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黒い災厄は、聖なる伴侶の檻から逃げられない~前世で俺を殺した英雄が、今世では赤い糸で俺を閉じ込めてくる~  作者: なつめ
第一章【赤い糸は檻になる】

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第14話 ほどけない糸


 夜の三〇七号室は、昼間よりも静かだった。


 窓の外には、アルカディア魔法学院の中庭が沈んでいる。昼間は噴水の水音や新入生たちの声で明るかった場所も、夜になると白い石畳だけが月光を受けて冷たく光っていた。風が木々を揺らし、葉の影が窓硝子の上で細く震えている。


 部屋の魔力灯は落としてあった。


 小卓の上には、水差しと二つの杯。二つの寝台。二つの机。窓辺には古い学院の結界紋。薄闇の中では、そのすべてが妙に整いすぎて見えた。


 向かいの寝台は空だった。


 レオ・アステルレインはいない。


 寮監に呼ばれたのだと、本人は穏やかに言っていた。聖魔法科代表として、礼拝堂の使用確認か何かがあるらしい。王子様は夜でも用事がある。実に忙しい。顔がいい人間に仕事を集めるのは、世界の悪癖だ。本人が涼しい顔で処理するから、周囲が味をしめる。迷惑な美貌である。


 ノア・クロウは、寝台の端に座っていた。


 首元が熱い。


 昼間よりも、夜の方がはっきり分かる。


 赤い糸は見えない。鏡を見ても、肌には何もない。痕も、輪も、赤い線もない。だが、魂の奥に熱がある。喉の下、声が生まれる場所より少し深く、魔力核へ降りていく手前。そこに、細い赤い結び目が息をしている。


 呼吸をするたびに、熱がわずかに動く。


 声を出そうとすると、喉の奥で糸が震える。


 黒魔法を使おうとすると、先にその熱が反応する。


 見えないのに、存在だけは否応なく分かる。


 これを首輪と呼ばずに何と呼ぶのか。


 レオはまだ首輪ではないと言った。


 その「まだ」が、余計に性格が悪い。


 ノアは首元へ指を当てた。


 皮膚はいつも通りだ。少し冷えた指先が、喉の横をなぞる。何も触れない。何もない。なのに、指の下で赤い熱が小さく震えた。


「……いるんだよなあ」


 小さく呟く。


 声は部屋の中へ淡く落ちた。


 レオはいない。


 今なら、声を誰に聞かれたか気にしなくていい。


 いや、気にしなくていいはずだった。


 赤い糸が、どこまで拾うのか分からない。呼吸なのか、魔力なのか、声の振動なのか、あるいは魂の揺れなのか。考えるだけで腹立たしい。自分の身体の内側に、他人宛ての通知装置を埋め込まれたようなものだ。魔法契約というものは、どうしてこう説明書に大事な副作用を書かないのか。人類も魔法も、重要事項を小さく書きすぎる。


 ノアは息を吐いた。


 ほどく。


 切るのではなく、まずほどく。


 構造を見なければ、対処もできない。黒魔法は、壊すだけの力ではない。深く触れ、形を読み、歪みを見つける力でもある。魂に触れられたなら、こちらからも触れ返せるはずだ。


 ノアは右手を持ち上げた。


 指先へ黒い霧を集める。


 濃くしすぎない。細く、薄く、針よりも柔らかく。魔法陣を作るほど広げず、指先の周囲だけに留める。黒い霧は夜の影に溶けるように揺れ、やがて一本の細い糸のように形を変えた。


 赤い糸に、黒い霧を近づける。


 皮膚の上ではない。


 魂の表面へ。


 ノアは目を細めた。


 魔力回路の浅い層へ降りる。そこから喉の奥、声の振動が通る道のさらに下へ。そこには、自分の黒魔法の流れがある。黒い霧はそれに沿って進み、赤い熱の気配を探った。


 すぐに見つかった。


 見えるわけではない。


 だが、そこにある。


 白金の聖魔法に包まれた赤い糸。表面は柔らかく、熱を持っている。けれど奥へ行くほど固い。魂の表層に結んだだけではない。魔力核へ近いところへ、細い根を下ろしている。


 ノアの眉が動いた。


「……深いな」


 思っていたより、深い。


 危険感知だけなら、ここまで入れる必要はない。呼吸や魔力の揺れだけなら表面で拾える。なのに、糸はもっと奥へ触れている。


 見失わないため。


 逃がさないため。


 ほどけないようにするため。


 ノアは笑った。


 声にはしなかった。


 なるほど。


 王子様、性格がいい顔でえげつない結び方をしている。


 黒い霧が、赤い糸の外側へ触れた。


 その瞬間、白金の光が弾けた。


「っ、い……」


 痛みが走った。


 首元だけではない。喉の奥から胸の内側へ、魔力回路を細い針で突かれたような痛み。魔力核が反射的に強張り、呼吸が浅くなる。視界が一瞬だけ暗くなり、指先に集めていた黒い霧が散りかけた。


 ノアは歯を食いしばった。


 声を上げるな。


 声にしたら、糸が拾う。


 拾えば、レオに伝わる。


 もう伝わっている可能性はある。だが、認めたくない。認めたら腹が立つだけでは済まない。


 ノアはもう一度、黒い霧を集めた。


 今度は外側から触れない。白金の光と赤い熱の境目を探る。聖魔法の結び目には癖がある。術者ごとに締め方が違う。レオの魔法は整っていて美しい。美しいほど、規則がある。規則があれば、隙もある。


 黒い霧が、赤い糸の熱に沿って滑る。


 わずかに、結び目の流れが読めた。


 中心は首元ではない。


 もっと奥。


 魂の深い場所へ糸を通し、そこから喉元へ熱を返している。見えない首輪は、首に巻かれているのではなく、魂の奥から首へ浮かび上がっているのだ。


 最悪だ。


 外からほどくだけでは駄目だ。


 内側へ入らなければいけない。


 ノアは黒い霧をさらに細くした。


 赤い糸の隙間へ差し込む。


 その瞬間、拒絶が来た。


 白金の光が、今度は刃ではなく檻の形を取った。黒い霧を閉じ込め、押し返し、ノア自身の魔力回路へ反動を返す。胸の奥が重くなった。魔力核へ圧がかかり、膝から力が抜けかける。


「っ、い……王子様、ほんと性格悪い結び方してるな……」


 呻き混じりの声が漏れた。


 喉が詰まる。


 瞳孔が少し開いた。夜の部屋の輪郭が遠くなる。床が斜めに傾いたように見え、ノアは片手で寝台の縁を掴んだ。指先が白くなる。黒い霧が反射的に膨れ、赤い糸へ噛みつこうとした。


 駄目だ。


 強くやるな。


 強くやれば、さらに拒絶される。


 分かっている。


 分かっているのに、首元の熱が腹立たしくて、黒魔法が言うことを聞きにくい。


 その時、扉の向こうで足音がした。


 静かな足音。


 近づいてくる。


 ノアは舌打ちしたいのを飲み込んだ。


 遅い。


 いや、早い。


 どちらにしろ最悪だ。


 扉が開いた。


 廊下の薄い光が部屋へ差し込む。


 そこに、レオ・アステルレインが立っていた。


 白と金の制服の上着だけを少し緩め、手には寮監から受け取ったらしい書類を持っている。表情は穏やかだった。怒っていない。驚いてもいない。まるで、来ればこの光景があると分かっていたような顔だった。


 ノアは寝台の縁を掴んだまま、笑った。


 笑うしかない。


 こういう場面で笑えなくなったら負けである。相手が王子様ならなおさらだ。人間関係の敗北条件が多すぎる。


 レオが静かに言った。


「ほどこうとしたね」


 ノアは肩をすくめた。


「紐があったらほどきたくなるのが人間ですー」


 レオは部屋へ入った。


 扉が閉まる。


 廊下の光が途切れ、三〇七号室はまた月明かりと弱い魔力灯の世界に戻った。


「君は、僕の糸を人間の紐と同じにしない方がいい」


「王子様の糸は特別製ですって? 貴族っぽいなー」


「そういう意味じゃない」


「じゃあどういう意味?」


「君が無理にほどこうとすると、君の魔力回路が傷つく」


「俺を気遣うなら、そもそも勝手に結ぶな」


「それは、できなかった」


「できなかった、じゃない。やったんだよ」


 レオは黙った。


 黙ったまま、近づいてくる。


 怒鳴らない。


 責めない。


 ただ静かに距離を詰める。


 それが一番よくない。怒鳴られた方が、ノアは反発できる。責められた方が、茶化せる。けれどレオは、穏やかな声と静かな足取りで近づいてくる。保護の顔をした支配が、一歩ずつ距離を詰めてくる。


 ノアは立ち上がろうとした。


 だが、膝がわずかに崩れた。


 赤い糸の拒絶反応が、まだ魔力核に残っている。首元が熱く、喉が詰まる。息を吸おうとして、胸の奥で圧が引っかかった。黒い霧が足元に滲むが、形にならない。


 レオの指先に、白金の光が灯った。


 ノアはすぐに言った。


「触るな」


 レオの手が止まる。


 だが、光は消えなかった。


「乱れている」


「お前の糸のせいでな」


「整える」


「許可は」


「今聞いたら、君は拒む」


「拒む権利くらいあるだろ」


「ある」


「じゃあ」


「でも、そのままだと痛む」


 白金の光が、赤い糸へ触れた。


 直接ノアの肌には触れない。レオの指先は空中で止まっている。だが、赤い糸を通じて聖魔法が流れ込んできた。首元の熱を包み、黒い霧に弾かれて荒れた魔力回路の表面を撫でる。


 痛みが少しずつ引く。


 喉の詰まりも緩む。


 膝の震えも収まる。


 楽になる。


 だから、腹が立つ。


 保護と支配が、同じ温度をしている。優しさと拘束が、同じ白金の光でできている。レオの魔法はいつも丁寧だ。丁寧に整え、丁寧に包み、丁寧に逃げ道を狭める。


 ノアは低く笑った。


「保護と支配、同じ魔法陣で書いてる?」


 レオは答えるまで少し時間を置いた。


「違う」


「即答しなかったな」


「違うようにしたい」


「願望かよ」


「今は、うまく分けられない」


「最悪の自己申告どうも」


 白金の光が、赤い糸の熱をさらに鎮める。


 それと同時に、糸の存在が前よりはっきりした。乱れていた熱が整えられたせいで、結び目の輪郭が分かりやすくなる。ほどけない。少なくとも、ノアが今の状態で力任せに触れれば、自分の魔力回路を傷つけるだけだ。


 レオは静かに言った。


「ほどきたいなら、僕に言って」


 ノアは顔を上げた。


「言ったらほどく?」


「ほどかない」


「会話の意味」


「君が一人で触って傷つくより、僕が見ていた方がいい」


「それを管理って言うんだよ」


「うん」


「うん、じゃない。開き直るな」


「君を失うより、嫌われる方がいい」


 ノアは黙った。


 その言葉は、静かに胸へ落ちた。


 嫌われる方がいい。


 失うより。


 甘い言葉ではない。


 綺麗な告白でもない。


 もっと重く、もっと歪んでいる。喪失恐怖と独占欲と、前世の傷が混ざったもの。受け取れば、こちらまで沈む。沈めば、たぶん逃げられない。


 ノアは笑った。


 わざと軽く。


「王子様、重さで床抜けるぞ」


「床は補強されている」


「真面目に返すな。俺の軽口が死ぬ」


「死なせたくない」


「軽口まで保護対象?」


「君の声だから」


 喉元の赤い糸が、小さく震えた。


 声に反応した。


 ノアはその感覚に顔をしかめる。レオの魂糸は、ノアの声の振動まで拾っている。昨日までは気配だった。今日はもっと近い。声を出すたび、首元に細い熱が返る。


「声にも反応するのかよ」


「強い感情が乗ると」


「嫌すぎる」


「今はまだ弱い」


「“まだ”禁止って言っただろ」


 レオは白金の光を少し弱めた。


 ノアの魔力回路の乱れは、ほとんど整っていた。痛みも消えかけている。だが、その代わり、糸の管理権がレオ側にあることを突きつけられたようだった。


 ほどけない。


 ほどくには、レオが必要。


 だがレオはほどかない。


 この会話、意味があるようで最悪に意味がない。いや、意味はある。ノアの自由が一つ減ったという意味が。そんな意味はいらない。


 ノアは、レオの光から少し身を引いた。


 今度は膝が崩れなかった。


 立てる。


 呼吸も戻った。


 だから、ちゃんと言える。


「レオ」


 ノアの声は低かった。


 軽口ではなかった。


 レオがこちらを見る。


 碧い目は静かだ。けれど、さっきより緊張していた。ノアの声が変わったことを聞き取っている。


 やっぱり、声を聞いている。


 なら、聞け。


「俺を守るなら、俺を消すな」


 部屋の空気が止まった。


 窓の外で木々が揺れる音だけがした。魔力灯の淡い光が、レオの横顔を白く照らしている。小卓の水差しに月が映り、静かに揺れた。


 レオは、しばらく何も言わなかった。


 ノアも視線を逸らさなかった。


 言ってしまった。


 自分でも驚くほど、本音に近い場所から出た声だった。


 守る。


 保護する。


 見失わない。


 逃がさない。


 そのすべてが、ノア自身の形を奪うものなら、それは救いではない。前世の何かがどうだったとしても、今ここにいるノアを消して、イリアスの影だけを抱えようとするなら、それは守ることではない。


 レオの碧い目が、かすかに揺れた。


「消したいわけじゃない」


「そうだろうな」


「君を残したい」


「残すって言葉もだいぶ危ないぞ」


「君は、自分を残すのが下手だから」


「だからって、お前が勝手に俺の形を決めるな」


 レオは、胸の前で手を握った。


 自分の魔法を抑えるような仕草だった。


「分かっている」


「分かってない」


「分かりたい」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「それ、今のところ一番ましな答え」


 レオはゆっくり頷いた。


 赤い糸の熱が、少しだけ落ち着く。


 ノアは寝台へ腰を下ろした。身体が重い。中度反応。自分でそう分類しかけて、すぐ嫌になった。身体の限界を冷静に分類する人生、かなりろくでもない。人類、もう少しましな趣味を持つべきだ。


 レオは小卓の水差しから杯へ水を注いだ。


 無言で差し出す。


 ノアはそれを見た。


「水まで管理?」


「喉が詰まっていた」


「お前の糸のせい」


「だから、僕が整える」


「加害と治療を同じ手でやるな」


 レオの表情が少しだけ沈んだ。


 ノアは撤回しなかった。


 必要な言葉だった。


 レオは低く言った。


「ごめん」


「謝るなら次からやるな」


「……努力する」


「努力じゃなくて禁止」


 レオは沈黙した。


 ノアは杯を受け取った。


 水は冷たかった。


 喉を通ると、糸の熱で詰まっていた場所が少しだけ楽になる。受け取りたくないのに、身体は正直に楽になる。最悪だ。身体というものは、思想を理解しない。水を渡されたら潤う。聖魔法で整えられたら楽になる。そういう単純さが、今は腹立たしい。


 ノアは杯を返し、布団へ潜り込んだ。


「今日はもう寝る。これ以上話すと、俺の声が全部お前の記録に追加されそう」


「記録にはしない」


「似たようなことはしてるだろ」


 レオは否定しなかった。


 その夜、ノアはなかなか眠れなかった。


 レオは向かいの寝台にいた。いつもより静かだった。呼吸は規則正しい。だが、眠っているかどうかは分からない。分かりたくもない。


 目を閉じると、赤い糸の深層へ触れた時の感覚が蘇った。


 白金の光。


 黒い霧を押し返す透明な檻。


 喉の奥へ沈む圧。


 顔を上げさせられるような感覚。


 遠くで声がした。


 助けてくれと言え!!


 普段は穏やかなはずの声が、裂けるように響いていた。


 僕に縋れ!!


 黒魔導書じゃなく、僕を見ろ!!


 ノアは目を開けた。


 暗い天井が見える。


 胸が浅く上下していた。


 首元の赤い糸が熱い。


 前世の記憶なのか、夢なのか、ただの残響なのか。そんな分類はどうでもよかった。ただ、あの声が喉の奥に残っている。


 助けてくれと言え。


 言わなかった誰か。


 今も言わない自分。


 ノアは小さく息を吐き、布団の中で首元に触れた。


 何もない。


 けれど、熱はある。


 翌朝、目覚めると、小卓には水が置かれていた。


 当然のように。


 レオはすでに起きていて、机の前で何かを書いていた。白と金の制服は整い、金髪も乱れていない。朝から完成されすぎていて、もはや腹立たしさに安定感がある。


 ノアが身体を起こすと、レオはすぐに顔を上げた。


「おはよう」


「……おはようございます。朝から顔がいいな。嫌味か」


「喉は?」


「朝のメンテ、予約制にしてくれない?」


「予約したら逃げる?」


「逃げる」


「なら、予約なしになるね」


「会話の結果が最悪」


 レオが近づいてくる。


 ノアは反射的に身構えたが、手は払わなかった。


 喉に違和感があるのは事実だった。昨夜、赤い糸をほどこうとした反動が残っている。声を出すたび、喉の奥に薄い膜が張っているような感覚があった。


 レオの指先に白金の光が灯る。


 昨日より慎重だった。


 赤い糸の結び目へ深く触れず、喉の違和感と魔力回路の表面だけを整える。ノアはその加減を感じ取った。


 俺を守るなら、俺を消すな。


 レオは、あの言葉を覚えている。


 覚えた上で、触れ方を変えている。


 それがまた、腹立たしい。


 覚えるなと言いたい。


 でも、覚えろとも思う。


 感情の設計が雑すぎる。誰が作った。文句を言いたい。


 ノアはレオを睨んだ。


「睨んでるからな」


「見えている」


「嫌がってるからな」


「聞こえている」


「じゃあやめろ」


「今やめたら、君は一日喉を気にする」


「それはそう」


「だから整える」


「正論と支配を混ぜるな」


 白金の光が静かに消えた。


 喉が楽になった。


 ノアは小さく息を吐く。


「……はい、終了。メンテ完了。俺は魔導具じゃないけど」


「君は魔導具じゃない」


「よし」


「でも、手入れは必要だと思う」


「台無し」


 レオは少しだけ笑った。


 朝の光の中で、その笑みは相変わらず綺麗だった。


 綺麗で、重くて、逃げ場がなかった。


 授業へ向かう前、ノアは鏡の前で制服の襟元を整えた。


 いや、整えたというより、いつも通り少し緩めた。首元に触れる布が気になる。赤い糸の熱が、昨日よりも輪の形を覚え始めているからだ。


 鏡には何も映らない。


 ノアの白い首元には、痕ひとつない。


 だが、そこには確かに輪があった。


 見えない。


 触れない。


 けれど、赤い熱として、喉の奥から魂へ浮かび上がっている。


 日中、黒魔法理論の授業中も、その熱は時折反応した。


 セドリックが「黒魔法に深く潜る時は、戻るための楔を持て」と言った時。


 マルクが「君の魔法は深すぎる」と小声で言った時。


 サナが「縛られるの、嫌いそうな顔してる」と呟いた時。


 そのたびに、首元が小さく熱を持った。


 レオは別の教室にいる。


 それなのに、糸は反応する。


 伝わっているのかもしれない。


 分からないことが、すでに嫌だった。


 放課後、ノアは図書館へ向かった。


 伴侶契約、魂糸、聖魔法による保護術式、危険感知契約。棚には綺麗な言葉が並んでいた。どの本も、同意ある契約を前提に書かれている。契約者同士の信頼。魂の共鳴。命の保護。危険察知。


 肝心の、勝手に結ばれた場合のほどき方は見つからない。


 魔法書というものは、都合のいい面ばかり堂々と書く。使い勝手の悪い真実は、注釈の奥へ追いやる。人類の説明責任、だいたい薄い。


 夜、部屋へ戻ると、レオは窓辺に立っていた。


 中庭を見ている。


 だが、ノアが入るとすぐに振り返った。


 待っていた顔だった。


「今日は図書館へ行ったんだね」


「学院生なので。知的活動」


「伴侶契約の棚?」


「王子様、行動履歴まで把握してる?」


「糸が少し揺れた。君が何かを探している時の魔力だった」


「俺の検索履歴を魂で読むな」


「何か分かった?」


「魔法書は不親切、ということが分かった」


 レオは静かに見ていた。


 ノアは鞄を置いた。


 軽口で終わらせることもできた。


 けれど、首元の熱が一日中消えなかったことを、黙って飲み込む気にはなれなかった。


「レオ」


「うん」


「この糸、ほどけないんだな」


 レオの表情が、わずかに静まった。


「僕がほどかない限りは」


「管理権はお前にあるってこと?」


「今は」


「その“今は”で希望を出してるつもり?」


「希望ではある」


「俺には脅しに聞こえる」


「そう聞こえるなら、僕の言い方が悪い」


「言い方じゃなくて中身」


 レオは黙った。


 ノアは首元へ触れた。


 熱は、はっきり輪の形を取り始めている。


 まだ見えない。


 だが、確かにそこにある。


 レオは静かに言った。


「君が自分を傷つけるなら、僕は君の自由より先に君を選ぶ」


 ノアは笑った。


 低く、乾いた笑いだった。


「最悪の告白だな」


 レオは目を逸らさなかった。


「君に届くなら、それでいい」


 その瞬間、首元の熱が初めて輪の形に感じられた。


 見えないまま。


 声もなく。


 ただ、そこに確かにあるものとして。




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