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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第一章【赤い糸は檻になる】

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第19話 黒い花の紙片


 掲示板の前に、人だかりができていた。


 朝の中央棟は、いつもならもう少し騒がしい。食堂から教室へ向かう生徒たちの足音、授業前に教本を抱えて走る声、寮監に叱られた誰かの謝罪、魔具科の生徒がまた何かを落とした金属音。そういう、学院らしい雑多な音が白い石造りの廊下に反響しているはずだった。


 だが今朝は、ざわめきの質が違っていた。


 明るい騒ぎではない。


 何かを見て、触れられず、理解できず、けれど目を逸らせない者たちの声だった。


 ノア・クロウは、廊下の角を曲がったところで足を止めた。


 首元が、すでに熱を持っている。


 薄い赤い輪。伴侶首輪メイト・カラーとして形を持ち始めたそれは、朝の水とレオの聖魔法で一度鎮まったばかりだった。だが中央棟に近づくにつれて、喉の奥で小さく震え始めていた。


 赤い糸が、何かに反応している。


 いや、ノアの内側に残る黒いものが、外の何かに呼ばれている。


 隣を歩いていたレオ・アステルレインが、その変化に気づかないはずがなかった。


「熱い?」


 穏やかな声だった。


 けれど、昨日の夜からそこに残っている温度の低さを、ノアは聞き逃さなかった。


 ノアは肩をすくめた。


「朝から人気者の予感。俺、今日も見世物かな」


「ノア」


「はいはい、真面目に答えるなら、少し熱い。けど大丈夫。まだ首が取れたりはしてませんー」


「そんな冗談は嫌いだ」


「王子様、冗談の好みが繊細」


 レオは答えなかった。


 その視線は、もう掲示板へ向いていた。


 ノアも人だかりの隙間から、それを見た。


 黒い花だった。


 学院の掲示板には、授業変更、寮の規則、図書館の使用時間、実習室の貸し出し表など、味気ない紙ばかりが貼られている。白い紙に青い印、銀縁の通知、茶色い寮務連絡。そういう整った世界の中に、一枚だけ、明らかに異質なものが混じっていた。


 黒い花の形をした紙片。


 花弁は五枚。紙でできているはずなのに、縁がわずかに湿ったように黒く濃い。朝の光を吸い込み、掲示板の木目に影を落としている。中央には古代語で文字が書かれていた。


 災厄は目覚めた。


 ノアはそれを読めてしまった。


 読めた瞬間、喉の奥が熱くなった。


 笑うしかない。


「俺、寝起き悪いって噂になってる?」


 周囲の数人がこちらを振り返った。


 黒魔法科のノア・クロウが、古代語の紙片を見て笑っている。その事実だけで、生徒たちの顔に警戒が広がる。噂の材料を自分から配ってしまった気がする。まあ今さらだ。人類、どうせ勝手に噂する。ならせめてこちらから変な味付けをしておきたい。


 ノアは掲示板へ近づいた。


「黒い花とか趣味が重いな。贈るなら菓子にしてくれ」


 隣のレオは笑わなかった。


 彼の顔から、いつもの穏やかな温度が消えている。碧い目が黒い紙片をまっすぐ射抜いていた。


 誰かが小声で言った。


「何て書いてあるんだ?」


「古代語か?」


「黒魔法科のものじゃないのか」


「災厄って……」


 その言葉が空気に浮かんだ瞬間、ノアの首輪が熱を持った。


 赤い輪の内側に、昨夜聞いた声の残響がかすかに触れる。


 災厄。


 黒い災厄。


 戻れ。


 世界をもう一度。


 ノアは眉を寄せた。


 短く息を吐く。


 その隣で、レオが右手を上げた。


 白金の聖魔法が指先に灯る。


 黒い花の紙片を燃やそうとしているのだと、ノアはすぐに分かった。


「待て」


 ノアは、レオの手首を掴んだ。


 レオの白金の光が、紙片に触れる直前で止まる。


 周囲が息を呑んだ。


 レオはゆっくりノアを見た。


「君を呼ぶものだ」


「だから調べるんだろ」


 ノアの声は低かった。


 自分でも分かるほど、軽口の温度が落ちていた。


 レオの目が細くなる。


 それは、紙片への警戒だけではなかった。ノアが自分ではなく黒い紙片を見ていること。呼ばれたものに背を向けず、むしろ手を伸ばそうとしていること。それを、レオは気に入らないのだ。


 紙片にさえ嫉妬する。


 馬鹿げている。


 馬鹿げているのに、この男なら本当にする。


「燃やしたら、誰が貼ったか分からなくなる」


「君に触れさせたくない」


「調べなきゃ、また別の形で来る」


「僕が調べる」


「俺を呼んでるんだろ」


 言ってから、ノアはしまったと思った。


 レオの白金の光が一瞬だけ濃くなった。


 それは怒りに似ていた。


 いや、嫉妬だ。


 ノアを呼ぶもの。


 人間ではない。


 呪いに近い紙片。


 黒い花。


 古代語。


 それでも、レオは許せない。


「呼ばせない」


 レオの声は冷たかった。


 ノアは掴んだ手首を離さなかった。


「レオ。ここで燃やしたら、俺は何も知らないまま狙われる」


「狙わせない」


「お前の願望で世界が止まるなら、今ごろ平和だな」


 レオは黙った。


 ノアは、ほんの少しだけ声を柔らかくした。


「調べる。燃やすのはその後でもいい」


「君が触れる必要はない」


「ある」


「ノア」


「ある。俺の黒魔法に反応してる」


 その言葉で、レオの視線がノアの首元へ落ちた。


 薄い赤い輪。


 他人には見えない伴侶首輪。


 そこが、今も小さく熱を持っている。赤い糸が危険をレオへ伝え、魂糸がノアの魔力のざわめきを拾っている。レオには全部分かっているはずだった。


 分かっているからこそ、燃やしたいのだ。


 ノアは小さく笑った。


「王子様、燃やすのは得意分野じゃないだろ。聖魔法科、浄化担当じゃないの?」


「浄化する」


「言い方が強い」


「君を呼ぶものは、残したくない」


「それ、調査に向いてない性格」


 レオは、しばらくノアを見ていた。


 周囲の生徒たちは、二人の空気に押されて少しずつ距離を取っている。廊下のざわめきは遠ざかり、掲示板の前だけが妙に静かだった。


 やがて、レオは白金の光を小さくした。


「少しだけ」


「はいはい、保護者同伴の紙片調査ね」


「触れる時は、僕が隣にいる」


「相部屋どころか調査まで同伴。王子様、過保護すぎて学院の備品になりそう」


「君のそばなら、それでもいい」


「重い。備品発言へ真面目に乗るな」


 ノアは掲示板へ向き直った。


 黒い花の紙片は、そこに静かに貼りついている。針も糊もない。魔法で固定されているらしい。ノアが指を近づけると、首輪の熱が強くなった。


 レオの白金の糸が、ノアの手首の近くで待機する。


 見張りのように。


 あるいは、手綱のように。


 ノアはそれを横目で見て、わざと明るく言った。


「俺、そんなに紙に負けそう?」


「紙ではない」


「じゃあ花?」


「ノア」


「はいはい、真面目にやりますー」


 ノアの指先が、黒い花の端に触れた。


 瞬間、黒い痺れが指先へ走った。


「っ……」


 短い呻きが喉の奥で潰れる。


 黒い花の紋様が、紙片からノアの指先へ滲んだ。墨が水に溶けるように、細い黒が爪の下、皮膚の内側へ入り込もうとする。痛みというより、冷えた針で神経を撫でられるような感覚。指先が一瞬だけ自分のものではなくなる。


 首輪が熱を持った。


 赤い糸が震え、レオへ危険を伝える。


 魂糸がノアの指先から黒い魔力を拾おうとする。


 レオの白金の光が即座に伸びた。


「離して」


「まだ」


「ノア」


「まだ読める」


 ノアの瞳が、一瞬だけ赤黒く濁った。


 黒い花の紙片の奥に、古い封印式が浮かぶ。


 ただの伝言ではない。


 呼びかけであり、標識であり、確認の術式だ。相手が誰かを見ている。ノアが触れるかどうかを、触れた時に何が反応するかを、首輪の奥に何が潜んでいるかを測っている。


 黒い花の中央に、紋章が浮かんだ。


 三本の線が絡み、中央に目のような歪み。


 前世の黒魔導書の頁に浮かんだもの。


 同盟儀式の白い床で、聖魔法に似せた術式の端に一瞬だけあった違和感。


 泥の中の欠片。


 学院の結界紋に紛れ込む形。


 ノアは喉の奥で息を止めた。


 レオの声が低くなる。


「見えた?」


「……ああ」


「離して」


「待て。もう少し」


「指先に入っている」


「分かってる」


「分かっていて続けるの」


「紙の方がよっぽど大人しくないからな」


 ノアは無理に笑った。


 声が少し掠れる。


 レオの顔から、さらに温度が消えた。


「笑わないで」


「笑わないと、怖くなる」


「怖いなら離して」


「怖いから調べるんだよ」


 その言葉に、レオが黙った。


 ノアの指先に滲んだ黒い花が、さらに一筋、手の甲へ伸びかける。そこでレオの白金の魂糸が絡みついた。強くはない。けれど、有無を言わせず止める力だった。


 黒い痺れが、そこでせき止められる。


 ノアは小さく息を吐いた。


「……お前、今、助かったけど腹立つ止め方したな」


「止めなければ、腕まで入っていた」


「そういう事実で殴るな」


「離して」


「読んだ」


 ノアは、黒い花の紙片から指を離した。


 すぐにレオがその手を取った。


 人前だ。


 まだ掲示板の前だ。


 だというのに、レオは気にしなかった。ノアの指先を自分の手で包み、白金の光を流す。黒い痺れを抜くように、指先から黒い花の滲みを引き剥がしていく。


 ノアは顔をしかめた。


「指先まで管理?」


「君に触れたものを確認しているだけ」


「それを管理って言うんだよ」


「そうかもしれない」


「認めるな」


 指先の黒い紋様は、白金の光で薄れていった。


 完全には消えない。


 爪の端に、墨のような細い影が残った。すぐには取れないだろう。ノアはそれを見て、舌打ちしそうになった。


 レオはまだノアの手を離さない。


 掲示板の周囲の生徒たちは、もうかなり離れていた。遠くからこちらを見ている。噂の燃料を大量投下している気がする。まあ、燃料がなくても燃える連中だ。放っておこう。人類、燃えやすい。


 ノアは紙片へ目を戻した。


黒災忌会カラミティ・サバト


 小さく呟く。


 レオの目が動いた。


「何」


「紙片の裏に、そう読める印があった。名前か、合図か、集団名かは知らない」


「黒災忌会」


「趣味の悪い名前だな。会費取られても入らない」


「君を呼んでいる」


「だから調べるって言っただろ」


 レオの手に力が入る。


 ノアは眉を上げた。


「痛くはないけど、王子様。人前」


「戻ろう」


「どこへ」


「部屋」


「授業は?」


「休む」


「勝手に決めるな」


「君の指にまだ残っている」


「医務室でよくない?」


「僕が見る」


「お前、言葉選びが独占欲まみれ」


 レオは否定しなかった。


 結局、その日の午前授業は遅れて参加した。


 レオが教師へ何を言ったのかは知らない。聖魔法科首席で貴族家の優等生が静かに説明すると、大抵のことは通るらしい。社会、顔と家柄と成績に弱い。最低だが便利ではある。


 ノアの指先には、黒い痺れが残っていた。


 強くはない。


 けれど、ペンを持つたびに爪の下が鈍く冷える。首輪も時々熱を持つ。黒い花の紙片が発した古代語が、頭の奥に残っていた。


 災厄は目覚めた。


 黒い災厄の器へ。


 まだ、最後の一文をレオには言っていない。


 言えば、あの王子様は紙片を握り潰すどころでは済まない気がした。いや、どうせ気づく。レオはノアの声を聞く。黙っている時の喉の詰まりすら拾う。面倒な男だ。隠し事に向かない同居人、最悪である。


 夜。


 三〇七号室で、レオはノアの指先に残った黒い痺れを抜いていた。


 部屋の魔力灯は落とされ、机の上だけに小さな光がある。ノアは椅子に座り、右手を机の上に置いている。レオは向かいに座り、ノアの指先を両手で包むようにして白金の聖魔法を流していた。


 触れ方は丁寧だった。


 だが、所有の空気がある。


 指先に残った黒い花の痕を、他者の痕跡として許せないのだろう。黒い紙片がノアへ触れた。その事実だけで、レオの白金の光はいつもより冷たい。


 ノアは指を見下ろした。


「なあ、これって治療? 検品?」


「確認」


「便利だな、確認」


「君に触れたものを、僕が知らないままにしたくない」


「完全に検品寄り」


 レオは否定しなかった。


 ノアは天井を見た。


「俺、物じゃないんだけどな」


「分かっている」


「分かってるなら」


「物ではないから、余計に怖い」


 ノアは視線を戻した。


 レオはノアの指先を見ていた。


 その顔は穏やかではなかった。怒っている。だが、それはノアへ向けた怒りではない。ノアを器と呼んだもの、災厄と呼んだもの、黒い花の紙片、まだ見えないどこかの集団。そこへ向けた、静かな怒りだった。


 ノアはため息をついた。


「レオ」


「うん」


「紙片の裏、もう一文あった」


 白金の光が止まった。


「何て」


「怒るなよ」


「内容による」


「その返事がもう怒る準備できてるんだよ」


「ノア」


 ノアは、軽く笑おうとした。


 うまくいかなかった。


 指先の黒い痺れがまだ残っている。首輪が小さく熱い。言葉にするだけで、また何かが反応する気がする。


 それでも、読む。


 読まなければ、見えないものがまた勝手に近づいてくる。


「黒い災厄の器へ」


 部屋の空気が止まった。


 レオの指先から白金の魔力が漏れる。


 机の上の小さな灯りが揺れた。窓辺の結界紋が一瞬だけ反応し、赤い糸がノアの首元で熱を持つ。


 レオは、ゆっくりと視線を上げた。


「器」


「そう書いてあった」


「君を」


「らしいな。俺、入れ物扱いされるほど収納上手じゃないんだけど」


 軽口は落ちた。


 レオは笑わない。


 ノアが昼間回収していた黒い花の紙片は、机の端に置かれていた。白金の封魔紙に挟み、黒い魔力が漏れないようにしてある。レオはそれを手に取った。


「おい、燃やすなよ」


 ノアが言うより早く、レオの手が紙片を握り潰した。


 燃やしはしなかった。


 だが、白金の魔力が部屋の灯りを揺らした。


 紙片は手の中で潰れ、黒い花の形を失う。封魔紙の中で、黒い紋様が一瞬だけ浮かび、すぐに押し潰された。


 レオの声は、とても静かだった。


「君を器と呼ぶ権利が、誰にあるの」


 ノアは返事をしなかった。


 首元の赤い輪が、熱く脈を打った。




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