第16話 魔具工房の午後
魔具工房は、学院本館の西棟にあった。
西棟は、他の校舎とは少し空気が違う。白い石壁は同じなのに、廊下の隅には工具箱が積まれ、壁際には小型の魔力炉へ続く配管が走り、天井近くには使われていない古い歯車が飾りのように残っている。魔力灯も均一ではなく、青白いもの、橙色のもの、時々ちかちかと瞬くものが混じっていた。
ノア・クロウは、思わず足を止めた。
鼻先に、金属と油の匂いが届く。
そこに、温められた魔石のわずかに甘い匂いと、焦げた紙のような匂いが混じっていた。黒魔法科の実習室のような沈んだ気配ではない。聖魔法科の教室のような清潔すぎる光でもない。ここには、誰かが何かを作り、失敗し、直し、また動かそうとしている気配があった。
雑然としている。
騒がしい。
少し危ない。
悪くない。
「へえ……」
思わず声が出た。
隣を歩いていたルカが、得意そうに笑った。
「いいだろ、魔具工房」
「いいな。床に人間味がある」
「褒め方が独特」
「黒魔法科の部屋、暗いし静かだし、ちょっとした地下墓地みたいなんだよ。ここは散らかってて安心する」
「先生に聞かれたら怒られるぞ」
「黒魔法科の先生は怒る前に記録しそう。怖い」
ルカは笑いながら工房の扉を押し開けた。
中は、外の廊下よりずっと広かった。
高い天井から、いくつもの設計図が浮遊している。青白い線で描かれた魔法陣、歯車の断面図、魔石の回路、細い銀糸の配置図。それらが空中でゆっくり回転し、必要に応じて拡大されたり折り畳まれたりしていた。
壁際には、大きな魔力炉がある。
内部で橙色の火が揺れているが、普通の火ではない。魔石を熱し、金属に魔力を通すための炉だ。炉の周囲には耐熱用の魔法陣が刻まれ、金属の腕を持つ小型の作業魔具が、かちゃかちゃと部品を運んでいた。
机の上には、歯車、細い鎖、銀の針、魔石、未完成の魔具、分解された計測器が散らばっている。
床には工具が落ちていた。
誰かが踏まないように、工具自体がちょこちょこと端へ逃げていく。なかなか賢い。道具が自分で安全確保している。人間より偉い。
ノアは目を輝かせた。
「工具が歩いてる」
「自動帰還の試作品。まだ持ち主のところには帰らないけど、踏まれない程度には避ける」
「偉いな。人間もそれくらい危険を避ければいいのに」
「君が言うと説得力が変な方向に出るな」
「俺は危険物側なので」
「自覚あるんだ」
「便利に使ってる」
工房の奥で、治癒魔法科のアイリスがこちらに気づいて手を振った。
彼女は工房の隅で、魔具科の生徒が軽く火傷した指に治癒魔法をかけていた。淡い桃色の光が指先を包み、すぐに赤みを引かせる。工房見学と言っていたが、到着早々ちゃんと役に立っている。治癒魔法科、労働環境が厳しい。
アイリスはノアたちの方へ来ると、少しほっとした顔をした。
「ノアさん、本当に来たんですね」
「工房見学つきって言われたら来るだろ。爆発しそうだし」
「爆発前提なんですか?」
「保険は大事」
ルカが胸を張った。
「今日は爆発しない予定」
「予定って言葉、事故の前振りっぽい」
「大丈夫。黒魔法対応の調整具を見せるだけだから」
ノアは、その言葉に少しだけ目を細めた。
「黒魔法対応?」
ルカは作業台へ案内した。
そこには、手のひらに乗るほどの小さな魔具が置かれていた。形は腕輪にも、計測器にも見える。黒銀色の輪に、細い銀糸が幾重にも巻かれており、中央には濁った灰色の魔石がはめ込まれている。
普通の魔具とは少し違う。
聖魔法用の魔具は、光を通しやすい透明石や白金の回路を使うことが多い。火魔法用なら赤い魔石、水魔法用なら青い魔石。だがこれは、黒魔法の靄を吸い込んでも壊れにくいように、あえて光を反射しない素材で作られていた。
ルカは小さな棒で魔具を指した。
「黒魔法は、普通の測定器だと嫌がるんだ。魔力の深度が合わないと、測定器側が誤作動を起こす。だから、回路を少し沈めてある」
「沈める?」
「表面だけ拾うんじゃなくて、黒魔法の影の層を滑る感じ。深く入りすぎると危ないから、こいつは途中で自動的に切れる」
「へえ、黒魔法を嫌がらない魔具とかあるんだ」
「嫌がるのは人間の方が多いからな」
ノアは、一瞬だけ黙った。
それから、思わず笑った。
明るい声だった。
喉の奥から、素直に出た声だった。
「名言出た。額に入れよう」
ルカは得意げに笑う。
「入れるなら工房に飾って」
「黒魔法科の標語にした方がいいな。人間の方が嫌がります、って」
「それ、学院長に怒られそう」
「怒られたらルカが言いましたって言う」
「裏切りが早い」
アイリスも小さく笑った。
ノアは、作業台の上の魔具を覗き込んだ。
黒魔法を怖がらない。
正確には、黒魔法を技術として扱う。
それが、少しだけ嬉しかった。
黒魔法はいつも、人の恐怖を先に引き出す。距離を取られる。祈られる。聖印を握られる。黒い霧を少し出しただけで、誰かが顔を強張らせる。それにも慣れていると思っていた。
だが、こうして部品として、波形として、回路として見られると、胸の奥が少し軽くなる。
自分が怖がられる存在ではなく、ただ珍しい魔力の持ち主として扱われている。
そう感じた。
ノアは腕を組んで、真剣に魔具を見た。
「これ、黒魔法の深度が上がったらどうなる?」
「今の調整だと、途中で回路が閉じる。暴走防止。ただ、閉じるのが早すぎると測定できないし、遅すぎると魔具が壊れる」
「黒魔法側からすると、勝手に触って勝手に逃げる感じか」
「言い方」
「でもそうだろ」
「まあ、そう」
「じゃあ、黒魔法の表層に合わせて回路を滑らせるんじゃなくて、黒魔法側の揺れに合わせて逃げ道を作ればいいんじゃないか?」
ルカの目が光った。
「詳しく」
ノアは作業台の上の紙を一枚借り、黒い魔力をほんの少しだけ指先に集めた。
首元に、赤い糸の熱が微かに動く。
嫌な感覚だった。
だが今は浅い。黒魔法の表層だけだ。赤い糸も強くは反応しない。ノアはそのまま、紙の上に黒い霧で細い線を描いた。
「黒魔法って、表面は霧みたいに見えるけど、深くなると層がある。水面じゃなくて泥に近い。上だけすくうと形が崩れる。だから、こう……斜めに触る」
黒い線が、紙の上でゆっくり曲がる。
ルカが身を乗り出した。
「斜めに逃がすのか」
「逃がすっていうか、沈ませすぎないように横へ滑らせる」
「なるほど。回路を受け皿じゃなくて斜面にする……?」
「そう。受け止めると重いし、弾くと壊れる。滑らせた方がいい」
「面白い。ちょっと待って、記録する」
ルカが慌てて羽根ペンを取った。
ノアは笑った。
「魔具科、食いつきがいいな」
「面白いものには食いつく」
「黒魔法を面白いって言う人間、貴重だぞ」
「怖いのと面白いのは両立するから」
「また名言出た。額が足りない」
ノアの声が弾む。
自分でも分かった。
技術の話は楽しかった。黒魔法を恐怖や罪や前世の残響ではなく、構造として語れることが楽しかった。ルカがそれに乗るのも楽しい。アイリスが少し離れたところで不安そうにしつつ、それでも聞いているのも悪くない。
その声が、赤い糸を震わせていることに、ノアは気づかなかった。
別棟の聖魔法科実習室。
レオ・アステルレインは、浄化結界の展開訓練を受けていた。
白い床に刻まれた魔法陣の中央で、彼の白金の光はいつも通り乱れなく広がっていた。透明な結界が幾重にも重なり、教師が指示した範囲を正確に覆っている。周囲の生徒たちはその安定性に見惚れていた。
レオは、表情を変えなかった。
だが、指先がほんの少し止まった。
魂糸が震えた。
ノアの声。
明るい声。
楽しそうな声。
技術へ興味を向けた、素の声。
レオのいない場所で、ノアが笑っている。
ルカへ向けて。
アイリスのいる場所で。
黒魔法を怖がらない魔具を見て、楽しそうに話している。
レオの白金の光が、ほんの一瞬だけ濃くなる。
教師が感心したように言った。
「アステルレイン、結界の密度が上がっている。よい集中だ」
レオは穏やかに答えた。
「ありがとうございます」
その声はいつも通りだった。
だが、魂糸はまだ震えていた。
ノアが笑っている。
自分のいない場所で。
工房では、ルカが試作品の回路をいじっていた。
「この灰色の魔石、古い保管庫から出てきたんだ。黒魔法との相性がいいかと思って」
「古い保管庫?」
「学院の地下倉庫。壊れた魔具とか、用途不明の部品が山ほどある」
「学院、掘れば掘るほど何か出そうだな。地面の下、絶対ろくでもない」
「そこが面白い」
「魔具科の発想、危険」
ノアは灰色の魔石を覗き込んだ。
その瞬間、黒魔法が微かに反応した。
指先に集めていた黒い霧が、勝手に揺れる。
灰色の魔石の奥に、一瞬だけ波形が浮かんだ。黒い頁の端がめくれるような、ひどく古い残響。黒魔導書の気配に似ている。だが、同じではない。もっと薄く、砕けて、長い時間をかけて別のものに混ざったような気配だった。
ノアの喉が詰まる。
首元の赤い糸が、熱を持ちかける。
ルカは気づいていない。
魔石を持ち上げ、作業灯に透かしている。
「この石、やっぱり黒魔法に反応した?」
ノアはすぐ笑った。
「ちょっとだけな。珍しい石なのは確か」
「やっぱり! これ、調整すれば面白い魔具が作れそうなんだ」
「爆発しない方向で頼む」
「そこは努力する」
「信用ならない返事だな」
ノアは軽口で流した。
だが、胸の奥には黒い残響が残っていた。
黒魔導書に似た波形。
学院の地下倉庫から出てきた古い魔石。
校章に似た紋章。
結界紋。
何かが少しずつ、同じ方向を向き始めている。
見たくない。
今は工房が楽しい。それでいい。そういうことにしたい。
ノアはルカの設計図へ身を乗り出した。
「ここ、回路を少しずらしたら?」
「どっちへ?」
「こっち。黒魔法は真っ直ぐ来られると押し返したくなる。斜めから来い」
「君、黒魔法の気持ちで話してる?」
「俺が黒魔法科なので」
「説得力あるな」
ルカが笑い、ノアも笑った。
その時、工房の扉が開いた。
白と金が、工房の金属臭い空気の中へ入ってきた。
レオ・アステルレインだった。
場違いなほど整った姿だった。工房の油の匂い、散らかった工具、浮遊する設計図、魔力炉の橙色の光。その中で、レオだけが聖堂から抜け出してきたように見える。いや、聖堂が工具箱へ迷い込んだのかもしれない。どちらにせよ、空気が少し変わった。
ノアは設計図から顔を上げた。
「ここにいたんだね」
レオは穏やかに言った。
ノアは片手を上げる。
「位置情報サービス、切り忘れたかな」
「切れないよ」
「さらっと怖いこと言うな」
ルカは目を丸くしたあと、すぐに笑った。
「レオ・アステルレインだよな? 魔具工房に用?」
「ノアがここにいると分かったから」
「すごいな。どうやって?」
「糸で」
ルカは首を傾げた。
「糸?」
ノアは即座に割り込んだ。
「王子様の比喩表現。詩人なんだよ」
「へえ」
「信じるな。俺が言うのも何だけど、今の説明だいぶ雑だぞ」
レオはルカへ穏やかに一礼した。
「魔具科のルカだね。ノアが世話になった」
「世話ってほどじゃないよ。黒魔法対応の魔具を見せてただけ」
「楽しそうだった」
「うん。ノア、かなり詳しいな。黒魔法の波形について教えてもらってた」
レオの視線が、ほんのわずかノアへ向いた。
ノアは肩をすくめる。
「技術交流ですー。健全な学園生活ですー」
「そう」
ルカは、作業台の上の設計図を持ち上げた。
「見てくれよ。ノアの案で、回路の逃がし方を変えようと思って」
そう言いながら、ルカがノアの肩へ手を伸ばしかけた。
友人同士の、ごく自然な動きだった。
設計図を見る位置へ軽く引き寄せようとしただけ。
触れるか触れないか。
その瞬間、白金の魔力が一瞬だけ灯った。
レオの指先だった。
ほんの一瞬。
だが、ノアには見えた。
工房の空気が細く震える。赤い糸が首元で熱を持つ。ルカの手はノアの肩に触れる直前で止まり、本人は何が起きたか気づいていない。レオは穏やかに微笑んでいる。
ノアの声が、少し低くなった。
「レオ。ルカは魔具を見せてくれただけ」
レオはノアを見た。
「分かっている」
「分かってて光らせた?」
「反射だよ」
「便利な反射だな」
ルカが二人を見比べる。
「え、何かした?」
「王子様の過保護発作」
「発作なの?」
「持病みたいなものだな」
アイリスが不安そうにレオを見た。
レオは何もなかったように、穏やかに言った。
「邪魔をしてごめん。魔具を見せてもらっても?」
ルカはすぐに表情を戻した。
「もちろん。聖魔法科から見ても面白いと思うよ。黒魔法と他属性の干渉を抑える補助具なんだ」
レオは作業台へ近づく。
ノアは少しだけレオとの間に身体を入れた。
自分でもなぜそうしたのか、一瞬分からなかった。
ルカを守るためか。
魔具を守るためか。
それとも、レオにこれ以上踏み込まれたくなかったからか。
首元の赤い熱が、まだ消えない。
レオはその動きを見ていた。
目だけで。
穏やかな顔のまま。
見逃さない男だ。ほんとに見逃さない。魔法学院に入る前に、見逃す授業を受けてほしい。たぶん落第する。
工房見学は、その後も続いた。
ルカは黒魔法対応の魔具について熱心に話し、ノアもそれに乗った。アイリスは途中で、魔具の安全性について治癒魔法科の視点から質問した。レオは静かに聞いていた。表向きには、穏やかで礼儀正しい見学者だった。
だが、ノアが笑うたびに、首元の赤い糸が微かに熱を持った。
ノアがルカに身を乗り出すたび、レオの白金の魔力がごく薄く揺れた。
ノアがアイリスへ柔らかく返すたび、レオの視線が声の余韻を拾った。
魔具工房の油と金属の匂いの中で、見えない糸だけが静かに張っている。
帰り道、空は夕暮れだった。
西棟から寮へ戻る廊下には、橙色の光が差し込んでいた。窓の外では中庭の木々が影を伸ばし、遠くで食堂へ向かう生徒たちの声が聞こえる。
ルカとアイリスは途中で別れた。
明日また工房に来い、とルカが手を振る。
アイリスは控えめに「今日は楽しかったです」と言った。
ノアは笑って返した。
「こっちこそ。爆発しなかったし、いい午後だった」
ルカが「次は分からない」と言い、アイリスが青ざめた。ノアは声を上げて笑った。
その笑いが廊下に残る。
レオは隣で静かに聞いていた。
二人きりになると、沈黙が少し濃くなった。
ノアは歩きながら言った。
「で、王子様。位置情報サービスの感想は?」
「君が楽しそうにしているのを見るのは好きだよ」
「なら何でその顔?」
レオは歩みを止めなかった。
夕暮れの光が、白と金の制服に淡く落ちる。横顔は穏やかだった。けれど、声にはほんの少しだけ影があった。
「僕のいない場所だったから」
ノアは返事に詰まった。
軽口が、喉の奥で止まる。
友達と笑っていた。
工房が楽しかった。
黒魔法を技術として見てもらえた。
それは悪いことではない。
悪いはずがない。
なのに、レオの声を聞いた瞬間、首元の赤い糸が輪のように熱を持った。
ノアは指先で首元に触れかけ、やめた。
レオは見ていた。
何も言わない。
ただ、隣を歩く。
夕暮れの廊下で、見えない首輪の熱だけが、静かに強くなっていった。




