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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第一章【赤い糸は檻になる】

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第15話 声の貸出禁止



 昼休みの中庭は、思ったより賑やかだった。


 アルカディア魔法学院の中央にある噴水広場には、各科の新入生が集まっている。白い石畳の上に、昼の光が明るく落ちていた。噴水の水は魔力で循環していて、時折、魚の形をした小さな水の精霊が跳ねる。木陰には長椅子が並び、食堂から持ち出した軽食を広げる生徒たちの声があちこちから聞こえた。


 ノア・クロウは、黒魔法科の制服を少し着崩したまま、噴水の縁に腰を下ろしていた。


 首元には、まだ熱がある。


 朝よりは薄い。だが、消えてはいない。赤い糸の輪郭は、見えないまま喉の奥に残っている。声を出すたびに、そこがほんの少し震える。赤い糸が声の振動を覚えているようで、腹立たしい。


 ノアは焼き菓子をかじった。


 甘い。


 味は悪くない。


 学院の食堂は、無駄に品質がいい。人間、管理体制が最悪でも飯がうまいと少しだけ許しそうになる。危険な仕組みだ。胃袋は倫理観の敵である。


「君がノア・クロウ?」


 声をかけてきたのは、魔具科の制服を着た少年だった。


 明るい茶髪に、琥珀色の目。首から工具入れの小さな革袋を下げている。制服の袖には魔具科の銀の縁取りがあり、指先には細かな傷がいくつもあった。笑い方が軽い。警戒心はあるが、それ以上に好奇心が勝っている顔だった。


 その隣には、治癒魔法科の女子生徒が立っていた。


 淡い栗色の髪を肩で揃え、薄桃色の縁取りの制服をきちんと着ている。大きな瞳は少し不安そうで、けれどノアを見る目には露骨な恐怖だけではない何かがあった。憧れに近い、慎重な好奇心。


 ノアは菓子を飲み込み、片手を上げた。


「はい、黒魔法科のノア・クロウです。握手は有料、呪いは別料金」


 魔具科の少年が噴き出した。


「いきなり商売するの?」


「平民なので。取れるところから取っていく」


「いいね。僕、ルカ。魔具科。魔具の調整なら安くするよ」


「取る側同士だった。商売敵か」


「提携先ってことで」


 ルカはにっと笑った。


 ノアはその軽さが少し気に入った。遠巻きに見てひそひそ言う連中よりずっとましだ。近寄ってきて、面白そうに笑って、ついでに商売を持ちかける。分かりやすい。人間関係において分かりやすさは偉大だ。世界はもっと見習え。特に相部屋の王子様。


 治癒魔法科の少女は、少し遅れて頭を下げた。


「アイリス・ミルナーです。治癒魔法科です」


「丁寧。こっちの魔具商人と温度差あるな」


「商人じゃないよ、職人志望」


「似たようなものだろ」


「違う。職人は魂で作る」


「急に熱いな」


 アイリスが少し笑った。


 ノアは彼女の肩の力が抜けたのを見て、軽く首を傾けた。


「俺、黒魔法科だけど噛まないぞ。たぶん」


 ルカが即座に言った。


「たぶんなんだ」


「保険は大事」


「噛む可能性がある黒魔法科」


「風評被害が今ここで生まれたな」


 アイリスが口元を押さえて笑った。


 その笑い方は控えめだったが、怖がっているだけではなかった。ノアはそれを見て、少しだけ声を柔らかくした。


「怖いなら、無理に近づかなくていいぞ」


 アイリスは目を上げた。


「怖くない、と言ったら嘘になります」


「正直」


「でも、昨日の測定で見た黒魔法は……怖かったけど、綺麗でもありました」


 ノアの喉が一瞬だけ詰まりそうになった。


 綺麗。


 またその言葉だ。


 白金の光。セラフィードの声。レオの碧い目。


 君が使うなら、綺麗だ。


 ノアはすぐ笑った。


「治癒魔法科まで目ぇ大丈夫か? 最近、黒魔法を綺麗って言う人間が増えてて、俺の周囲の視力検査が心配なんだけど」


 アイリスは少し赤くなった。


「変でしたか?」


「だいぶ。でも、ありがと」


 最後の声だけ、少し柔らかくなった。


 自分でも分かった。


 だから余計に、遠くから刺さる視線に気づいた。


 レオだ。


 噴水広場の向こう、聖魔法科の生徒たちに囲まれながら、レオ・アステルレインがこちらを見ていた。表情は穏やかだった。いつもの王子様の顔。周囲の女子生徒が何かを話しかけ、彼は軽く頷いている。だが、視線だけがノアから離れていなかった。


 聞いている。


 距離があるのに。


 ノアがルカへ向けた笑い声。


 アイリスへ少し優しくした声。


 全部、覚えている。


 首元の赤い糸が、ほんの少し熱を持った。


 ノアはわざとルカへ向き直った。


「で、魔具科の職人志望くんは、俺に何の用?」


「黒魔法科の魔力波形って珍しいから、魔具の調整に協力してほしくて。あと、単純に面白そうだった」


「正直でよろしい。だが俺は安くないぞ」


「昼食一回分?」


「安いな」


「工房見学つき」


「乗った」


 アイリスが驚いた顔をした。


「早いですね」


「工房見学は心が躍る。黒魔法科、基本的に暗い部屋多いからな。たまには道具が散らかった場所で人間味を浴びたい」


 ルカが笑う。


「じゃあ明日、魔具工房に来る? 昼休みでも放課後でも」


「放課後かな。黒魔法科の個別指導で捕まらなければ」


「もう個別指導?」


「俺、入学早々愛されてるので」


 アイリスが首を傾げる。


「愛、ですか?」


「監督らしいですー。怖いね、学院」


 ルカが肩を揺らして笑った。


 その笑いにつられて、周囲の何人かもこちらを見る。さっきまで遠巻きにしていた生徒の中にも、少しだけ笑う者がいた。ノアは軽い声で話し続けた。噛まない、たぶん。黒魔法科は珍獣コーナーではない。魔具科の工房で爆発したらルカのせい。治癒魔法科はその時よろしく。


 場が明るくなる。


 声が広がる。


 自分の声が、誰かを少し安心させる。


 それは悪くなかった。


 だが、首元の熱は消えない。


 アイリスがふと、ノアを見つめた。


「ノアさんの声、前にどこかで聞いた気がします」


 ノアは笑ったまま、手を止めた。


「え、俺、有名人?」


「そうではなく……夢、だったかもしれません。すみません、変なことを言いました」


「大丈夫。俺の周囲、最近変なこと言う人間で渋滞してるから」


 アイリスは困ったように笑った。


 ルカは興味深そうに首を傾げた。


「夢で聞いた声って、面白いな」


「面白がるな。本人が一番困るやつだろ」


「ごめん」


 ノアはアイリスへ、少しだけ声を柔らかくした。


「気にしなくていいよ。黒魔法科ってだけで、変な夢と結びつけられやすいしな」


「違います。怖い夢ではなかったんです」


「じゃあ、俺の美声が夢出張してたってことで」


 ルカがまた笑った。


 アイリスも、今度は少しだけはっきり笑った。


 その瞬間、遠くで白金の魔力が微かに灯った。


 ノアは見ないふりをした。


 夜、三〇七号室の空気は静かだった。


 昼間の中庭の明るさが嘘のように、部屋には魔力灯の淡い光だけが残っている。窓の外には夜の中庭。噴水の音は遠く、寮の廊下のざわめきもほとんど消えていた。


 ノアは机に向かい、黒魔法理論の教本を開いていた。


 読んでいるふりだ。


 実際には、頭の中では昼休みの会話がぐるぐるしていた。


 ルカの軽い笑い方。


 アイリスの「前にどこかで聞いた気がする」という声。


 遠くのレオの視線。


 首元に残った熱。


 レオは向かいの机で静かに本を閉じた。


 嫌な予感がする。


 ノアは顔を上げる前に言った。


「言いたいことがある顔してる」


「顔を見ていないのに?」


「空気が重い。王子様、気配で説教予告出すのやめろ」


 レオは立ち上がった。


「今日の君の声、ずいぶん人に配っていたね」


 ノアはゆっくり振り返った。


 来た。


 本当に来た。


 人類の嫌な予感だけは精度が高い。なぜこういう才能をもっと平和利用できないのか。


「声帯まで管理対象?」


「君の声は、僕が聞く」


「いや、公共放送じゃないけど独占契約もしてないぞ」


「赤い糸は結んでいる」


「声の契約まではしてない」


「まだ」


「また“まだ”出た。禁止にしろ、その副詞」


 レオは近づいてきた。


 足音は静かだった。怒ってはいない。声も荒げない。だが、昼間より明らかに何かが濃くなっていた。嫉妬、と呼べば単純すぎる。所有欲、と呼べば近い。声を誰に渡したか、その一つ一つを数えていた男の静かな不満。


 ノアは椅子から立ち上がった。


「友達と喋っただけ」


「ルカには明るい声だった」


「明るい友達だったからな」


「アイリスには優しかった」


「怖がってたから」


「彼女が君の声を聞いたことがあると言った時、君は少し低くなった」


「そこまで実況するな」


「覚えている」


「覚えるな」


「無理だよ」


 レオの指先に、白金の光が灯る。


 ノアは身構えた。


「何する気」


「少しだけ、声の通り道を整える」


「その言い方、絶対ろくでもない」


「部屋の中だけだよ」


「部屋の中だけ不穏にするな」


 白金の光が空気へ溶けた。


 赤い糸が喉元で震える。


 魂糸が、ノアの声帯の振動へ触れた。触れたというより、部屋の中の空気そのものが、ノアの声を拾ってレオの方へ運ぶような感覚だった。


 まだ沈黙を強いるものではない。


 声は出る。


 けれど、出した声の行き先を勝手に決められるような不快感があった。


 ノアは顔をしかめた。


「……俺の声に勝手に行き先つけるな」


 声が少しこもった。


 レオの方へ吸い寄せられる。


 部屋の壁に響く前に、白金の糸がそれを拾う。ノアの声は確かに出ているのに、外へ広がるより先にレオへ届いてしまう。


 気持ち悪い。


 軽度の違和感なのに、腹の奥が冷える。


「苦しい?」


「不快」


「声は出ている」


「そういう問題じゃない」


「君の声が、外へ漏れすぎた」


「漏れたって何だ。俺は水道じゃない」


「ルカも、アイリスも、君の声を聞いた」


「人と話せば聞こえるだろ」


「君は楽しそうだった」


「友達と話してたんだからな」


「友達」


 レオはその言葉を繰り返した。


 穏やかな声だった。


 それなのに、首元の赤い熱が強くなった。


 ノアは眉を寄せた。


「レオ」


「うん」


「友達くらい作らせろ」


「作っていい」


「だったらこの術式を消せ」


「声を全部渡さないなら」


「渡すって言い方をやめろ」


 レオは答えなかった。


 代わりに、白金の光が少しだけ濃くなる。


 ノアの声がまた喉元でこもった。息はできる。喋れる。けれど、声の出口に薄い膜を張られたような感覚がある。外へ出る前に、レオが先に聞く。そういう術式だ。


 ノアの軽口が、少し落ちた。


「やめろ」


 低い声だった。


 レオの目が、そこを逃さなかった。


「その声は、僕に向けるんだね」


「お前が言わせたんだろ」


「うん」


「満足?」


「していない」


「最悪」


「君の明るい声も、優しい声も、低い声も、掠れた声も、僕は聞きたい」


「聞きたいと奪いたいは違う」


「分かっている」


「分かっててやるな」


「努力する」


「努力じゃ足りない」


 ノアは喉元に手を当てた。


 熱い。


 赤い糸が、声の振動を拾っている。魂糸が、喉の周りで微細に震える。首輪の前兆が、また輪の形を取りかけていた。


 ノアは息を吸った。


「レオ」


「うん」


「俺の声は俺のものだ」


「分かっている」


「分かってない」


 レオは一瞬だけ黙った。


 その沈黙の間に、部屋の空気が揺れた。白金の術式が少し弱まる。ノアの声の行き先を縛っていた感覚が、わずかにほどけた。


 レオは静かに言った。


「君の声が遠くなるのが怖い」


「俺は隣の寝台にいる」


「距離の話じゃない」


「じゃあ何」


「君が誰かに笑って、その声が僕の知らないところへ残ること」


「それは普通だろ」


「普通が、僕には怖い」


 ノアは言葉を失いかけた。


 その正直さは、いつも卑怯だ。


 レオは自分の異常さを隠さない。綺麗な言葉で飾ることはあるが、根は隠さない。怖い。失いたくない。聞いていたい。逃がしたくない。そう言って、穏やかな顔で魔法を使う。


 ノアは額を押さえた。


「お前、友達作りの邪魔したら本気で怒るからな」


「分かった」


「分かっただけで済ませるな。術式を消せ」


 レオは、ゆっくり白金の光を引いた。


 部屋の空気が軽くなる。


 ノアの声の出口から膜が消えた。首元の熱は残っているが、こもる感覚は薄れた。ノアは試しに息を吐く。普通に響いた。


 普通の声。


 それだけで少し安心するのが腹立たしい。


「……ほんと、声帯にまで過保護」


「ごめん」


「謝った上でまたやりそう」


「必要なら」


「必要判定を俺に渡せ」


 レオは困ったように微笑んだ。


「それは難しい」


「言うと思った」


 その夜、ノアの声は少し掠れていた。


 術式そのものは短かった。痛みもない。ただ、声の通り道を勝手に触られたせいで、喉の奥に違和感が残った。寝る前に水を飲むと、レオは何も言わずに見ていた。何も言わないのに、全部聞いている気がした。


 翌朝、ノアは喉の掠れで目を覚ました。


 向かいの寝台は、やはり空だった。


 小卓には水。


 そして、レオ。


 いつも通りすぎて、逆に腹が立つ。


 ノアは寝起きの掠れ声で言った。


「お前のせいで掠れたんだが?」


 レオは杯を差し出した。


「だから僕が治す」


「原因と修理業者が同じなの、倫理的にどうなの」


「よくないと思う」


「思うならやめろ」


「昨日の術式は、今朝は使わない」


「今朝は」


「うん」


「はい出た。朝から不穏」


 それでもノアは水を受け取った。


 喉が楽になる。


 レオの白金の光が、今度はごく細く、声帯の周囲を整えた。昨日のような行き先を決める術式ではない。純粋な治癒に近い。だが、治されるたびに、レオの手つきが喉を覚えていく気がして嫌だった。


「治った?」


 レオが聞く。


 ノアは声を出した。


「王子様、過保護」


「戻ったね」


「その確認が怖いんだよ」


 朝食後、ノアは中庭でルカに捕まった。


 ルカは工具袋を揺らしながら、妙に楽しそうだった。


「今日の放課後、魔具工房来る?」


「昨日誘ったやつ?」


「そう。黒魔法に反応する補助具の試作があるんだ。見るだけでも面白いと思う」


「工房見学つき?」


「もちろん」


「じゃあ行く。爆発したらお前のせいな」


「まだ爆発してない」


「まだ、って言うな。周囲に不安を配るな」


 ルカは笑った。


 アイリスも近くにいて、「私も少しだけ見学します」と控えめに言った。ノアは軽く手を振る。


「治癒魔法科がいるなら安心だな。工房爆発しても治してもらえる」


「爆発前提なんだね」


「保険は大事」


 ルカが声を上げて笑った。


 ノアも笑った。


 軽く、明るく。


 その瞬間、背後から静かな声がした。


「楽しそうだね」


 レオだった。


 穏やかに笑っている。


 朝の光の中で、相変わらず完璧な王子様の顔をしている。


 ノアは振り返り、わざと軽く返した。


「友達くらい作らせろよ、王子様」


 レオは微笑んだ。


「友達が、君の声をどれだけ聞くかによる」


 ノアの首元で、赤い糸が静かに熱を持った。



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