第17話 はじめての伴侶首輪
首元が熱い。
それは、もう朝の違和感として片づけられるものではなかった。
ノア・クロウは寝台の上で目を開けた瞬間、自分の喉元に何かがあると分かった。皮膚に触れているものはない。鎖も、革紐も、金具もない。けれど、魂の奥から浮き上がるように、熱が輪を作っていた。
昨日までの熱は、まだ曖昧だった。
赤い糸がそこへ集まっている。首輪になる場所を、身体に覚えさせられている。そういう気配でしかなかった。
だが、今朝は違う。
輪だ。
はっきりと、輪の形をしている。
ノアはゆっくり身体を起こした。寝台の軋む音がやけに大きく聞こえた。向かいの寝台はすでに整えられている。白い寝具に皺はなく、レオ・アステルレインが起きた痕跡はほとんど残っていない。あの王子様は、睡眠から起床まで含めて展示品のように整っている。普通の人間なら寝癖くらい作れ。いや、作られても困るが。
窓の外は朝だった。
アルカディア魔法学院の中庭に、柔らかな光が落ちている。噴水の水音が遠く、廊下の向こうでは早起きした生徒たちの足音が小さく響いていた。魔力灯は薄くなり、部屋には朝の白い光が満ちている。
いつもの朝。
ただし、ノアの首には見えない何かがある。
ノアは寝台を降り、洗面台へ向かった。
足裏に床の冷たさが触れる。鏡の前に立つ。寝起きの黒髪は少し跳ね、赤い瞳は眠気を残していた。制服を着る前の首元は、白い肌がそのまま見えている。
いや。
見えている。
ノアは、鏡の中の自分を凝視した。
首元に、薄い赤い輪があった。
皮膚の上に描かれているわけではない。痣でもない。傷でもない。赤い糸が何重にも重なり、光だけで形を作ったような輪だった。朝の光を受けるとほとんど見えなくなるほど薄い。けれど、角度を変えると、確かにそこにある。
喉を囲むように。
声の出る場所を、逃がさないように。
ノアは指先で触れた。
何もない。
鏡には赤い輪が映っているのに、指先には皮膚の感触しか返ってこない。触れない。掴めない。ほどけない。なのに熱はある。首元の奥で、赤い糸が小さく脈を打っている。
ノアは乾いた声で呟いた。
「……出た。見えないどころか見える首輪になった。詐欺だろ」
背後で静かな衣擦れがした。
鏡の中に、レオの姿が映る。
白と金の制服をもう整えている。金髪は朝の光を受けて柔らかく輝き、碧い目は穏やかだった。けれど、その視線はノアの首元へ落ちている。
見えている。
やはり、レオには見えている。
レオは、静かに言った。
「綺麗だよ」
ノアは鏡越しに睨んだ。
「褒める場所じゃない。普通に怖い」
「君に似合っている」
「さらに怖い言い方するな。朝から倫理が迷子だぞ、王子様」
「迷子ではないよ」
「じゃあ意図的に失踪してる。もっと悪い」
レオは近づいてきた。
ノアはすぐに一歩横へ逃げる。
「触るな」
「熱が強い」
「誰のせいだと思ってる」
「僕だね」
「正直で腹立つ」
レオは小卓へ視線を向けた。
そこには、水の入った杯が置かれていた。いつもの水。いつもの朝の準備。喉が掠れている時、レオが当然のように差し出してくるもの。
今日ばかりは、いつも以上に腹が立った。
「水も準備済みかよ。首輪ケアつき朝食前サービス?」
「喉が少し掠れている」
「首輪見て第一声それか。医務室より怖い」
「飲んで」
「命令?」
「お願い」
「お願いの顔して、拒否したら見つめてくるやつだろ」
「見つめると思う」
「自覚あるのが一番厄介」
ノアは杯を受け取った。
受け取ってしまうあたりが腹立たしい。喉は確かに掠れていた。首元の熱のせいで、声の出口に薄い膜が張っているような違和感がある。水を飲めば多少楽になる。分かっている。身体が先に分かっている。だから腹立たしい。身体、もう少し持ち主側についてほしい。
水は冷たかった。
薄い白金の浄化が混じっている。
喉を通ると、赤い輪の熱が少しだけ落ち着いた。ノアは杯を返しながら、レオを睨む。
「朝の首輪ケア、最悪の新習慣」
「習慣にするつもりはある」
「開き直るな」
「熱が出たら鎮める」
「出した本人が言うな」
レオは答えず、指先に白金の光を灯した。
淡い治癒光だった。
ノアは目を細める。
「触るなって言った」
「触れない。熱を鎮めるだけ」
「その“だけ”が信用ならないって何回言えばいい?」
「何度でも聞く」
「改善しろ」
レオの光が、ノアの首元へ近づく。
皮膚には触れない。けれど、薄い赤い輪の外側を包むように白金の光が流れた。熱を直接消すのではなく、暴れた赤い糸をなだめるような魔法だった。首元に冷たい水が通るような感覚がある。喉が少し楽になる。
同時に、首輪の存在がさらに鮮明になった。
見えないものを鎮めるたび、輪の形が整っていく。
ノアは眉を寄せた。
「今、薄くなったんじゃなくて、形が整った気がするんだけど」
「熱が散らばっていたから」
「整えるな」
「乱れたままだと苦しい」
「苦しい原因ごと消してくれ」
「それはできない」
「ですよねー。知ってた」
ノアは笑った。
掠れた笑いだった。
レオは、それを聞き逃さなかった。
その目が少しだけ柔らかくなる。
ノアは顔をしかめた。
「俺の掠れ声で安心するな」
「戻ってきたから」
「どこから」
「夢から」
ノアは返事をしなかった。
昨夜は夢を見た。
黒い荒野ではなかった。黒い水の底のような場所で、誰かが名を呼んでいた。セラフィードの声。あるいは、レオの声。遠くから、近くから、同じようにこちらを縛る声。
イリアス。
ノア。
呼び名が重なり、喉の奥が詰まった。
だから朝から掠れている。
そんなことは言わない。
「夢診断まで始めるなら別料金ですー」
「払うよ」
「払うな。王子様の財力で俺の軽口を買収するな」
レオは少しだけ笑った。
首元の熱は、いくらか落ち着いた。
だが、赤い輪は消えなかった。
鏡の中で、薄い伴侶首輪が朝の光に滲んでいる。見えるのは自分とレオだけ。そう分かるのに、ノアは制服の襟をいつもより高く直した。
自分には見えている。
それだけで十分すぎるほど嫌だった。
授業中も、首元の存在感は消えなかった。
午前の黒魔法実習室は、薄青い魔力灯に照らされていた。黒灰色の石壁と床が、魔法の暴走を吸収するように静かに沈んでいる。セドリック・バロウズは黒いローブをまとい、生徒たちの魔法陣を順番に見ていた。
今日の訓練は、黒魔法の形成と解除。
黒い霧を任意の形にまとめ、すぐ解く。浅い魔力で行う基礎訓練だ。マルクは黒い糸を小さな輪にする練習をしている。サナは棘の形にしたがる魔力を抑えようとして、舌打ちしていた。眠そうな少年は、影をまた箱の形にしている。箱が好きなのだろうか。今度聞いてみたい。いや、聞くと長そうなのでやめる。
ノアは自分の魔法陣の中で、指先に黒い霧を集めた。
浅く。
薄く。
首輪に反応させない程度に。
そう思うと、もうそれが腹立たしい。
自分の魔法を使うのに、レオの糸の機嫌を取らなければならない。これはかなり悪質な同居人である。同居どころか魂の奥に住み込み始めている。退去願いを出したい。
ノアは、黒い霧を丸くまとめた。
小さな黒い花にしようとして、やめる。
花は深い。
水晶柱の時のことを思い出す。黒い花、骨の鎖、影の棺。測定室の温度が下がり、周囲が恐怖した。レオだけが綺麗だと言った。
君が使うなら、綺麗だ。
セラフィードの声と重なる。
ノアの喉が詰まった。
首元の赤い輪が熱を持つ。
「っ……」
短い呻きが、奥歯の間で潰れた。
ノアはすぐに唇を噛んだ。
周囲には聞こえていない。
誰も気づいていない。
マルクは自分の黒い糸に集中している。サナはセドリックに制御の注意を受けている。眠そうな少年は箱を増やしている。教師の視線も、今はこちらへ向いていない。
だが、レオには伝わった。
それが分かる。
赤い糸が首元で震え、遠くへ何かを送った。黒魔法を強く使ったわけではない。危険なほどでもない。ただ、魔力と記憶が少し重なっただけ。それだけで首輪は熱を持ち、レオへ知らせる。
ノアは息を整えた。
喉の奥がきつい。
魔力核に軽い圧がある。
黒い霧が形を崩しかける。
セドリックが、そこでこちらを見た。
「ノア」
「大丈夫ですー。黒魔法科らしく真面目に暗くやってますー」
「声が落ちた」
「先生まで声の確認を始めないで」
「魔力も揺れた」
「それは授業なので」
セドリックはしばらくこちらを見ていたが、深追いはしなかった。
「無理に深くするな」
「はーい」
ノアは軽く返事をした。
首元の熱はまだ残っている。
見えないはずの輪が、実習室の薄青い光の中でほんの少しだけ赤く浮いている気がした。周囲の誰にも見えていない。だがノアには見える。喉を締めるものとして。声を数えるものとして。黒魔法に反応するものとして。
授業後、レオはすぐに来た。
もう驚く気にもならない。
黒魔法実習室を出た廊下で、白と金の制服が待っていた。聖魔法科の授業はまだ別棟のはずだ。どうやってこの速度で来るのか、考えるだけ無駄だった。赤い糸に位置情報、声、魔力変動、首輪の熱まで載っている。人間が作った監視装置よりたちが悪い。いや、人間が魔法でやっているからもっと悪い。
ノアは片手を上げた。
「出た、王子様便」
「熱が上がった」
「天気予報みたいに言うな」
「苦しかった?」
「軽くな」
「見せて」
「廊下」
「誰にも見えていない」
「俺には見えてるんだよ、王子様」
レオは一瞬だけ黙った。
その沈黙に、ノアは少しだけ溜飲が下がった。
分かっている、と言われるよりは、黙られた方がましな時もある。人間、言葉が万能だと思いすぎている。黙るのもたまには仕事をする。珍しいことに。
レオは声を低くした。
「部屋に戻る?」
「今戻ったら昼飯逃す」
「食堂へ行く前に鎮める」
「人前で首輪メンテするな」
「誰にも見えていない」
「二回言うな。俺には見えてるって言った」
ノアは小さく息を吐いた。
首元の熱は、確かにまだ残っている。喉も少し詰まっている。昼食の前にこのままだと、食べ物を飲み込みにくそうだ。身体はまたしても持ち主への忠誠心が低い。空気を読め。いや、読むな。どちらだ。
「……触るなよ。魔法だけ」
「うん」
「所有者みたいな顔したら蹴る」
「分かった」
「分かった顔も信用できない」
レオは白金の光を灯した。
廊下の隅、窓から差し込む昼前の光の中で、彼の指先から細い治癒光が伸びる。ノアの首元へ触れない距離で止まり、赤い輪の熱を包んだ。
丁寧だった。
いつも通り、むかつくほど丁寧だった。
熱が少しずつ鎮まっていく。喉の詰まりも和らぐ。魔力核の圧が軽くなり、呼吸がしやすくなる。助かる。助かってしまう。それが一番腹立たしい。
レオの視線は、首元の赤い輪から離れない。
そこに自分の契約があることを、確かめている目だった。
満足している。
微かに。
静かに。
ノアは気づいた。
気づいてしまった。
「……お前、これ見て安心してるだろ」
レオの光が、一瞬だけ揺れた。
「君がここにいると分かる」
「首輪で?」
「糸で」
「同じだろ」
「君が嫌がるなら、違う言葉を探す」
「言葉を変えるな。中身を変えろ」
レオは答えなかった。
白金の光が赤い輪をなだめる。その時、首輪の内側に一瞬だけ、黒いものが浮かんだ。
ノアは気づかなかった。
熱が引いていく感覚に意識を向けていたからだ。
だが、レオは見た。
赤い輪の内側に、三本の黒い線が絡む紋章が、一瞬だけ浮かんだ。中央に目のような歪み。白金の聖魔法ではない。赤い糸でもない。ノアの黒魔法でも、ただの黒魔法とは違う。
黒魔導書の残響。
あるいは、別の何か。
レオの目が細くなる。
ノアがそれに気づく前に、黒い紋章は消えた。
レオは何も言わなかった。
「終わった?」
ノアが聞く。
レオは白金の光を引いた。
「熱は下がった」
「感想が医者」
「喉は?」
「戻った。たぶん」
「少し出して」
「声の確認が当然みたいになってるの本当に嫌だな」
ノアはわざと明るく言った。
「王子様、首輪メンテ代は高いぞー」
声は戻っていた。
掠れもほとんどない。
レオは、少しだけ安心したように目を伏せた。
「戻ったね」
「戻ったね、じゃない。誰のせいで詰まったと思ってる」
「僕の糸と、君の黒魔法と、夢」
「三つ目を勝手に足すな」
「違う?」
ノアは顔を逸らした。
「昼飯行くぞ。空腹で会話すると全部負ける」
「君は空腹でなくても、逃げる」
「いいから行く」
レオはそれ以上聞かなかった。
けれど、黒い紋章についても何も言わなかった。
それが、ノアにとっては幸いだったのか、不幸だったのか。
その時はまだ、誰にも分からなかった。
夜。
三〇七号室は静かだった。
ノアは寝台の上で、布団に潜り込む前にもう一度だけ鏡を見た。首元の赤い輪は、朝より薄くなっている。けれど、消えてはいない。角度によっては見える。光によっては消える。まるで自分が逃げられると錯覚させるためだけに、薄くなっているようだった。
腹立たしい。
非常に腹立たしい。
「……うっすら見えるのが一番嫌だな」
向かいの机で本を閉じたレオが、こちらを見る。
「濃い方がいい?」
「よくない。何ひとつよくない。質問の方向が最悪」
「ごめん」
「謝り慣れてるのも腹立つ」
ノアは布団へ入った。
喉の熱は、今は落ち着いている。けれど、眠る前になると意識してしまう。首元に輪がある。赤い糸が集まっている。レオには見える。自分にも見える。他人には見えない。
秘密の首輪。
言葉にするとさらに腹立つ。
レオが魔力灯を弱めた。
部屋に夜の色が落ちる。窓の外の中庭は暗く、噴水の水音だけが細く聞こえた。二つの寝台の間に、淡い月光が落ちている。
ノアは目を閉じた。
眠る。
眠れば、少しは忘れられる。
そう思った。
だが、眠りに落ちる直前、首輪の内側が冷えた。
熱ではない。
冷たい。
赤い輪の奥、さらに内側から、黒いものが起き上がるような感覚がした。ノアの喉が詰まる。声を出そうとした瞬間、耳元ではなく、首の内側から声がした。
低く、乾いて、黒い声。
「災厄」
ノアは目を開けた。
同時に、向かいの寝台でレオが身体を起こした。
赤い糸が震えていた。




