は、うっすら熱を持っている。
机の引き出しから、黒い花の紙片を封魔紙ごと取り出す。靴を履く。上着を羽織る。音を立てないように扉へ向かう。
赤い糸が、細く震えた。
向かいの寝台から、声がした。
「一人で行くつもり?」
ノアは肩をすくめた。
「寝てろよ、王子様」
レオは、暗がりの中で上体を起こしていた。
眠ってなどいなかった。
碧い目だけが、夜の中で静かにこちらを見ている。
「君が一人で行くなら、僕は眠らない」
ノアの首元で、赤い糸が熱を持った。




