第18話 災厄と呼ぶ声
災厄。
その声は、耳から聞こえたのではなかった。
首の内側からだった。
赤い輪の奥。喉の裏側。声が生まれる場所よりも、もう少し深いところ。伴侶首輪として形を持ち始めた赤い糸の内側から、黒いものが爪を立てるように、ノア・クロウの名ではない名を呼んだ。
災厄。
低く、乾いて、ひび割れている。
それなのに、どこかで聞いたことがある声だった。
黒い荒野。
黒魔導書の頁。
世界中の歓声。
セラフィードの腕の中で冷えていく身体。
そのすべてが、眠りと現実の境目に一瞬だけ開いた。
ノアは目を開けた。
部屋は暗い。
アルカディア魔法学院男子寮、三〇七号室。窓の外には夜の中庭が沈み、噴水の水音だけが細く続いている。魔力灯は落とされ、机も寝台も、ほとんど輪郭だけになっていた。向かいの寝台では、レオ・アステルレインが眠っていたはずだった。
だが、ノアが身体を起こすより早く、向かいでも衣擦れがした。
レオも起きていた。
いや、起こされたのだ。
赤い糸の異常で。
ノアの首元が熱い。
熱いだけではない。輪の内側が冷たい。赤い首輪の奥に、黒い染みが一滴落ちたように、違う魔力が混ざっている。ノアは無意識に喉を押さえた。
そこには何もない。
触れられるものは何もない。
けれど、熱はある。冷たさもある。声もある。
黒い声が、もう一度囁いた。
黒い災厄。
ノアの指先が、わずかに震えた。
レオが寝台から降りる。
足音はほとんどしなかった。月明かりが金髪の輪郭を淡く照らし、白い夜着の袖が暗がりの中で揺れた。表情は見えにくい。だが、空気だけで分かる。レオは笑っていない。
ノアは、先に笑った。
喉が掠れていた。
「深夜に首輪から怪談流すなよ。学院、サービス過剰」
軽く言ったつもりだった。
けれど声は少しだけ乾いていた。首輪の内側で黒い魔力が震え、その振動が声に混じっているような気がした。
レオは笑わなかった。
小卓の水差しにも触れず、まっすぐノアの前へ来る。指先に白金の光が灯った。いつもの治癒光ではない。もっと鋭く、もっと冷たい。何かを調べ、切り分け、侵入したものを見つけようとする光だった。
「誰の声」
レオの声は静かだった。
静かすぎた。
ノアは眉を上げる。
「俺に聞くな。俺の首輪、そっち製だろ」
「僕の糸に、別のものが触れている」
その瞬間、部屋の温度が少し落ちた。
レオの声から、柔らかさが消えた。
怒鳴ってはいない。荒げてもいない。けれど、そこにあったのは明確な怒りだった。ノアへ向けたものではない。赤い糸へ触れた何かへ向けた怒り。ノアの首元に、レオ以外のものが触れたことへの、冷たい拒絶。
ノアは喉を押さえたまま、笑おうとした。
「いや、お前が勝手に結んだ糸に不審者アクセスされた話を、俺に怒られてもな」
声の終わりが詰まった。
首輪が熱を持つ。
黒いものが、また内側から呼んだ。
戻れ。
ノアの呼吸が浅くなる。
戻れ。
世界をもう一度。
耳鳴りがした。
低く、遠い鐘のような音。黒い水の底で鳴る鐘。呼吸が少しだけ乱れる。瞳孔が開いた。部屋の暗さが一瞬深くなり、レオの白金の光だけが妙に鮮明に見えた。
ノアは奥歯を噛む。
絶叫するほどではない。
崩れるほどでもない。
だが、首輪の内側を黒い爪で掻かれているような不快感がある。喉が詰まり、声が出しにくい。魔力核の奥がざわめき、黒い霧が指先に滲みかけた。
レオがそれを見逃すはずがなかった。
「ノア」
「はいはい、呼ばなくてもいますー」
「声を出しすぎないで」
「今度は発声制限?」
「違う」
レオの白金の光が広がった。
部屋の四隅へ細い線が走る。窓辺の結界紋が反応し、扉の隙間に淡い光が沈んだ。天井、床、壁。三〇七号室そのものが、白金の薄い膜に包まれていく。
音が消えた。
噴水の水音が遠ざかる。
廊下の気配も、風の音も消える。
部屋の内側だけが、閉じた。
聖魔法の静かな檻。
ノアはすぐに気づいた。
「今、部屋ごと閉じた?」
「君の声を、あれに聞かせたくない」
「あれって何」
「君を呼ぶもの全部」
ノアは言葉を失った。
一瞬だけ。
レオの横顔は、月明かりと白金の光に照らされていた。穏やかな王子様の顔ではない。温度の低い、硬い顔だった。自分のものへ触れたものを許さない顔。ノアを呼んだ声そのものへ嫉妬している顔。
人間だけではない。
ルカでも、アイリスでも、セドリックでもない。
黒魔導書の残響。
前世の名。
災厄という呼び名。
呪い。
過去。
それら全部へ、レオの独占欲が向いている。
ノアは乾いた笑いを漏らした。
「王子様、嫉妬の対象が広すぎる。声とか呪いにまで張り合うな」
「張り合うよ」
「即答するな」
「君を呼ぶなら」
「俺は電話じゃない」
「君を呼ぶ声は、君を連れていく」
ノアの喉が詰まった。
その言葉は、冗談で受け流しにくかった。
呼ばれる。
連れていかれる。
黒い荒野へ。
封印庫へ。
黒魔導書の頁の中へ。
災厄と呼ばれる場所へ。
ノアは息を吸った。首輪の内側から、黒い熱とも冷気ともつかないものが広がる。赤い輪の奥に、黒い紋章が浮かび上がった。
三本の線が絡み、中央に目のような歪みを抱いた形。
レオの白金の光が、その紋章を照らす。
ノアにも見えた。
首元の内側に、見えてはいけないものが浮かんでいる。鏡もないのに分かった。赤い輪の内側、喉の奥、魂の表面に、黒い紋章が焼きつくように浮かんだ。
ノアは短く呻いた。
「っ、……」
声にならない。
喉が詰まり、耳鳴りが強くなる。瞳孔が開き、暗い部屋の輪郭が少し歪んだ。黒い霧が指先からこぼれ、寝台の白い布の上を薄く這う。すぐに消そうとしたが、首輪の内側の声がそれを引き留めるように震えた。
災厄。
戻れ。
世界をもう一度。
「うるさいな……」
ノアは掠れた声で言った。
自分へ向けたのか、首輪の声へ向けたのか分からなかった。
レオの表情が変わった。
ノアの声を、あれが聞いた。
そう判断した顔だった。
白金の結界が濃くなる。
部屋の空気がさらに閉じた。ノアの声は、壁へ届く前に白金の膜に包まれ、レオの方へ引き寄せられる。以前の声を拾う術式より、ずっと強い。けれど、外へ逃がさないためのものだった。レオは、ノアの声を外に出さない。黒い声へ渡さない。災厄と呼ぶものへ聞かせない。
ノアはそれに気づき、低く言った。
「レオ。閉じすぎ」
「まだ足りない」
「俺の声まで閉じるな」
「あれに渡したくない」
「俺は渡してない」
「呼ばれた」
「呼ばれただけだろ」
「呼ばれることが、もう嫌だ」
レオの声が、冷えたまま震えた。
ほんのわずかに。
ノアは黙った。
その震えが、怒りではなく恐怖から来ていることに気づいてしまった。失う恐怖。自分の届かない場所からノアを呼ぶものへの恐怖。前世で、イリアスが助けを求めず、名前も呼ばず、黒い災厄として死んだ記憶。その傷が、レオの中で今も開いている。
だからといって、部屋ごと閉じていい理由にはならない。
ならないのだが。
ノアは舌打ちしたい気持ちを飲み込んだ。
「お前さ、ほんと面倒」
「うん」
「認めるな」
「面倒でも、君を呼ぶものは嫌だ」
「呪い相手に嫉妬してる自覚ある?」
「ある」
「あるのかよ」
ノアは笑った。
少しだけ、声が戻った。
軽くはない。
けれど、喉の詰まりに押し潰されてもいない。
レオはその声を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。安心したように。けれど結界は解かない。
ノアは首元に手を当てた。
赤い輪が熱い。
その内側の黒い紋章は、白金の光に押さえられながらも、完全には消えていなかった。名前は知らない。だが、知っている形だ。夢で見た。黒魔導書の頁に浮かんでいた。学院の結界紋や校章の奥に似た形があった。泥の中で見た欠片にも似ていた。
つながる。
嫌なものが、少しずつつながっていく。
ノアは笑った。
「俺の首、人気だな。王子様の糸に、怪談放送に、黒い紋章。入居者多すぎ」
「笑わないで」
「笑わないとやってられないんだよ」
「僕が調べる」
「首輪作った本人が保守点検まで担当。最悪の一括サービス」
「ノア」
「はいはい、真面目に聞きますー」
レオの指先が近づいた。
ノアは一瞬身構えたが、逃げなかった。
逃げても赤い糸がある。
それに、今は黒い声の方がもっと気持ち悪い。
レオの白金の光が、赤い首輪の内側に触れる。ノアの喉が反射的に詰まった。短い呻きが漏れる。
「っ、ん……」
「痛い?」
「気持ち悪い」
「少し我慢して」
「その台詞、嫌い」
「ごめん」
「謝罪で軽くなると思うなよ」
白金の光が、黒い紋章を包む。
焼くのではない。むしろ、赤い糸を守るように、黒いものと切り離そうとしていた。レオの契約へ別のものが触れたことを、彼自身が許せないのだと分かる。保護。嫉妬。防衛。支配。その全部が一つの光に混ざっていた。
黒い声が、遠くなる。
災厄。
災厄は。
目覚める。
ノアの胸の奥が冷えた。
「……今、何か言った」
レオの手が止まる。
「何を」
「目覚める、って」
白金の結界の中で、沈黙が落ちた。
レオの顔から、さらに温度が消える。
「誰が」
「知らない」
「ノア」
「本当に知らない」
今度の声は軽くなかった。
レオも、それを聞いた。
ノアは喉を押さえたまま、視線を落とす。首元の赤い輪はまだ見える。黒い紋章は白金の光に押されて薄くなり、やがて消えた。だが、完全に消えたとは思えなかった。
そこにあった。
触れていた。
呼んでいた。
ノアを、災厄と。
レオは結界を解かなかった。
「今夜は、このまま寝て」
「部屋ごと密封睡眠?」
「あれがまた呼ぶかもしれない」
「呼ばれても返事しませんー」
「君は寝ている時に返事をするかもしれない」
「信用がない」
「ない」
「即答」
「君自身にではなく、あれに」
ノアはため息をついた。
喉がまだ少し掠れている。赤い首輪の熱は落ち着いたが、余韻が残っていた。耳鳴りも完全には消えていない。
レオが水を取った。
「飲んで」
「また水」
「声が掠れている」
「怪談聞いた夜に水出されるの、状況としてどうなんだ」
「君の声が戻るまで待つ」
「そこまで聞くな」
「聞く」
「言い切るな」
ノアは水を受け取った。
飲む。
喉が少し楽になる。
レオは、確かに待っていた。ノアが水を飲み、息を整え、掠れた声が戻るまで。赤い糸は静かに震え続けている。部屋を包む白金の結界は、外の音を遮り、ノアの声を内側へ閉じ込めていた。
安心はしなかった。
ただ、逃げ場がなくなっただけだ。
ノアは杯を返した。
「戻った?」
レオが聞く。
ノアはわざと明るく言った。
「王子様、夜中の首輪ラジオは停止しましたー」
「戻ったね」
「確認すんな」
その夜、ノアは浅く眠った。
白金の結界は朝まで解かれなかった。
赤い糸は時々震えたが、黒い声はそれ以上聞こえなかった。聞こえなかっただけで、いなくなった気はしなかった。首輪の奥に、黒い染みが薄く残っているような感覚がある。
翌朝、喉は少し掠れていた。
当然のように、レオは水を用意していた。
朝の光が部屋に差し込み、夜の結界はようやく薄れている。窓の外では中庭が明るく、噴水の水音が戻っていた。世界は何事もなかったような顔をしている。世界のそういうところは本当に信用できない。夜中に首輪から災厄呼びされた側の気持ちも考えてほしい。
ノアは寝台の上で半眼になった。
「怪談聞いた翌朝に喉ケアされる人生、濃すぎる」
レオは杯を差し出した。
「君の声が戻るまで待つ」
「待たれる側の圧がすごい」
「待つだけだよ」
「だけ、を信じないって何度も言ってる」
水を飲む。
白金の光が喉元を整える。
首輪の熱は、昨夜ほどではない。だが、赤い輪の内側にはうっすら冷たい感覚があった。ノアは鏡を見ないようにした。朝から首輪確認などしたくない。人間には見ない自由も必要だ。レオはだいたいその自由を尊重しないが。
授業へ向かう頃には、喉はかなり戻っていた。
レオは隣を歩いている。
廊下の白い石壁に、朝の光が反射していた。生徒たちはいつものようにざわめいている。昨日までと変わらない学院の朝。魔法書を抱えた生徒、眠そうな生徒、寮監に叱られている生徒。平和そうに見える。
その平和は、掲示板の前で破れた。
中央棟の掲示板に、黒い花の形をした紙片が貼られていた。
誰が貼ったのか分からない。
学院の正式な告知は、白い紙に青い印が押される。教師からの連絡は銀の縁取り。寮からの知らせは茶色い紙。黒い花の形をした紙片など、明らかに異物だった。
その紙片には、古代語で短い言葉が書かれていた。
文字は黒く、乾いている。
ノアは読めた。
読めてしまった。
災厄は目覚めた。
周囲の生徒たちは、まだ意味が分からずざわめいている。古代語を読める者は少ないらしい。誰かが「何の悪戯だ」と言い、別の誰かが「黒魔法科の仕業じゃないか」と囁いた。
ノアは、紙片を見上げたまま笑った。
「俺、寝起き悪いって噂になってる?」
軽い声だった。
軽くした。
レオは隣で、紙片を見ていた。
その顔から、温度が消えていた。




