第13話 伴侶首輪の熱
首元が、熱かった。
火傷のような熱ではない。痛みと呼ぶには細く、違和感と呼ぶには深い。皮膚の上ではなく、喉の奥、もっと内側、声が生まれる場所の周囲に赤い糸がゆっくり巻きついているような熱だった。
ノア・クロウは、目を開けた。
朝の光が、部屋の白い壁に落ちている。魔力灯はほとんど消え、窓の外では中庭の木々が風に揺れていた。噴水の水音がかすかに聞こえる。学院の朝は、やたら健康的な顔をしている。実際には昨日、魂に無断で糸を結ばれた生徒がここにいるわけで、健康とは何かを学院に問い詰めたい。問い詰めたところで、規則集を渡されそうなのでやめるが。
向かいの寝台は、もう整えられていた。
当然のように。
レオ・アステルレインは朝が早い。早いだけでなく、起きた後の痕跡がほとんどない。寝具は皺なく整えられ、机の上も静かに片づいている。人間が寝起きでここまで整っているのは、もう一種の怪異だと思う。聖魔法科の王子様というより、学院寮に住みついた美しい整理整頓の妖怪である。
ノアは上体を起こした。
首元の熱が、少し強くなる。
「……うわ、朝からいる」
声は少し掠れていた。
ノアは自分の声に顔をしかめる。昨日、赤い糸が結ばれた瞬間、喉の奥で潰れた短い叫び。その余韻が、まだ声帯の裏に残っている気がした。
洗面台へ向かい、鏡を覗き込む。
黒髪は寝癖で少し跳ねている。赤い瞳は眠気を残し、顔色は悪くない。制服を着る前の首元は、白い肌が見えているだけだった。
痕はない。
線もない。
輪もない。
赤い糸も、首輪も、何も見えない。
それなのに、熱だけがある。
ノアは指先で首元をなぞった。何も触れない。皮膚はいつも通りなめらかで、痛みもない。けれど指の下、もっと奥で、見えない結び目が脈を打っている。
「見えない首輪って、存在してるだけで嫌味だな」
背後で、静かな声がした。
「嫌なら、無茶をしなければいい」
ノアは鏡越しにレオを見た。
レオは小卓のそばに立っていた。制服はもう整っている。白と金の襟は完璧で、金髪も朝の光を受けて柔らかく輝いていた。手元には、水の入った杯がある。ここ数日で見慣れすぎた光景だった。見慣れたくないのに、身体が先に覚えてきている。最悪だ。水差しに情緒を握られる人生、かなり嫌だ。
ノアは顔を洗いながら言った。
「条件付き自由、自由って呼ばないんだぞ王子様」
「完全な自由を渡したら、君はどこへ行くの」
「学院の食堂。朝飯」
「そのあと」
「授業。真面目なので」
「そのあと」
「俺の一日を詰問するな。寮監より管理が細かい」
レオは否定しなかった。
否定しないところが、いつも通りよくない。
ノアは顔を拭き、鏡の前で首元をもう一度見た。何もない。何もないからこそ、熱の存在が余計に腹立たしい。
レオが近づいてくる気配がした。
ノアは反射的に一歩横へずれた。
「触るなよ」
「熱を鎮めるだけだよ」
「“だけ”って言葉、信用ならないランキング上位だな」
「嫌ならやめる」
レオは本当に手を止めた。
それが逆にやりづらい。
ノアは鏡の中の自分とレオを見比べた。レオは穏やかな顔をしている。けれど、その視線は首元を見ていた。赤い糸がどう熱を持ち、どこで震え、ノアがどれくらい不快に思っているのかを、確かめている目だった。
ノアはため息をついた。
「……熱だけな」
「うん」
「糸を増やすな」
「増やさない」
「首輪にもするな」
「今は」
「今は、をつけるな」
レオは少しだけ目を伏せた。
「分かった。今は、つけない」
「言い直しが下手」
レオの指先に、白金の光が灯った。
それは昨日の赤い糸とは違う。もっと淡く、細く、治癒に近い光だった。ノアの首元へ触れる寸前で止まり、そこから熱を包むように広がる。皮膚には触れていない。けれど、魂の表面に結ばれた赤い糸へ、白金の冷たい水を流し込むような感覚がした。
首元の熱が、少しずつ和らいでいく。
同時に、喉の奥がほどける。
不快なのに、楽になる。
その事実がもっと不快だった。
「朝からメンテナンスされる俺、魔導具かな?」
「君は魔導具じゃない」
「魔導具の方が同意確認されてるかもな」
レオの指先が、ほんの少し止まった。
ノアは笑った。
「冗談だよ。半分くらい」
「もう半分は?」
「嫌味」
「覚えておく」
「覚えるな。忘れろ」
「君の嫌がることは、覚える」
「覚えた上でやるな」
「努力する」
「信用ならない返事、また出た」
白金の光が消えた。
首元の熱は完全には消えなかったが、朝起きた時よりはずいぶんましだった。喉も少し楽になっている。ノアは小卓の水を取り、喉を潤した。
レオの視線を感じる。
「見るな」
「喉が戻ったか確認している」
「医務室より細かい」
「君の喉だから」
「朝から所有感を出すな」
レオは微笑んだ。
言い返さない。
言い返さない時ほど、たぶん本気だ。
授業は午前から黒魔法実習だった。
黒魔法科の実習室は、本館の地下寄りにある。白い石造りの測定室とは違い、壁も床も黒灰色の石でできていた。魔力の吸収率が高い素材らしく、声も足音もやや鈍く響く。天井の魔力灯は薄い青で、影の輪郭をはっきりさせすぎないよう調整されていた。
実習室の中央には、個別訓練用の魔法陣がいくつも描かれている。
黒魔法科の新入生は少ない。マルク、サナ、もう一人の眠そうな少年、そしてノア。セドリック・バロウズは黒いローブで立ち、各自の魔法陣を確認していた。
「今日は基礎制御だ。魔力を大きく出す必要はない。表層から深層へ落とす感覚を掴め。黒魔法は強さより深さが危険になる」
「先生、初回から名言っぽいこと言いますね」
「黙って聞け」
「はい」
ノアは素直に返事をした。
セドリックは一瞬だけこちらを見たが、何も言わなかった。昨日の測定以降、この教師はノアをよく見ている。警戒というより、観察。危険物として隔離するためではなく、暴発しないよう構造を見ようとしている目だ。
それ自体はありがたい。
ありがたいのだが、最近周囲に観察者が多すぎる。教師、王子様、赤い糸。そろそろ自分の人生に「観察禁止」の札を立てたい。立てたところで全員読まない気がする。人類、注意書きを見ない。
実習が始まった。
マルクは黒い靄を糸状に伸ばす訓練をしている。緊張で何度か霧が切れ、そのたびに眼鏡を直していた。サナは黒い棘の魔法式を出しすぎて、セドリックに「抑えろ」と言われている。眠そうな少年は、なぜか影を小さな箱の形にまとめていた。器用だが眠そうだ。人間の才能は見た目と関係ない。実に面倒。
ノアは自分の魔法陣の中に立った。
黒い霧を指先に集める。
いつも通り、表面だけ。
浅く、薄く、軽く。
そのつもりだった。
けれど、昨日の赤い糸の結び目が、胸の奥で微かに反応した。魔力を流すたび、魂の奥の赤い熱がごく小さく脈を打つ。首元に、輪の形を取る前の何かが集まっていく感覚があった。
ノアは眉を寄せた。
邪魔だ。
黒魔法を使うたびに、レオの糸がいる。
そう思った瞬間、腹が立った。
ノアは、少しだけ強めに魔力を流した。
黒い霧が濃くなる。
魔法陣の上に、黒い花の輪郭が一瞬だけ浮かんだ。すぐ消すつもりだった。黒い花は深部に近い。出しすぎると面倒になる。分かっている。分かっているのに、身体が少しだけ反発した。
その瞬間、首元が熱を持った。
「っ……」
喉が詰まる。
赤い糸が、魔力変動に反応した。
首元に熱が集中する。見えない何かが、喉の周囲でゆるく輪を作ろうとする感覚。まだ首輪ではない。けれど、首輪の場所を覚えさせるような熱だった。
魔力核に軽い圧がかかる。
ノアは短く呻いた。
「……う、っざ……」
黒い花が歪む。
黒魔法が赤い糸の反応を拒むように揺れ、魔法陣の縁が一瞬だけ暗くなる。セドリックがすぐにこちらを見た。
「ノア」
「大丈夫ですー。ちょっと首元が王子様仕様になっただけで」
「何を言っている」
「俺も聞きたい」
ノアは黒い霧を消した。
首元の熱は引かない。
むしろ、離れた場所から引っ張られているような感覚があった。どこかでレオが気づいた。そう分かる。分かってしまう。赤い糸を通じて、自分の魔力変動が向こうへ伝わったのだ。
嫌な便利さだ。
ノアは首元を押さえた。
何もない。
何もないのに、熱だけがある。
実習後の廊下で、レオは本当に来た。
早すぎた。
黒魔法実習室を出て、階段へ向かおうとしたところで、白と金の制服が廊下の向こうに現れた。聖魔法科の授業は別棟のはずだ。移動距離を考えると、授業が終わった瞬間にこちらへ向かったことになる。いや、もしかすると終わる前から気づいていたのかもしれない。どちらにせよ、だいぶ嫌だ。
ノアは片手を上げた。
「早いな。俺に鈴でもつけた?」
レオは静かに近づいてきた。
「似たようなものだね」
「認めるな」
「魔力が跳ねた」
「ちょっと強めに出しただけ」
「首元が熱い?」
「お前に聞かれた時点で熱が増した気がする」
「見せて」
「見せるものない。見えないんだから」
「感じる」
「感じるな」
レオは、ノアの前で足を止めた。
廊下には他の生徒もいた。聖魔法科の王子様が黒魔法科の平民の前に即座に現れたことで、またざわめきが生まれる。人間の噂好き、そろそろ国家資格にでもすればいい。需要は無駄にある。
ノアは周囲へ笑いかけた。
「はいはい、見世物じゃないぞー。王子様の巡回サービスでもないぞー」
数人が慌てて目を逸らした。
レオは、その視線を気にしていなかった。
碧い目はノアだけを見ている。
「無茶をした」
「してない。実習」
「強く流した」
「黒魔法科で黒魔法使っただけですー」
「君の魔力核が反応した」
「そこまで筒抜けなの嫌すぎるな」
「筒抜けではないよ」
「今の発言で説得力死んだぞ」
レオの指先に、白金の光が灯る。
ノアはすぐに後ろへ下がった。
「ここ廊下」
「分かっている」
「人目がある」
「それも分かっている」
「分かっててやるな」
「首元の熱を鎮めるだけだよ」
「その“だけ”を信用しないって今朝も言った」
レオは手を止めた。
周囲の視線が、さらに増える。
セドリックが実習室の入口からこちらを見ていた。マルクは明らかに困惑している。サナは面白がるというより、警戒していた。
ノアは息を吐いた。
「……部屋戻ってから」
「今、苦しくない?」
「苦しいのはお前の距離感」
「喉は?」
「少し熱いだけ」
「少しじゃない」
「お前基準で測るな」
レオは黙った。
けれど、引いたわけではなかった。
ただ、待つ形に変えただけだ。
それが分かるから、ノアはまた腹が立った。
結局、昼休みに三〇七号室へ戻ることになった。
戻る途中、ノアは何度も軽口を叩いた。食堂の匂いがどうとか、聖魔法科は移動速度まで優雅なのかとか、黒魔法科の授業は白い床より精神衛生にいいとか。レオは穏やかに返していたが、視線はずっと首元にあった。
部屋へ入ると、扉が静かに閉まった。
昨日と同じ音。
逃げ道が一枚、閉じる音。
ノアは首元を押さえたまま、寝台に座った。
「はい。見えない首輪の定期点検どうぞ。料金は高いぞ」
「首輪ではないよ」
「その言い方もう聞いた」
「まだ」
「言うな」
レオはノアの前に膝をついた。
その姿勢がまた嫌だった。
見上げられると、責めにくい。穏やかな顔で下から見られると、余計に逃げ場がなくなる。人間、姿勢だけで圧を調整するのをやめてほしい。いや、これはたぶん意図的だ。最悪。
白金の光が、レオの指先から伸びた。
首元へ直接触れず、空中で止まる。
そこから光が細くほどけ、赤い糸の熱を包む。ノアの喉の奥が少し震えた。短い呻きが漏れる。
「っ、ん……」
「痛い?」
「痛くはない。気持ち悪い」
「熱が集中している」
「お前が結んだんだろ」
「うん」
「反省の色が薄い」
「反省はしている」
「でもほどかない?」
「ほどかない」
ノアはレオを睨んだ。
「そこは即答なんだな」
「君を見失う方が怖い」
「俺の自由より?」
「今は」
「また今は」
「いつか、違う答えができるようにする」
「それまで俺は条件付き自由?」
「そう」
「最低」
「うん」
「うんじゃない」
白金の光が、首元の熱を少しずつ鎮めていく。
赤い糸は完全には落ち着かない。けれど、さっきまでの焼けるような熱は薄れた。喉の詰まりも和らぎ、魔力核の圧が軽くなる。
その代わり、糸の存在感がはっきりした。
熱が強い時はただ苦しかった。
鎮められると、そこに形のない輪郭があることが分かる。
首元に、赤い糸が集まっている。
まだ首輪ではない。
けれど、首輪になる場所を決められている。
ノアは低く言った。
「俺の黒魔法に反応して、いちいち来るつもり?」
「危険なら」
「危険じゃなくても来ただろ」
「君が無茶をした」
「少し強めに魔力流しただけ」
「僕には、君が深く沈みかけたように伝わった」
「伝わるな」
「伝わるようにした」
「だから最悪なんだよ」
レオの光が止まった。
ノアは息を整えながら、レオを見た。
「保護って言葉で行動監視を包むな」
声は軽くなかった。
低い拒絶だった。
レオは目を逸らさなかった。
「見ていないと、君は一人で奥へ行く」
「行ったら俺の責任だ」
「違う」
「違わない」
「君は、責任という言葉で自分を消す」
ノアの喉が詰まった。
赤い糸の熱ではない。
もっと古い場所が痛んだ。
黒い荒野。白金の光。世界中の歓声。最後の笑み。世界を背負って死んだ誰か。助けてと言わなかった誰か。
ノアは笑った。
少しだけ低く。
「王子様、俺の人生に勝手な読解入れないでくれる?」
「勝手だね」
「分かってるならやめろ」
「やめたい」
「出た。やめたいけどやめないやつ」
「うん」
「最悪」
レオは、そこでようやく手を下ろした。
首元の熱は、ほとんど鎮まっていた。けれど完全には消えていない。ごく細い赤い余韻が、喉の奥で眠っている。
ノアは首を回した。
「これ、黒魔法使うたびに熱くなる?」
「強く使えば」
「じゃあ授業のたびに王子様が飛んでくるわけ?」
「必要なら」
「教師より熱心。怖い」
「君の先生ではないから」
「じゃあ何だよ」
レオは答えなかった。
答えない方が重い質問もある。
ノアはそれ以上聞かなかった。聞いたら、ろくでもない答えが返ってくる気がした。
夜になっても、首元の熱は完全には消えなかった。
授業、夕食、基礎魔法理論、寮の入浴時間。何をしていても、ふとした瞬間にそこへ意識が戻る。見えないのにある。触れないのに熱い。首元に小さな赤い印が、魂の奥から発光しているようだった。
レオは何も言わなかった。
だが、何度も見ていた。
ノアが首に触れかけてやめるたび。
黒魔法書を読んでいて、文字から意識が逸れるたび。
水を飲む時、喉が少し詰まるたび。
レオは見ていた。
見ていることを隠さない。
そこがまた腹立たしい。
夜。
魔力灯を弱めたあと、ノアは寝たふりをした。
レオの呼吸が向かいの寝台から聞こえる。規則正しい。寝ているようにも聞こえる。だが、昨日までの経験上、信用はできない。王子様の寝たふりは静かすぎる。人間味がない。そこまでして品よく眠るな。
ノアはゆっくり目を開けた。
天井は暗い。
窓の外では月が雲に隠れ、中庭は薄い影に沈んでいる。部屋の空気は静かだった。小卓の水差しも、机の教本も、窓辺の結界紋も動かない。
ノアは布団の中で、首元に意識を向けた。
赤い糸。
見えない結び目。
伴侶契約。
危険感知。
行動監視。
どの言葉にしても腹が立つ。
ほどけるかどうか、試してみたくなるのは当然だった。紐があったらほどきたくなる。人間の本能だ。たぶん。違うとしても、今はそういうことにする。
ノアは黒魔法をほんの少しだけ指先へ集めた。
黒い霧を細くする。
針のように、糸のように、声の奥へ沈める。
首元の熱へ触れる。
赤い糸の結び目を探す。
見えない。
だが、ある。
黒い霧が、魂の表面をそっと撫でる。赤い熱の輪郭へ触れた瞬間、強い反発が返ってきた。
「っ……」
ノアは声を殺した。
熱が一気に強くなる。
首元が焼けるように熱い。喉が詰まり、胸の奥へ圧が落ちる。赤い糸が、ほどこうとした黒魔法に反応して、逆に結び目を強くしたようだった。
やっぱり最悪だ。
ノアは奥歯を噛み、もう一度黒い霧を伸ばした。
今度はもっと細く。
結び目の外側から。
ほどくのではなく、緩めるだけ。
その瞬間、背後で声がした。
「ほどこうとしたね」
ノアの手が止まった。
寝ていなかった。
知っていた。
いや、たぶん赤い糸を通じて伝わったのだ。
ノアはゆっくり振り返った。
向かいの寝台で、レオが上体を起こしていた。月の光が薄く差し、碧い目だけが静かに見える。声は穏やかだった。怒っていない。怒鳴っていない。だから余計に怖い。
ノアは笑った。
「紐があったらほどきたくなるのが人間ですー」
レオは寝台から降りた。
足音はほとんどしない。
白金の魔力が、彼の指先に淡く灯る。
「君は、僕の糸を人間の紐と同じにしない方がいい」
ノアの首元で、赤い熱が静かに脈を打った。




