第12話 赤い糸
黒い荒野に、白金の光が落ちていた。
空は裂けている。黒い灰が降り、折れた旗が風もないのに揺れている。遠くで鐘が鳴っていた。歓声も聞こえる。救われた、と誰かが叫んでいる。英雄、と誰かが泣いている。
そのすべてが、ひどく遠かった。
近いのは、腕の温度だけだった。
セラフィードの腕。
灰に汚れた白金の外套。震える指。何度も水を渡し、喉を癒し、髪を整えた手。その手が、もう何も救えずに、冷えていく身体を抱いている。
イリアスは笑っていた。
笑っているはずだった。
唇は動く。声も出る。けれど、その声は夢の中で何度も引き裂かれ、遠ざかり、黒い霧に飲まれていく。
助けを求めろ!!
セラフィードの声が荒野を裂いた。
今度こそ言え!!
僕に縋れ、イリアス!!
助けてくれと、言え!!
その声は痛かった。
怒りではない。祈りでもない。救済に失敗し続けた男が、最後の最後にまだ手を伸ばしている声だった。
イリアスは助けてとは言わない。
泣かない。
謝らない。
ただ、笑う。
黒魔導書の頁が背後でめくれる。黒い花が枯れていく。白金の光が胸の奥を裂き、黒い霧が身体から抜けていく。冷たくなる。指先から。足元から。血の奥から。魂の端から。
それなのに、どこかでまだ熱がある。
セラフィードの声。
セラフィードの腕。
セラフィードの震える呼吸。
そのどれもを置き去りにして、笑う。
最後の声が、また喉の奥へ戻ってくる。
ざまぁみろ。
黒い霧が閉じる直前、誰かが囁いた。
まだ終わっていない。
その声は黒魔導書のものに似ていた。
けれど、頁の奥にもう一つ、別の気配があった。三つの線が絡み、中央に目のような歪みを抱いた黒い紋章。泥の中で見た。儀式場で見た。封印庫で見た。学院の校章や結界紋に、妙に似ていた。
それが、ノアの喉元へ爪をかける。
呼べ。
呼ばれるな。
逃げろ。
戻れ。
助けを――
ノア・クロウは、息を詰めて目を覚ました。
朝だった。
窓の外では、アルカディア魔法学院の中庭に淡い光が落ちている。噴水の水音がかすかに聞こえ、遠くの塔の鐘が朝の時間を告げていた。魔力灯は薄くなり、部屋の白い壁と二つの机を柔らかく照らしている。
夢ではない。
今は三〇七号室だ。
黒い荒野ではない。
冷えていく身体も、白金の刃も、世界中の歓声も、ここにはない。
そう思ったのに、喉が痛かった。
ノアは寝台の上で身体を起こした。布団が膝の上から滑り落ちる。指先が少し冷えている。胸の奥が重い。首元には、昨日から消えきらない見えない熱が残っていた。
向かいの寝台は、もう整えられていた。
やっぱり早い。
王子様は睡眠も儀礼化しているのだろうか。そういうところ、本当に人間離れしていて腹立たしい。
レオ・アステルレインは、小卓のそばに立っていた。
すでに制服を整えている。白と金の襟は完璧で、金髪も乱れていない。手元には、水の入った杯があった。朝の光を受けて、水面が小さく揺れている。
ノアは掠れた声で笑った。
「朝から準備いいな。王子様、給水係に転職?」
レオは穏やかにこちらを見た。
「君の喉が痛そうだったから」
「寝てる間の喉まで管理するな」
「管理だよ」
ノアは、笑いかけた。
いつものように軽く返そうとした。
管理ねえ。言い切るなよ。朝から重い。そう言えば、たぶん空気は軽くなる。軽くするつもりだった。
だが、レオが続けた。
「君がまた勝手に世界を背負わないように」
部屋の空気が変わった。
朝の光はまだ柔らかい。中庭の水音も穏やかだ。机の上の教本も、窓辺の結界紋も、何一つ動いていない。
それなのに、ノアの喉が詰まった。
また。
世界を背負う。
その言葉が、夢の黒い荒野にまっすぐ繋がる。
ノアはゆっくり瞬きをした。
笑みはまだ顔に残っている。だが、薄くなっていた。
「王子様、朝から話題が重い。胃に悪い。俺、まだ朝食前」
「朝食前だから言う」
「意味が分からないな」
「逃げる前だから」
レオの声は穏やかだった。
穏やかなまま、逃げ道を閉じる声だった。
ノアは寝台から降りた。床が足裏に冷たい。立ち上がると、首元の熱が少し強くなる。レオは杯を小卓に置き、右手をゆっくり上げた。
白金の光が、指先に灯る。
昨日までの魂糸の予兆とは違った。
もっと深い。
もっと濃い。
白金の光の奥から、細い赤が生まれた。
それは糸だった。
髪の毛よりも細く、けれど目を離せないほど鮮やかな赤。血の色に似ているのに、生々しくはない。朝の光に透けると、炎の芯のようにも、夕暮れの細い線にも見えた。白金の聖魔法に包まれながら、その赤い糸だけが熱を持っている。
ノアは無意識に一歩下がった。
「レオ」
「怖がらなくていい」
「その台詞を言う奴、だいたい怖いことしてるんだよ」
「危険感知の契約だよ」
「名前がもう嫌」
「君の呼吸、魔力、黒蝕の兆候、魂の揺れを拾う。危険があれば、僕に分かる」
「便利機能の紹介みたいに言うな。俺は魔具じゃない」
「知っている」
「ならやめろ」
赤い糸が、空中で静かに揺れた。
まだ触れていない。
だが、すでに熱がある。ノアの首元、胸の奥、魔力核の表面へ、その熱だけが先に届いてくる。ぞわりとした感覚が背筋を走った。皮膚ではない。服でもない。魂の表面を撫でられるような、もっと内側の不快感。
ノアの黒魔法が反応した。
足元から黒い霧が薄く滲む。
床板の上に、夜明け前の影のように広がった。黒い花にはならない。骨の鎖にもならない。まだ、そこまで出していない。だが、赤い糸を拒むには十分な黒だった。
レオの白金の光が、部屋を満たした。
強い光ではない。
美しい檻のような光だった。
窓辺の結界紋が淡く反応し、二つの寝台の間に透明な境界が浮かぶ。魔力灯の金色が白金に変わり、空気が静かになる。黒魔法の霧は床を這い、赤い糸を避けるように渦を巻いた。
ノアは低く言った。
「レオ、俺の中に勝手に結び目作るな」
レオは瞬きもしなかった。
「君がほどけていなくなるよりいい」
「返しが重い。学園初週に使う台詞じゃない」
「ずっと前から、言えなかったことだから」
「その“ずっと前”を俺は認めてませんー」
「認めなくても、僕は覚えている」
「記憶の押し売り、迷惑」
「君は忘れたふりがうまい」
「ふりじゃないかもしれないだろ」
「そう願っている声じゃない」
ノアは歯を噛んだ。
また声だ。
レオはいつも、声を聞いている。軽口の高さ、嘘をつく時の軽さ、逃げる時の明るさ、真面目になりかけて落ちる温度。全部、覚えている。
だから嫌だった。
だから、逃げたい。
「俺が嫌がってるの、聞こえてる?」
「聞こえている」
「だったら」
「それでも結ぶ」
穏やかな声だった。
最悪だった。
怒鳴られる方が、まだ分かりやすい。力任せに来るなら、黒魔法で弾けばいい。けれど、レオは穏やかなまま、当然のように踏み込んでくる。保護の形をしている。愛の形をしている。だからこそ質が悪い。人間、善意で檻を作る時が一番厄介だ。最悪の建築様式である。
赤い糸が伸びた。
ノアの黒い霧が弾こうとする。
白金の光がそれを押さえた。
痛みではない。
けれど圧がある。
魂の表面に、細い熱が触れる。ノアは息を詰めた。黒魔法回路が反射的に防御する。胸の奥で魔力核がざわめき、赤黒い瞳の奥に一瞬だけ濁りが走った。
「っ、触るな」
「ノア」
「名前呼ぶな。呼べば通ると思うな」
「通すために呼んでいるんじゃない」
「じゃあ何」
「君がここにいることを、確かめるため」
「朝から存在確認されるほど不安定じゃない」
「君は、そう言っていなくなる」
赤い糸が、もう一段深く触れた。
ノアの黒魔法が黒い霧となって噴き上がる。床を這っていた影が立ち上がり、レオの白金の光と衝突した。部屋の空気が震える。小卓の水面が波打ち、窓辺の結界紋が細く鳴った。
赤い糸は切れなかった。
白金の光に守られて、ゆっくりノアの魂の奥へ向かう。
表面ではない。
もっと深い場所。
前世の記憶と、黒魔法回路と、まだ閉じたままの黒魔導書の残響が絡むあたりへ。
ノアは胸を押さえた。
圧が来る。
魔力核に細い楔を打たれるような感覚。息が浅くなり、喉が詰まる。視界の端が少し暗くなった。瞳孔が開く。赤い目の奥が、赤黒く濁りかける。
「レオ、これ……っ」
声が掠れた。
赤い糸が結び目を作った。
魂の奥で。
その瞬間、黒魔法回路と聖魔法の糸が衝突した。
「ぐ、ぁ……っ、レオ、これ、重すぎ……!」
短い絶叫が喉を裂いた。
叫びは長く続かなかった。息が詰まり、喉の奥で潰れる。膝が崩れた。床に手をつこうとして、指先が震える。魔力核の圧が胸を内側から押し、首元へ熱が一気に走った。
ノアの黒い霧が反射的に膨れる。
だが、赤い糸はそこにある。
切れない。
ほどけない。
見えない結び目が、魂の奥で脈を打っていた。
レオが踏み出した。
ノアの身体が床へ崩れきる前に、腕を支える。触れ方は丁寧だった。乱暴ではない。だが、逃がさない位置にあった。背中を支え、肩を抱き、膝から落ちた身体を受け止める。
ノアは息を荒げた。
喉が痛い。
目の奥が熱い。
胸の奥に、赤い結び目の圧が残っている。
「……お前、ほんと……趣味、最悪……」
レオは答えなかった。
その代わり、ノアの喉へ白金の光を流した。
細い治癒光だった。さっきまで契約に使っていた強い光ではない。戦場明けの朝に喉を癒した光に似ている。いや、似ていると思いたくない。けれど、身体が先に覚えている。喉の詰まりが少しずつほどける。掠れた声が戻る。
レオは小卓へ手を伸ばし、水の杯を取った。
「飲んで」
「……介護かよ」
「君はすぐ無茶をする」
「それ、今はお前が言う台詞じゃないだろ……」
「そうだね」
「そうだね、じゃない」
ノアは杯を受け取ろうとした。
手が少し震えていた。
それが腹立たしい。
レオは杯を支えたまま、ノアの手が落ちないようにしている。ノアは睨んだ。睨みながら、結局飲んだ。水が喉を通る。冷たさが痛みに染み、少しだけ楽になる。
レオは待っていた。
ノアの声が戻るまで。
呼吸が整うまで。
魔力回路の乱れが落ち着くまで。
赤い糸の熱が、暴れるのをやめるまで。
事後のケアだけは完璧だった。
だから余計に腹が立つ。
酷いことをしておいて、手当てが優しい。優しいから許されると思っているわけではないのだろう。そこがさらに面倒だ。レオはたぶん、許されなくてもする。嫌われてもする。必要だと思えば、穏やかな顔で檻を作る。
ノアは深く息を吐いた。
「……今の、同意取ってないからな」
「うん」
「うん、じゃない」
「待っていたら、君は逃げると思った」
「逃げる権利くらいあるだろ」
「ある」
「じゃあ」
「でも、逃げた先で君がまた一人で終わらせるなら、僕は先に結ぶ」
ノアは黙った。
喉にまだ熱がある。
首元には、見えない輪郭があった。糸そのものは見えない。だが、確かにそこに何かが繋がっている。呼吸のたびに、赤い熱がごく細く揺れる。
黒魔法回路の奥で、何かが反応した。
黒魔導書の残響。
閉じたはずの頁が、一枚だけ内側でめくれるような感覚。
その瞬間、ノアの魂の奥に、黒い紋章が浮かんだ。
三つの線が絡み、中央に目のような歪みを抱いた形。
前世にはなかった。
夢の中で見た。
学院の校章や結界紋に似ている。
けれど、もっと黒く、もっと古い。
ノアは息を止めた。
レオの目が、わずかに細くなる。
「今、何か」
「何もない」
即答した。
速すぎた。
レオは黙って見ている。
ノアは笑った。
「俺の魂の中まで観光するな。入場料高いぞ」
「何が見えた?」
「王子様の距離感のなさ」
「ノア」
「名前呼んでも答えませんー」
レオは、追及しなかった。
けれど気づきかけている顔だった。
最悪だ。
赤い糸だけでも面倒なのに、黒い紋章まで出てくる。現世の学院生活、難易度調整が壊れている。運営がいたら苦情を入れたい。たぶん黒幕めいた何かが窓口なので余計に最悪だが。
ノアはレオの腕から離れようとした。
レオは少しだけ支えを残し、けれど無理に引き止めはしなかった。ノアは寝台の縁に座り直し、呼吸を整える。膝にはまだ少し力が入らない。魔力核に残る圧は軽くなったが、完全には消えていない。
赤い糸。
見えないのに、ある。
ノアは首元へ手を伸ばした。
何も触れない。
皮膚はいつも通りだ。痕もない。輪もない。糸も見えない。だが、指先の下に熱だけがある。見えない結び目の余熱。身体の外ではなく、もっと奥から滲んでいる。
「見えない首輪とか、趣味悪いぞ」
ノアが言うと、レオは静かに答えた。
「まだ首輪ではないよ」
ノアは顔を上げた。
「“まだ”って言ったな?」
レオは微笑んだ。
穏やかに。
朝の光の中で、ひどく綺麗に。




